キーワード:リフレクション
https://scrapbox.io/files/63084d05fe913300239f6503.png
《IEIE》の構想における一番奇妙な点は、孤島を選ぶにあたって「フィードバックがかかる最大限のスケール」を探ろうとしていたとされながらも、チュードアの計画のどこにもフィードバック現象が見当たらないことである。つまり、回路内部でシグナルを循環させるエレクトロニック・フィードバックも、スピーカーとマイクを介したアコースティック・フィードバックも、島の楽器化に関わっていないのだ。苦し紛れだが、唯一考えられる説明がある。それぞれのサウンド・ビームから同じ島の別の場所の音が流れるということは、じっさいに島内を散策する観客の個別の経験を想像してみると、ある地点で耳にした音を、しばらくあとで別の地点でふたたび聞くことになる。つまり、観客の行なう想起(リフレクション)という行為を通じて、現在の音と過去の音が結びつけられるわけだ。そして、このプロセスを通じて島という楽器が出力した音が入力に差し戻されていると見なせなくもない。《IEIE》でチュードアが追い求めていたフィードバックの極限とは、特定の回路でもスピーカーやマイクでもなく、島を訪れる特定の観客の経験と想起を通じた循環として思い描かれていたのかもしれない。突拍子もなく聞こえるかもしれないが、島全体を楽器として構想したという言葉を真に受けとれば、その内部を歩き回る人間たちもネットワークの構成要素になる。だから「一回りして一時間くらい/(端から端まで)歩いて20分くらい」という楽器のスケールに関するかなり具体的な条件は、技術的な要因などではなく、人間の想起に関わるリミットとして想定されていたのかもしれない。島とはその内部を歩き回る聞き手によって演奏される楽器なのだろう。じっさいチュードアは《IEIE》について語るとき、いつも不思議なほど観客の個別の経験を強調しがちだった。霧や凧の動きを通じて風を間接的に見ることにしても、想起とは時間スケールはちがえど、やはり個別の観客が行なう反省(リフレクション)作用に基づく鑑賞体験である。こうしたことを踏まえると、《島の目、島の耳》という不思議なタイトルには、島全体の知覚と、各観客の島的な知覚が折り重ねられているようにも思えてくる。たしかに、このように部分と全体を重ね合わせ、相互に反映(リフレクト)させる操作は、当時のチュードアの作品に一貫してみられる特性だった。そして、1974年のクナーヴェルシェア島の調査ログで《Island Eye Island Ear》に決まる前のタイトル案として挙げられていたのは《Reflection》という言葉だった。
ただし、1978年にクルーヴァーが行なったインタヴューのなかで中谷芙二子は次のように語っている:「私は三日間かけて島の特徴を研究し、それが1000年前にどうあったか、そして今から1000年後どうあるかを想像してみました。私は島の現在の経験を超えたところで経験することができる様々な特徴に、人を敏感にさせたいんです。つまり今の紅葉だけではなく、無時間的な特徴や、とても長い時間をかけて変化する特徴、たとえば風が島の輪郭に反応する仕方や、木が風によって曲げられる仕方のことです」。つまりリフレクションの作用として、知覚できないがいまここに存在する風を間接的に知覚可能にする以外に、いまここにもはや存在しない過去の風を間接的に知覚可能にすることがある。そして、この想起の作用は、単に30分前にビーチで聞いた音を思い出すという個人の記憶と経験にとどまらず、1000年という、個人の時間スパンを優に超える可能性を持っている。たとえば、島の木の特定の傾きはいま吹いている風ではなく、これまで島に吹き寄せてきた風の固有の歴史を記録している。こうして、チュードア自身の構想を超えた《IEIE》の可能性が、チュードアの構想を超えたリフレクションのスケールを通じて浮かび上がってくる。