032-20150721 終点でもあり、起点でもある
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いやぁ、びっくりしました。本当にありがとうございます。
こんな超弱小ブログにリツイートをいただいて、なかんずく記事がひとつ生まれたのですから、なんとかしてお返しをするのが礼儀というものです。
私は『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、「隠れ家ブログ」という概念を提出しました。
で、上の記事で紹介されているいしたにまさきさんの『あたらしい書斎』では、ブログをウェブ書斎(開かれた書斎)の一つとして位置づけられています。
でもって、書斎=男の隠れ家という補助線から、それって同義ですよね、という視点が上の記事では提出されています。
思いつきすら、しませんでした。
前回のブログでピンとこない、と申し上げた理由のひとつは、この「開かれた書斎」という概念でした。「籠もる」書斎に「開かれた」というイメージが、どうもかみ合わない。
それに、昔、メディアが本が雑誌しかなかったころでも、考えたことを書くだけでなく、その意見を手紙が何かで著者に伝える手段は一応あったわけです。だから、今も昔もある意味「開かれ」てはいたのではないか。なのに、なぜ?
まず、違うのは、スピードと広がりでした。ブログがある。Twitterがある。すると、著者へのフィードバックが格段に早い。ブログ界の片隅で私がポストした意見がR-Styleを通して多くの方の目に触れるまで、わずか1日。
さらに、メールでも手紙よりは伝達速度は早いだろうけど、どちらもベースは「1対1」。相手の目に触れなければ、それでおしまい。今回のようなやりとりができたのは、リーチの懐が広くて深いブログならではなのでしょう。だから議論の広がりも深さも、変わってくるんですね。
そして、ブログについて、私は考えて書くところまでしか思いが至っておらず、その後のことは正直過小評価してました。
ブログというシステムが登場する前にはこの社会には存在していなかった、そしてブログ以降に誕生したメディアのスタイルとは何か、という問いかけです。
その答えは、__特にこの日本においては__個人が議論の起点となる場所を持つ、ということでしょう。それは、誰か著名人を引用しなくても、「すげーこと」だと言えそうです。
まあ、なんとなくそうかもね、とは思ってました。でもそれは、(すごく有名ではなくても)多少の知名度がある芸人やら政治家やら作家やらに言える話であって、わずかひと月半前に読者ゼロから「隠れ家ブログ」を始めた自分にとってはさすがに関係ない話だろうと思ってました。
でも、今回その現場を目の前で見せつけられた以上、そうも言ってはいられない。ブログは議論の(とりあえずの)終点であり、起点でもある。正直終点のことしか考えていなかったけれど、隠れ家ブログといえども起点になりうるんですね。開かれた書斎、おそるべし。
これからも、こういう楽しい機会があるかもしれませんが、起点でもあることをわきまえ、おごることなく精進したいと思います。