自由意志
己の選好は、己の「意思」に於て選ぶ事能はず。「意思」の自由ならざる処有るを理解し易く意識し得る事例と覚ゆ。
抑、人は己の為す処に就て、其が己が自由意志に因る事か、或は何らかの外力の為さする事か(亦は其等の混合なるか)を知る術を持たず(況してや他者に於てをや)。
「意思」なる物、いづれ外界との相互作用にて生ずると思へば、完全に独立したる「己の意思」等が如何に存在し得むや。仮に存在すると雖も、現実の行動に如何程の影響を持たむかは疑問と思ふ。
他方、社会に於ては人の「自由意志」は当然に、所与の物として扱はる。
此は(現行の)社会システムが「責任」概念を要するが故に、行為の責任主体として「意思を有する人間」を要請したる為と覚ゆ。 飽く迄「システムに拠る要請」なれば、社会は人間が「真に(とは)自由意志を有するか」に就ては関知せず。
上記「責任主体たる人間」が、必ずしも「(近代に於る)個人」を意味せぬ事には留意すべし。