超ひも理論の最新研究動向
超ひも理論(スーパーstring theory)は、素粒子を一端が閉じた紐(ひも)として扱うことで重力を含む四つの力の統一を目指す理論であり、現代の理論物理学における有力な量子重力理論の候補である。1990年代以降、ひも理論はAdS/CFT対応やM理論などの理論的発展を遂げ、ブラックホールの情報問題や時空の次元コンパクト化の問題に新たな視点を提供してきた。近年では、非可換幾何学との関連や量子情報理論との融合など、新しい方向性も注目を集めている。また、Simons財団の「It from Qubit」プロジェクトなど大規模な研究プロジェクトを通じて、世界中の研究機関(プリンストン高等研究所、スタンフォード大学、東京大学カブリIPMU、京都大学YITPなど)が超ひも理論の様々な側面を精力的に研究している。本稿では、大学生程度の知識を前提に、超ひも理論に関する最新の先端研究動向を主要サブトピックごとに概観する。各セクションでは必要に応じて図表や数式を交え、代表的な研究成果や研究者・研究機関にも触れる。
AdS/CFT対応の進展
AdS/CFT対応(ホログラフィック原理、ゲージ/重力双対)とは、1997年にマルダセナらによって提唱された、反ド・ジッター空間(AdS)での重力理論と共形場理論(CFT)との間の等価性(双対性)を主張するものだ。これは高次元の重力理論が境界に定義された低次元の場の理論とホログラフィックに対応するという驚くべき予想であり、強結合の場の理論を重力理論で解析できる強力な道具を提供する。現在までにAdS/CFT対応は、$\mathcal{N}=4$超対称ヤン・ミルズ理論とAdS$_5$空間の重力理論の対応をはじめ、多くの具体例で確かめられ、場の理論と弦理論・重力理論の間の橋渡しとして定着している。
近年、AdS/CFT対応の研究はさらなる発展を遂げている。一つの方向は量子情報理論との融合である。ホログラフィック原理に基づき、「時空は量子もつれ(エンタングルメント)から創発する」という見方が広まりつつある。例えば2025年の研究では、量子もつれエントロピーが時空の曲率に直接影響し、重力が量子情報から生じる可能性が示唆された。この研究はアインシュタイン方程式に「情報的エネルギー運動量テンソル」を導入し、量子もつれが時空の幾何を形作るという新枠組みを提案している。これはホログラフィー原理およびAdS/CFTの「時空=情報」観と調和するものであり、重力と量子情報の統一的理解に向けた重要な動向である。実際、ホログラフィックなエンタングルメントエントロピーの計算(リュウ–タカヤナギ公式)や量子エラー訂正としてのAdS/CFTの解釈など、情報理論的観点から時空構造を分析する研究が盛んである。
また、AdS/CFT対応はブラックホール物理への応用においても著しい成果を上げている。AdS空間内のブラックホールはCFTにおける熱的状態に対応し、そのエントロピーやホーキング放射を双対の場の理論で解析できる。特にブラックホール内部の情報問題に関連して、量子極限面(QES)やエンタンゲルメント・ウェッジの概念が発展し、ホログラフィックな手法でブラックホール内部の情報を復元できることが示された。これにより、ブラックホール内部と外部の量子状態の対応関係(エンタンゲルメント・ウェッジ復元)や、後述するアイランドの出現による情報パラドックスの解決が議論されている。こうした成果はAdS/CFT対応がブラックホールの量子構造を理解する上で不可欠なツールとなっていることを示す。
さらに、AdS/CFT対応の適用範囲も拡大している。強相関電子系など物性物理への応用として、AdS/CFTを利用したホログラフィック超伝導体モデルや量子臨界現象の記述(AdS/CMT)が盛んに研究されている。また近年では、AdS時空の時空カットオフやdS時空(正の宇宙定数を持つド・ジッター空間)へのホログラフィーの試みも行われている。完全なdS/CFT対応は未解明だが、宇宙論へのホログラフィー応用も活発な研究分野である。さらには、非相対論的なホログラフィー(シュレディンガー対称やリフシッツ対称を持つ場の理論との双対)や、全時空ではなくブレーン上の重力/場の理論の双対(AdS/BCFTやRandall–Sundrumモデルとの関連)といった新たな枠組みも提案されている。これらは物理現象に合わせてホログラフィーの適用を拡張する試みであり、AdS/CFT対応が依然として理論物理の最先端で多方面に応用されていることを示している。
M理論の現状と展望
M理論は、5つ知られている10次元超弦理論(I型, IIA型, IIB型, ヘテロSO(32), ヘテロ$E_8\times E_8$)を統合する高次元(11次元)の理論としてエドワード・ウィッテンによって提唱された仮説上の理論である。M理論の”M”は「膜 (membrane)」「魔法 (magic)」「神秘 (mystery)」等を指すと言われ、その完全な定式化は未だ明らかでない。M理論では一次元の「ひも」だけでなく、2次元のM2ブレーンや5次元のM5ブレーンといった高次元の膜状物体(ブレーン)が基本的な励起モードとして現れる点が特徴である。例えば、IIA型超弦理論はM理論が半径$R_{11}$の円でコンパクト化された場合に対応し、その円周方向の運動量モードがIIAのD0ブレーン(0次元のブレーン)に対応することが知られている。このように、M理論は弦理論を含むより深い理論として提案され、弦理論間のS双対性やT双対性などの双対性を一つの枠組みに統合する。下図は、M理論と5つの超弦理論の関係(双対性の網絡)を示したものである。
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図: 5つの超弦理論とM理論の関係図(弦理論の双対性)。黄色の矢印がS双対、青の矢印がT双対を表す。各矢印により、各超弦理論が極限を通じてM理論や他の弦理論と結びついている。
M理論の低エネルギー有効理論は11次元超重力理論であり、各種ブレーンの古典解(M2ブレーンやM5ブレーン解など)が存在する。M理論の枠内では、従来異なると考えられていた弦理論同士が同一の理論の違う極限であると理解される。この「弦理論の統一」自体が理論物理に与えた影響は大きく、特に強い結合での振る舞いを他の理論で記述する双対性(例えばIIAとIIBのS双対やT双対)によって、非摂動的な解析が可能となった。
しかしながら、M理論はいまだ未完成の理論であり、その完全な数式的定義は確立されていない。M理論を直接記述する数理的枠組みとして提案されているものに行列モデルがある。バンクス・フィッシャー・シェンカー・サスカインド(BFSS)の行列モデル(1996年)や、それを拡張したBMN行列模型(2002年)は、$N\times N$行列の量子力学系としてM理論の光錐化状態を定義する試みである。この行列模型はD0ブレーンの力学を記述し、大きな$N$の極限で11次元時空とM2ブレーンが現れると期待されている。また、この模型はホログラフィーによってブラックホールの熱力学と対応していることが数値シミュレーションで示唆されており、行列模型を通じたM理論の定式化は現在も研究が続けられている。
M理論に関連して2008年頃に注目されたのが膜のミニ革命とも呼ばれる動きで、複数のM2ブレーン系を記述する3次元のスーパー共形場理論(BLGモデルやABJM理論)の発見である。ABJM理論は$\mathcal{N}=6$のスーパー共形対称性を持つチェルン・サイモンズ–物質理論で、$N$個のM2ブレーンの低エネルギー有効理論として構成され、AdS$_4$/CFT$_3$の具体例を与える。この理論によって、M理論における多重膜系の量子論が初めて厳密に定義され、M2ブレーンのスタック上に生じる新奇な物理現象(例えば$\frac{1}{N}$補正によるエンタングルメントエントロピーの振る舞いなど)が解析可能になった。ABJM理論の発見は、M理論の非摂動的な側面を理解する一端を拓いたものとして評価されている。
一方で、M理論の物理学的帰結を直接検証することは極めて難しい。M理論を4次元の現実の素粒子物理学に結びつけるためには、余剰の7次元空間をコンパクト化して標準模型に類似した有効理論を得る必要がある(例えば$G_2$ホロノミー多様体上のコンパクト化による現実的モデルの構築などが試みられている)。しかし、未だM理論から標準模型を明確に導出した例は存在せず、高エネルギー物理実験でその存在を確認するには至っていない。例えば、LHCなどで超対称粒子が発見されていないこともあり、M理論が予言する低エネルギー超対称性や追加次元の存在は検証されていない。そのためM理論は依然として数学的探究の段階にあり、実験的に検証可能な予言を出すまでには至っていない。
総じて、M理論は超弦理論の包括的枠組みとして確立され、多くの理論的な成功(弦理論の双対性の統一、膜理論の進展など)を収めてきたものの、その全貌は謎に包まれている。現在の研究動向としては、M理論の定式化(行列模型・低次元SCFTなど)、M5ブレーンの量子論(6次元$\mathcal{N}=(2,0)$理論)や、$G_2$コンパクト化による素粒子模型構築、M理論と数学(例:例外リー代数や圏論的枠組み)の関係解明などが挙げられる。プリンストン高等研究所(IAS)のウィッテンやケンブリッジ大学のホーキング(2018年没)らが先駆けとなり、近年ではキングス・カレッジ・ロンドン/ICTPのB.S.アチャリアらが$G_2$コンパクト化の研究を進めるなど、国内外で精力的な研究が続けられている。
ブラックホールのエントロピーと情報問題
ブラックホールは超ひも理論において重要な検証の場であり、ブラックホールのエントロピーや情報パラドックスの問題に対して数々の洞察を提供してきた。
まず、ブラックホールのエントロピーに関して、超ひも理論の著名な成功の一つはストロミンガー=ヴァファの計算である。彼らは1996年に、特定の5次元極値ブラックホール(タイプII弦理論中のDブレーンを用いて構成されるBPSブラックホール)のミクロ状態を数え上げ、その状態数の対数がベケンシュタイン=ホーキングのエントロピー$S_{\text{BH}} = \frac{A}{4G}$(事象の地平面積$A$に比例)に一致することを示した。これはブラックホールの熱力学的エントロピーの統計力学的起源を初めて具体的に説明したもので、超ひも理論が量子重力理論として有効である強力な裏付けとなった。この成果以降、他の様々な極限ブラックホール(4次元極値Reissner–Nordströmブラックホールなど)でも類似の微視的エントロピー計算が行われ、超重力解とDブレーン系の対応を用いてエントロピー一致が次々と確認された。
さらに近年では、より一般的なブラックホールに対するマイクロ状態の構成が進展している。2024年にはバラシュブラマニアン (ペンシルベニア大学)らによって、シュワルツシルトブラックホールのような非極値ブラックホールに対しても無数の量子状態(マイクロ状態)が存在し、それらがブラックホールのエントロピーに相当するヒルベルト空間の次元($\exp(S_{\text{BH}})$に比例)を生成することが示された。この研究では、崩壊する薄殻状の物質で記述されるブラックホール内部の半古典的解に対し、量子力学的ワームホール効果を考慮することでマイクロ状態同士にごく小さい重なり(オーバーラップ)が生じることを発見した。その結果、得られる状態空間の次元がベケンシュタイン=ホーキングエントロピー$S_{\text{BH}}$で与えられることを示し、一般的なブラックホールの統計的エントロピー起源を説明している。このように超ひも理論および関連する量子重力の手法によって、ブラックホールエントロピーの微視的起源が着実に解明されつつある。
一方、ブラックホールの情報問題(情報パラドックス)も、超ひも理論の枠組みやホログラフィック原理を通じて大きな進展を見せている。情報パラドックスとは、ホーキング放射によってブラックホールが完全に蒸発した場合に初期情報が失われてしまうというパラドックスである。量子力学のユニタリ性に反するこの問題は1970年代以来の難問であったが、近年、AdS/CFT対応を用いた理論計算によってこのパラドックスが解消される可能性が示された。鍵となる概念はペイジ曲線 (Page curve)とアイランド (island)である。
ペイジ曲線とは、ユニタリな蒸発では放射エントロピーが時間とともに増加した後に減少しゼロに戻るという時間変化曲線であり、情報が最終的に放射に現れること(情報保存)を示す。2020年前後の研究で、AdSブラックホールとバルク上の量子場を考えたホログラフィックな設定において、量子極端面(QES)の貢献を考慮するとペイジ曲線が再現できることが発見された。具体的には、蒸発するブラックホールに対して島領域 (island)と呼ばれるブラックホール内部の有効領域を仮定し、外部の放射エントロピー計算にその寄与を加えると、当初ホーキングが得た単調増加するエントロピー曲線が折れ曲がり、ある時点(ペイジ時)を境に減少に転じる(ペイジ曲線)ことが示されたのだ。この結果は「ホーキング放射にはブラックホール内部の情報が含まれている」ことの強い証拠と解釈でき、長年の情報パラドックスに解決への道筋を与えるものとして大きな注目を集めた。現在では、「ブラックホールから情報は失われず、最終的に放射に現れる」と信じられており、ペイジ曲線を導出することが情報問題の解決と同義とさえ見做されている。
このブラックホール情報問題の研究には、超ひも理論と密接に関連したホログラフィーや量子情報的アプローチが駆使されている。例えばAMPSによるファイアウォール提案(2012年)以降、ブラックホール内部の量子状態を巡る議論が活発化し、エラー訂正符号とAdS/CFTの関連(ブラックホール内外の量子相関が量子エラー訂正的に符号化されているという見方)や、ER=EPR提案(2013年、Einstein–Rosenブリッジと量子もつれの同一視)など、新たなパラダイムが提案された。特に、2019年にペニントンらおよびアルメイリらの独立した研究が示した島の効果とペイジ曲線の再現 は決定的であり、これを受けてホーキング自身も晩年には「ブラックホール情報は放射に含まれる」と認める方向に転じた。
ブラックホールと量子情報の新たな関係性も提案されている。量子複雑性 (quantum complexity)の物理法則への組み込みとして、ブラックホール内部の時空体積の増大が境界CFT上の量子状態の複雑性の増大に対応するという「複雑性=体積 (CV)・複雑性=作用 (CA)」予想が唱えられ、ブラックホールの熱力学第二法則に類似した複雑性第二法則が成立する可能性も議論された。実際、2023年にはブラックホール内部では熱力学的なエントロピー増大則に加えて量子状態の複雑性が単調増大する「量子複雑性の第二法則」が成り立つとのパラドックスが指摘され 、ブラックホール研究における新たな視点として注目されている。
さらに、理論研究のみならず量子コンピュータを用いたホログラフィック実験も開始されている。例えば2022年末には、Googleの量子プロセッサ上でSYK模型(黒穴とホログラフィックに対応する簡潔な模型)の量子回路を実装し、対応するAdS空間上のホログラフィックワームホールを再現するという世界初の試みが報告された。これは量子テレポーテーション実験の形で「物理的な時空の虫洞」をエミュレートしたものであり、空間が量子情報から現れるというホログラフィーの考え方を実証する一歩として話題を呼んだ。このように、ブラックホールをめぐる情報問題の研究はホログラフィーと量子情報を融合した新局面を迎えており、超ひも理論の思想が量子情報科学とも結びついていることを示す好例となっている。
コンパクト化とサイレンスケールの最新技術
超ひも理論やM理論では、時空の高次元(10次元や11次元)の余剰次元を現実の4次元に折り畳む「コンパクト化」が必要不可欠である。コンパクト化によって初めて4次元の有効理論が得られ、そこに標準模型の素粒子や宇宙項(インフレーションを含む宇宙論)を実現することが目標となる。1990年代以降、カラビ–ヤウ多様体上のコンパクト化やDブレーン・フラックス(場の強度)の導入によるモジュライ安定化の手法が発達し、$10^{500}$とも言われる膨大な真空の存在可能性(ランドスケープ問題)が議論されてきた。しかし近年、こうした伝統的枠組みに対して再考を迫る「スワンプランド」のプログラムが台頭し、新たな観点でコンパクト化の制約条件や低エネルギー理論の特徴が研究されている。
まず、21世紀初頭に確立したコンパクト化の技術について概観する。2003年にスタンフォード大学のカチューらは、タイプIIB弦理論において3-フォームフラックスと非摂動効果を導入することでカラビ–ヤウの形状モジュライとディラトンを安定化し、さらに反ブレーンの効果でメタ安定なド・ジッター真空(正の宇宙項を持つ真空)を構築するKKLTシナリオを提案した。これにより、長らく問題だった「モジュライが勝手に動いてしまう」という課題が克服され、正の宇宙項を持つ真空が初めて具体的に得られたと報告された。しかしKKLTシナリオには「反ブレーンの取り扱い」や「10次元での整合性」の問題が残り、その後の精査によって議論が巻き起こった。また2005年にはケンブリッジ大学のS.アッシュケンらにより、ボリュームの大きいカラビ–ヤウと$g_s$の小さな領域で全てのモジュライを安定化するラージボリュームシナリオ (LVS)が提案され、別の形でメタ安定真空を得る道が示された。現在でもKKLTやLVSは弦論的宇宙論の基礎として研究が続いており、暗黒エネルギーの起源やインフレーション模型の構築に応用されている。
しかし近年、こうしたメタ安定ド・ジッター真空の存在に対し懐疑的な見方も強まっている。ハーバード大学のヴァファらは、弦理論から導出できる有効理論は強い制約を満たす必要があるとするスワンプランド仮説を提唱し、具体的に「脱Sitter仮説」(真のド・ジッター真空は存在しない)や弱い重力仮説(あらゆる低エネルギー理論には重力より弱い力を媒介する粒子が存在する)などを提案した。スワンプランドとは「沼地」の意で、弦理論のランドスケープ(膨大な真空の集合)の周辺には、見かけ上は自己無撞着に見えても実際には究極の理論(量子重力)に埋め込めない有効理論が沼地のように広がっている、という比喩で語られる。スワンプランド・プログラムでは数多くの経験則的条件が提案されており(距離予想、不変量予想、無GLOBAL対称性仮説など)、これらがコンパクト化のシナリオに強い制約を課す可能性が研究されている。例えば脱Sitter仮説が正しければKKLTやLVSで想定されるような長寿命のdS真空は原理的に存在できず、宇宙定数の起源は動的(例えば加速膨張は偽の真空ではなく減少するポテンシャルで説明される)でなければならない。この問題は観測的宇宙論とも関わるため、弦理論コミュニティのみならず宇宙論コミュニティからも関心を集めている。
また、最近特に注目される話題として「スケール分離 (scale separation)」の問題がある。通常、余剰次元のコンパクト化によって基礎プランクスケールとKKモードの質量スケールの分離が必要だが(内部空間が小さく外部空間が大きいという階層)、弦理論由来のAdS真空でこのパラメトリックなスケール分離が可能か否かが議論されている。2000年代に提唱されたIIA型弦理論のDGKTコンパクト化では、フラックス付きカラビ–ヤウとOプレーンからなるAdS$_4$真空でパラメトリックにKKスケールとAdSスケールを分離できると報告された。しかしこの解は内部のOプレーンを一様にスメア(平均化)する近似に基づいており、近年になって「真に10次元の解を満たしていないのではないか」という批判が提起された。実際、DGKTシナリオをM理論に持ち上げようとすると特異な挙動が出現し、ソース(Oプレーン)の局所化によって解が存在しなくなる可能性が指摘されている。この問題は前述のスワンプランド仮説(特にAdS距離予想)とも関係し、スケール分離を持つAdS真空は量子重力に許されないという予想も唱えられている。現在、タイプIIA/Bや11次元超重力における様々なフラックス真空で、このスメアリング近似を超えた真の解(局所化解)があるかが精査されており、コンパクト化の安定性・一貫性条件を再評価する動きが活発になっている。この研究の目的は、「低次元有効理論で一見良さそうに見える真空が、本当に高次元理論の方程式を満たすのか」を検証することであり、これは弦理論のコンパクト化が単なるフィクションではなく一貫した解であることを保証するために不可欠である。
総じて、コンパクト化の最新技術と研究動向は、真空解の存在条件と有効理論の制限に焦点が移っていると言える。KKLTやLVSのような古典的手法に基づく真空構築は未だ有力であるものの、それらを覆すかもしれないスワンプランド仮説や、未解決の10次元整合性の問題が浮上しつつある。これに対し、近年はいわゆる「フラックスランドスケープ」の網羅的探索(AIや機械学習も導入した多数の真空探索)や、凸プログラミングを用いたCFTブートストラップによる双対AdS背景の探索など、新手法も模索されている。また、代表的な研究者としてはケンブリッジ大学・ICTPのクエヴェドやコーネル大学のマカリスターらがモジュライ安定化のレビューを書き 、スワンプランド仮説はヴァファ(ハーバード大)やOoguri(カブリIPMU/Caltech)らが精力的に提唱・発展させている。今後の目標は、観測事実(宇宙定数やインフレーション)と両立する整合的な真空を得られるか、そしてそれが弦理論のランドスケープ内に存在するのか否かを明らかにすることであり、これは超ひも理論の「現実への橋渡し」という意味でも極めて重要な研究課題である。
非可換幾何との関連
超ひも理論と非可換幾何学の関係も、2000年前後から興味深い展開を見せてきた。非可換幾何学とは空間座標同士が交換しない(非可換)ような一般化された幾何を扱う数学分野であり、物理学ではプランクスケールで時空座標が曖昧になる可能性を記述する枠組みとして着目されてきた。
弦理論では、特に開弦の終端がDブレーン上にある系において非可換座標が自然に現れることが知られている。1999年、セイベルグとウィッテンは背景に一定のB$,$フィールド(2階の反対称テンソル場)が存在する場合に、開弦の終端が張るDブレーン上の座標が一般座標ではなく非可換座標として振る舞うことを指摘した。具体的には、ある極限(低エネルギー有効理論の極限)において、開弦のダイナミクスが通常のYang-Mills理論ではなく非可換空間上のゲージ理論で記述できることが示された。これはひもの振動モードが背景B場との相互作用により終端の位置に不確定性を与え、結果としてエンドポイント座標が非可換演算子になるという物理的状況を反映している。このセイベルグ–ウィッテンの発見は、弦理論のある極限で現れる有効理論が非可換幾何学的構造を帯びることを明確に示したものであり、大きな反響を呼んだ。
この結果の重要な含意は、空間の幾何自体がエネルギースケールによって変容し得るという点である。すなわち、プランクスケールや弦スケールでは空間が滑らかな多様体ではなく、座標演算子$\hat{x}^i$同士が$,\hat{x}^i,\hat{x}^j=i\Theta^{ij}$のような非可換関係式を満たす「量子空間」となる可能性があるのだ。超ひも理論ではこのような非可換座標の現れ方は整合的であり、むしろDブレーン上の開弦終端に付随するU(1)ゲージ場の有効作用(ダイレク・ボルン・インフェルト作用)が非可換ゲージ理論と等価であることまで示された。このセイベルグ–ウィッテン写像と呼ばれる対応により、通常の可換な場の変数と非可換な場の変数の間に明示的な写像が存在することも分かった。 さらに、非可換幾何学の枠組みはM理論や行列模型とも深く関係する。BFSS行列模型では時空の座標が行列となっており、これは一種の非可換座標系とみなせる。例えば行列模型中の二次元膜解(非対角成分を持つ行列)は、対応するM2ブレーンが重ね合わさった結果として「フuzzy球」(座標が非可換な球面)という非可換幾何になることが知られている。つまり、複数のブレーンが存在すると空間座標が行列で記述され、それが幾何学的には非可換空間を生成するのだ。このような観点から、行列模型(M理論)やDブレーン系(弦理論)では非可換幾何が自然に現れるため、時空の最短距離スケールで幾何の概念が変容する可能性が具現化されていると言える。
数学者アラン・コンヌによる非可換幾何学プログラム(スペクトルトリプルによる標準模型の再構成)とも、弦理論には間接的なつながりがある。コンヌのアプローチでは時空を可換な代数(関数の代数)でなく非可換な演算子代数で記述し、その上で距離や計量を再定義する。物理的には、弦理論の枠内で得られた非可換ゲージ理論(上記のDブレーン上の理論など)がコンヌ的な非可換幾何の実例を提供している。例えば、非可換トーラス上のゲージ理論はT双対を施したIIA弦理論の背景に対応し、トーラスコンパクト化におけるモリタ等価性などの数学的概念も弦理論を通じて物理文脈で解釈された。このように、弦理論は非可換幾何に具体例と物理的裏付けを与える場として機能し、逆に非可換幾何学は弦理論の数理構造を理解する上で有用な言語となっている。
現在の研究動向としては、非可換幾何学はホログラフィーや場の理論において新たな対称性や相構造を示す場として調査されている。例えば、非可換ゲージ理論のホログラフィック双対として重力側にB場を持つ解(非可換ブラックブレーン解など)が解析され、プラズマの異常輸送係数への影響が研究されたり 、あるいは弦理論のT双対性を非可換幾何で記述する二重フィールド理論の枠組みが発展したりしている。また、近年は量子重力の文脈で空間の非可換性がエントロピーや情報に与える効果も関心を集めている。ブラックホールの「ソフトヘア」(無限多の低エネルギー粒子状態)による情報保存の提案なども広義には非可換(無限自由度の)構造を活用したものであり、非可換幾何的発想が量子重力の情報問題解決に寄与する可能性も模索されている。
以上のように、非可換幾何との関連において超ひも理論は先駆的な役割を果たしてきた。セイベルグとウィッテンによる発見以来、非可換幾何学はもはや純粋数学に留まらず弦理論の具体的現象として現れることが理解された。物理と数学の対話という観点でも、弦理論は非可換幾何に具体例を提供し、逆に非可換幾何は弦理論の射影空間やトポロジカルな側面(K理論によるDブレーン分類など)を理解する上で不可欠なフレームワークとなっている。
最近の注目すべき発見・理論的進展
最後に、上記サブトピック以外も含めた近年の注目すべき発見や理論的進展をいくつか取り上げる。超ひも理論は依然として発展途上の理論であり、新しいアイデアや他分野との融合によってダイナミックに変化している。
• 量子情報との融合:近年もっとも顕著な潮流の一つが、量子情報理論との結びつきである。前述のとおりホログラフィーとエンタングルメントの関係や、ブラックホール情報問題への量子情報的アプローチは盛んであり、「It from Qubit(量子ビットからの実在)」というスローガンの下、Simons財団の研究プロジェクトも組織された。量子誤り訂正符号の観点からAdS/CFTを理解したり、量子複雑性や量子計算と時空の関係を探る試みは今や盛んに行われ、重力と量子情報の統一像が模索されている。こうした研究は重力理論に情報的な観点を持ち込み、新たな保存則や原理(例えば前述の複雑性第二法則)を提案するに至っている。
• Sachdev–Ye–Kitaev (SYK)模型と低次元重力:SYK模型はランダムな結合を持つ0+1次元の強相関模型だが、低エネルギー挙動が2次元のJT重力(Jackiw-Teitelboim重力)と一致し、AdS$_2$/CFT$_1$ホログラフィーの具体例を提供することがわかった。2015年頃にこの対応が発見されて以来、SYK模型は高エネルギー物理から物性まで幅広く研究されている。SYK模型はブラックホールの量子カオスや残余エントロピーなどの性質を再現しうる「玩具模型」として重要である。この模型を通じて、ホログラフィー原理が「時空のない」(0次元の)量子系にも適用できること、ブラックホールの熱化とエンタングルメントの動的振る舞いが具体的に計算できることが示され、大きなインパクトを与えた。今後SYK模型から学んだ洞察を高次元の現実的な重力へ応用する試み(例えば高温超伝導のホログラフィック記述や、量子カオスと素粒子散乱振幅の関係など)も進んでいる。
• 摂動論的双対性・散乱振幅の進展:超対称性が高い場合の散乱振幅計算において、弦理論由来の双対性が新たな計算法につながっている。$\mathcal{N}=4$超対称Yang-Mills理論と弱–強双対なタイプIIB弦理論の関係から、前者の散乱振幅に隠れた対称性(双対相対性など)があることが発見され、振幅の革命とも呼ばれる成果が2000年代後半に得られた。ウィッテンのツイスター弦理論提案や、アルカニハメドらによるアンプリチュヘドロンの発見は、弦理論的視点が平坦時空の散乱振幅にも革新をもたらした例である。また、近年では重力とゲージ理論の二重コピー関係が理解され、ゲージ理論の計算を転用して重力波(ブラックホール連星合体)の波形計算を高次精度で行うなど、弦理論の知見が重力物理計算に応用される例も現れている。
• 実験的検証への挑戦:弦理論は直接の実験検証が難しいものの、間接的な兆候を探す試みが続けられている。一つは宇宙論への予言で、インフレーション模型や原始重力波、宇宙弦(コズミックストリング)といった天文現象を通じて弦理論の痕跡を探す研究である。例えば、ストリング由来の宇宙ひもはCMBや重力レンズ歪みに特徴的なシグネチャを残す可能性があると指摘され、一時期観測データ中の兆候が報告されたこともあった(ただしその主張は統計的有意性が低く、確定的ではない)。またLHCなど粒子実験では低エネルギー超対称性粒子の探索が続いたが、残念ながら質量1TeV程度までの超対称粒子は発見されておらず、弱いスケールでの超対称性の兆候は見つかっていない。このことは弦理論のブレーンワールド模型や超対称模型に制約を与えている。一方、重力波天文学の発展により、プランクスケールの修正重力効果(ブラックホールのリングダウンでの高調波成分やエコーなど)を将来検知できる可能性も議論されている。今後、より高感度の観測によって、もしもブラックホールに微細構造(例えばホログラフィック原理に基づく量子構造)があれば検知できるかもしれず、理論家と実験家の協働が進んでいる。
以上、超ひも理論の主要トピックについて最新の研究動向を概観した。AdS/CFT対応の深化と量子情報との融合、M理論の探究、ブラックホール物理への応用、コンパクト化とスワンプランドの議論、非可換幾何の台頭、そしてそれら以外の新展開など、超ひも理論は依然として理論物理のフロンティアであり続けている。特に近年は他分野(量子情報、数理物理、宇宙論)とのインターフェースで新しい発見が生まれており、超ひも理論が「すべての理論の統一」という当初の夢にどこまで迫れるかは未定であるものの、その過程で生み出される概念や数学的手法が物理学全体に豊かな影響を及ぼしていることは疑いない。現時点では実験的確認には課題が残るものの、理論的にはブラックホールや時空の量子構造に迫る有力なアプローチを提供しており、研究者コミュニティは引き続きこの壮大な理論的枠組みに挑み続けている。超ひも理論が今後どのようなサプライズや技術的進歩をもたらすか、そして最終的に自然の基本法則の解明に如何に貢献し得るか、引き続き注目される。