デヴィッド・グレーバー「ブルシットジョブ-クソどうでもいい仕事の理論」読書メモ
第一章
34p 「彼らは、自身が何の功績も果たしていないことにひそかに気づいている。たいしたこともしていないのに、その稼ぎで消費者向けのおもちゃを買い込んでは、人生を埋め合わせてきたと感じている。つまり、それはみな嘘っぱちの上に成り立っていると感じている-そして、実際、そのとおりなのである。」
38p 「社会主義体制のもとダミーのプロレタリアの仕事が無数に作り出されたように、資本主義体制ではどういうわけか、かわりにダミーのホワイトカラーの仕事が無数に作り出されたのである」
44p 「おそらく、ストリッパーがブルシットジョブであるというよりも、わたしたちの暮らす社会そのものがブルシットだということなのだ」
第二章
65p
それと対象的に、芸能人の容姿を微妙に加工する際に何が行われているかと言うと、自分自身の現実が、本物に対する血管ある代用品に過ぎないという不快感を視聴者の内部にかもしだすことなのだ。
そのために、日常的な現実-この場合では男女の身体に関わる-はどのようにあるべきかにかかわる視聴者の無意識の想定を変化させるわけである。誠実なる幻想が世界に喜びを招き入れるのに対し、いんちきな幻想は、その世界は安っぽくて惨めな場所なのだとひとに信じさせることを意図的に狙っているわけだ
繰り返せば、人を心底うんざりさせているものは(1)脅迫性,(2)欺瞞性である
ダクトテーパー
ダクトテーパー(尻拭い)とは組織に欠陥が存在しているためにその仕事が存在しているに過ぎない雇われ人のことである.
ダクトテーパーの最もはっきりとした例は、目上の人間の不注意や無能さが引き起こした損害を原状復帰させることが仕事であるような部下である
日本のスタートアップあるある
最初期に参加したメンバーのブルシットコードをひたすらダクトテーピングし続ける仕事
最初に参加していたメンバーは偉い地位についてケツを叩くだけ
98p
「このような反応を見てしまうと、自分の仕事がブルシットであることに本当に気づかない人々の集団が、少なくとも1つあると結論づけたい誘惑にかられてしまう。もちろん、CEOたちのやっていることがぶうしっとなわけではないということを除いてではあるが。良かれ悪しかれ、彼らの行為は世界に影響を及ぼしている。かれらには、ただ、自らが作り出しているあらゆるブルシットが見えていないだけなのだ。」
119p
グロースは「原因となる悦び(the preasure at being the cause)」という表現を考案し、それこそが遊びの基礎なのだと主張した。
122p
シラーによれば芸術を創作する欲望とは、まさに、ただ自由そのものが目的であるような自由の行使としての遊び(プレイ)の衝動の顕現であった。自由とはまさに状況を構築する(でっちあげる)ことが出来るという能力の発揮のみを目的として状況を構築するわたしたしの能力なのである。
---しかるに、ただ働くことだけのために働くふりを強いられるのは屈辱である。なぜなら、そのような要求は(正しくも)自己目的化した純粋な権力行使であると感じられるからである。
メイクビリーブプレイ(演技の遊び)が人間の自由の最も純粋な表現だとすれば、他者から押し付けられた演技的仕事は自由の欠如の最も純粋な表現なのだ。
すべきことがなくともつねに働くべし、たとえ仕事をでっちあげてでも時間を埋めるべしという考えが刻まれた、こえrまでに発見された人類史初の遺物がそこで対象としていたのは非自由人であった(ここで非自由人とは囚人と奴隷のことである)
125p
--- あるものの時間を別の者が所有できるという発想は、実は奇妙な考え方だからである
128p
時間とは、仕事の測定を可能とする解読格子ではない。なぜなら仕事は、それ自体が尺度なのだから。
138p
しかし、つきつめていえば、他人の作ったごっこ遊びゲーム(メイクビリーブ)に参加しなければならないということは、やる気を挫くものなのだ。
しかもそのゲームときたら、自分に押し付けられた権力の表現という意味しか持たないのである。
139p
賃労働のうちには、私達の存在に意味を与える部分もあるかもしれない。ところがそれは、ほとんどの賃労働のもつ最悪中の最悪の要素を取り出して、それだけを仕事の全てにしてしまうようなものなのである。魂が叫びだしたとして、なんの不思議があるだろう。それは、わたしたちを人間たらしめるもの全てに対する直接攻撃なのだから。
第四章 ブルシットジョブに就いているとはどのようなことか
p156
「リリアンの仕事は以下のような場合に起こりうる惨めさについて雄弁に語っている。すなわち、自分の仕事には達成すべき何の課題もないという事実と折り合うことが、仕事中で達成出来る唯一の課題であるという場合の惨めさ。自分の力を発揮できる唯一の方法が、自らの力を発揮できないという事実をひた隠しにするための独創的方法を考案することであるような場合の惨めさ、みずからの選択にまったく反して、自分が寄生者やペテン師となってしまった事態と向き合うよう強いられることの惨めさである。」
そうした状況においては被雇用者は自らへの疑念を生じさせぬよう、自信過剰にならねばんらないのだろう。そういった自信過剰はそれ自体が有害ともなりうる。
心理学者らはこの節で記述したようなジレンマを「筋書きの欠如(スクリプトレスネス)」と特徴づけることがある。----
第三章で述べたように自己である感覚(being a self)、つまり自身をとりまく環境から独立しているという感覚の大半は、わたしたちが、そうした環境にたいして予測可能な影響を与えられるという歓喜をともなう気づきによってもたらされている。
ドイツの心理学者カールグロースによる
第五章 なぜブルシットジョブが増殖しているのか
p198 「こうしてみるとなぜこの事態が認識されないかの理由も分かる。ひとつにそれは、資本主義がそのような結果をもたらしうることを直視するのをたんに人々が拒絶している点にある--たとえそれが、自分自身や友人や家族の経験に目をつぶることを意味していたとしても。」
p210 「というわけで、当時、世界で最も力を持っていた人間が、おのれの目玉となる政策を振り返りながら、その政策の形成に当たって重要になった要因はブルシットジョブの維持であると公然と語っているのである。」
p222 「この物語の教訓は、利潤追求を目標とする事業がお金を分配する仕事に従事する場合、最大の利潤を上げる方法は可能な限り非効率になることであるというものだ。」
「いうまでもなくFIRE部門(金融、保険、不動産業)がやっていることは、これである。」
第六章 なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは無意味な雇用の増大に反対しないのか
p255 経済学という学問領域自体、道徳哲学から生まれたが(アダム・スミスは道徳哲学の教授であった)道徳哲学はもともと神学の一部門である。そして経済学的概念の多くが直接に宗教的な概念に由来している。だからこそ、価値についての議論はつねにどこか神学的色合いを帯びるのである。
メモ: プロ倫で見たようなプロテスタンティズム的世俗内禁欲主義が元の理念と原型もなく亡霊のように資本主義に覆いかぶさっているように見える。それにより労働は神聖なものとして奪うべからざる権利として保証することを政治的、経済的両面の諸条件が絡まり合いつつブルシットジョブを生み出している
p267 「実に、まさにこれ(数量か不可能であるということ)こそ、その(諸価値の)価値にとって鍵となるとすら言うことができよう。商品は他の商品と比較することができるまさにそのことによって経済的「価値」をもつ。それと同様に、「諸価値」は、何者とも比較することが出来ないその事によって価値があるのである。諸価値は、それぞれにかけがえがなく、尺度し得ないものとみなされている。要するに価格のつけられないもの(プライスレス)とみなされているのだ」
メモ: 数量化出来ない労働(アンペイドワーク)に価値が付加されずらく、数量化可能なクソ仕事ほど貨幣として数量化されやすい理由か
p275 ある職業が1ドル得るのに社会にどれだけの価値を付与しているかの調査結果
研究者 +9ドル
教師 +1ドル
エンジニア +0.2ドル
コンサルタント、IT専門家 0(!)
弁護士 マイナス0.2ドル
広告マーケター マイナス0.3ドル
マネージャー マイナス0.8ドル
金融部門 マイナス1.5ドル
p294 「中世やルネサンス期の北部ヨーロッパではほとんどすべての人間が、どこかの時点で汗を流して働くよう求められた。この帰結として、仕事、とりわけ支払い労働(ペイドレイバー)が、人間に変化をもたらすものとみなされるようになるのである。このことは重要である。なぜならそれはプロテスタントの労働倫理として知られるようになるものの重要ないくつかの要素が、プロテスタントが出現するよりもはるか以前に既に存在していたことを意味するからだ。」
メモ: まさにプロ倫で見た要素がプロテスタント登場前から北部ヨーロッパに存在していた。ということはキリスト教文化圏それ自体に世俗内禁欲的な労働倫理の道徳を既に含んでいたということでは?
p299 「カーライルは最終的に、今日までに通づる結論にいたりつく。すなわち、もし仕事が高貴なのであれば、最も高貴な労働には報酬を与えるべきではない。なぜなら、かような絶対的な価値に値段をつけるなど実に低俗ではないか、と(「すべての高貴な労働に対する「賃金」はいまだ天にあり、他のどこにもない」)」
メモ: プロテスタンティズム的な労働を神聖で高貴とする思想が労働価値説を受け入れられる土壌を作り、職工や大工が兵士として参加したアメリカ独立戦争などの思想的基盤となった(イギリスからの簒奪への独立運動)
要は労働価値説とプロテスタンティズムはすこぶる相性がよかった
メモ: 「生産」という用語は多分に神学的な色合いを含んでいる
無から何かを生み出している神学的なニュアンスを含んでいるが実際わたしたちが本当に無から生成しているわけではなく、海産物を加工したり、機械のケアをしたり、消費者のために地面を耕したりするのは本質的にはあらゆる労働はケアリングワークということも出来る
p314 「しかし、社会学者たちが一般的に見落としているのが、仕事が自己犠牲や自己否認のひとつの形態であるとすれば、近代的仕事の不愉快さそのものが、仕事を目的そのものとみなすことを可能にする要素であるという点である」.... 「とすれば、労働者は自らの仕事を嫌悪しているがゆえに、尊厳と自尊心の感覚を得るということになる」
第七章 ブルシットジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか
p329 「強欲に基づく社会は、たとえ人間とは本質的に利己的で強欲であると掲げさえし、そしてこの種の振る舞いに価値を与えているとしても、実のところ、そのようなことを本当には信じていない、ということである。この社会はひそかにわたしたちの鼻先ににんじんをぶらさげている。つまり、この社会では、このゲームに参加することに同意する報奨として利他的にふるまう権利が与えられるのだ。熱意を持って利己主義を実践して見せてはじめて、利他的になる権利が与えられるというわけだ。」
p337 「わたしのいいたいのは、実質のある仕事(リアルジョブ)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化し得ないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だということである。はっきりいえば、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げるのである。なぜかというと、ケアリングの価値を取り巻くプロセスや作業や成果をコンピュータが認識できるような形式へ転換するのには、膨大な人間労働を必要とするからである。」
メモ: 本来数量化するべきでない部分の自動化についての話で、自動化自体の自動化の話ではない?
p338 「実際に自動化(オートメーション)は大量失業を生み出した。わたしたちは、あれこれ効果的な仕事もどき(ダミージョブ)を作り出すことで亀裂を塞いできたのである。」
p357 「ベーシックインカムの究極的な目的は、生活を労働から切り離すことにある」
メモ: 生活を最低限支える人権を保障するために、ミーンズテストのような人間の尊厳を奪う屈辱的な作業が増え官僚制の増大に伴うブルシットジョブの増大を伴いより多くの人に屈辱的な仕事をさせている。
生活のために労働があるのではなく労働のために生活を別の次元のレベルで最低限権利として保障するということ
p360 「こうしたことのすべては、あきらかにつぎのような想定に基づいている。すなわち、人間は強制がなくとも労働をおこなうであろう、ないし、少なくとも他社にとって有用ないし便益をもたらす(ベネフィシャル)と感じていることを行うであろう、と」
p362 「少なくとも経済的領域においては、答えは明白である。職場政治のいわれのないサディズムの力学はすべて、経済的ダメージを感じることなく「辞めてやる」とはいえないことに基盤をおいている」----「この意味でベーシックインカムは、労働者に上司に対して「オレンジ」という権能を与えることになる」
「もしあらゆる人々が、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意思で決定出来るとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?」