勉強の哲学
同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい可能性を開くために、深く勉強する。
勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。勉強とは、かつてノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊。勉強とは、わざとノリが悪い人になること。
環境における、こうするもんだとは、行為の目的的・共同的な方向づけである。それを環境のコードと呼ぶ。 自分は他者によってつくられている。言語を通して、私達は他者に乗っ取られている。 言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して距離をとるためのものでもある
深く勉強するというのは、言語偏重の人になるということ
コードに重々な状態は保守的であり、勉強によって身につけてもらいたいのは批評的であること アイロニー意識で、コードを客観視する。ユーモア:コードに対してずらそうとする アイロニーは超コード化する。コードを抽象化する。不倫のはなしから、悪をだすみたいな
アイロニーは根拠を疑うこと、ユーモアは見方を変えること
ユーモアはコードを転覆させる。え、そんなはなしだっけ。そもそもなんだっけ?という目的感の喪失がおこなわれる
自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較をある程度のところで、享楽的に中断することである。 周りに流されているばかりなのはバカである。しかしバカであることには強みがある。可能性の増殖の中で迷うことがない。
享楽的なこだわりというのは自分のバカな部分である。
書くことを思考のプロセスに組み込む
アイデアがあるから書くのではなく、書くからアイデアがでてくる。
ひとりひとりの個性=享楽的なこだわり。享楽的なこだわりがユーモアを切断する。 目の前の出来事を、根源的な意味で世界のダンスとして捉える。出来事を目的性から解放し、出来事を自己目的的な運動としてみる。自分を二重化して、叱られている自分とその自分を退いてみている自分が同時にいるような感覚になる。 躍るということは、動きの自己目的化でる。普段自分たちは目的的にからだをつかっている。