ミーム
Lobbstter
ミームを共有することの意味を深く分析している『The New Yorker』の記事が面白かった。
今の美術館やアートイベントの鑑賞者は、作品に対する自分の経験の価値を測り、次に写真を撮り、それについてグループチャットでコメントし、また鑑賞に戻る。その後、ハッシュタグをチェックし他の人がどのような写真を投稿したか確認する。イギリスの美術史家クレア・ビショップは『Disordered Attention』という新著の中で、このような観客のあり方を「見ることとオンラインであることの間の絶え間ない振動」と表現している。 そして、ビショップはこうした鑑賞者の態度をそれほどネガティブには論じているという点が面白かった。ワーグナーが19世紀後半にドイツにオペラハウスを建設する以前は、観客は馬蹄形の輪の中に配置され、舞台だけでなく観客同士も向かい合っていた。しかし、ワーグナーは観客と舞台を正対するように配置し、観客側の照明を落とした。このことで観劇は社会的な体験から個人的な体験となった。この記事の、現在のミームの拡散は、人々が「社交的な観客」 を通じて文化を消費する前近代的な方法への回帰を意味する、という分析はとても印象的だ。この記事では、ロシアの現代アート集団ヴォイナが、メディアに拡散されるまでを作品の一部としていることなども紹介している。 一方でこの記事では、共有可能性は最終的に芸術作品やメディアをそのクリエイターから切り離すということも伝えている。バズりはインパクトを拡大し、会話を生み出すが、理解を深めるとは限らない、という一節がとても印象に残る。今やアテンション・エコノミーは現代の経済活動の前提の一つになっているが、そのアテンションの獲得は空虚さしか残さない。「アテンション」が他の資本や資産と異なり何も蓄積はしないのならば、それは「エコノミー」という名前を冠するに値しないのではと思わされる記事だった。 Who Wins and Who Loses When We Share a Meme The New Yorker