関係性の美学批判における「敵対性」概念の考察
はじめに
本稿では、現代美術の潮流「関係性の美学(Relational Aesthetics)」に対する批判的言説で繰り返し言及される「アンタゴニズム(敵対性)」概念について考察する。まず政治理論上の「敵対性」概念(シャンタル・ムフとエルネスト・ラクラウの議論)を概観し、その後ニコラ・ブリオーによる関係性の美学の理論と展開を整理する。次に、クレア・ビショップらによる関係性の美学批判において「敵対性」概念がいかに戦略的に用いられてきたかを検討し、あわせてその前提となる思想的背景を分析する。さらに、2000年代以降のヨーロッパ現代美術の展示実践において「敵対性」がどのように表象・運用されているか、具体的な作品例(サンティアゴ・シエラ、トーマス・ヒルシュホルン等)を通じて論じる。最後に、関係性の美学批判において「敵対性」という語が決まり文句(クリシェ)化している現状に対する批判的考察を行い、本概念の再評価を試みる。
政治理論における「敵対性」概念の背景
「敵対性(antagonism)」は政治哲学者エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによって提起された概念であり、彼らの共著『ヘゲモニーと社会主義の戦略』(1985年、日本語訳1992年)で中心的に論じられている。ラクラウ=ムフによれば、敵対性とは、単なる現実的な対立(安定した主体同士の衝突)とも論理的な矛盾とも異なる関係である。他者の存在によって自己の完全な同一性(アイデンティティ)の確立が妨げられるという経験こそが「敵対性」であり、それは同時に他者を完全に客体化することも不可能にする。社会全体に適用すれば、敵対性は社会を安定した実体として完全に構成することの不可能性を示す概念である。重要なのは、ラクラウとムフがこの不可能性を否定的にではなく積極的に評価した点である。すなわち、仮そめの調和ではなくこうした敵対性を社会の基盤に据えることでこそ、真の民主主義的政治が可能になるというのが彼らの主張である。言い換えれば、「敵対者」との永続的な緊張関係(アゴニズム)を内包した政治こそが民主主義には不可欠だという洞察である。このような政治理論上の「敵対性」概念は後に美術批評にも導入されることになり、とりわけ関係性の美学をめぐる論争で頻出するキーワードとなった。
ニコラ・ブリオーと「関係性の美学」
「関係性の美学」とは、フランスの理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud)が1998年に著した同名の書物に端を発する概念である。英訳版が2002年に刊行され、この概念は90年代末から2000年代にかけての新たな芸術潮流を代表する理論となった。ブリオーは自身がキュレーションしたボルドー現代美術館やパレ・ド・トーキョーでの展覧会における同時代の作品群を分析し、それらに共通する特徴を「関係(relation)の創出」に見出した。典型的なリレーショナル・アートの作家として、リクリット・ティラヴァーニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ヴァネッサ・ビークロフトなどが挙げられている。これらの作家の作品では、作品そのものよりも人と人との相互作用や社会的な関係性こそが作品の核心となる。ブリオー自身、「リレーショナル・アート」を「人間の相互行為とその社会的文脈を理論的地平とするアート」と定義しており、従来の美術作品が美術館内で成立する独立した物体であったのに対し、人々の間に生じる関係こそが作品だとする。例えば、リクリット・ティラヴァーニャが美術館やビエンナーレの会場に即席のキッチンを設置して観客に食事を振る舞う作品や、フェリックス・ゴンザレス=トレスがギャラリーの隅に積んだキャンディを来場者が自由に持ち帰るインスタレーションなどでは、提供された料理やキャンディそのものではなく、それを介して生まれる対話や交流こそが作品の本質となる。ブリオーは鑑賞者に対し、「この作品は私を対話へと誘っているか? 私はこの作品の定義する空間の中にどのように存在しうるか?」と問うべきだと述べている。ブリオーにとって、こうした関係性の創出は、大量消費社会における人間関係の疎外へのひとつの抵抗であり、「日常におけるささやかなユートピア(マイクロユートピア)」を形成する試みでもあったといえる。実際、『関係性の美学』で提示された「リレーショナル・アート」や「関係性の美学」という基本コンセプトは、従来の物質的作品を越えて人々の交流や共同体の形成に重きを置く90年代以降のインスタレーションやコミュニティ・アート実践の理論的支柱となり、新たな美術のパラダイムを拓いたと評価されている。
もっとも、ブリオーの議論自体は雑誌連載記事の集成であり体系性を欠く側面もあった。また彼が提唱した関係性の美学は当初、その革新性(人間関係を作品とみなす発想)と楽観的なビジョン(アートによる小さなユートピアの創出)ゆえに高く評価された一方で、その曖昧さや批評的視点の不足も指摘されていた。例えば、美術評論家のハル・フォスターは関係性の美学にもとづく参加型アートの潮流を揶揄して「art party(アートなパーティ)」と呼び、その享楽的・馴れ合い的側面を批判したことがある。ブリオー自身の理論においても、作品から生まれる人間関係の「質」や社会的意味が充分に検討されていないという欠点が指摘されている。こうした批判的視点の欠如に対し、2000年代半ば以降、美術批評家たちは関係性の美学をめぐる議論の焦点を「単に関係を生み出すこと」から「生み出された関係の質や内容、生成過程の検証」へと移していった。その先鋒となったのが、イギリスの批評家クレア・ビショップによる「敵対性(アンタゴニズム)」の概念を用いた関係性の美学批判である。
クレア・ビショップの批判における「敵対性」の戦略的使用
クレア・ビショップ(Claire Bishop)は2004年の論文「敵対と関係性の美学(Antagonism and Relational Aesthetics)」において、ブリオーの関係性の美学に対し本質的な批判を加えた。ビショップの主張は端的に言えば、ブリオーの唱えるリレーショナル・アートは安定し調和的な人間関係=「マイクロ・ユートピア」を理想化しており、現実社会に内在する異質性や対立を十分に考慮していないというものである。彼女はラクラウ=ムフの政治理論を援用しつつ、民主主義社会においてはむしろ対立や不一致(=敵対性)の存在こそが健全さの証であり、芸術もまた葛藤や緊張を孕むべきだと論じた。ビショップによれば、ブリオーの理論には参加型アートを評価する明確な規準が欠けており、どのような関係性が生まれたかという「質」が問われていない。たとえば参加者同士がただ和やかに交流しただけでは、それは既存の調和的共同体の焼き直しにすぎず、社会的・政治的な意味での深化がないと批判される。ビショップはブリオーが賞賛した作家――リクリット・ティラヴァーニャやリアム・ギリックら――の作品に、暗黙の前提として「同質的で摩擦のない共同体」像があると指摘した。その上で彼女は、むしろ意図的に不和や緊張を創出する作品にこそ政治的価値を見出すべきだとして、そうした実践を「関係性の antagonism(関係性の敵対性)」と呼んで擁護した。
ビショップが具体的に高く評価したのは、サンティアゴ・シエラやトーマス・ヒルシュホルンといった作家の作品である。これらのアーティストは、人々の関係性を扱いながらも観客や参加者に不快感や葛藤をあえて経験させるような状況を作り出している点で、ブリオーの示す「調和的関係性」と対照的である。ビショップはこのような作品にこそ「敵対性」の契機が宿るとし、資本主義社会の矛盾や権力関係を可視化する批評性を評価した。彼女は関係性の美学をめぐる議論において、政治理論上の概念を戦略的に導入することで、美術作品の評価軸を刷新しようと試みたのである。その前提には、「芸術は単に和やかな対話を促すだけでは不十分であり、現実の社会関係に内在する不均衡や対立を映し出すべきだ」という信念がある。実際ビショップは、ブリオーが提示した参加型アート像(参加それ自体が「善」であり一種の非日常的ユートピアになるというヴィジョン)に対し、真っ向から反論している。彼女は「対立や不協和音こそが観客に思考を促し、政治的な討議の契機となる」として、心地よいだけのアートを「社会への迎合」とみなし退けたのだった。このようにビショップは敵対性という概念を批評の武器として用い、関係性の美学に新たな評価基準を持ち込んだのである。
もっとも、ビショップのアプローチにも異論は存在する。彼女の批判はしばしば挑発的で、議論を喚起する一方で極端に過ぎるとの指摘もあった。例えば、関係性の美学の代表的作家であったリアム・ギリックは、ビショップがシエラやヒルシュホルンの過激な作品ばかり賞賛する態度について、「彼女(ビショップ)は人を侮辱したり嘲弄したりするような作品に扇情的な魅力を感じている。そうした作品が既存の体制を攪乱するのを見ることで、小市民的なスリルを味わっているにすぎないのではないか」と痛烈に反論している。また、もう一人の美術評論家グラント・ケスターは、ビショップが敵対性を強調するあまり倫理的配慮を軽視していると批判した。ケスターによれば、参加型アートにおいて重要なのは対立の演出よりむしろ対話的プロセスや共同体の構築であり、ビショップのように対立そのものを美学的に賛美する姿勢は、しばしば作品の社会的倫理性を損ないかねないという。このようにビショップの議論は論争を呼び、関係性の美学をめぐる討議に新たな地平を拓いたが、それ自体賛否両論に晒されることにもなった。
展示実践に見る「敵対性」の表象(2000年代以降の欧州美術)
ビショップが高く評価したサンティアゴ・シエラとトーマス・ヒルシュホルンの作品は、「関係性の美学」に敵対性の要素を取り込んだ実践として特に重要である。これらの作家は2000年代以降の欧州現代美術シーンで注目を集め、実際の展示において「敵対性」を可視化する戦略を採ってきた。
サンティアゴ・シエラはスペイン出身のアーティストで、資本主義社会における搾取や不平等を直接的に暴露する作品で知られる。彼の制作手法は一貫して挑発的だ。例えばシエラは移民労働者、ホームレス、売春婦など社会的弱者を雇い、極めて不条理または不快な行為をさせる。段ボール箱の中に何時間も座らせる、人間の背中に一直線の刺青を彫る、暗い美術館の壁に向かって立たせ続ける――いずれも参加者には僅かな報酬が支払われるだけである。こうした行為そのものは道徳的にぎょっとするものだが、それゆえに作品は鑑賞者に強い不安と内省を促す。シエラの作品空間では、アートを享受しに来た観客は、目の前に突き付けられた搾取関係の再現に居心地の悪さを感じざるをえない。例えば彼が2003年ヴェネツィア・ビエンナーレのスペイン館で行った介入では、パビリオン正面に掲げられた国名「ESPANA」を黒いプラスチックで覆い隠し、入り口をブロック塀で封鎖してしまった。会場を訪れた人々は正面から入場できず建物脇の通用口に回され、そこでは武装した警備員にスペインのパスポートを提示した者だけが中に入ることを許可された。辛うじて内部に入れた者を待っていたのは、空っぽの会場だけであった(壁には前回展示の跡が残るのみ)。シエラ自身、この作品は「国家というフィクション」を暴く意図だと述べており、ビエンナーレという国威発揚の場におけるナショナリズムの欺瞞を白日の下に晒す試みであった。この作品では、観客は国籍によって排除されるという直接的な敵対状況に置かれ、芸術祭の前提に潜む不平等な構造を身体的に経験させられる。シエラの一連の作品には常にこのような「不快な関係性」=敵対性の演出があり、そこに現代社会への批判が込められている。彼の作品は鑑賞者に倫理的問いを突きつけ、関係性そのものの在り方を再考させる点で、ビショップが言う「関係性の敵対性」の具現例といえるだろう。
トーマス・ヒルシュホルン(Thomas Hirschhorn)はスイス出身で、参加型インスタレーションを得意とする作家である。ヒルシュホルンの作品もまた、一見すると人々の共同作業や交流を誘発しながら、その内部に緊張関係を孕んでいる点で特徴的である。彼の代表作の一つに「バタイユ・モニュメント」(2002年)がある。これはドクメンタ11(2002年、ドイツ・カッセル)で発表されたプロジェクト型インスタレーションで、会場中心部から離れたトルコ系移民の多く住む郊外地区に設置された。作品は、20世紀フランスの思想家ジョルジュ・バタイユに捧げられた「一時的記念碑」であり、青いビニールシートやベニヤ板など安価な素材で粗雑に組み立てられたパビリオン群から成る。内部にはバタイユに関する資料展示や簡易図書館、地元住民が運営するスナックバーや小さなテレビ局まで含まれていた。このプロジェクトには地域住民が参加しており、ヒルシュホルンは地元の若者らと協働でパビリオンを建設し運営した。観客はシャトルバスに乗って町外れのその場所まで赴き、バタイユを顕彰する奇妙な手作り空間と、そこでくつろぐ移民コミュニティの人々という光景に出会うことになる。「バタイユ・モニュメント」は、美術界の文脈(著名哲学者へのオマージュ)と日常的現実(移民街のコミュニティ)とを強引に衝突させた点で非常に挑発的であった。洗練とは程遠い手作りの環境と、エリート的な哲学テーマとの落差は来場者に戸惑いを与え、また地理的にも中心会場から隔てることで、美術ファンと地元民という普段交わらない人々を同じ空間に押し込む試みとなった。そこでは互いの間に文化的・社会的な緊張(言語の違い、生活環境の違いなど)が立ち現れ、単純に「楽しい交流」だけでは終わらない状況が生まれていた。ヒルシュホルンの狙いはまさにその異質な要素同士の出会いがもたらす批評的効果にあったと考えられる。彼は「アートは公共空間に介入しうる」という信念の下、愛や哲学や政治をテーマに掲げつつも、現実社会の複雑さや矛盾をあぶり出すインスタレーションを展開してきた。その意味でヒルシュホルンの作品もまた、ビショップの言う「敵対性の契機」を孕む実践として位置づけられる。シエラが直接的な不快感や衝突の演出によって社会的対立を示すのに対し、ヒルシュホルンは協働と対立が交錯するグレーゾーンを作り出すことで、現代社会の断絶や摩擦を象徴的に提示しているのである。
以上のように、2000年代以降の欧州現代美術における参加型・関係性志向の作品群には、「敵対性」の概念を意識的に取り込んだものが少なくない。これらは関係性の美学が抱えていた「予定調和的すぎる」という弱点に対する実践的な応答ともみなせる。すなわち、単なる対話や交流の場ではなく緊張や摩擦を含んだ社会的関係の再現こそが作品となりうることを、シエラやヒルシュホルンは実証してみせたのである。その一方で、こうしたアプローチには常に倫理的な問いも付きまとう。果たして他者を不快にさせたり傷付けたりすることまで含めて「芸術」として許容されるのか、参加者の人権や尊厳との兼ね合いをどう考えるべきか、といった問題である。実際シエラの作品は「参加者への搾取ではないか」「アートが弱者を食い物にしている」といった批判も招いた。ヒルシュホルンのプロジェクトにも「美術が地域に介入する際の不均衡」を指摘する声があった。こうした批判はまさに、「敵対性」を取り入れた作品が孕むジレンマそのものといえる。すなわち芸術は社会批判のためにどこまで過激な手法を取るべきか、鑑賞者や参加者にどこまで過酷な体験を強いるべきかという問いである。このジレンマは次節で述べる「敵対性」概念のクリシェ化の問題とも深く関わっている。
「敵対性」概念のクリシェ化と批評的再検討
関係性の美学に対する批判において「敵対性」を要求することは、2000年代中盤以降、半ば定型化した主張となった感がある。ビショップ以降、多くの評論家やキュレーターが参加型アートを評価・批判する際に「十分な対立構造があるか否か」を基準に据えるようになり、「敵対性の欠如」という指摘が決まり文句のように繰り返されてきた。確かにビショップの問題提起は重要で、関係性の美学に批評性を取り戻す契機となった。しかし一方で、「敵対性」概念を安易に持ち出すことの危うさも指摘され始めている。
第一に挙げられるのは、敵対性=善という図式の単純化である。ビショップの影響下で、一部では「作品が対立や不協和音を含んでいればそれだけで政治的に優れている」という短絡的な評価がなされる傾向も生まれた。しかしながら、それ自体が新たなクリシェ(紋切り型)と化してはいないだろうか。実際、ジェイソン・ミラーら研究者は、ビショップ以来の「美学的敵対性」路線が一種の新たな規範として定着しつつあることを批判的に検証している。ミラーは、近年では参加型アートに対する批評の焦点が「関係性の質」へ移行し、「攪乱や対立の演出そのものが美学的理想」として賞揚される傾向があると指摘する。その上で彼は、たとえ敵対的なアートであっても社会的・倫理的観点から免罪符が与えられるわけではなく、むしろ敵対性を掲げる作品こそ倫理的・美学的両面で慎重な批評に晒されるべきだと主張する。換言すれば、関係性の美学が「批評不在」と批判されたように、敵対性の美学もまたそれ自体が批評を免れてはならないということである。敵対性を取り入れた作品が本当に有意味な洞察や社会的インパクトをもたらしているのか、それとも単にショッキングな演出によって観客の注意を引くだけに終わっているのかを吟味する必要がある。
第二に、敵対性の安易な礼賛への反省も求められている。リアム・ギリックの辛辣なコメントが示すように、過度に敵対性ばかりをありがたがる風潮は、時に作り手・受け手双方の自己満足に陥りかねない。衝撃的な体験を提供すれば芸術的価値があるように思い込むのは、ある種の倒錯である。ギリックはビショップの批評姿勢について「過激な表現に快感を覚えるジャーナリスティックな嗜好」とまで評したが 、その指摘は我々批評家自身にも向けられている。すなわち、「敵対性」という流行りの概念を振りかざすだけで作品を分かった気になり、複雑な文脈を読み解く努力を怠っていないかという問いである。ビショップの議論が広まって以降、「調和的すぎる参加型アート=ダメ、敵対的な参加型アート=良い」という単純化が美術言説で横行したとすれば、それは本来ビショップが求めた思考の深化とは正反対の現象と言えよう。実際、ある日本人批評家は「関係性の美学」が日本の地域アート文脈で安易に「和(調和)」礼賛に接続されたように、ビショップの「敵対性」もまたクリシェ化しつつあると警鐘を鳴らしている。批評における決まり文句の氾濫は、理論概念の形骸化を招く。ゆえに「敵対性」概念もまた常に更新され再検討される必要があるだろう。
最後に、「敵対性」と芸術の役割の再考について触れたい。関係性の美学とその批判(敵対性の美学)の一連の議論は、最終的に「芸術は社会において何を果たしうるか」という根源的問題に行き着く。ブリオーは芸術に小さなユートピアの芽を見たが、ビショップは芸術に社会の矛盾を露呈させる鏡を期待した。では現在、私たちは両者のどちらの立場に立つべきなのか。おそらく答えは単純な二者択一ではない。芸術は人々をつなぐこともできれば、分断を照らし出すこともできる。重要なのは、そのどちらの側面も一面的に崇拝するのではなく、作品ごとに文脈に即して評価する柔軟な視点である。敵対性を強調する批評も、調和を賛美する実践も、それだけでは不十分だ。むしろ両者のあいだを行き来しながら、作品が内包する関係性の豊かさや危うさを丁寧に解きほぐす作業こそが求められているのではないだろうか。
おわりに
「敵対性」という概念は、関係性の美学に対する代表的な批判軸として定着し、美術の議論に大きなインパクトを与えた。政治哲学における敵対性の理論(ラクラウ=ムフ)を美術の文脈に持ち込んだクレア・ビショップの功績は、参加型アートの評価に新たな基準と緊張感をもたらした点で評価できる。彼女の指摘した問題――安易な調和志向への警鐘――は、その後の作家やキュレーターによって具体的作品として実践化され、芸術が社会批評たりうる可能性を示した。一方で、「敵対性」概念が批評上の決まり文句と化しつつある現状には注意が必要である。どんな理論も時間が経てば陳腐化しうるが、それを乗り越えるためには再度立ち止まって原点を問い直す姿勢が求められる。関係性の美学と敵対性の美学という一見対立する視座は、実はともに「芸術と社会の関係」を問い続ける営みの両極に位置しているにすぎないのかもしれない。であるならば、私たちはその両極のあいだで揺れ動く振り子の軌跡そのものに注目し、芸術が創出する関係性の諸相をより包括的に捉える努力を続けるべきだろう。その中から、新たな批評の言葉や実践の方向性が見いだされることを期待したい。