ベルナール・スティグレール
ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler, 1952 – 2020)は、技術と人間の関係を根幹から問い直したフランスの哲学者です。彼は「テクネー(技術)が人類の〈外部化された記憶=第三の記憶〉であり、時間経験そのものを形づくる」と主張し、これを三巻の主著『技術と時間』で展開しました。刑務所で哲学に開眼した異色の経歴をもち、出所後はジャック・デリダの支援でパリ高等師範学校に迎えられます。ポンピドゥー・センターのイノベーション研究所(IRI)初代所長、そして政治・文化運動 Ars Industrialis(2005〜)を立ち上げ、「精神の技術に対する産業政策」を提唱しました。デジタル資本主義が欲望と注意を〈工業化〉し、個人と共同体を「象徴的貧困」に陥れると批判しつつ、「貢献の経済(economy of contribution)」を対抗軸として提案しています。晩年は「ネガントロポセン(負エントロピー的人類世)」概念で、環境危機を含む総体的崩壊へ哲学的警鐘を鳴らしました。 スティグレールがこれらの著作を通じて言わんとしていることは一貫しています。それをひと言で要約すれば…「 **テレビのおかげでみんなバカになってしまった** 」ということになるだろうと思います。もちろん「テレビ、みんな、バカ」は、テクノロジー、人間、知に対応するすべて象徴的な言葉ですが。 「バカ」の問題がアクチュアルなテーマとなったひとつの契機が、極右政党である国民戦線の台頭に対するスティグレールの尋常ならざる危機感です。2002年4月21日の選挙で、臆面なく排外主義と復古主義を掲げるジャック・ル・ペンの国民戦線が躍進を遂げました。スティグレールにとってそれは、フランスの相当数の国民が「生きづらさ」ゆえに、他者と共感し自分のアタマで考えることを放棄している姿にうつります。 すでに哲学における「記憶」の問題を、時間と技術との関係で考えて来たスティグレールは、現代社会の分析・批判と哲学上の問題をつなぐ壮大な理論構成の骨格を仕上げていました(『技術と時間』)。そこにこれらのアクチュアルな危機感を重ね合わせてか書かれたのが『象徴の貧困』のシリーズです。理性による政治的対話という西欧の理想主義が、暴力的に粉砕されつつあるという危機感。美的感覚の共有やヒューマニズムが解体される危機感。人間が方向喪失(dis-orientation)し、難-存在(mal-être)となり、自分を愛せなくなり(本源的ナルシシズムの喪失)、他者も愛せなくなり(リビドーの枯渇)、「私 je」と「われわれ nous」の個体化を衰退させて(シモンドンの個体化論の意味:後述)、文化産業が供給する商品しか共通の記憶がない「みんな on」になり、そしてついには人間の昆虫化(蟻化)へと事態は進んでいるという危機感…これらは現代の日本でも日増しにリアルなものとして感じられます。
スティグレール自身もかつて銀行強盗をはたらいて5年のあいだ投獄される以前は、その「生きづらさ」の中で自暴自棄になっていたと言います。パリ郊外のニュータウン(団地ゾーン)で育った彼は、住民が孤立化し、低所得化し、治安が乱れ、希望を見失って行く様を、そして国民戦線に投票してしまいそうな人々の心情を肌で感じていたそうです。「私はそこから来たのです」と彼は言います。