「生きてるだけでつらい」
随分と以前の話だが、鬱になった知人からこの言葉を聞いたときに彼我の認識の違ひに驚き、そして恐らくはこれを云へる方が「普通」や「健康」に近いのだらうとも思ひ、その強い印象が20年近くを経て今も残ってゐる。あるいはこの言葉によって自分の輪郭が照射されたやうに感じたのかも知れない。
僕は中学生の頃には既に不登校で、15歳頃から継続して精神科に通院してをり、記憶を遡っても「鬱でない」状態の自分を思ひ出すことができない。つまり「生きることがつらくない」といふ状態を、現実感を持って想定することができない状態だった(これは今でもあまりできてゐないと思ふ)。「生きてるだけでつらい」とは「骨折するだけで痛い」と同程度にトリビアルだと(少なくとも当時の自分には)思へたのだった。そんなことを云はれたら、まるで「生きることが本来はつらくない」みたいではないか、と。
また、この言葉(を、現実のうつ病患者が発すること)に衝撃を受けたもう1つの理由は、自分(謂はば「生まれついての」うつ病患者)の世界観が「同じうつ病」と思ってゐた相手とかうまで異なるといふことを認識させられたからであらう。
相手は少なくとも診断や通院を要することなく成人し、様様な要因により鬱に「なった」人だった。精神疾患でなくとも、「生まれついた」人と「人生の途中でさうなった」人では同じ状態でも全く違ふ感じ方をするのは当然だらう。
そもそも人にはそれぞれ固有のつらさや喜びがあり、それらを他者と比較することは原理としてできない。ただし、そのことを実感とともに飲み込めるか、といふのはまた別の話である。単純に、境遇の近い相手であるほどそれは難しいやうにも思ふ。
最近、自分が所謂「メンヘラ」系の人物に対してほとんど共感を示せないことを自覚する出来事がいくつかあり、自分もうつ病を患ひながら何故だらう、と思ひ返すうちにこのエピソードを思ひ出した。恐らく僕は「本来つらくないはずの人生において(不当に)つらい思ひをしてゐる」といふ世界観を共有できないのだと思ふ。繰り返すが、つらさは比較できるものではない。ただ、ある種のつらさに対して共鳴/共感する資質を僕が持たない、といふだけの話であり、この資質(の欠如)は半世紀を生きて形成された僕の世界認識に根差すものなので矯正も難しく、今のところは厄介だなあ、と思ふばかりである。
#鬱 #雑感
記事作成:2025年6月2日