詩・美術・哲学における形式の思想—マラルメから分析哲学まで
現代に至る西洋思想史の中で、芸術と哲学における「形式主義」の思想潮流は、詩・美術・論理学といった領域を横断して展開した。本稿では、その代表例として19世紀末の象徴派詩人ステファヌ・マラルメの詩的形式主義、20世紀中頃のマックス・ビルを中心とした具体美術(コンクレティズム)の造形思想、そしてウィーン学派・初期ウィトゲンシュタインら分析哲学における形式言語論を取り上げ、それらの間に実際に認められる思想的・構造的影響関係を検討する。マラルメの革新的な詩の形式性が後続の芸術思想へ与えた影響、具体美術における数学的構成理念と視覚的論理の志向、そしてこれら芸術の動向と分析哲学(論理実証主義)の形式主義との共鳴点と相違点を考察することで、20世紀における形式主義的思考の横断的展開を明らかにしたい。
マラルメ『骰子一擲』の形式性と非意味性の革新
19世紀末のフランス象徴主義を代表する詩人ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842–1898)は、言語の純粋な形式性を追求し、伝統的な詩の枠組みを大きく転換させた。その集大成といえる長篇詩『骰子一擲(さいころ一擲)』(原題: Un coup de dés jamais n’abolira le hasard, 1897年発表)は、内容的な筋や明示的意味よりも詩の視覚的・空間的構成そのものに重きを置いた革新的作品である。この詩では語句が紙面上に不規則に配置され、ページごとの余白(空白)と異なる書体・文字サイズの組み合わせによって、読者に独特のリズムと視覚的体験をもたらす。例えば、テキストは20ページにわたり複数の書体で散りばめられ、見開き2ページを一つのパネルのように読ませる構成を採用している。行間の「余白構造」は詩の不可欠な要素となり、骰子が卓上を転がる様子や、読者がページを繰る行為そのものを視覚的に模倣する効果を生んでいる。文字通り「詩が一つの視覚的オブジェ」と化し、伝統的な線面的読解を超えた多層的な意味効果(あるいは意味の不確定性)を生み出した点で画期的であった。
マラルメはこのような形式そのものの革新を通じて、「詩とは何か」「言語とは何か」という根源的問いに挑んだと言えよう。彼の美学は、詩的言語を現実の事物や詩人の個人的感情を写し取る模写的・指示的な媒体とみなすことを拒み、言葉が自己完結的な象徴世界を形成しうると考える点に特徴がある。事実、マラルメ晩年の難解な諸作品(例えば「アンフォルムのソネット」や『骰子一擲』)では、詩の語が指示対象を持たず言葉そのものの連関を読者に提示する。彼は「あらゆるものは本という結末を得るためにこの世に存在する」(「世界のすべては、一本の書物に行き着くために存在する」)とも述べ、言葉の純粋な秩序の中に世界の本質を定着させようとするかのようだった。こうした姿勢は、ロマン主義的な主観表白から言語そのものの自己目的的な運動へと詩の役割を変革し、「意味そのものの不在(非意味性)」や「沈黙」をも詩的効果に取り込むものだった。マラルメ自身、「私は花と言う…それはすべての花束に欠けているもの」という有名な言葉で、詩において対象そのものではなくその不在によって読者の心象を喚起する意図を表明している。この「言葉の魔術」(ランボーの言うl’alchimie du verbe)によって、詩は現実を指示することをやめ自己言及的な遊戯となり、読解者の参与を要請するテクストへと変貌したのである。
『骰子一擲』の革新性は当時の文学界では理解されにくいものであったが、その後20世紀を通じて再評価が進み、多方面に影響を与えた。象徴主義詩の極北ともいうべきこの作品は、ポストモダン文学理論や脱構築の先駆と見なされ、ジャック・デリダらに深い示唆を与えた。また何より、詩の視覚的構成を重視するマラルメの手法は後の具体詩 (Concrete Poetry) の源流として顕著である。実際、1950年代にスイスの詩人オイゲン・ゴンブリンガーらが提唱した具体詩運動では、マラルメが自作のレイアウトを「コンステラシオン(星座)」と呼んだことに直接着想を得ている。ゴンブリンガーは自身の最初の具体詩集(1953年)に「コンステラシオン(星座)」と題し、マラルメ『骰子一擲』における語の配置からインスピレーションを受けたことを明言した。ページ上に散在する言葉の配置によって詩情を生み出すというマラルメの発想は、活字による造形芸術としての詩の可能性を拓き、20世紀中葉以降の視覚詩・具体詩のみならず、広義にはダダやシュルレアリスム的なタイポグラフィ実験にも先鞭を付けたと言える。マラルメの詩的形式主義は、このように文学の枠を超えて芸術全般の表現形式へと問題提起を行った点で、その影響力は計り知れない。
マックス・ビルと具体美術における数学的構成性
文学におけるマラルメの試みと並行して、20世紀美術の領域でも純粋な形式と言語を求める潮流が顕在化した。その代表が、具体美術(Konkret Kunst)である。具体美術は、オランダのデ・ステイル運動の影響下にあった美術家テオ・ファン・ドゥースブルフが1930年に唱えたArt Concret(具体芸術)宣言に端を発する理念で、第二次大戦後にスイスやドイツ、南米を中心に展開した抽象美術の一形態である。具体美術の思想的中心人物の一人がスイス人デザイナー・芸術家のマックス・ビル(Max Bill, 1908–1994)であった。ビルは具体美術運動を牽引し、1944年にはバーゼルで展覧会「Konkrete Kunst」を企画、理論面でも「具体芸術宣言」の発展に寄与した。
具体美術の理念は、端的に言えば「芸術をそれ自体として存在せしめる」ことであった。絵画や彫刻からあらゆる具象的・象徴的な要素を排し、形・色・素材といった純粋視覚要素のみで構成された自律的な造形を追求する。それは「人間や自然、神話や感情を一切参照しない」芸術であり、「芸術作品はそれ自体が現実(リアリティ)である」との信念に基づく。具体美術の基本原則は次のようにまとめられる。
• 作品は自律的なオブジェである(Art is an autonomous object)
• 純粋な抽象性(pure abstraction): 幾何学形態による構成が重んじられ、外的隠喩は排除される。
• 数学的秩序こそ美である(Mathematical order is beauty)。
このように数学的・論理的構成への信頼こそが具体美術の核であった。ビル自身、「われわれの時代の造形芸術における数学的思考様式」と題する論考(1949年)で具体美術の構造原理を詳述し、戦後の混乱から社会を立て直すには造形言語においても精確さと普遍性が必要だと説いている。彼は「数学的厳密さ、合理的明晰さ、そして普遍的な言語」を芸術に持ち込むべきだと主張し 、実際その制作物は感情的表現ではなく図面や建築モデルのような明晰さを湛えていた。ビルの具体美術では、幾何学的形態(例えば正方形や円)の比率・反復・対称といった視覚的論理が作品のメッセージそのものとなる。「構造こそがメッセージである(It’s art with no distractions. The structure is the message.)」という言葉が示す通り、鑑賞者は色面と形態の構成美のみを読み取ることが求められる。ビルらチューリヒ具体派の作品(リヒャルト・ローヘ、カミーユ・グレザー等を含む)は、まさに「図形による言語」とも呼ぶべき厳密な造形を実現し、感覚や感情への直接的アピールを抑制して視覚的思考を促すものとなった。
また具体美術は、対象の抽象(Abstract)ではなく作品内における具体的現実(Concrete reality)を創造することを標榜した。この点で、自然を模倣し象徴する伝統的美術とも、シュルレアリスムのように潜在意識を表出する表現主義的アヴァンギャルドとも一線を画す。具体美術の作品世界は、現実世界から切り離された独立自存の秩序を持つと同時に、誰の目にも論理法則が感得できるユニバーサルな明快さを目指した。ビルはこれを「視覚芸術における国際様式」とみなし、自身が設立に関わったウルム造形大学(HfG Ulm)でも、バウハウスの流れを汲みつつデザインと言語・数学・科学の統合的教育を推進した。興味深いのは、ビルの下で働いた詩人オイゲン・ゴンブリンガー(前述の具体詩の提唱者)が具体美術と具体詩の橋渡しをしたことである。ゴンブリンガーは1953年よりウルム造形大学でマックス・ビルの秘書を務め 、具体美術の理念を文字による詩作へ応用する試みを行った。彼の代表作「静寂 (Silencio)」 は、「静寂(silencio)」という語を14回グリッド状に配列して紙面中央に大きな空白を設けた作品であるが、その余白こそが「静寂」を表現する造形要素となっている。このように具体詩は具体美術の原理を言語空間で展開したものであり、美術と文学の領野をまたいだ形式主義的思潮の一例である。具体美術と具体詩は共にポスト第二次大戦の国際主義・合理主義の雰囲気の中で育まれ、戦禍を経た社会に普遍的で秩序立った美を提供することで人々に新たな希望や調和をもたらそうとする理念を共有していた。
ウィーン学派・初期ウィトゲンシュタインの形式言語論
一方、美術と詩とは別の角度から「意味」や「表現」の問題に形式的アプローチを試みたのが、20世紀前半の分析哲学(論理実証主義)である。中でも1920年代に活躍したウィーン学派(ウィーン・サークル)は、哲学を科学的に再構築すべく言語の論理的分析を徹底したグループとして知られる。ウィーン学派の思想的旗手には、ルドルフ・カルナップやモーリッツ・シュリックらがいたが、彼らに大きな影響を与えたのがオーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであった。ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考(トラクタトゥス)』(1921年)は、「世界」と「言語」の対応関係を厳密に論じ、「語り得ぬもの」については沈黙せねばならないと結論づけた画期的な論考である。この初期ウィトゲンシュタインの形式言語論とウィーン学派の論理実証主義は、芸術領域の形式主義と直接の交流こそなかったものの、「意味の排除と形式の重視」という点で通底する精神を持っていた。
ウィーン学派の基本理念は、簡潔に言えば「形而上学の排除」であった。彼らは経験的に検証不可能な命題(伝統形而上学の命題や神秘主義的主張)は認識上無意味(meaningless)であり、哲学は論理分析によって科学的知識の明晰化に徹するべきだとした。カルナップの有名な論文「形而上学の排撃」(1932年)では、形而上学的命題は認識を拡大する命題ではなく感情的態度の表現にすぎないと論じられる。カルナップによれば、形而上学者が深遠に見える言葉で表そうとする人生観や世界態度(Lebensgefühl)は、本来芸術作品や詩によって表現されるべきものであり、論理的な主張の形式をとって述べられるときそれは錯誤(カテゴリー錯誤)的行為となってしまう。彼は端的に「形而上学者とは音楽的才能のない音楽家である」と述べ、「科学という理性的領域と、芸術という表現的領域を混同するところに形而上学の誤りがある」と喝破した。この論調は、詩的・感性的な表現を認めつつも、それは理性の言語(論理言語)の外側に厳格に位置付けるという立場を示している。論理実証主義者たちはウィトゲンシュタインの『論考』から示唆を受けつつ(時に誤解もしつつ)、「言語の論理構造のみを哲学の対象とし、その他の曖昧な表現はすべて沈黙せよ」という態度を極限まで推し進めたのである。ウィーン学派にあって、詩や音楽は理論的意味を持たないゆえに哲学の射程外と看做されたが、それは同時に詩や音楽のような形式的表現に対して暗黙の一目置く姿勢でもあった。実際、カルナップはニーチェが『ツァラトゥストラ』を哲学論文ではなく詩的作品として著したことを評価し、彼のような優れた感性の持ち主は誤って形而上学的論述には走らないと述べている。
ウィトゲンシュタイン自身は、ウィーン学派の熱狂には距離を置いたが、彼らとの対話の中で詩や音楽が果たす役割について示唆的な行動をとっている。例えば、あるエピソードではウィトゲンシュタインがウィーン学派の前でタゴールの詩を朗読し、「論理では語り得ない最も大切な事柄は、このような詩によって示される」と示唆したと伝えられる。これは、形式的に「無意味」とされる詩的言語が人間にとって不可欠の意味領域を担うという逆説を示したものと言えよう。ウィトゲンシュタインの『論考』終結部にある「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題は、決して詩や形而上の完全否定ではなく、むしろ言葉で語れないものを指し示す沈黙(あるいは形式)そのものの価値を認めた言葉であった。現代フランスの哲学者アラン・バディウは、『論考』のスタイルを評して「まるでランボーの『地獄の季節』をマラルメの『骰子一擲』の言語で書き直したかのようだ」と言っている。この比喩は、ウィトゲンシュタインの論理的テキストが一種の詩的・形式的作品としても読めることを示唆しており、同時にマラルメの詩が孕む論理性・形式性をも示唆する興味深い指摘である。バディウの言にもあるように、ウィトゲンシュタインとマラルメは一見かけ離れているようでいて、その言語に対する実験精神と内容より形式を重んじる態度において精神的な共振を見せているのである。
影響関係と知的基盤の検証
以上見てきたように、マラルメの詩的形式主義、ビルの具体美術、ウィーン学派の分析哲学は、それぞれ異なる分野に属しつつも「内容から形式へ」「意味から構造へ」という20世紀的転回において軌を一にする部分があった。では、具体的な影響関係という観点からはどう評価できるだろうか。
まずマラルメから具体美術への影響については、直接的というより文学から美術への波及という形で間接的に認められる。マラルメ自身は1898年に没しており、具体美術勃興の時代に直接関与することはなかったが、彼の革新的詩法は象徴主義以降の詩人・芸術家に少なからず影響を与えた。殊に1950年代の具体詩人たちはマラルメを先駆者として位置づけ、詩と絵画の融合を推し進めた。ゴンブリンガーがマックス・ビルと協働し得たこと自体、マラルメ的発想がウルムの造形教育に受け入れられた証左とも言える。また、広く見ればマラルメの「ページ上の言葉の配置による詩」という発想は、ダダや未来派のタイポグラフィ実験、さらには現代のヴィジュアル・アート(コンセプチュアル・アートにおけるテキスト作品など)にも系譜的につながっている。マラルメの詩は白紙の中に言葉を散らすことで読者に解釈の余地を与える開かれた作品となったが、この姿勢は具体美術の「作品は鑑賞者に純粋な形態を提示し、その秩序を感じ取らせる」という目標と共鳴するものがある。実際、具体美術と具体詩の融合は当時の国際的な潮流でもあり、言語と造形の統合によって国境を越えた普遍的コミュニケーションを目指すという理念も共有されていた。したがって、美術史的観点からはマラルメ → (象徴主義・シュルレアリスムを経由して)→ 具体詩 → 具体美術という影響の流れを描くことが可能であり、一定の思想的継承が認められる。
次に美術と哲学(分析哲学)との影響関係であるが、こちらは直接的な相互言及はほとんど見られないのが実情である。ウィーン学派の論者たちは、美術理論や芸術家と積極的交流を持ったわけではなく、むしろ芸術は科学的認識と切り離された私的・情緒的領域とみなされていた。カルナップらの著作にマラルメや具体美術への言及は皆無であり、逆にマラルメやビルも論理実証主義に直接触れた形跡はない。しかし興味深いのは、戦後ドイツにおいて論理実証主義の影響下に美学理論を発展させた人物がいたことである。哲学者マックス・ベンス(Max Bense, 1910–1990)は、ウルム造形大学などで情報理論や論理学を応用した「情報美学」を提唱し、具体詩や具体美術の理論化に寄与した。ベンスはカルナップらの科学主義に共鳴しつつ、芸術作品もまた統計的・情報論的に分析可能だと考えた。彼の試みは必ずしも主流にはならなかったが、これは分析哲学と具体芸術を接続しようとした稀有な例と言えるだろう。またウィトゲンシュタイン自身、建築や音楽への関心が深く、彼の設計した屋敷(1920年代後半にウィーンに建てられたウィトゲンシュタイン・ハウス)は装飾を極限まで削ぎ落した機能美で知られる。これは同時期のモダニズム建築(アドルフ・ロースらの「装飾と罪悪」論)と通底する精神であり、「無駄な意味づけを排し形式の純粋性を追求する」という時代精神が哲学者と建築家の間にも共有されていたことを示唆する。
以上の検討から、実証的に確認できる直接の影響関係は限られているものの、マラルメ、具体美術、分析哲学は20世紀における形式主義的思考の横断的展開という大きな潮流の下で互いに呼応しあっていたと結論づけられる。マラルメの詩は言語表現の極北で意味の沈黙と形式の饗宴を実現し、具体美術は視覚芸術において対象なき秩序と論理の美を追求し、分析哲学は論理言語によって非意味的なものを峻別する科学的世界観を構築した。興味深いのは、それぞれの領域が一見逆方向から「非意味の意味」を探究していたことである。論理実証主義は非意味的命題を切り捨てたが、ウィトゲンシュタインは沈黙の中に価値を見出し、マラルメは意味の不在から新たな詩美を創造した。具体美術もまた直接的なメッセージを拒み、純粋構成の中に観者自身の思考を誘発する場を作り出した。
20世紀の西洋思想史は、このように各分野での形式への偏重と内容からの距離取りという動きを経験した。それは科学技術の発展や世界大戦の経験によって、普遍妥当な形式や構造を求める切実さが共有された結果でもあった。その中で生まれたマラルメの詩的形式主義、マックス・ビルの具体美術、ウィーン学派の分析哲学は、互いに直接言及し合うことは少なかったものの、「形式による思考」の可能性をそれぞれの方法で極限まで追求した点で同時代的な共鳴関係にあったと言えるだろう。本稿の考察を通じて明らかになったのは、形式主義的思考は単なる芸術様式や哲学理論の一傾向に留まらず、20世紀精神全体を横断する知的運動であったということである。そしてこの運動のなかで、詩人と芸術家と哲学者がそれぞれのフィールドから人間と世界を捉え直そうと試みた軌跡が浮かび上がってくるのである。
参考文献・出典(本文中に示したとおり):
• ステファヌ・マラルメ『骰子一擲』原文及び関連評論【3】【32】
• 具体美術・具体詩に関する文献【5】【6】【16】
• ウィーン学派・分析哲学に関する文献【23】【24】
• その他、バディウらによる比較評論【13】など