ドゥボール
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著者のギー・ドゥボールは革命家で方法主義者で、思想牽引者で映画制作者であった。これを書いたときは36歳だった。やむにやまれずに書いたのではなく、自分の方法によって社会像を描くとこうなる、これ以外の描像はあるまいという主旨のパンフレットだった。多くの若者や芸術家や思想表現者を煽動することになった。 ドゥボールの経歴と行動が奮っていた。かなり思いきったものなのだ。そのことが大きい。今夜は訳者の木下誠による解説を借り、当時の状況や思想者や表現者をあれこれの関連書を借りつつ、注釈入りで紹介しながら、本書の考え方とその背景を案内しておく。
原著『スペクタクルの社会』(1967)と著者ドゥボール(執筆当時・36才)
ドゥボールは1931年にパリで生まれ、リセでは成績はよかったものの、ひたすらランボー(690夜)、ロートレアモン(680夜)、アルチュール・クラヴァンに傾倒した。ありがちな早熟だ。
15歳のとき、ドゥボールにとって大きな二つの出来事が開始した。カンヌ映画祭が始まったことと、イジドール・イズーとガブリエル・ポムランが「レトリスム」(Lettrisme)運動を発火させたことだ。これは冴えていた。
ドゥボールはさっそくカンヌのクラブに入りびたりになって、イズーの映画《涎と永遠についての概論》に衝撃をうけ、レトリストたちと交流した。
20歳、パリ大学法学部に入るも、大学には行かない。サンジェルマン・デ・プレの外れのカフェ「シェ・モワノー」を拠点に、実験映像のシナリオをつくりはじめた。それが翌年のドゥボール21歳のときの映画《サドのための絶叫》になる。いまなお話題の超現実的なオムニバスな作品だが、映画作品全集『映画に反対して』(現代思潮社)の上巻に収録されたシナリオを読むと、そうとうに多様な表現方法を意図的に仕込んでいることがよくわかる。