互酬的な贈与
モースによる発見
交換などの経済的行為は、互酬的な贈与のほんの一部
モースはデュルケームの甥
隣人愛や自己犠牲は、人間性の起源
経済行為の果ての余り物なのではない
6 人間の本性は「贈与」にある
レヴィ=ストロースの構造人類学上の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生していくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に該当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。 これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っていますし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して、誰にも与えないことだと思っています。しかし、人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きていきたいと望むなら、このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。
それにしても、いったいどうやって私たちの祖先は、おそらくは無意識のうちに、この暗黙のルールに則って親族制度や言語や神話を構築してゆくことができたのでしょう。私にはうまく想像ができません。しかし、事実はそうなのです。ですから、もし「人間」の定義があるとしたら、それはこのルールを受け容れたものと言う他ないでしょう。
人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで「人間になる」というレヴィ=ストロースの考え方は、たしかにフーコーに通じる「脱人間主義」の徴候を示しています。しかし、レヴィ=ストロースの脱人間主義は決して構造主義についての通俗的な批判が言うような、人間の尊厳や人間性の美しさを否定した思想ではないと私は思います。「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が人間性の「余剰」ではなくて、人間性の「起源」であることを見抜いたレヴィ=ストロースの洞見をどうして反–人間主義と呼ぶことができるでしょう。 『寝ながら学べる構造主義』.icon pp.164-166
関連