戒厳令という言葉がなぜ韓国の人々の心をざわつかせるのか
韓国の尹錫悦大統領が12月3日夜、非常戒厳令を宣言した。
筆者は韓国放送公社KBSのYouTubeライブ配信でこの報道にいち早く接し、驚きをもって受け止めた。
というのも韓国で非常戒厳令が布告されるのは1980年5月17日以来じつに44年ぶりであり、これに抗議して全羅南道・光州で蜂起した市民が軍により銃を用いて鎮圧され、多数の死傷者を出した五・一八民主運動のきっかけとして、「戒厳」という言葉は韓国の人々の記憶に強く刻まれているからである。
筆者がこうした背景を事前に理解していたことは、そうではなく後から最新情報にキャッチアップすることになった、韓国事情が専門でない記者やコメンテーターよりも筋の通ったビューを提供できると思われるので、そのような見地からまとめてみたい。
https://www.youtube.com/watch?v=1Z3Q29stte0
非常戒厳令とは
そもそも戒厳令とは何か。今回の場合、大統領が非常戒厳を宣言・布告することを指している。
英語圏のメディアでは「martial law」と報道された。これは軍法とそれによる統治のことであり、市民による政治活動が制限されることを意味する。
具体的には立法・司法・行政などの機能が軍に移管され、市民に対しては言論や集会の自由が制限される。
その目的は、市民による暴動や過激な政治運動を、武力によって鎮圧することにある。
五・一八民主運動とは
この「過激な政治運動」は現代の価値観と必ずしも一致するものではない。前回の戒厳令に相当するものと理解されている5月17日の戒厳拡大措置あるいは五・一七クーデター(内乱)においては、民主化を求める学生デモや労働争議がその対象となった。
1979年10月に朴正煕大統領が暗殺されると、その強権的な手法による圧政への揺り戻しから、韓国は「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードの影響下にあった。もっとも、その事件を機に韓国にはすでに非常戒厳が敷かれており、学生によるデモはその撤廃を求めるとともに、金泳三や金大中などの民主化リーダーを支持するものであった。
こうした運動の過激化を受け、国会も彼らリーダーのもとに戒厳令を解除する方向で妥結しつつあった。この動きに危機感を抱いた全斗煥をトップとする当時の軍部が、逆に非常戒厳の対象を拡大することでこれを強化。同時に軍を出動させて国会を掌握し、さらに金泳三を自宅軟禁とし、金大中らを扇動などの容疑で逮捕した。
この金大中の政治的基盤が全羅南道であり、光州はその州都であった。したがって戒厳拡大措置は光州で特に強い反発を生じ、デモの主体も当初は学生だったが市民もこれに加わり大きな市民的抗議運動となった。
https://gyazo.com/7042ef8c2551de37df3397d5fad459c2
五・一八とその後
市民によるこうした民主化運動に対し、軍が銃を向けて武力鎮圧した光州での事件は、市民側に多くの死傷者を出したことから、独裁体制への拒絶と民主化への強い希求を人々の間に生むことになった。他方で「ソウルの春」は頓挫し、影響力を強めた軍部のもと金大中は死刑判決を受けるなど、民主化が実現されるまではいま少し長い道のりを歩む必要があった。
光州の市民によってこうした惨状を知らされた人々がいた一方で、新聞やラジオなどのメディアは軍部の統制下にあり、こうした事態に関する報道は規制されていた。全羅南道は政府機能のあるソウルから地理的にも文化的にも離れており、ともすれば地方の単なる「暴動」として片付けられる可能性もあった。
しかし韓国にちょうど滞在していた西ドイツの記者ユルゲン・ヒンツペーターによって光州における「虐殺」がフィルムに収められ、ビスケットの金属缶に仕込んで脱出したことで、西側をはじめ世界中に知られることにつながった。
こうした経緯を映画化したのが、2017年に韓国で大ヒットを記録し、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートした《タクシー運転手》なので、興味のある方はこの際に視聴してみるとよいだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=uDy9Bd08CH4
参考:「抵抗の象徴」について
事態は日ごとに進展しているので、最新情報に関する詳細は避けるが、ここでは一つ興味深い事実を紹介しよう。
戒厳令を解除するための国会召集に集まった議員や市民と軍とのもみ合いの中で、ライフル銃をつかんで「恥ずかしくないのか」と叫んだ女性が話題になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=lvLBTeW8YNY
この女性は野党「共に民主党」の広報官である安貴朎(アン・グィリョン)氏であることが明らかになっているが、彼女は自身が韓国の独立運動家であり、当時朝鮮総督であった伊藤博文を暗殺したことで知られる安重根(アン・ジュングン)の子孫であると主張したことがある。
韓国において民主主義がいかにして市民によって勝ち取られてきたかを考えるうえで、ひとつの興味深いエピソードを提供しているように思える。