詩とコンピューター:デジタル詩の歴史的展開と諸潮流
はじめに
詩とコンピューターの関係は、20世紀後半から現在に至るまでダイナミックに発展してきた。デジタル技術の登場によって、詩人たちは新たな創作手法や表現媒体を獲得し、詩の概念自体を拡張してきた。「デジタル・ポエトリー (digital poetry) は、1950年代後半にコンピューターで実験を始めた詩人たちによって立ち上げられた文学・視覚・音響芸術の新たなジャンルである」と指摘される通り、コンピューター技術の進歩に歩調を合わせて詩の在り方も変革してきた。本稿では詩とコンピューターが交差する様々なムーブメントや技法を時系列に沿って概観する。具体詩から電子文学、AIポエトリーに至るまで、主要なキーワードを年代順に配置し、それぞれの歴史的展開、相互の影響関係、代表的な作品や詩人・アーティストについて論じる。
https://gyazo.com/554ef60bf0c8f839db10522fd4d34826
@horse_ebooks – Twitterボット詩 (2009〜2013)
偶発的断片が「グリッチ・ポエトリー」として評価された。
1950–60年代:具体詩と計算機詩の黎明期
第二次大戦後、言語表現を革新しようとする詩人・芸術家たちは、コンピューターの出現以前から既に詩の実験的手法を模索していた。その代表例が具体詩(Concrete Poetry)である。具体詩は1950年代にブラジルのノイグアンドレス派(Noigandres)やスイスのオイゲン・ゴンブリンガーらによって推進された詩形で、言葉の意味内容よりも文字・単語のタイポグラフィ的配置や視覚効果を重視する。例えばブラジルのアウグスト・デ・カンポスらは言葉を幾何学的に配置した詩作を行い、「詩はそれ自体が現実であるべき」と宣言した。こうした具体詩の試みは、詩を線形な意味伝達から解放し、ページ上の視覚芸術へと近づけた点で画期的だった。この動きは欧米にも波及し、日本においても「具体詩」という名称で紹介され視覚詩の一形態として受容された。
具体詩と並行して、ジェネラティブ・ポエトリー(Generative Poetry)、すなわち計算機による詩の自動生成の可能性も模索され始める。世界初のコンピューター詩とされるのは、ドイツの数学者テオ・ルッツが1959年に制作した「確率的テキスト (Stochastische Texte)」である。ルッツは恩師マックス・ベンスの指導の下、カフカの小説『城』から抽出した単語をプログラムに供給し、ランダムな組み合わせで文を生成する試みを行った。50行程度のシンプルなコードで書かれたこのプログラムは、理論上400万以上もの文を産み出せるものであり、数学的・論理的構造によって言語を操作する嚆矢となった。これは、偶然性や計算手順を取り入れた詩作という新領域を開拓し、後のコンピューター詩の出発点となった。
同じ頃フランスでは、レーモン・クノーらが結成した実験文学集団「ウリポ (Oulipo)」が、数学的制約を用いた創作(制約文学)を追求していた。クノーの『百兆の詩集』(1961年)は、10編のソネットの行を組み合わせることで百京(10の14乗)通りの詩を生み出せる仕組みの作品である。これは紙の上での組合せ生成だが、その発想は明らかにアルゴリズム的であり、コンピューターなしでも「ジェネラティブ」な文学が可能であることを示した。ウリポの制約詩やクノーの実験は、後にコンピューターを用いた自動生成詩に思想的な下地を与えた。
さらに1960年代には、詩や芸術を「指示書」によって実現するというインストラクション・アート(Instruction Art)の概念も登場した。フルクサス(Fluxus)系の芸術家、特に小野洋子(Yoko Ono)は『グレープフルーツ』(1964年)に代表される作品集で、「○○せよ」といった指示文(インストラクション)を書き、それを受け手が想像上または実際に実行することで作品が成立するという新手法を提示した。例えば《インストラクション・ペインティング》(1962年)では「キャンバスに風船を貼り付けなさい。風船が割れるまで絵を描きなさい」といった指示が作品となる。このように観客に行動を委ねるインストラクション・アートは、詩ではないが「言葉による命令」という点でプログラムに通じる発想を持つ。言葉を手順として扱うこのアプローチは、人間をコンピューターに見立てたようなものであり、コード詩的な感性の源流と位置付けることもできる。
以上のように、1950〜60年代は具体詩や制約詩によって詩の形態が刷新され、コンピューター詩の初歩的な実験が始まった時代である。詩を構成する要素を視覚的・数理的に再考するこれらの試みは、アナログな環境でありながら後のデジタル時代の詩的発明を予見させるものであった。詩とコンピューターの関係史は、この黎明期から既に幕を開けていたのである。
https://gyazo.com/898d7446b1add3f4dd6604493ec4d5bd
テオ・ルッツ (Theo Lutz) – 《Stochastische Texte》 (1959)
世界初の「コンピュータ詩」とされる作品。カフカの語彙をプログラムに供給し、確率的に文を生成した。
https://gyazo.com/68748f8f2233431cf0bcf5619354a4f5
レーモン・クノー (Raymond Queneau) – 『百兆の詩集』(Cent Mille Milliards de Poèmes, 1961)
Oulipoによる制約文学の代表例。コンピュータ以前にアルゴリズム的発想を提示。
https://gyazo.com/a3326b4dd9df0d3094b92f5465114f00
オイゲン・ゴンブリンガー / アウグスト・デ・カンポス – コンクリート・ポエトリーの展開
言葉の意味よりも配置・構造を重視し、視覚的詩の道を開いた。
1970–80年代:電子文学の萌芽とインタラクティブ表現の誕生
1970年代に入ると、コンピューターそのものの性能向上と普及に伴い、詩や物語を電子的に扱う具体的な試みが本格化する。まず注目すべきは、インタラクティブ・フィクション(Interactive Fiction)、すなわちテキストベースの対話型物語ゲームの出現である。代表例として、ウィル・クロウザーが開発し1976年に公開された《Colossal Cave Adventure》は、コンピューターに文章による指示を入力すると物語の進行や結果がテキストで返ってくる冒険ゲームで、史上初のインタラクティブ・フィクション作品と広く認識されている。プレイヤーは「洞窟を調べる」「ランプをとる」といった一〜二語のコマンドを入力し、コンピューターは状況描写や行動結果を逐次出力する。このように読者(プレイヤー)の入力によって物語が分岐・生成される形式は、それ以前の一方向的な紙の物語とは一線を画し、物語世界と読者がリアルタイムに対話するという新たな文学体験をもたらした。インタラクティブ・フィクションは1970年代後半から1980年代にかけて、『Zork』(1977年)など多くの作品が生まれ、ゲームと文学の境界領域を開拓していった。
1980年代になると、コンピューター上で非線形なテクストを扱うもう一つの重要な潮流としてハイパーテキスト文学が姿を現す。ハイパーテキストとは、ノード(テクスト断片)同士をリンクで結び、読者がリンクを辿ることでテクスト空間を縦横に移動できる仕組みである。概念自体は1965年にテッド・ネルソンが提唱していたが、パーソナルコンピューターの普及と共に具体的な作品が可能になった。アメリカの作家マイケル・ジョイスによる《afternoon, a story》(1987年発表、1990年イーストゲート社からディスク出版)は、最初期のハイパーテキスト・フィクション作品として知られる。ジョイスの作品は数百のテクスト断片が相互にリンクされており、読者のクリックする順序によって物語の展開が変化する。作者はこの作品を当時開発されたハイパーテキスト作成ソフト「ストーリースペース (Storyspace)」上で制作し、1987年の第一回ACMハイパーテキスト会議で発表した。『afternoon』は世界初の商業ハイパーフィクションとして注目され、伝統的な線形物語に対する「非線形・対話型」文学の可能性を示した。この成功以降、イーストゲート社は他のハイパーテキスト文学作品も出版し、ハイパーテキストは電子文学(electronic literature)の主要ジャンルとなった。
一方、詩の領域でもデジタル技術を取り入れた実験が始まっている。詩人の中にはコンピューター画面上で動く詩や、映像メディアを用いた詩に着手する者が現れた。ブラジル出身の芸術家エドゥアルド・カックはその先駆的存在である。カックは1983年にホロポエトリー(Holopoetry)と呼ばれる手法を発明した。ホログラム技術を用いて空間に浮かぶ文字・単語を作り出すもので、鑑賞者の視点を変えると異なる読書が可能になる三次元的・可変的な詩であった。例えばカックの初期ホロポエム《HOLO/OLHO (ホロ/オーリョ)》(1983)は、「HOLO」と「OLHO(ポルトガル語で“目”)」という語がホログラム空間で重畳し、見る角度により読める語が変わる仕掛けになっている。さらにカックはフランスのMinitelというネットーワークシステム上でアニメーション詩を制作するなど、デジタル通信技術を詩に応用した。彼の作品《Reabracadabra》(1985年)や《D/eu/s》(1986年)は、ブラジルで行われたオンラインアート展覧会に出展され、テレコミュニケーション詩の最初期例となった。こうした試みにより、詩は印刷媒体から離れてビデオ詩・映像詩やマルチメディア詩へと領域を拡張していく。実験的視覚詩人として知られるbpNichol(カナダ)はApple IIパソコン上で動くプログラム詩《First Screening》(1984年)を発表しており、これはアルファベット文字が画面上で絶えず位置を変えながら詩を形作るキネティック・ポエトリー(動的詩)の先駆けとなった。また1985年前後にはフランスの詩人集団LAIRE(後述のTransitoire Observableの前身)がプログラム駆動の詩を制作し始めており、電子詩(e-poetry)の草創期が訪れていた。
このように1970〜80年代は、インタラクティブ・フィクションやハイパーテキスト文学によって物語の読者参加性が実現され、加えてホログラムやコンピューター画面上で詩の可視性・動態性が追求された時代である。電子的環境を利用することで、詩と物語はそれまで不可能だった表現領域を獲得した。まだネットワークは黎明期であったが、一部の先鋭的な詩人や芸術家は電子媒体を積極的に取り込み、電子文学 (Electronic Literature)と呼ばれる新しい分野の胎動が感じられるようになった。
https://gyazo.com/3f609a0915175d3cde981decf15dfe72
ウィル・クロウザー (Will Crowther) – 《Colossal Cave Adventure》 (1976)
世界初のインタラクティブ・フィクション。
https://gyazo.com/56bd74ff8d8f77bca9d388686481ffe0
マイケル・ジョイス (Michael Joyce) – 《afternoon, a story》 (1987/1990)
最初期のハイパーテキスト文学作品。
https://gyazo.com/77465782f496b253710eeb0c43bcab2e
エドゥアルド・カック (Eduardo Kac) – 《HOLO/OLHO》(1983)、《Reabracadabra》(1985)
ホロポエトリー、テレマティック・ポエトリーの先駆。
https://gyazo.com/34251796fea43b142d9e53e8600c3e62
bpNichol – 《First Screening》 (1984)
Apple II用のプログラム詩。動的文字によるキネティック・ポエトリーの原点。
1990年代:インターネットの出現と詩的表現の拡張
1990年代に入ると、World Wide Webの普及とマルチメディア技術の進歩により、デジタル詩は飛躍的な発展を遂げる。この時期、インターネットは詩人・作家にとって創作と発表の両面で革命をもたらした。まず、ハイパーテキストやインタラクティブ作品は紙媒体から離れ、本格的にオンライン発表されるようになる。ネット・ポエトリー(Net Poetry)と総称される、インターネット上で展開する詩作法が登場した。ウェブサイト上で公開されるハイパーリンク詩、電子メールや掲示板を介して共同執筆される詩、あるいはチャット空間で即興的に生み出される詩など、形態は様々だったが、ネットワークの双方向性と即時性を活用した詩の実験が世界各地で行われた。例えば欧州では、イタリアのネット詩運動や、フランスの電子詩人たちがウェブ上で作品を相次ぎ発表し、ネット環境ならではの詩的表現を切り開いた。テキストがクリックやマウスオーバーによって変化する作品、アクセスするたびにランダム生成されるウェブ詩など、受け手の行為に応じて詩が動的に変容するインタラクティブ詩も盛んに制作された。
また1990年代半ばには、視覚芸術分野でネットアート(Net Art)と呼ばれるムーブメントが勃興した。若いアーティストたちがウェブをキャンバス代わりに用い、HTMLコードやブラウザの挙動を駆使して、新種のオンライン作品を次々と生み出した。代表的作家にオリャ・リァリーナやJODIといった名が挙げられる。彼らの作品はヴィジュアルアート的性格が強かったが、同時にウェブ上のテキストやコードを素材としており、その試みは詩的表現とも地続きだった。実際、ネットアート作品の中にはウェブページの文章を断片化・再構成して詩的効果を狙ったものもあった。ネットアートの精神は「グリッチ・ポエトリー」的な発想にも通じる。グリッチ・アートがデジタル機器のバグやエラーから美を見出すように、グリッチ詩はコンピューターやネット上の“誤作動”やノイズを詩情に転化しようとする。例えば当時人気を博した謎のTwitterボット「@horse_ebooks」は元はスパム投稿プログラムだったが、その切れ切れの文章が「コンピュータ・ボットの偶発的ポエジー」として人々に楽しまれた。この現象は、ハッカー文化やネットミームと詩の融合例と言える。
1990年代後半には、電子文学全体を包括的に捉えるための組織化の動きも見られた。電子文学協会 (Electronic Literature Organization, ELO)が1999年に米国で設立され、電子文学作品の創作・出版・研究の促進が図られた。ELOは作家や研究者の国際ネットワークを構築し、電子文学の年次会議開催や作品アーカイブの整備、アンソロジー刊行などを行っている。これにより、散発的だった世界各地のデジタル詩・物語の活動が「Electronic Literature」という学術的枠組みで捉えられるようになった。ELOの創設メンバーにはアメリカの作家ロバート・クーバーやスコット・レットバーグらが名を連ね、学術界・文学界からの注目も高まっていった。
この時代、テクノロジーと詩の融合形態は多岐にわたったが、中でも特徴的なのはコード詩 (Code Poetry)とコードワーク (Codework)の台頭である。前者のコード詩とは、プログラミング言語のコードを詩的テキストとして扱う試みであり、後者のコードワークとは自然言語のテキストとプログラムコードを混淆させた文学表現を指す。1990年代にはプログラマーたちによる遊び心から、Perlなど一部の言語で「詩的に読めるソースコード」を書くコンテストが行われ始めた。さらに発展して、生のコードを人間の言葉に織り交ぜ作品化する動きが電子詩人の間で活発化する。ネット詩人アラン・ソンドヘイム(Alan Sondheim)はネットニュースグループ上でコード詩的な文章を多数発表し、この新ジャンルに「コードワーク」という名称を与えた一人である。オーストラリアの女性詩人メズ (Mez, 本名メアリー=アン・ブリーズ) は、チャットやプログラミング構文、略語を融合させた独自の「mezangelle」という言語様式で知られ、電子文学界の賞を受賞するなど注目を浴びた。彼女のテキストは一見するとプログラムのエラーメッセージやハッカーの書いた謎の文章のようだが、巧妙に詩的意味が埋め込まれている。コードワーク作家には他にも、タラン・メモットやテッド・ウォーネル、ジョン・ケイリー(John Cayley)らがおり、彼らは作品中でJavaScriptやHTMLのタグ、UNIXコマンドなどを大胆に露出させた。コードワークの目的は、ソフトウェアという不可視の層を言語表現の表面に浮上させることである。リタ・レイリーは2002年の論考で「コードワーク作家たちは、インターフェースと言語マシンの関係を前景化し、デジタルテキストを取り巻くネットワーク環境そのものを映し出そうとしている」と述べている。このように90年代末から2000年代初頭にかけて、コード(記号的命令言語)と自然言語の融合はデジタル詩の最先端テーマとなった。コード詩・コードワークの実践は「コンピュータを使え、テレビとしてではなく」という合言葉に象徴されるように、プログラミング環境固有の表現力を詩に持ち込む試みであり、電子文学の中でも特に実験的な分野として位置づけられる。
この他にも1990年代の詩的実験としては、複数の作者がネット上で協働して一つの詩作品を作り上げるコラボレーティブ・ポエトリー(協働詩)の試みも見られた。電子掲示板やメーリングリスト上で参加者が一行ずつ詩行を投稿し連作する「Chain-poems」や、世界中の作者が順番に執筆していくリレー形式の詩企画などが行われ、インターネットによる共同創作の可能性が試された。また既存のテキストをオンライン上で再構成する先駆的プロジェクトとして、ケン・ゴールドスミスが1998年に開始したウェブサイト「UbuWeb」も重要である。UbuWebは実験詩やサウンド・ポエトリーなどの資料アーカイブだが、そこで提示された「著作権フリーの大量テキスト資源を実験材料にする」という発想は、後に触れる「非創造的記述 (Uncreative Writing)」の思想とも通底するものだった。
以上のように、1990年代はインターネットという新インフラを得て、詩とコンピューターの融合が一気に花開いた時代だった。ネット・ポエトリーや電子文学はこの時期に確固たる存在となり、詩的実験はアナログからデジタルへ本格的にシフトした。テキストのマルチメディア化・インタラクティブ化、創作プロセスの共有化、プログラムコードの審美化といった動きは、詩の定義を根底から揺るがし、新たな地平を拓いたのである。
https://gyazo.com/78e3586f3712dae56801d16a640c3075
JODI (Joan Heemskerk & Dirk Paesmans) – 《www.jodi.org》 (1995〜)
ネットアートの代表。コードやHTMLの崩壊を詩的に提示。
https://gyazo.com/296b16dde8b234febbf15cc991477e24
アラン・ソンドヘイム (Alan Sondheim) – 「Internet Text」 (1994–)
ネットワーク詩学にコード混淆を導入。
https://gyazo.com/d2e91886ac8e7f4923c08931e5690ad4
メズ (Mez Breeze) – 「mezangelle」様式
自然言語とコードの混合によるネット詩の代表。
https://gyazo.com/0f3e0bca956a65e56a6c342a3049d66c
ジョン・ケイリー (John Cayley) – Book Unbound
ハイパーテキスト的構造を持つ作品で、テキストが読みのたびに異なる順序や組み合わせで展開する。ケイリーの「生成的読書体験」の探求を代表する
https://gyazo.com/51b66f96beaa97f6af927b620d9e5b11
カテリーナ・ダヴィニオ (Caterina Davinio) – Karenina.it (1998)
イタリアのネット詩運動を代表する国際的協働詩プロジェクト。
2000年代:アルゴリズム時代の詩学とコンセプチュアル・ライティング
2000年代に入ると、インターネットバブル崩壊後の成熟期を迎え、デジタル詩は一層多様な展開を見せる。この時期の大きな特徴として、アルゴリズム的思考の深化と概念的(コンセプチュアル)な詩作が挙げられる。プログラミングと詩の関係は、90年代末に芽吹いたコード詩/コードワークが発展し、さらに幅広い文芸実践へと繋がっていった。
まず、プログラミング言語自体を創作の対象とする難解プログラミング言語 (Esolang)の隆盛がこの時期注目される。難解言語とは、実用性を度外視して奇抜な仕様や表記法を持つプログラミング言語であり、しばしばソフトウェア・アートやジョークとして設計される。その多くは遊び心や芸術性を備えており、コード詩的表現とも親和性が高い。例えば2001年に発表されたShakespeare言語は、書かれたプログラムがシェイクスピアの戯曲の台本のように見えるというコンセプトの言語である。また2002年に作られたChef言語は、プログラムコードが料理のレシピ文になっており、実行すると同時に料理法の体裁をとるユーモラスな作品となっている。Chefでは実際に「料理の手順」と「計算処理」が二重に読めるプログラム(双方向テクスト)の作例もあり、コードと自然言語の二義性を楽しむことができる。その他にも難解言語コミュニティからは、Brainfuck(8種類の記号のみから成る極小言語, 1993年)やWhitespace(空白文字だけでコードを書く言語, 2003年)など、言語設計そのものがアートと言える作品が次々と発表された。難解言語の多くは純粋なプログラミングの文脈で誕生したものの、「言語をいかに奇抜かつ美しく構築し得るか」という動機は文芸的関心に通じる。事実、一部の難解言語は電子詩人たちにも受容され、プログラムと言語表現の境界を問い直す実験に用いられた。難解言語ブームは、プログラムコード自体が一種の文学テキストとなり得ることを世に示したといえる。
コード(アルゴリズム)への関心が高まる中、クリティカル・コード・スタディーズ (Critical Code Studies)という新しい学術的アプローチも2000年代半ばに提唱された。これはプログラムコードを単なる機能記述ではなく文化的テクストとして解読しようとする試みで、USCのマーク・C・マリノが2006年に発表したマニフェストに端を発する。マリノは「コードはそれが何をするか以上の意味を持つ」と述べ、プログラムの記述や構造、命名法などに込められた社会的・文化的含意を読み解くことを提案した。Critical Code Studiesの観点からすれば、コード詩や難解言語も重要な研究対象となる。詩人が書いたコードには作者の美学やメッセージが潜んでおり、それを分析することで新たな文芸批評が可能となる。実際マリノの提唱以降、電子文学の研究者たちはコードに注釈を付し解釈する実践を始めており、コード詩の読解にも深化がもたらされた。これは「コードを批評的に読む」という姿勢を広め、プログラミングと人文学の架橋を築いた点で重要である。
創作面では、2000年代にはジェネレーティブ・アート/ポエトリー、つまりアルゴリズムによる自動生成詩が新たな局面を迎えた。コンピューターの処理能力向上により、リアルタイムで複雑なテキスト生成や、画像・音響との融合が可能となった。ネット上には詩生成プログラムが多数公開され、ユーザーがキーワードを入力すると即興の詩が生成されるサイトも現れた。対話ボットによる詩的会話も試みられ、1980年代の初期AI詩プログラム「Racter」に続く新世代の人工無能詩人が登場した。ジェネラティブ・ポエトリー作品は各種電子文学の祭典で発表され、アルゴリズム美学への関心を集めた。
テクノロジーと詩の融合は、パフォーマンスの領域にも広がった。音楽や映像の即興演奏シーンでは、2000年代にライブ・コーディング (Live Coding)という文化が確立した。ライブ・コーディングとは、プログラマーが観客の前でリアルタイムにコードを書き、生成される音や映像を即興的に変化させるパフォーマンスアートである。これは通常アルゴリズム音楽の文脈で語られるが、その理念は詩的表現とも響き合う。すなわち、プログラミング行為そのものを舞台上の「言葉のパフォーマンス」に昇華しうるのである。実際、ライブコーディングのイベントでは、コードをスクリーンに投影し観客に見せる(オープンコーディング)ことでプログラマーの思考と言語を共有する演出が行われてきた。コード詩の朗読ならぬコードの即興実演とも言えるこのスタイルは、「アルゴリズムによる詩の瞬間生成」を視覚化する試みともみなせる。2004年結成の国際ライブコーディング団体「TOPLAP」は「見せよ、隠すな (show us your screens)」と宣言し、コードを書く手元を開示する原則を掲げたが、ここにはプログラムの言語美を共有しようとする姿勢がある。ライブ・コーディングは詩そのものではないにせよ、詩的言語の時間芸術化という点でデジタル時代の新たな「詩のライブ」形態と捉えることもできよう。
他方、2000年代にはデジタル時代ならではのコンセプチュアル・ライティングの動きも詩壇を賑わせた。その代表格がケネス・ゴールドスミスにより提唱された「非創造的記述 (Uncreative Writing)」である。ゴールドスミスは2011年に著書Uncreative Writingを刊行し、デジタル時代に氾濫するテキストを作者のオリジナリティを放棄して再配置する手法を擁護した。彼の実践する「コンセプチュアル詩」は、自身では一切言葉を作らず、既存文章のコピー&ペーストや客観的な転写によって作品を成立させる。例えばゴールドスミスの作品『Day』(2003年)は新聞『ニューヨーク・タイムズ』紙面1日分を丸ごと書き写しただけの本であり、『Traffic』(2007年)はニューヨークの交通情報ラジオの一日分の書き起こしである。一見無意味で冗長なこれらのテキストは、「創造性とは何か」という問いを投げかける概念芸術だ。ゴールドスミスは「創作上もっとも困難なことは“非創造的”であることだ」と述べ、創造性至上主義への痛烈な皮肉を示した。この非創造的記述の思想的背景には、「Web上に無数のテキストが転がる現代において、書き手はもはや“文章を生み出す”というより“取捨選択し再構成する”役割を担うのだ」という認識がある。電子テキストのコピーが容易であるという技術環境が、こうした文学理念を後押ししたのである。非創造的記述は伝統的な創造性の概念を破壊すると同時に、コンピューター的な情報操作(コピー/ペースト、リミックス)を詩作法に昇華した点で画期的だった。ゴールドスミス自身も「我々が画面上で目にするグラフィックや音や動画は、底の方を覗けば何マイルにも及ぶ言語テキストでできている」と述べ、デジタル時代の詩作は「大量の言語という鉱脈を管理・整理する行為」へシフトしたと論じている。彼の活動は賛否両論を巻き起こしたが、明らかにデジタル文化がもたらした新種の詩的実践として文学史に刻まっている。
さらに2000年代の詩的潮流として見逃せないのが、フラーフ詩 (Flarf poetry)の登場である。フラーフは前衛的かつ風刺的な詩のムーブメントで、1990年代末〜2000年代前半にアメリカの詩人たちが電子メールの詩作共同体から始めたものだ。フラーフの中心メンバーであったゲイリー・サリヴァンによれば、運動名は彼がネット掲示板にジョークで投稿したときに思いついた語に由来する。彼らフラーフ詩人は「出来の悪い」「ナンセンスな」言葉遣いを意図的に駆使し、既成の詩の美学を茶化すような作品を次々と生み出した。その核心的な方法論の一つがドリュー・ガードナーにより考案された「グーグルサーチによる素材発掘」である。すなわち、インターネット検索で奇妙なフレーズや語句の組み合わせを入力し、ヒットしたウェブ上の断片的テキスト群をコラージュして詩を作るという手法である。例えば「I love eating concrete」「宇宙 アライグマ 哲学」といった雑多な語を同時に検索し、現れた結果の断片を繋ぎ合わせて一篇のシュールな詩に仕立てる。こうして生まれたフラーフ詩は、インターネット上の雑駁な言葉の寄せ集めでありながら奇妙な統一感やユーモアを醸し出す。ジョシュア・クローヴァーは「フラーフは詩的でない言語の中に詩的なものを発見しようとしている。それはグーグル検索アルゴリズムという機械的プロトコルに晒された匿名のジャーゴンに内在する異質さを引き出す試みだ」と評している。フラーフ詩は伝統的な詩壇からは異端視されたが、2000年代のネット時代詩を語る上で欠かせない現象である。情報の海からノイズを拾い上げ、それを逆説的に詩へと転換するフラーフの方法論は、デジタル時代の大量言語環境を背景としたポエジーの一形態といえるだろう。
また同時期には、携帯電話やSMSを詩の媒体とする試みも各地で見られた。SMS詩と呼ばれるそれは、ショートメッセージの文字数制限(当時は全角70字/半角160字程度)の中で完結する詩形を探究するものである。イギリスの作家はテキストメッセージ(SMS)が詩と似て短い言葉で要点を伝える媒体だと指摘し、実際に「160字詩」のコンテストが開かれたりもした。日本でもガラケー文化の中で短歌や俳句をメールで送り合う遊びが若者に広まった。「ケータイ短歌」は一種のSNS詩ブームを巻き起こし、歌集が出版されるなど社会現象化した。SMS詩は極小の画面で読まれることを前提とするため、伝統的定型詩にも通じる凝縮美が志向される一方、絵文字やネットスラングの使用による新味も加わり、デジタル世代のリテラシーが色濃く反映された。
最後に、2000年代の動向としてフランス語圏の電子詩人たちによるTransitoire Observable(可観測の過渡態)というコレクティブの結成に触れておきたい。これは2003年にフィリップ・ブーツらが中心となり発足したグループで、電子詩(e-poetry)の表現においてプログラミングそのものを作品の中核に据えることを宣言した。ブーツらは当時の電子詩の多くがマルチメディア的効果やハイパーリンクに重きを置き、肝心のコード(アルゴリズム)への意識が希薄だと批判した。彼らのマニフェストによれば、スクリーン上に現れるマルチメディア表現はプログラム実行中に得られる一時的な現象(transitoire observable)に過ぎず、本質はコード(手続き)の中にあるという。この考えの下、Transitoire Observableの詩人たちはプログラミング言語の構文や動作原理を詩的形式の一部として扱う実験を展開した。例えばアレクサンドル・ギャバンやティボール・パップの作品では、ソースコードとその出力結果が両方提示され、読者はコードを読み解きながら詩的効果を体験することになる。彼らは「プログラミングという新たな素材を芸術家が彫刻する時代」の到来を謳い、アルゴリズムと読者の相互作用に基づく真に新しいコミュニケーション状況を創出しようと試みた。Transitoire Observableは電子文学の一派として学界でも注目され、彼らの批評精神は既存の電子詩作品にも影響を与えた。つまり、プログラムコードへの意識を高めることで、電子詩を単なるデジタルガジェット以上の詩的コミュニケーション実験へ高めようとしたのである。
以上まとめると、2000年代はインターネット黎明期を経て成熟したデジタル環境の中で、アルゴリズム・コードと詩の関係がより緊密化・内在化した時代であった。難解言語やライブコーディングはプログラムと言語芸術の融合を際立たせ、Critical Code Studiesはコードの読みを深化させ、Uncreative Writingやフラーフはデジタル社会の言語環境を詩作に反映する新手法を生み出した。Transitoire Observableのような動きは、電子詩にプログラミング本位の視座をもたらし、テクストとコードの二元論を乗り越えようとした。コンピューター技術が単なるツールから詩作の本質的要素へと昇華されたこの時期、詩とコンピューターの関係は量・質ともに飛躍的な深化を遂げたのである。
https://gyazo.com/1302e8e56191d04efee5dfcbb337a016
ケネス・ゴールドスミス (Kenneth Goldsmith) – 『Day』(2003), 『Traffic』(2007)
「非創造的記述 (Uncreative Writing)」の代表。
https://gyazo.com/5d78d1c1780291919f285b80c982d4c1
ドリュー・ガードナー (Drew Gardner) – 『Sugar Pill: Poems』 (2006)
Gardner の主要詩集。Google検索による断片的なテキストや、意図的に「悪趣味」な言語をコラージュするフラーフ詩の手法を集約している。
https://gyazo.com/b644497c41e5af52e5cfdff433eb2901
マーク・C・マリノ (Mark C. Marino) – 「Critical Code Studies」マニフェスト (2006)
コードを文化テクストとして読む学術的枠組みを提示。
https://vimeo.com/20241649?fl=pl&fe=vl
TOPLAP(ライブ・コーディング集団) – 《show us your screens》マニフェスト (2004)
ライブ・コーディング文化の基盤を形成。
https://gyazo.com/f6af097061e99656db50d902440749ce
Philippe Bootz - “Petite brosse à dépoussiérer la fiction”(“Small brush to dust off fiction”)
ジェネレーティブ(生成型)作品。プログラムが実行されるたびにスリラー風の場面が生成される。読む人は「埃を払う」ような操作をしながらテキストを読む仕様。
2010年代:ソーシャルメディア時代の詩と拡張現実への展開
2010年代に入ると、Webはソーシャルメディアとモバイル端末の時代を迎える。詩の世界もこれに呼応し、新たなプラットフォームや技術を舞台にした多様な動きが生まれた。特筆すべき現象として、インスタポエトリー(Instapoetry)の台頭がある。インスタポエトリーとは、その名が示す通りInstagramをはじめとするSNS上で発表・拡散される詩のことで、2010年代半ばから若い世代を中心に爆発的な人気を博した。代表的存在であるルピ・カウル(Rupi Kaur)らの詩は、非常にシンプルで短いテキストに洒落た書体やイラストを添え、一枚の画像として投稿される。これらの作品は従来の文芸誌ではなくSNS上で“バズる”形で読者を獲得し、紙の詩集もベストセラーとなった。インスタポエトリーの隆盛は、テクノロジーが詩の流通・消費スタイルを大きく変えた例として重要である。読者はスマホの小さな画面上で断片的な詩を次々とスクロールし、「いいね!」で反応する。この超ミニマルかつ視覚重視の詩形は、具体詩や俳句とも通じる一方、その即時性・大量消費性は現代SNS文化の申し子といえる。インスタポエトリーは伝統的詩壇から批判も受けたが、新世代への詩の普及に貢献したこと、また画像プラットフォームで言語芸術が盛り上がったことは文化史的に見逃せない。ソーシャルメディア時代、プラットフォーム自体が詩の一部となり、アルゴリズム(タイムライン表示など)も含め詩の受容体験を形作るようになった。
SNSではテキストボットの活動も活発化した。Twitter上では無数のボット・ポエトリー(bot poetry)アカウントが登場し、自動生成のツイート詩を投稿した。中には人間のフォロワーを獲得し、一種の詩人ボットとして親しまれるものもあった。前述の@horse_ebooksはその典型例で、当初は電子書籍の販促スパムボットだったが、次第に断片的な文章の妙な味わいが注目され「ポストモダン詩人」としてカルト的な人気を博した。2013年にニューヨーク・タイムズが「horse_ebooksは現代最高の詩人か?」と茶化す記事を出すほどであった。他にもAIに俳句を詠ませるボット、辞書からランダムに単語を選んで呟くボット、ニュース記事を切り貼りして短詩を生成するボットなど、様々なアルゴリズム詩人がSNS上に現れた。グリッチ・ポエトリーの概念もこの文脈で再評価された。すなわち、人為の及ばない計算機の暴走や無作為に見える出力にも、実は現代の言語空間の歪みや美が宿っているのではないかと捉える視点である。ナブニート・アランは「グリッチ(誤作動)はテクノロジーの詩と言える。@horse_ebooksの無意味なフレーズは、言語と我々の受容の恣意性を白日の下に晒す」と述べている。2010年代はディープラーニング以前のルールベース/マルコフ連鎖ベースの簡易AIでも、SNSという公開の舞台で多くの「電子詩」を生み出した時代だった。
現実世界とデジタル詩を接続する試みも進展した。スマートフォンとAR(拡張現実)技術の普及により、AR詩(拡張現実詩)が登場したのである。AR詩とは、スマホやタブレットのカメラを通じて映し出される現実空間に、デジタルな文字・詩行を重ねて表示する作品形態を指す。詩人の中には街角の風景に仮想の詩句を浮かべるインスタレーションを行う者や、ARアプリを開発して本の紙面から立体的な詩が立ち上がるような表現を試みる者が現れた。例えばイギリスの詩人キット・ファンは、ロンドン市内の特定地点に行くとスマホ越しに詩が読めるAR詩企画を実施し注目を集めた(2018年頃)。また米国MITの実験プロジェクトでは、参加者が共同で詩行を入力するとAR空間に言葉が積み重なっていく「Augmented Reality Poetry Machine」が開発されている。AR詩はまだ新奇性の強いジャンルだが、詩を物理空間に実体化する試みとして興味深い。読者は文字通り周囲の空間に詩を見出す体験をし、現実と詩想の境界が曖昧になる。これは1960年代のコンクリート・ポエトリーが紙面上で視覚空間を操作したのを、現実空間レベルに拡張したとも言えるだろう。
同様にVR詩(仮想現実詩)の探求も始まった。VR詩とは、VRヘッドセットを装着した仮想空間内で鑑賞するタイプの詩作品である。例えばVRプラットフォーム上にポエムワールドを構築し、ユーザーは360度見渡すと様々な場所に詩行が浮かんでいる、といった作品が考案されている。前述のエドゥアルド・カックはVRやホログラムをさらに発展させ、没入型のデジタル詩を試みている。VR詩は、言語芸術を完全にバーチャルな環境で展開する点で前例がなく、読者=体験者の身体性に訴える新たな詩の形となっている。空間全体が「詩人」NPCとして振る舞うリズ・ソロの実験(後述の量子詩プロジェクト)も含め、VR詩はまだ発展途上だが今後の可能性を秘めている。
2010年代後半には、さらに先端的なテクノロジーとの融合が見られる。ブロックチェーン技術の流行に触発されて、ブロックチェーン詩なるものも登場した。その定義は定まっていないが、おおむね「詩作品をNFT(Non-Fungible Token)として発行・取引することで、詩に経済的価値と唯一性を付与する試み」や、「ブロックチェーン上にテキストを刻み込み不変の詩集とする試み」などが含まれる。米国の詩人サーシャ・スタイルズは、自身の詩をイーサリアムブロックチェーン上で販売するなど、詩のNFT化を積極的に進め「AIとブロックチェーンの詩人」として知られる。また2021年頃には、NFTコミュニティ内で詩の価値が再評価され、CryptoPoetと称するアーティスト集団が生まれるなど、デジタルアート市場で詩が注目を集めた。Flash Art誌は「詩は元来ブロックチェーン的なものだ」と論じ、詩行が連綿と連結して一つの作品をなす様を暗号鎖になぞらえた。ブロックチェーン詩はまだ黎明的だが、詩の経済圏・コミュニティ形成という点で新奇であり、デジタル時代における詩のあり方を問い直す動きとして興味深い。
技術の進展に伴い、人工知能 (AI)と詩の関係も2010年代に劇的に深まった。とりわけ2010年代後半にはディープラーニングによる高度な自然言語処理モデルが登場し、AIが人間と見分けのつかない詩を書く可能性が現実味を帯びてきた。OpenAIが公開したGPT-2 (2019年)やGPT-3 (2020年)といった巨大言語モデルは、膨大なテキストコーパスから学習した知識を元に、それらしい文章を自動生成できる。その能力は詩の領域にも及び、ユーザーが与えた「お題」や「最初の一行」に続く詩篇をAIが作成することが容易になった。実際、2020年代初頭にはAIが出力した俳句やソネットがSNS上で多数共有され、その完成度に驚きの声が上がった。2024年の学術研究では、一般被験者はAI詩と人間詩をほとんど識別できず、むしろAI詩の方をリズムや美しさの点で高く評価する傾向すら報告されている。これはAI詩が人間の詩に迫るクオリティに達したことを示唆する。さらに興味深いのは、AIと人間の協業による詩作である。いわゆるAIプロンプトとは、AIに作品生成させるため人間が与える指示文のことで、これ自体が一種の創作行為とみなされるようになっている。優れたAI詩を得るには巧みなプロンプト設計が必要であり、裏を返せば詩人はAIに対し「詩の書き方」を教示する詩的プログラマーとなる。AI時代には「詩人が単独で詩を書く」のではなく「詩人がAIを使役して詩を出力させる」という構図が一般化する可能性がある。実際、電子文学の世界では「共創 (co-creation)」というキーワードで、人間とAIの共同作詩の実践や評価が議論されている。AIに単独で書かせるより、人間が要所で介入した方が良質な作品になるという報告もあり、詩人の役割は「全編を書く」ことから「AIを方向付ける」ことへシフトしつつある。
AI関連でもう一つ触れておきたいのは、量子コンピューティングと詩の融合という最先端の試みである。カナダのアーティスト、リズ・ソロ (Liz Solo) は2021年、自身の分身となるバーチャル詩人NPCをVR空間に創り出し、それを量子コンピュータに接続するというユニークなプロジェクトを発表した。このプロジェクトでは、ユーザーがVR内でいくつかの単語を選択すると、それらが量子コンピュータ(D-Wave社の量子Annealer)に渡されて最適なフレーズの組合せを計算し、その結果を基にAI(機械学習)が詩の全文を生成する。生成された詩はVR空間にテキストと音声で提示される。これは、量子ビットの確率的な計算を詩作に応用した初のケースであり、量子プログラミング詩とも呼ぶべき最先端の実験である。ソロはこの試みを「ソーシャルVR内のNPCが量子計算によって思考し詩を紡ぐ初の事例」と位置付け、実際にVRアート空間でライブ公開も行った。結果として出力された詩の質は玉石混交であったようだが、人間・AI・量子計算の三者が協働して作品を生むという構図自体が先駆的である。量子コンピュータはまだ発展途上だが、将来的にその超並列計算能力で新種の言語生成が可能になれば、詩的創造にも革命を起こす潜力がある。少なくとも、詩人たちは常に最新テクノロジーを創作に取り込む好奇心を持っており、量子詩もその延長線上にある。
2010年代はこのように、詩のプラットフォームと創作者像が大きく変容した時代だった。SNSの隆盛は詩人と読者の距離を縮め、新しい詩の書き手・鑑賞者層を生んだ。AR/VRといった技術は詩の空間的体験を拡張し、詩が現実世界や仮想世界の一部として立ち現れるようになった。ブロックチェーンは詩に経済的文脈を与え、詩作品の在り処を新たに定義し始めた。そしてAI・量子計算の進歩は、詩作そのものの意味を問い直す事態を招いている。コンピューターは詩を書くことができるか?という長年の問いに対し、2010年代末には「場合によっては人間以上に巧みに、それらしく書けてしまう」という答えが現実味を帯びた。これは詩人の役割を揺るがす一方で、人間ならではの創造性とは何かを再考させる契機ともなっている。皮肉にも、機械生成の詩が氾濫する時代だからこそ、人間が書く詩の個性や深みが再評価される可能性もあるだろう。
https://gyazo.com/6542aa3ad9a74cb98d8dbd8b055949d6
ルピ・カウル (Rupi Kaur) – Milk and Honey (2014)
インスタポエトリーの象徴的作家。
https://gyazo.com/2e03c6ae24066a3e890e59362e6bc822
サーシャ・スタイルズ (Sasha Stiles) – ブロックチェーン詩、AI詩の実践。
https://gyazo.com/98f9b1a812ae81da718c42fa8d6f6183
Liz Solo – 《Quantum Virtual Poet》 (2021)
量子計算とVR詩の融合を試みた先駆的プロジェクト。
結論:詩とコンピューターの共進化と展望
以上、詩とコンピューターの関係を主要なキーワードと共に歴史的に概観してきた。1950年代の具体詩・計算機詩の胎動にはじまり、ハイパーテキストや電子文学の勃興、コード詩やソーシャルメディア詩の展開、そしてAI時代の到来に至るまで、詩という表現は常に技術革新と呼応し変容してきたことがわかる。それは単に道具としてテクノロジーを利用するという以上に、詩人たちが新技術のもたらす可能性を積極的に詩学へと取り込み、時に詩の定義自体を書き換えてきた歩みであった。
歴史を振り返ると、テクノロジーの進歩は詩に少なくとも三つの変革をもたらしている。第一に、詩の形態そのものの拡張である。ページ上の活字に限られていた詩は、コンピューターの登場によって動く詩、音や映像と結合した詩、空間に展開する詩へと次々にその領域を広げていった。具体詩が文字の視覚性を強調した延長線上に、スクリーン上でアニメーションするキネティック・ポエムが生まれ、さらにはVRやホログラムの中で立体化するホロポエムへと至った。現代ではテキストはもはや紙面に固定されたものではなく、プログラムによって自在に変形・配置できる流動的な素材となった。詩はその可能性を最大限活用し、他芸術との境界を越境するマルチメディア的表現へと進化している。
第二に、詩作プロセスおよび作者像の変容が挙げられる。従来、詩は孤高の詩人が霊感に基づいて紡ぐものというイメージが強かった。しかしネットワーク環境は複数人の協働詩や読者の対話的参加を可能にし、さらにAIは“マシン詩人”という新たな創作者を登場させた。現在では、一篇の詩の背後に人間だけでなくアルゴリズムや巨大言語モデルが関与していることも珍しくない。詩人はしばしばプログラマーやキュレーター、あるいはAIの教育者として振る舞い、創作というより設計・指揮に近い役割を担う場面も増えている。ケネス・ゴールドスミスが「作者の創造性の放棄」を提唱したのも象徴的だが、コンピューターとの協業が進む中で“創造”の意味は大きく拡張・変容している。これは文学におけるオーサーシップ概念の再検討を迫るものであり、著作権の扱いや作品評価の基準にも影響を与え始めている。
第三に、詩の流通・受容環境の変革がある。インターネットとSNSは詩の発表媒体を抜本的に変え、大衆へのリーチを広げた。20世紀には限られた同人誌や雑誌でひっそり読まれていた前衛詩が、今やInstagramでミレニアル世代にシェアされ数百万の「いいね」を得ることもある。詩が書籍から離れデータとして独り歩きすることで、新たな経済圏(NFTマーケットなど)も生まれつつある。一方で、インターネット上の海量のテキストと即時の情報消費は、詩の価値を希薄化させる側面も指摘される。AIによっていくらでもそれらしい詩が量産できるなら、人間の書く詩にどんな意義があるのかという問いは避けがたい。しかし歴史が示すように、技術の発達は常に新たな詩的価値を生み出す契機ともなってきた。馬車から自動車への転換が逆に「徒歩の良さ」を見直させたように、AI時代にはかえって人間ならではの主観や比喩性、感情の濃密さが詩の希少価値になるかもしれない。実際、AI詩の卓越した模倣能力が示される一方で、詩人たちは「AIに真に美しい詩は作れるのか?」という哲学的問題を提起し続けている。結局のところ、テクノロジーは詩に新しい表現領域を与えるが、最終的にその可能性を詩として結晶化させるのは人間の創意である。コンピューターと詩の関係は共進化のプロセスであり、人間が機械からインスピレーションを得て詩を更新し、また機械が人間の詩を学習して発展するという相互作用が続いている。
21世紀も四半世紀が過ぎた今、詩とコンピューターの関係はなお進化の途上にある。展望としては、今後ますます境界が曖昧になる文学とプログラミングの融合領域が広がっていくだろう。たとえば将来的には、人間の脳と直結したブレイン・マシン・インターフェースで詩想を直接やり取りするような時代が来るかもしれない。また、メタバース上で何万人ものユーザーが参加する即興群像詩のパフォーマンスなど、スケールと参加性においてかつてない詩形も考案されよう。そうした未来の萌芽は既に現代の技術に兆しており、詩人・芸術家たちはいち早くそれを試しつつある。結局、詩という人間表現の核は不変でも、その媒質と形式は技術によって変幻自在であることが本稿で見てきた通り歴史が証明している。文学研究者・メディアアート研究者にとって、詩とコンピューターの交差領域は、テクノロジーが人間の創造性に与える影響を探る格好のフィールドであり続けるだろう。詩は今後もコンピューターという相棒と共に歩み、新たな言葉の宇宙を切り拓いていくに違いない。