失敗の本質
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希望的な観測での対応
空気・人情による意思決定
陸軍
本書はむしろ、なぜ敗けたのかという問いの本来の意味にこだわり、開戦したあとの日本の「戦い方」「敗け方」を研究対象とする。いかに国力に大差ある敵との戦争であっても、あるいはいかに最初から完璧な勝利は望みえない戦争であっても、そこにはそれなりの戦い方があったはずである。しかし、大東亜戦争での日本は、どうひいき目に見ても、すぐれた戦い方をしたとはいえない。 平時において、不確実性が相対的に低く安定した状況のもとでは、日本軍の組織はほぼ有効に機能していた、とみなされよう。しかし、問題は危機においてどうであったか、ということである。危機、すなわち不確実性が高く不安定かつ流動的な状況――それは軍隊が本来の任務を果たすべき状況であった――で日本軍は、大東亜戦争のいくつかの作戦失敗に見られるように、有効に機能しえずさまざまな組織的欠陥を露呈した。
やってみなければわからない、やれば何とかなる、という楽天主義に支えられていた日本軍に対して、ソ連軍は合理主義と物量で圧倒し、ソ連軍戦車に対して火焰瓶と円匙で挑んだ日本軍戦闘組織の欠陥を余すところなく暴露したのである。
また関東軍の作戦演習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神憑り的な指導で終わることがつねであった。
敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
一方ニミッツは、場合によってはミッドウェーの一時的占領を日本軍に許すようなことがあっても、米機動部隊(空母)の保全のほうがより重要であると考えていた。そして、「空母以外のものに攻撃を繰り返すな」と繰り返し注意していたのである。ニミッツは、ハワイでスプルーアンスと住居をともにするなど日常生活のレベルにおいても、部下との価値や情報、作戦構想の共有に努めていたといわれる。これに比べると、山本と南雲の間では、そのような価値・情報・作戦構想の共有に関し、特別の配慮や努力が払われた形跡はなかった。
元来、米国の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結にあった。ただし、中部太平洋諸島の制圧なくしては、米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難であった。米軍は、このような長期構想のもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給線の伸びきった先端、ガダルカナル島を突いてきた 戦略的グランドデザインの欠如 米軍には、ガダルカナル島攻撃が、日本本土直撃への一里 であるという基本的デザインがあった。もし、ガダルカナル島が手に入れば、ニューギニアから米・豪支援海上輸送路を脅かす日本軍基地に対する航空作戦も容易となり、次のステップとなるラバウル攻略を足掛かりとしてしだいに日本本土への直接上陸も可能となるのであって、当時日本軍が完成を急いでいたガ島滑走路を日本軍航空戦隊が使用する以前にすみやかにガダルカナル島を占領することが緊急の課題 つまり、それまで、粗雑な戦略であっても、個々の戦闘において、第一線はその練達の戦闘伎倆によってよくこれをカバーして、戦果を挙げてきたのである。
本来的に、第一線からの積み重ねの反覆を通じて個々の戦闘の経験が戦略・戦術の策定に帰納的に反映されるシステムが生まれていれば、環境変化への果敢な対応策が遂行されるはずであった。しかしながら、第一線からの作戦変更はほとんど拒否されたし、したがって第一線からのフィードバックは存在しなかった。 大本営のエリートも、現場に出る努力をしなかった。
これまでの連絡で趣旨は十分第一五軍に通じているはずだと考えた方面軍は、あえてあいまいな表現の字句を修正しなかった。そして実際には、方面軍の意図は第一五軍に通じておらず、第一五軍はむしろ、あいまいな表現を自案に有利な意味に解釈してしまったのである。
杉山元参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の翻意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまった。またしても軍事的合理性よりは、「人情論」、組織内融和の優先であった。 万一作戦が不成功となった場合を考えれば、作戦の転機を正確に把握し、完敗に至る前に確実な防衛線を構築して後退作戦に転換するための計画が必要であるはずであった。つまり、いわゆるコンティンジェンシー・プラン(不測の事態に備えた計画)が事前に検討されていなければならなかった。ところが実は、この必要性の認識こそ第一五軍の作戦計画にまったく欠如していたもの 主攻勢方面と兵力量を明記することによって方面軍の作戦構想を第一五軍に強要しようとした。ところが河辺は、「そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」と、中の命令案を押さえてしまった。ここでも、「体面」や「人情」が軍事的合理性を凌駕していた。
メンツとかが人情とかが合理性を超過することが特徴的ではありそう 、鵯越作戦計画が上級司令部の同意と許可を得ていくプロセスに示された、「人情」という名の人間関係重視、組織内融和の優先であろう。そしてこれは、作戦中止決定の場合にも顕著に現われた。 成功のための第一条件(前提)は、まず何よりも、作戦目的の明確化であり、それが作戦参加の主要メンバーによって共通の認識のもとに共有されていること、さらに、目的遂行のための自己の任務の認識が正確になされていることが不可欠である。 現代戦は、広汎な時空間において展開される文字どおりの総力戦であり、そのためには神経系ともいうべき情報・通信システムが整備され有効に機能していなければならない。しかし、レイテ海戦に参加した重巡「羽黒」の戦闘詳報が戦訓として「本海戦に於て基地航空部隊、第一遊撃部隊、機動艦隊間の協同連係は充分とは認め難し」と記しているように、通信機能の障害が作戦の展開に致命的な影響を及ぼす結果になった
日本軍人の勇敢さや個々の士官の優秀さは米軍側も認めるところであったが、こうした人々は巨大で複雑な、組織化された現代戦の作戦で成功を勝ちとるのに必要不可欠な「高度の平凡性」(フィールド『レイテ湾の日本艦隊』)が不足していたのである。 具体的な表れとして、次の点をあげている。 ① 聡明な独創的イニシアチブが欠けていたこと。 ② 命令または戦則に反した行動をたびたびとったこと。 ③ 虚構の成功の報告を再三報じたこと。 こうした一つ一つの小さな失策が積み重なって、作戦全体の帰趨が決定づけられたのである。
察するだろうみたいな空気の文化について
関東軍の地位を尊重し、使用兵力の制限などの微妙な表現によって、中央部の意図を伝えようとしたためである。正規軍同士の大規模な作戦展開に対しても、「察し」を基盤とした意思疎通がまかり通ったことの背景には、大本営自体のこの事件に対する戦略目的が不明確であったという事実がある。 作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランドデザインが欠如していたことにあることはいうまでもないであろう。その結果、日本軍の戦略目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が 米国は中部太平洋諸島の制圧なくしては、海軍の効率的対日進攻はありえないし、陸軍の前進基地の確保も困難であること、最終的には日本本土の空襲による軍事抵抗力の破壊が必要であることを予測していたといえよう。これが米軍の対日戦争におけるグランド・ストラテジー(大戦略)であった。
グランド・ストラテジーとは、「一国(または一連の国家群)のあらゆる資源を、ある戦争のための政治目的――基本的政策の規定するゴール――の達成に向かって調整し、かつ指向すること」である(リデルハート『戦略論』)。米国が真珠湾攻撃を受けてただちに総動員、総力戦態勢に入ったのは、このグランド・ストラテジーが早期に確立していた結果であるといってよい。 あいまいな目的設定と楽観さ
ある程度の人的、物的損害を与え南方資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国の戦意喪失、その結果としての講和がなされようという漠然たるものであり、きわめてあいまいな戦争終末観である。したがって、そこから導き出される個々の作戦目的にもつねにあいまい性が存在していた。ガダルカナル戦は、こうした戦争観の相違が最も顕在化した例で、米軍はガダルカナルを自らのグランド・デザインに基づく日本本土直撃のための論理的一ステップとして作戦展開したのに対して、日本軍は同島を米豪ルートに脅威を与えるための一前進基地と見たにすぎず、このような戦略構想の相違が戦力の逐次投入という作戦に帰結
決戦に勝利したとしてそれで戦争が終結するのか、また万一にも負けた場合にはどうなるのかは真面目に検討されたわけではなかった。 日本は日米開戦後の確たる長期的展望のないままに、戦争に突入したのである。 戦略策定の方法論をやや単純化していえば、日本軍は帰納的、米軍は演繹的と特徴づけることができるだろう。演繹をある既知の一般的法則によって個別の問題を解くこと、帰納を経験した事実のなかからある一般的な法則性を見つけることと定義するならば、本来の戦略策定には両方法の絶えざる循環が必要であることはいうまでもない。
日本軍は事実から法則を析出するという本来の意味での帰納法も持たなかったとさえいうべきかもしれない。
日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。
ビルマでインパール作戦を策定したときにも、牟田口中将の「必勝の信念」に対し、補佐すべき幕僚は、もはや何をいっても無理だというムード(空気)につつまれてしまった。この無謀な作戦を変更ないし中止させるべき上級司令部(ビルマ方面軍、南方軍)も次々に組織内の融和と調和を優先させ、軍事的合理性をこれに従属させた。さらに統帥の最高責任者である杉山参謀総長が、寺内南方軍総司令官のたっての希望ならという理由で、反対意見の真田作戦部長に翻意を迫り、真田も杉山の「人情論」に屈した。
空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。
日本軍は、初めにグランドデザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当り的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行なわれるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。 日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。
例外的な戦略的グランド・デザインの一つといわれる真珠湾攻撃は、航空機がそれまでの戦艦に代わって海上兵力の主力になるということを明確に示すものであった。この奇襲成功の時点で、海軍は従来の大型戦艦同士による艦隊決戦思想、そのための大艦巨砲主義から脱却すべきであったにもかかわらず、伝統的な作戦思想を抜け切れなかった。反対に、真珠湾とそれに続くマレー沖海戦において英海軍の誇る最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の二隻が日本海軍の航空部隊によって撃沈されたという二つの事実から戦訓を学び、すばやく航空主兵への転換を行なったのは米軍のほうであった。
作文という言葉いいな。文字だけが宙に浮いている感じ 他方、日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった。個々の戦闘における「戦機まさに熟せり」、「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「天佑神助」、「神明の加護」、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。 近代戦に関する戦略論の概念も、ほとんど英・米・独からの輸入であった。もっとも、概念を外国から取り入れること自体に問題があるわけではない。問題は、そうした概念を十分に咀嚼し、自らのものとするように努めなかったことであり、さらにそのなかから新しい概念の創造へ向かう方向性が欠けていた点にある。 日本軍エリートの学習は、現場体験による積み上げ以外になかったし、指揮官・参謀・兵ともに既存の戦略の枠組のなかでは力を発揮するが、その前提が崩れるとコンティンジェンシー・プランがないばかりか、まったく異なる戦略を策定する能力がなかった 日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織のなかに論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」(山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』)という指摘があるように、戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできなかった。 ガダルカナル以来の迂回作戦がこれに加わり、夜襲、迂回作戦の反覆は、「鵯越」の発想の域を出ず、作戦パターンが時間の経過とともに進化することはほとんどなかったのである。 牟田口司令官は、作戦不成功の場合を考えるのは、必勝の信念と矛盾すると主張した。そのため作戦の前提であった戦略的急襲が英印軍の後退作戦によって所期の効果を生まなかったとき、その都度応急的に打ち出された作戦はその場しのぎの中途半端なものにならざるをえなかった。コンティンジェンシー・プランの欠如は、本来の計画そのものから堅実性と柔軟性を奪う結果になったのである。
ルールによる細かい規制
統帥綱領のように高級指揮官の行動を細かく規制したものは、アングロ・サクソン戦略にも、ドイツ兵学にもなく、日本軍独特のもののようである。いずれにしろ、こうした一連の綱領類が存在し、それが聖典化する過程で、視野の狭小化、想像力の貧困化、思考の硬直化という病理現象が進行し、ひいては戦略の進化を阻害し、戦略オプションの幅と深みを著しく制約することにつながったといえよう。 これが世にいう「風船爆弾」であった。風船(水素ガス注入、直径一〇メートル)の主な材料が和紙をコンニャク糊で貼り合わせたものであるためコンニャク爆弾などと呼ばれることもある。風船爆弾作戦のために参謀総長直属の気球連隊が新設され、太平洋に面した三ヵ所の放球陣地が設営された。気球一個につき二〇キログラムの焼夷弾が装備され、米国まで高度一万メートルの上空を平均六〇時間で飛ばす計画であった。実際の戦果は、米本土および周辺におよそ二八五個が到達し、爆発したもの二八、疑わしいもの八五、人的損害一件六人、物的損害小規模な山火事二件、配電線切断一件。到達率三パーセント、爆発を起こしたもの一パーセント未満。この間日本国内では食用コンニャクが食卓にのぼらなくなっていた。 米軍は高度な技術を開発してもそれをインダストリアル・エンジニアリングの発想から平均的軍人の操作が容易な武器体系に操作化していた。一点豪華で、その操作に名人芸を要求した日本軍の志向とは本質的に異なるものであった。また、日本軍の技術体系では、ハードウェアに対してソフトウェアの開発が弱体であった。その結果の現れの一つが情報システムの軽視であった。
両者とも作戦中止を不可避と考えたにもかかわらず、「中止」を口に出さなかった。牟田口は「私の顔色で察してもらいたかった」といい、河辺も牟田口が口に出さない以上、中止の命令を下さなかった。 以上のような事実は、日本軍が戦前において高度の官僚制を採用した最も合理的な組織であったはずであるにもかかわらず、その実体は、官僚制のなかに情緒性を混在させ、インフォーマルな人的ネットワークが強力に機能するという特異な組織であることを示している。 軍事組織としてのきわめて明確な官僚制的組織階層が存在しながら、強い情緒的結合と個人の下剋上的突出を許容するシステムを共存させたのが日本軍の組織構造上の特異性である。本来、官僚制は垂直的階層分化を通じた公式権限を行使するところに大きな特徴が見られる。その意味で、官僚制の機能が期待される強い時間的制約のもとでさえ、階層による意思決定システムは効率的に機能せず、根回しと腹のすり合せによる意思決定が行なわれていた。
対人関係の方を重要視するような意思決定
日本軍の組織構造上の特性は、「集団主義」と呼ぶことができるであろう。ここでいう「集団主義」とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという「日本的集団主義」に立脚していると そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である。ノモンハンにおける中央の統帥部と関東軍首脳との関係、ガダルカナル島撤退決定を遅らせる結果になった陸軍と海軍の関係、インパールにおける河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口第一五軍司令官との関係、これらはいずれも「間柄」を中心として組織の意思決定が行なわれていく過程を示している。日本軍の集団主義的原理は、このようにときとして、作戦展開・終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらすことがあった。
米海軍の作戦部長キング元帥は、作戦部員の人数を極力少なくすることに努めたが、それは組織を活性化するには、各自に精一杯仕事をさせることが重要であり、有能な少数の者にできるだけ多くの仕事を与えるのがよいと考えた結果である。しかし、人間は疲れるから、いつまでも同じ仕事を与えるのもまずい。その人間の能力の最良の部分を活用することが、大切である。
米海軍のダイナミックな人事システムは、将官の任命制度にも生かされていた。米海軍では一般に少将までしか昇進させずに、それ以後は作戦展開の必要に応じて中将、大将に任命し、その任務を終了するとまたもとに戻すことによってきわめて柔軟な人事配置が可能であった。この点、「軍令承行令」によって、指揮権について先任、後任の序列を頑なに守った硬直的な日本海軍と対照的である。
日本軍の作戦目的があいまいであったり、戦略策定が帰納的なインクリメンタリズムに基づいていたことはすでに指摘したが、これらが現場での微調整をたえず要求し、判断のあいまいさを克服する方法として個人による統合の必要性を生みだした。
およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行なうリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。ノモンハンでソ連軍に敗北を喫したときは、近代陸戦の性格について学習すべきチャンスであった。
こうした精神主義は二つの点で日本軍の組織的な学習を妨げる結果になった。一つは、敵戦力の過小評価である。とくに相手の装備が優勢であることを認めても、精神力において相手は劣勢であるとの評価が下されるのがつねであった。敵にも同じような精神力があることを忘れていたといってもよい。精神主義のもう一つの問題点は、自己の戦力を過大評価することである 二つの敗退から学習したのは、米軍であった。米軍は、それまであった大型戦艦建造計画を中止し、航空母艦と航空機の生産に全力を集中し、しだいに優勢な機動部隊をつくり上げていった。 ガダルカナル島での正面からの一斉突撃という日露戦争以来の戦法は、効を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行なわれた。そればかりか、その後の戦場でも、この教条的戦法は墨守された。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。 組織学習にとって不可欠な情報の共有システムも欠如していた。日本軍のなかでは自由闊達な議論が許容されることがなかったため、情報が個人や少数の人的ネットワーク内部にとどまり、組織全体で知識や経験が伝達され、共有されることが少なかった。
どんな計画にも理論がなければならない。理論と思想にもとづかないプランや作戦は、女性のヒステリー声と同じく、多少の空気の震動以外には、具体的な効果を与えることはできない。
時間の経過とともに、日本軍内部の各級の教育機関でもしだいに、与えられた目的を最も有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段群から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。
目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。兵士の訓練において「足を靴に合わせる」ような教育方法が採用されたが、士官レベルの教育においても、そうしたタイプの教育がしだいにウェイトを高めてきた。
学習する主体としての自己自体をつくり変えていくという自己革新的ないし自己超越的な行動を含んだ「ダブル・ループ学習(double loop learning)」が不可欠である。日本軍は、この点で決定的な欠陥を持っていたといえる。 日本軍は結果よりもプロセスを評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とか、やる気が評価された。 ガダルカナルで罷免された川口少将の罷免理由は、航空基地突撃に対する決心不足であったといわれる。しかし、これはすでに指摘したように辻参謀の指導によるものであった。
陸軍では参謀とその他のグループという二本立て人事が存在し、下剋上的風土が強かったために、とかく声の大きな人々が評価されるという欠陥があった。とくに、業績評価があいまいであったために、信賞必罰における合理主義を貫徹することを困難にした。結果として、評価においても一種の情緒主義が色濃く反映され、信賞必罰のうちむしろ賞のみに汲々とし必罰を怠る傾向をもたらしたのである。
ニミッツ元帥が考案し、キング作戦部長に提案した海軍の指揮官人事制度である。この制度は、大佐のなかから誰を司令官クラスの少将に進級させるかを決定するためのものであった。まず、継続して六ヵ月以上、巡洋艦以上の艦長経験を積んだ大佐のなかから、海軍省人事局が適格者を選び、次に九人ないし一一人の将官で構成する昇進委員会の投票が行なわれる。
組織の目標と構造の変革を行なうダブル・ループ学習を制約することにつながる。人的ネットワークを中心とする集団主義的な組織構造は、人間関係重視の属人的統合を生み出すし、業績評価においても、結果よりも動機や敢闘精神を重んじることになるであろう。
日本軍の戦略については、作戦目的があいまいで多義性を持っていたこと、戦略志向は短期決戦型で、戦略策定の方法論は科学的合理主義というよりも独特の主観的インクリメンタリズムであったこと、戦略オプションは狭くかつ統合性に欠けていたこと、そして資源としての技術体系は一点豪華主義で全体としてのバランスに欠けていたこと、などが指摘された。
本来合理的であるはずの官僚組織のなかに人的ネットワークを基盤とする集団主義を混在させていたこと、システムによる統合よりも属人的統合が支配的であったこと、学習が既存の枠組のなかでの強化であり、かつ固定的であったこと、そして業績評価は結果よりもプロセスや動機が重視されたこと、などが指摘された。これらの原因を総合していえることは、日本軍は、自らの戦略と組織をその環境にマッチさせることに失敗したということである。 日本軍は環境に適応しすぎて失敗した」、といえるのではないか。 進化論では、次のようなことが指摘されている。恐竜がなぜ絶滅したかの説明の一つに、恐竜は中生代のマツ、スギ、ソテツなどの裸子植物を食べるために機能的にも形態的にも徹底的に適応したが、適応しすぎて特殊化し、ちょっとした気候、水陸の分布、食物の変化に再適応できなかった、というのがある。つまり、「適応は適応能力を締め出す(adaptation precludes adaptability)」とするのである。 帝国陸海軍には、それぞれ強力な戦略原型(パラダイム)が存在していた。そして、その戦略原型がつねに戦略的使命に影響を及ぼしていた。帝国陸軍が個々の作戦で共通に準拠していた戦略原型は、陸上戦闘において戦勝を獲得するカギは、白兵戦における最後の銃剣突撃にある、という「ものの見方」であった。いわゆる白兵戦思想である。 海戦において勝利を決するのは、主力戦艦同士が相対する砲戦にあるとする見方で、ほとんどの海戦の背後には、艦対艦の決戦は最終的には戦艦の主砲に依存する、という「ものの見方」があった。 帝国陸軍は、西南戦争や日清戦争を通じて、火力の優越が戦闘のカギとなる要因であることを知っていた。現場第一線では、日本軍火砲の射程や威力不足について不満が多かった。しかし、いずれも戦争が終わると忘れられ、日本軍の軽砲主義は大東亜戦争まで続くことになった。近代戦の要素を持っていた日露戦争を経験しても、西南戦争に従軍した指導者は、過去の薩軍の突撃力がきわめてすぐれていたこと、露軍が歩兵の近接格闘を重視し実際白兵戦闘が強かったこと、旅順戦における二〇三高地の最後の勝利は肉弾攻撃であったこと、などに思いをはせて、結局は銃剣突撃主義に傾倒していった。 組織の環境適応理論によれば、ダイナミックな環境に有効に適応している組織は、組織内の機能をより分化させると同時に、より強力な統合を達成しなければならない。つまり、「分化(differentiation)」と「統合(integration)」という相反する関係にある状態を同時に極大化している組織が、環境適応にすぐれているということである。「
戦時において日本軍には米軍のような能力主義による思い切った抜擢人事はなかった。将官の人事は、平時の進級順序を基準にして実施されていた。したがって、人事昇進システムの面で既存の価値体系を強化こそすれ、それを破壊することはきわめて困難であった。
教育システムを背景として、実務的な陸軍の将校と理数系に強い海軍の将校が、大東亜戦争のリーダー群として輩出してきた。しかしいずれのタイプにも共通するのは、それらの人々がオリジナリティを奨励するよりは、暗記と記憶力を強調した教育システムを通じて養成されたということである。
いかに要領よく整理・記憶するかがキャリア形成のポイントであった。このような教育でしつけられた行動様式は、戦闘が平時の訓練のように決まったシナリオで展開していく場合にはよいが、いつ不測事態(コンティンジェンシー)が起こるかわからないような不確実性の高い状況下で独自の判断を迫られるようになってくると、十分に機能しなくなるだろう。
組織のパラダイムが使徒(後継者)の日常のリーダーシップ行動を通じて伝承されていく。年功序列型の組織では、人的つながりができやすく、またリーダーの過去の成功体験が継続的に組織の上部構造に蓄積されていくので、価値の伝承はとりたてて努力をしなくても日常化されやすいのである。 文化人類学では、文化は、「シンボルによって獲得され伝達される、明示的・黙示的な行動の形」(クローバー&クラックホーン)、あるいは、「教示もしくは模倣によって獲得した共有された諸概念、条件づけられた情緒的反応、習慣的行動の形などの総和」(ソントン)などと定義されている。 組織文化は、共有された行動様式であるから、組織学習と密接な関係がある。それは、成員に共有されるに至った、行動とのむすびつきが強い知識といってもよいだろう。組織文化は、①価値、②英雄、③リーダーシップ、④組織・管理システム、⑤儀式などの一貫性をもった相互作用のなかから形成される。 英雄とは、組織の成員の多くがその思考や行動の準拠枠として考える組織の価値を体現する人々のことである。このような英雄は、通常その組織をつくりあげた創始者から特定の戦闘で成功を収めた将や兵までさまざまである。価値は、通常シンボルなどによって目に見えるようにならなければ、組織のなかには浸透しにくいものである。 適応力のある組織は、環境を利用してたえず組織内に変異、緊張、危機感を発生させている。あるいはこの原則を、組織は進化するためには、それ自体をたえず不均衡状態にしておかなければならない、といってもよいだろう。 逆説的ではあるが、「適応は適応能力を締め出す」のである。もちろん、われわれの分析枠組でも明らかなように、ある時点で組織のすべての構成要素が環境に適合することは望ましい。しかし、環境が変化した場合には、諸要素間の均衡関係をつき崩して組織的な不均衡状態をつくり出さねばならない。
多様性が生み出される。組織のなかの構成要素間の相互作用が活発になり、多様性が創造されていけば、組織内に時間的・空間的に均衡状態に対するチェックや疑問や破壊が自然発生的に起こり、進化のダイナミックスが始まるので
創設以来七十五年たち、二代、三代と代替わりして、すっかり安定した日本人的な長老体制ができあがっていた。抜擢は大佐に進級するまでで、将官になると、ずっと序列は変らなくなった。本来、海上で働く将官は、少将で四十歳、大将は五十歳が理想とされたが、住み心地がよすぎたせいか、新陳代謝がすすまなかった。開戦のとき、中沢人事局長によると、だいたい五歳から八歳くらい老けすぎていた。 仕事はきまったことのくりかえし、長老は頭の上に載せておく帽子代わりでよい、というのは平和時代のことである。戦時には、トップこそ豊富な経験と知恵の上に想像力と独創力を働かせ、頑健な身体と健全なバランス感覚で、誤りない意思決定をしなければならなかった。
組織に緊張を創造するためには、客観的環境を主観的に再構成あるいは演出するリーダーの洞察力、異質な情報・知識の交流、ヒトの抜擢などによる権力構造のたえざる均衡破壊などがカギとなる。 日本軍のなかで対米戦争に最も危機感を抱いていたのは、山本五十六を中心とする一部将官のみであった。 大東亜戦争の日本軍は平時の安定・均衡志向の組織のままで戦争に突入したのである。
日本軍の現地軍は、責任多く権限なしともいわれた。責任権限のあいまいな組織にあっては、中央が軍事合理性を欠いた場合のツケはすべて現地軍が負わなければならなかった。「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「天佑神助」、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」などの空文虚字の命令が出れば出るほど、現地軍の責任と義務は際限なく拡大して追及され、結果的にはその自律性を喪失していった。
進化は、創造的破壊を伴う「自己超越」現象でもある。つまり自己革新組織は、たえずシステム自体の限界を超えたところに到達しようと自己否定を行なうのである。進化は創造的なものであって、単なる適応的なものではないのである。自己革新組織は、不断に現状の創造的破壊を行ない、本質的にシステムをその物理的・精神的境界を超えたところに到達させる原理をうちに含んでいる 日本軍は、ヒトを戦略発想の転換の軸として位置づけることを怠った。長老支配体制と若手将校による下剋上が頻発するなかで、資源としてのヒトの戦略的活用はなされないままに終わった。
米軍は、防禦に強い、操縦の楽なヘルキャットを大量生産し、大量の新人搭乗員を航空主兵という戦略のヒト資源として活用した。日本軍の零戦は、それが傑作であることによって、かえって戦略的重要性を見る眼をそいでしまった。日本軍は、突出した技術革新を戦略の発想と体系の革新にむすびつけるという明確な視点を欠いていたといえるのである
日本軍はまた、余裕のない組織であった。走り続けて、大東亜戦争に入ってからは客観的にじっくり自己を見つめる余裕がなかったのかもしれない。物的資源と人的資源、すべてに余裕がなかった
ガダルカナル戦では、海兵隊員が戦争のあい間にテニスをするのを見て辻政信は驚いたといわれている。彼らの戦い方には、なにか余裕があった。 これに対して、日本軍には、悲壮感が強く余裕や遊びの精神がなかった。これらの余裕のなさが重大な局面で、積極的行動を妨げたのかもしれない。南雲艦隊が真珠湾攻撃において第二次攻撃をせずに帰投したこと、三川艦隊が第一次ソロモン海戦で米輸送船団を見過ごしたこと、栗田艦隊がレイテ海戦で米輸送船団を攻撃せずに反転したことなど、どこかで資源的制約に基づく「艦を沈めてはならない」という消極性が目につくのである。つまり、これぞと思う一点にすべてを集中せざるをえず、次が続かなかった。そのために、既存の路線の追求には能率的ではあっても、自己革新につながるような知識や頭脳や行動様式を求めることが困難だったのではなかろうか。 およそイノベーション(革新)は、異質なヒト、情報、偶然を取り込むところに始まる。官僚制とは、あらゆる異端・偶然の要素を徹底的に排除した組織構造である。日本軍は、異端者を嫌った。
山本長官のように、権力を握った者のみが、イノベーションを実現できたのである。ボトムアップによるイノベーションは困難であった。 およそ日本軍の組織は、組織内の構成要素間の交流や異質な情報・知識の混入が少ない組織でもあった。たとえば、参謀本部における最大の欠陥は、作戦課の独善性と閉鎖性にあったといわれる。
日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」(山本七平)という指摘にもあるように、組織の末端の情報、問題提起、 アイデアが中枢につながることを促進する「青年の議論」が許されなかったのである。 日本軍は、個々の戦闘結果を客観的に評価し、それらを次の戦闘への知識として蓄積することが苦手であった。これに比べて、米軍は一連の作戦の展開から有用な新しい情報をよく組織化した。とくに、海兵隊は水陸両用戦の知識を獲得していく過程で、個々の戦闘の結果、とりわけ失敗を次の作戦に必ず生かしてきた。
日本軍は、アジアの解放を唱えた「大東亜共栄圏」などの理念を有していたが、それを個々の戦闘における具体的な行動規範にまで論理的に詰めて組織全員に共有させることはできなかった。このような価値は、言行一致を通じて初めて組織内に浸透するものであるが、日本軍の指導層のなかでは、理想派よりは、目前の短期的国益を追求する現実派が主導権を握っていた。
日本軍には、米軍に見られるような、静態的官僚制にダイナミズムをもたらすための、①エリートの柔軟な思考を確保できる人事教育システム、②すぐれた者が思い切ったことのできる分権的システム、③強力な統合システム、が欠けていた。そして日本軍は、過去の戦略原型にはみごとに適応したが、環境が構造的に変化したときに、自らの戦略と組織を主体的に変革するための自己否定的学習ができなかった。
日本軍が特定のパラダイムに固執し、環境変化への適応能力を失った点は、「革新的」といわれる一部政党や報道機関にそのまま継承されているようである。すべての事象を特定の信奉するパラダイムのみで一元的に解釈し、そのパラダイムで説明できない現象をすべて捨象する頑なさは、まさに適応しすぎて特殊化した日本軍を見ているようですらある。
日本軍の持っていた組織的特質を、ある程度まで創造的破壊の形で継承したのは、おそらく企業組織であろう。戦後の日本の企業組織にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部トップ・マネジメントの追放であった。これまでの伝統的な経営層が一層も二層もいなくなり、思い切った若手抜擢が行なわれたのである。その結果、官僚制の破壊と組織内民主化が著しく進展し、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわき上がるような組織が誕生したのである。
日本企業の戦略は、論理的・演繹的な米国企業の戦略策定に対して、帰納的戦略策定を得意とするオペレーション志向である。その長所は、継続的な変化への適応能力をもつことである。変化に対して、帰納的かつインクリメンタルに適応する戦略は、環境変化が突発的な大変動ではなく継続的に発生している状況では強みを発揮する。
大きなブレイク・スルーを生みだすことよりも、一つのアイデアの洗練に適している。製品ライフサイクルの成長後期以後で日本企業が強みを発揮するのは、このためである。家電製品、自動車、半導体などの分野における日本企業の強さはこれに由来する。
日本企業の組織は、米国企業のような公式化された階層を構築して規則や計画を通じて組織的統合と環境対応を行なうよりは、価値・情報の共有をもとに集団内の成員や集団間の頻繁な相互作用を通じて組織的統合と環境対応を行なうグループ・ダイナミックスを生かした組織である。その長所は、次のようなものである。 ① 下位の組織単位の自律的な環境適応が可能になる。 ② 定型化されないあいまいな情報をうまく伝達・処理できる。 ③ 組織の末端の学習を活性化させ、現場における知識や経験の蓄積を促進し、情報感度を高める。 ④ 集団あるいは組織の価値観によって、人々を内発的に動機づけ大きな心理的エネルギーを引き出すことができる。