非意味ライティングの系譜――ダダからポストデジタル時代まで
非意味ライティング(英語では asemic writing と呼ばれる)は、一見すると言語の記述に見えるものの、既存の言語としては読解不能な文字列や記号による表現である。文字どおり「意味のない(a-semic)」ライティングであり、「asemic」という語は「特定の意味内容を持たない」という意味に由来する。言語学的に言えば、通常の文章が意味(セマンティクス)を伝達する記号体系であるのに対し、非意味ライティングでは記号(文字)と意味(意味内容)の結びつきが意図的に断たれている。ジム・レフトウィッチは1998年の書簡で「セーム (seme) が意味の最小単位であるなら、アセミックなテクストは意味を生み出す以外の理由で言語の単位を用いるものだ」と述べている。つまり非意味ライティングでは、記号それ自体の造形や質感、配置など意味以外の要素が前面に出ることになる。
非意味ライティングという概念は、20世紀後半に登場したポスト構造主義や脱構築の文脈とも共鳴する。たとえばフランスの哲学者ジャック・デリダは、言語テクスト中の空白(スペース)の役割を論じる中で、それを「無意味の間隔(asemic spacing)」と呼んだ。文字と言葉の間に挿入される余白そのものは何も意味しないが、それがあるおかげで意味作用が可能になるとデリダは指摘した。また記号論・意味論の観点から言えば、ソシュール以来の記号学では「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」の分離が語られてきた。ロラン・バルトはタイプミスの例を挙げ、例えば「officer(士官)」と書くつもりが「offiver」と誤打した場合、それは既知の語彙に属さず文脈も与えられないために「コードが中断され、純粋なシニフィエだけが生まれる」と述べている。バルトはこの「意味を持たない単語」を「アセミックな語」と呼び、テクスト論における純粋なシニフィエの存在に注目した。ポスト構造主義の思想家たちが示唆したように、テクストには常に「意味の揺らぎ」や「遅延(ディフェランス)」が内在するが、非意味ライティングはその極限として意味の完全な欠如を志向する点で理論的に興味深い。実際、「意味の遅延(差延)の無限化」というデリダ的な状況がアセミック作品には体現されているとも言える。こうした観点から、非意味ライティングはしばしば記号論・脱構築など高度な理論を援用して説明される。
もっとも、「意味がない」といっても完全な無意味というわけではない点に注意が必要である。非意味ライティングでは言語的・具体的な意味内容は欠如しているが、その代わりに視覚的・情緒的な情報や筆致そのものの表現力が強調される。ティム・ゲーズは「文章にはセマンティック(意味的)な情報だけでなく、形状における美的情報や筆跡から読み取れる感情的情報が含まれている。アセミック・ライティングは意味情報を排除することで、そうした美的・感情的内容を前景化するのだ」と述べている。実際、非意味的な記号の配置から読者は自由連想を働かせ、純粋な視覚芸術を見るかのように何らかの心的反応や解釈を引き出すことができる。そこでは意味は「無」から読者によって生み出されるか、あるいは永遠に差し控えられたままとなる。批評家たちはこれを「意味の真空」に見立てつつも、同時にそれが読者に新たな気づきを促す余地でもあると指摘する。例えばDe Villo Sloanは「従来の意味作用を中断・破壊することで新たな意味や認識が可能になる」と述べ、非意味テクストにおいては文字の視覚的・物質的要素が前面に出ると説明している。
非意味ライティングの歴史的展開:欧米の詩的実践
20世紀初頭〜中期:黎明と先駆者たち – 非意味ライティングそのものが明確な運動として意識されるのは20世紀末だが、その前史となる試みは前衛芸術の中で点在していた。ダダイスムの詩人たちは言葉の無意味化を大胆に実践しており、たとえばフーゴ・バルの詩「カラワネ」は論理的意味を持たない音の連なりによる詩として有名である。またシュルレアリスムでは自動記述(オートマティスム)が提唱され、意識を通さない書記行為が試みられたが、それによってしばしば意味不明の文や文字列が生み出された。実際、米国の詩人エミリー・ディキンソンは1850年代に読めない走り書きの詩を書き残しており、シュルレアリストに影響を与えた画家マン・レイも1924年に単語を一切含まない「パリ、1924年5月」という視覚詩を制作している。これらは後から見ればアセミック的実践の嚆矢と言える。
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Man Ray - ‘Paris, mai 1924
1950–70年代:具体詩・ヴィジュアル詩と「読めない書字」 – 文字やタイポグラフィを造形的要素として用いる具体詩・視覚詩の潮流も、非意味ライティングの重要な土壌となった。1950年代には米国の画家サイ・トゥオンブリーがアルファベットのなぐり書きのような筆致の絵画を描き始め、以後そのキャリアを通じて読めそうで読めない筆記的絵画を数多く発表した。批評家キャリー・ノーランドはトゥオンブリーやロバート・モリスの試みについて「彼らは筆記行為の身体的身振りに焦点を当て、手書き、言い換えれば原初的な書字(proto-writing)の起源に立ち返ろうとしている。その不断の筆遣いは文字そのものを読めなくするまでに至る」と評している。実際、Peter Schwengerの研究によれば、トゥオンブリーの作品は「書かれた言葉に付随するメッセージ(意味)によって普段は覆い隠されてしまう書字そのものの本質を伝えている」とされる。一方、欧州では戦後フランスのレトリスム(文字主義)の運動が「既存言語の解体」を掲げ、アルファベットの断片や無意味な文字列を用いた作品を多数生み出していた。イスィドール・イズーらレトリスムの詩人は「意味を持たない記号の力」に着目し、視覚詩の一形態として意図的な無意味テクストを制作している。60年代にはブリオン・ガイシン(英出身の画家・詩人)がアラビア書道や日本の書の影響を受け、読解不能な書の絵画(カリグラフィ)を精力的に制作した。例えば彼の作品「Calligraphie (1960)」は一見するとアラビア文字や漢字のようにも見えるが、実在しない文字によるものである。ブラジルの芸術家ミラ・シェンデルも1960年代に《古代の書》と題する作品(1964年)など、独自の文字様の形態による絵画作品を発表しており、これも現在ではアセミック・アートの先駆例として位置づけられている。さらにアルゼンチンの女性作家ミルタ・デルミサシェは1960–70年代にかけて何冊もの「判読不能な書物」を制作した。彼女の作品は完全に読めない手書きの「手紙」や「新聞」などの体裁をとっており、その斬新さから当時フランスの批評家ロラン・バルトも注目し「彼女の書字は具象でも抽象でもなく、文字の形態だけで驚くべき表現を成し遂げている」と賞賛する書簡を送ったことが知られている。デルミサシェの作品は後に「asemic writing(アセミック・ライティング)」という用語が定着する前から「読めない文字による芸術」として高い評価を受け、彼女自身も一貫してそれらを「書物(writings)」と呼び続けた。
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Twombly, Cy – Calligraphic Paintings
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Isou, Isidore – Lettrist Poems
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Brion Gysin - Calligraphie
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Schendel, Mira – Monotypes
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Delmisache, Mirtha – Illegible Letters and Newspapers
1980年代:架空言語の創造 – 1981年にイタリア人芸術家ルイジ・セラフィーニが出版した奇書『コーデックス・セラフィニアヌス』は、架空の百科事典を模した装丁に未知の言語(解読不能の独自文字)で全編が記された作品である。幻想的な図版と相まって話題となったこの書物は、文字体系こそ整然としているものの意味は一切解読できないため、「世界で最も美しい無意味本」とも称された。セラフィーニ自身はこれを明確に前衛芸術とは位置付けなかったが、その後のアセミック・ライティング運動から見ると重要な里程標となっている。同時期には欧米各地でアーティストや詩人による「読めないテクスト」作品が散発的に現れており、たとえばイタリアのBianca Menna(芸名トマソ・ビンガ)は1970年代に「scritture desemantizzate(脱意味化された書字)」と題する連作パフォーマンスと作品群を発表していた。さらに遡れば、イタリアのデザイナーで芸術家のブルーノ・ムナーリは1947年に「未知の民族の判読不能な文字」という作品シリーズを制作しており(無意味な記号によるタイポグラフィ作品)、これらも広義にはアセミック的試みと言える。
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Serafini, Luigi – Codex Seraphinianus
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Binga, Tomaso (Bianca Menna) – Scritture desemantizzate
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Munari, Bruno – Scritture illeggibili di popoli sconosciuti
1990年代以降:アセミック運動の成立と展開 – 以上のような下地を踏まえ、非意味ライティングがひとつの自覚的な国際アート運動として立ち上がったのは1990年代末のことである。オーストラリアの詩人・芸術家ティム・ゲーズと、米国の実験詩人ジム・レフトウィッチは1997年前後に互いの作品を交換する中で、自分たちが手掛ける「読めない文字の作品」を指す用語として「asemic(アセミック)」という言葉を採用した。当時、二人は実験詩誌の世界で活動しており、編集者ジョン・バイラムからレフトウィッチに宛てた葉書にたまたま「asemic」という語が使われていたことがきっかけだったという。ゲーズとレフトウィッチはこの新鮮な用語を積極的に広め、まず1998年に彼ら自身や知人の作品を収めた折り畳みパンフレット『asemic volume ~1』を刊行した。これが小さな種火となり、ゲーズはさらに小雑誌『Asemic Magazine』を創刊して世界中のアーティストに寄稿を呼びかけた。当初は郵送アートのネットワークを通じて作品収集が行われ、ゲーズ自身が様々な書法のカリグラファーや視覚芸術家にも働きかけた結果、寄稿者は欧米はもとよりアジア・アフリカ・中南米にまで及び、Vol.1からVol.6まで継続した雑誌は実に多様な作品群を紹介した。こうした出版活動やインターネット上でのギャラリー開設(2008年にはマイケル・ジェイコブソンがゲーズやデレク・ボーリューらとオンライン・ギャラリー「The New Post-Literate」を開始)により、2000年代以降アセミック・ライティングはひとつの確立したジャンルとなった。
現代の代表的アーティストとしては、上述の運動創始者ティム・ゲーズ(豪州)とジム・レフトウィッチ(米国)のほか、米国のマイケル・ジェイコブソン、カナダのデレク・ボーリュー、イタリアのマルコ・ジョヴェナーレ、フィンランドのサトゥ・カイッコネン等が挙げられる。ゲーズは視覚詩とグリッチ(電子的乱調)を融合させた作品集『noology』や、象形的な図像と言語の中間に位置するドローイング集『Glyphs of Uncertain Meaning(不確かな意味のグリフ)』などの作品で知られる。ジェイコブソンは自身のブログ「The New Post-Literate」において世界各地のアセミック作品を精力的に紹介しつつ、自らも『The Giant’s Fence』(2007)という全編が判読不能の文字で綴られた「小説」を発表している。またカナダの詩人ボーリューはタイポグラフィ実験の延長から独自のアセミック作品を制作しており、イタリアのジョヴェナーレはミクストメディアで高度に抽象化された文字断片の作品を数多く発表している。更に、近年では書道の伝統がある東アジア出身の作家による参入も見られる。中国系アメリカ人の芸術家Cui Fei(崔斐)は自然物の蔓や枝を紙上に並べてまるで漢字の古文書のように見せる《自然の写本 Manuscript of Nature》シリーズ(2000年代)を制作し、高い評価を得た。このように、アセミック・ライティングは21世紀に入り真の国際性を帯び、多様な表現媒体で展開されている。
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Gaze, Tim –Glyphs of Uncertain Meaning
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Jacobson, Michael – The Giant’s Fence
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Cui Fei - Manuscript of Nature
関連する前衛運動との関係
非意味ライティングは単独で成立したのではなく、20世紀の様々な前衛芸術・文学運動との相関の中で位置づけられる。以下では特に関係の深いダダイスム、シュルレアリスム、具体詩(ヴィジュアル・ポエトリ)、コンセプチュアル・ライティングとの関連を概観する。
ダダイスムとの関係: ダダは第一次世界大戦中に起こった反芸術運動で、言語の既成概念を嘲弄する数多くの実験が行われた。前述のように、ダダ詩人の音声詩(サウンド・ポエトリ)は言葉の論理的意味を捨て去り、音響やリズムのみで構成された詩的表現であった。これは聴覚的な意味では文字を伴わない「アセミック詩」とも言えるだろう。実際、ダダの詩人たちは無意味な綴りやナンセンスな文章も作品中に多用したことが記録されている。たとえばトリスタン・ツァラはランダムに単語を切り抜いて帽子から抜き出すことで詩を作る方法を提唱したが、そうして生まれたテクストは通常の意味の連絡を断ち切られており、読者は文脈ではなく単語そのものの物質性に向き合わざるを得なくなる。ダダのこうした実験精神は「言葉を言葉たらしめている意味からの解放」という点で、非意味ライティングの思想と確実に地続きにある。
シュルレアリスムとの関係: シュルレアリストたちは自動筆記(オートマティック・ライティング)を通じて無意識の表現を文字に託そうと試みた。ブルトンらの自動記述は往々にして支離滅裂な文章となったが、重要なのは彼らが意味の統御を作家の手から手放した点にある。超現実主義者アントナン・アルトーは1930年代にメキシコ先住民のもとを訪れた際、自身の日記に周囲の風景が古代文字の碑文のように見える幻想体験を書き残している。アルトーは岩や樹木が神話的な象形文字に姿を変え、自分には解読できないものの巨大な言語体系を感じさせたと述懐した。この「読めない符号」に圧倒される体験は、まさにアセミック・テクストに直面する感覚に通じるものがあり、De Villo Sloanはアルトーの記述を「アセミック作品と出会いそれを創造することの、初期にして見事な描写」と評価している。シュルレアリストの中には自動記述による独自の文字体系を作ろうとした者もおり(詩人イヴ・タンギーの魔術的文字など)、シュルレアリスムの「意味を越えた領域」への志向は非意味ライティングに理論的インスピレーションを与えている。
具体詩・ヴィジュアル詩との関係: 非意味ライティングはしばしば具体詩(視覚詩)の一分野または発展形と見做される。具体詩とは1950年代以降に盛んになった、文字の配置や造形性に重点を置く詩運動で、ブラジルや欧州・北米で多くの作品が生み出された。具体詩では言葉の意味よりも、ページ上のレイアウトや形態が鑑賞上重視される傾向がある。実際、具体詩の有名な作家には単語を幾何学模様のように配置したり、あるいはアルファベットを分解・再構成して読むこと自体を困難にした作品を作る者もいた。イギリスのイアン・ハミルトン・フィンレイや、フランスのアンリ・ショパン、米国のボブ・コービングらの1960年代の実験詩は、文字と絵画の境界を押し広げたが、アセミック詩人たちはしばしば「1960年代以降に停滞した具体詩を越えて新しい段階に進むもの」として自らの位置付けを語っている。実際、ゲーズとレフトウィッチが登場する以前から、レトリスムや上記具体詩の流れの中で「読めないテクスト」は点在しており、それらはアセミック前夜の原型的作品と見做される。例えばドイツの詩人フランツ・モンは既存文字をバラバラにしてコラージュ状に並べる作品を60–70年代に手がけ、イタリアのウーゴ・カルドッツィやヴィンチェンツォ・アッカメも文字を断片化・装飾化した詩作品を発表していた。1970年代にはそうした「文字を抽象絵画化する」動きが各地で見られ、視覚詩の一部として徐々に非意味的表現への関心が醸成されていったと言える。
コンセプチュアル・ライティングとの関係: 2000年代に入ると、一部の英米詩人たちは「コンセプチュアル・ライティング(概念的な執筆)」という新潮流を打ち立てた。ケネス・ゴールドスミスやクリスチャン・B・オークらに代表されるこの動きは、創造性よりもコンセプトやプロセスを重視してテクストを生成・提示する詩作法である。彼らの作品は一見すると電話帳や新聞記事の写しなど陳腐なものだが、「作者の手による書き下ろし」という観念を破壊し、文章生成行為そのものを作品化する点に特徴がある。コンセプチュアル・ライティングそのものはアセミック・ライティングとは異なり既存の単語を用いる場合が多いが、その思想には共通点もある。それは「テクストとは情報伝達や叙情表現だけが目的ではなく、時に意味内容を度外視しても成立し得る」という認識である。ゴールドスミスは「詩的言語における創造性の否定」という極論を掲げたが、その延長上には「意味を持たないテクストですら詩として成り立つのではないか」という問いが浮上する。事実、コンセプチュアルな詩の中には読むこと自体が困難で意味解釈が二義的な作品も存在する。こうした実験は「意味の不在」を正面から扱うアセミック・ライティングと互いに刺激を与え合っている。両者は20世紀以降の詩におけるラディカルな傾向、すなわち言語芸術そのものの制度や前提を問うという姿勢を共有しているのである。
非意味テクストにおける「意味」の問題
非意味ライティングは「意味を欠いた文字表現」だが、それでは読者にとって何が残るのか。ここには哲学的な逆説がある。前述のバルトやデリダの議論にもあったように、アセミック作品では意味が欠如しているがゆえに別の形での「意味作用」が発生しうる。シュヴェンガー(Peter Schwenger)は「アセミック作品ではセマンティックな意味は欠落しているが、それ以外の意味は消えていない」と述べ、ギリシア語由来の語源が示す通り「seme(=記号)の能力そのものが否定されているにすぎない」と説明している。確かに、非意味ライティングは記号の持つ通常の指示機能を放棄する。言葉は何かを意味することなく、ただそこに形として存在する。しかしその結果として、読者は普段は意識しない「読む」という行為そのものに向き合わざるを得なくなる。文字列の判読を試みては失敗するプロセスそのもの、あるいは記号の連なりから自由にイメージを喚起する行為そのものが、読者にとっての体験となる。言わば、意味の不在が読者を積極的な意味生成へと誘うパラドックスが生じるのである。
この点について、フィンランドの詩人サトゥ・カイッコネンは興味深い見解を述べている。彼女は「自分はアセミック作品の創作者であると同時に探検者でありグローバルなストーリーテラーだと考えている。アセミック・アートはすべての人の無意識に深く根差した一種の言語である。どんな言語圏であろうと、人が初めて文字を書こうとするときには皆このような落書きに近い文字列を書くものだ」と指摘し、続けて「この意味でアセミック・アートは一種の共通言語になり得る——抽象的でポストリテラシー的な言語ではあるが——それによって背景や国籍に関係なくお互い理解し合うことができるかもしれない」と述べている。彼女はさらに、通常の意味言語はしばしば人々を分断し不平等を生むが、「アセミック・テキストはすべての識字レベル・あらゆるアイデンティティの人々を対等な立場に置かずにはいられない」と述べている。つまり誰にとっても「読めない」ものだからこそ、逆に普遍的に共有しうる感覚や体験がそこに生まれるという主張である。これは非意味ライティングがもつユニバーサルな可能性を示唆している。
他方、非意味テクストの読解には常に不確実性と遅延がつきまとう。目の前の記号列は何かを意味しているのか、それとも全くの装飾なのか——読者は判断に迷い、時に戸惑いを味わう。イタリアの批評家インナ・キリロワとグレブ・コロミエツは2015年の展覧会カタログで「非意味ライティングの内容は無意味である。それはシニフィエ(所記)にたどり着けなかったシニフィアン(能記)として虚空にある」としながらも、「しかし一方でそれは行為として、ジェスチャーとして無意味なのではない。いわば『言葉以前の言語』が非人格的なテクストの内部に差し伸ばされた手であり、それが沈黙する我々を別様のスピーチへと連帯させるのだ」と述べている。彼らの指摘するように、アセミック作品は作者の身体的な筆跡の痕跡であり、その身振り(gesture)自体が読者との間に何らかのコミュニケーションを生み出すということができる。たとえ伝達される意味が定まっていなくとも、作者が文字を書くという行為に込めたリズム・力加減・情動は、見る者に直観的・身体的に伝わり得るのである。実際、シュヴェンガーも「アセミック・ライティングは普段は言語メッセージによって覆い隠されている書字の本質を何か伝えてくれる。たとえば記された線の連なりそれ自体にも意味(=書き手の心理状態の筆跡的等価物)が宿るのだ」と述べている。このように非意味ライティングは一見逆説的だが、意味がないからこそ浮上する別様の意味(情緒・肉体性・普遍性など)を提示し、人間における「読む」「書く」とは何かという根源的問題を問い直す芸術とも言える。
現代的展開:AI生成詩・コード詩・ノイズテキストとの接続
非意味ライティングの思想と手法は、デジタル時代の新たな詩的実践にも影響を与えている。近年注目される分野としてAI生成詩やコード詩、そして電子的なノイズ・テキストが挙げられる。これらは一見すると非意味ライティングとは別個のものに思えるが、「言語の意味からの解放」「テクストと非テクストの境界の攪乱」という点で通底する。
AI生成詩: 大規模言語モデル(いわゆるAI)によって人間の介入なしに自動生成される詩やテキストが登場している。GPTシリーズのようなモデルは膨大な言語データから学習し、人間らしい文章を作り出す。しかし、その結果生まれたテキストは文法的に整っていてもしばしば文脈上は支離滅裂であったり、表面的な統計的類似性だけで構成された無内容な言葉の羅列になることがある。これは一種の「AIによる非意味テクスト」とも言えよう。興味深いことに、AIは統計的パターンに従って文章を構成するため、本来的には無意味な文字列を意図的に生み出すことが苦手だと指摘する声もある。すなわちAIはあくまで「何らかの意味のある言語」を模倣しようとするので、完全に解読不能な文字列(アセミックな文章)を出力するには別途工夫が要るというのである。しかし逆に言えば、AIが生成する奇妙な文章は、作者の意図を離れて自己増殖するテクストとして、読者に新種の「読み解き不能性」を突き付ける。これは人間が書くアセミック作品とはまた異なる位相で、人工知能時代のポストリテラシー的テクストの可能性を示唆している。実際、AIが自らの書く文章の意味について内省するようなメタフィクション的テクストも試みられている。こうした試みは、人間と機械の間で「意味とは何か」の問いを新たに提起し、非意味ライティングの問題系に一石を投じている。
コード詩: プログラミング言語のソースコードを詩的テクストとして扱うコード・ポエトリーの分野も、アセミック的な魅力を持つ。コード詩とは、人間の言語とコンピュータ言語のあいだに横たわる意味のズレを創作に活かすものである。例えばPerlやPythonのプログラムコードを、あたかも自然言語の散文詩のように構成する試みがある。コードはプログラムとして実行すれば特定の機能(意味)を持つが、プログラマでない人間から見れば難解な呪文のようにも映る。ここには「機械には意味があるが人間には無意味」という二重性が存在し、それ自体が詩的効果を生む。またソースコードのシンタックス(構文)を意図的に崩し、実行不能だが詩的な断片として提示する作例もある。イタリアのFrancesco Aprileは2010年代に多数のコード詩を発表し、「ポストアセミック・プレス」という名の出版社から作品集を出すなど、アセミックの延長線上にコード詩を位置づけている。コード詩は、21世紀の情報社会における「読解不能テクスト」の新たな相貌であり、人間の言語とコンピュータの言語という二つのシステムのあいだに潜む意味論的断絶を芸術化する点で、非意味ライティングの哲学を別の形で体現していると言える。
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ノイズ・テキスト: 電子的ノイズやグリッチ(デジタル信号の乱れ)を利用したテキスト表現も、アセミック的な可能性を拓く実験として注目される。たとえば文字化けしたテキスト、乱数やハッシュ値のような無秩序な英数字の羅列、あるいは可読・不可読の境界上にあるような暗号化テキストなどは、一見して言語として意味を為さないノイズに見えるが、その中に新鮮な美学を見出す動きがある。詩人フェデリコ・フェデリチは、自身の「読めないテクスト」をノイズ・ミュージックになぞらえて鑑賞することを提案している。彼によれば、アセミックな文章を読む体験はジャコブ・ウルマンの実験音楽のような「極限的ノイズ音楽」を聴く体験に近いという。つまり通常の言語が持つ意味のメロディーを排してしまったとき、残るのは雑音(ノイズ)に思えるかもしれないが、その雑音の中にも情報やパターンが潜んでおり、それ自体を美的に享受できるというのである。実際、デジタル時代にはテキストエディタでバイナリデータを開き乱雑な記号列を眺める、といった体験も日常に現れた。そうした言語とも非言語ともつかないデータの羅列から美や詩情を引き出す感性は、まさに非意味ライティングが鍛えてきた読者の態度に通じるだろう。
このように、AI詩やコード詩、ノイズ・テキストといった現代的実験は、非意味ライティングのコンセプトを新たな領域に拡張している。それらは単に過去の模倣ではなく、ポスト・デジタル時代における「書くこと/読むこと」の再定義を試みる点で、アセミックの理念と響き合うのである。テクノロジーの進歩により、人間はますます大量のテキストデータに囲まれて生きているが、その中には人間には意味解釈不能な「テキスト」も増えている。非意味ライティングとその派生形態は、そうした時代において我々に「意味とは何か」「文字とは何か」という根源的問いを投げかけ続けていると言えよう。
結論:欧米理論と詩的実践を踏まえた展望
非意味ライティング(アセミック・ライティング)は、「言語から意味を取り去る」という一見矛盾したコンセプトに基づきながらも、20世紀以降の芸術と言語理論の流れの中で着実に発展してきた。ポスト構造主義的な意味論の批判や記号学の知見がその背後を支え、ダダ、シュルレアリスム、具体詩、コンセプチュアル・ライティングといった数々の前衛的実践がその周縁から影響を与えた。ティム・ゲーズやマイケル・ジェイコブソンら現代の作家たちは、視覚芸術と文学の境界を超えた創作によって、このジャンルを国際的な広がりへと導いた。
非意味ライティングの意義は、人間にとって「読む」とは何か、「書く」とは何かを再考させる点にある。そこでは伝達すべき明確な意味内容が存在しないため、読者は否応なく白紙に向き合うように記号と自己の想像力に向き合うことになる。それゆえ読者は受動的な消費者ではいられず、能動的な創造者へと転じる。シュヴェンガーが述べるように、アセミック作品はグローバル化した技術社会における「言語という機械仕掛け」への一種の抵抗でもある。定型化された情報伝達や既存の記号体系による思考に抗い、意味を持たない記号によって新たな感性と思考の可能性を提示する試みなのだ。その背景には、西洋近代以降続いてきたアルファベット中心主義への批判も読み取れる。アルファベットが論理と言語思考を支配してきた歴史に対し、アセミック・アーティストたちはあえて意味なき記号によるコミュニケーションを提示することで、人間の思考の雛形を揺さぶろうとしている。
展望として、非意味ライティングは今後も多様な広がりを見せるだろう。デジタル技術やAIの発達により、人間が意図せずとも生み出される「読めないテクスト」は指数的に増加している。そうした時代において、アセミック的な美意識は単なる前衛芸術の一形態に留まらず、我々の生活と情報環境を批評的に捉える視座を提供する。グローバル化した世界では、言語の壁を越えたコミュニケーションが求められる場面も増えているが、皮肉にも誰にも読めない文字で書かれたテクストが人々に共通の体験を与え、創造的対話の出発点となり得るかもしれない。それは、人類が文字を発明する以前から持っていたであろう「落書き」の衝動や、美的なマークへの原初的な感受性に訴えかけるものでもある。
最後に強調したいのは、非意味ライティングは決して「無意味」では終わらないという点である。意味を持たない記号の並びは、一方では確かに読者を沈黙させる。しかしその沈黙の中で、文字たちはなお歌い続けている。ティム・ゲーズの言を借りれば、「アセミック作品には常に即興で音読しうる可能性があり、すべての作品は歌を奏でている」。言葉が消え去った後にもテクストが奏でるその歌とは何なのか――それを聴き取ろうとする時、人間は改めて言語芸術の深奥に触れることになるだろう。
参考文献:
Michael Jacobson, Tim Gaze (eds.), Asemic Writing: Definitions & Contexts 1998–2016, etc.
Sam Woolfe, “Derrida, Barthes, and the Origins of Asemic Writing” (2022)
Sam Woolfe, “An Interview With Tim Gaze, a Pioneer of Asemic Writing” (2023)
Federici & Fiala, “Asemic Texts” – The Journal (2018)
De Villo Sloan, Asemics 16 (Mail-Art Project, 2011)