自然要素としてのメディア概念:パリッカとピーターズの理論と展開
パリッカ「メディアの地質学」の核心と哲学的前提
フィンランド出身のメディア理論家ユッシ・パリッカの著書『メディアの地質学 (A Geology of Media)』(2015年)は、メディアの歴史を人類史を超えて地質学的時間スケールで捉え直す試みである。パリッカは従来の人間中心・直線的なメディア史観を批判し、地球の歴史・地層・鉱物・エネルギーといったメディアに先行する物質的現実から出発する視点が必要だと主張する。この視座に立てば、メディア文化と地球環境、人間存在は奇妙に絡み合った関係として浮かび上がる。実際、電子機器など現代のメディア技術は太古の地球由来の元素や鉱物資源無しには成り立たず、消費されたメディア機器は廃棄されて「ゴミ」となった後も無に帰することなく地中に堆積し続ける。パリッカはこうしたメディアの物質的側面(素材・資源・廃棄物)に光を当て、「人類は石油を掘り、スマホは化石になる」という逆説的スローガンを掲げている。すなわち人類が掘削・採取した化石資源(石油・希少金属など)が高度情報社会を支えるデバイスに姿を変え、そのデバイスはやがて使用済み電子ゴミとして再び地層へと回帰し将来の「未来の化石」となるという循環である。パリッカはこうした循環に内在する新旧の時間性のもつれこそ、人新世(Anthropocene)時代のメディア環境を理解する鍵であると考える。
この理論の哲学的前提には、メディア研究の新潮流であるメディア考古学やポストヒューマン的な新唯物論の影響が認められる。例えばパリッカは、キットラーのメディア技術論やドゥルーズ&ガタリの思想を援用しつつ、「メディア」の定義を大胆に拡張している。彼は紙やスマホといった従来型の媒介装置だけでなく、レアメタル(希少金属)、海底ケーブル、宇宙ゴミ、鉱山、火山灰、氷河などまでをも議論の射程に収め、「地球環境そのものが無数のメディアの地層を積み重ねた場(メディア自然圏)である」と理解すべきだと提唱する。この発想により、メディアは情報の非物質的な流れという従来のイメージから一変し、地球規模の物質循環の一部として再定義される。例えばパリッカは「ゾンビ・メディア」という概念で、廃棄された古いメディア装置が死後になお地中で「生ける屍」として環境に影響を及ぼす様を指摘している。IT産業が謳う滑らかな技術進歩の裏側で、現実には鋭利な電子クズの亡霊(ゾンビ)が蠢いているという批評的な洞察である。こうした視点から、パリッカは現代のデジタル文化を人新世的文脈で捉え返し、気候変動や有害廃棄物問題とメディア技術とを結ぶ理論的架橋を築いた。この地質学的メディア論は、メディア研究を自然環境や深い時間スケールへと開き直すものであり、21世紀のメディア論の新たな基盤を提供する意欲的な試みである。
ピーターズ「ザ・マーヴェラス・クラウズ」の核心と哲学的前提
アメリカのメディア学者ジョン・ダラム・ピーターズの著書The Marvelous Clouds: Toward a Philosophy of Elemental Media(2015年)は、パリッカとは異なるアプローチで「自然の諸要素としてのメディア」を論じたものである。ピーターズは「メディア=環境」という従来の比喩を反転させ、「環境こそメディアである」と主張した。私たちは普段メディアを人間にとっての環境(メディア環境)と捉えがちだが、実はその逆に、空気・水・火・土といった環境そのものが情報伝達の媒質=メディアとして機能しているというのである。ピーターズはメディアを極めて広く定義し、「人間世界を構成する要素(elements)」とみなす。メディアとは単にメッセージの運び手ではなく、自然と文化を結合し人類の生存を可能にするインフラそのものだというのである。例えば大気は音や電波を伝える媒体であり、海洋は交通・通信の媒体であり、火は光と熱による情報伝達や技術の媒体となる。こうした視座に立てば、自然界と技術界は明確に分かたれたものではなく、雲という言葉が示すように「クラウド(雲)」は気象現象であると同時にデータ・ネットワークの比喩でもある、とピーターズは指摘する。実際、『マーヴェラス・クラウズ』序章ではクラウド(雲)という語を手掛かりに、気象学上の雲と「クラウドコンピューティング」のクラウドの類似に着目し、自然とテクノロジーの連続性を示すエピソードが語られている。このようにピーターズはメディアの概念を自然哲学の四元素(四大要素)のレベルまで遡って再構築し、人間と世界の関わりを媒介するあらゆる要素を包含するものとして捉え直したのである。その哲学的前提には、古代ギリシア以来の四元素説や、マクルーハン的なメディア生態学の影響が指摘できる。ピーターズ自身、アリストテレス以来の元素論や聖書の「雲」の隠喩、近代の気象学・地質学の知見などを縦横に参照しつつ「要素的メディアの哲学」という独自のメディア観を展開している。
ピーターズの理論の核心は、人間の技術的メディアも実は太古から続く自然=メディアの延長上にあるという点である。彼によれば、デジタル時代の最新メディアも、火を使いこなし暦を作り星を読むといった古代からの人類の営みに連なるものであり、「新しいメディア」は私たちを未知の領域に連れていくどころか、むしろ人類と自然の関係をどう調整するかという最も古い問題に向き合わせるのだという。実際ピーターズは、航海術・農耕・気象予測からGoogle検索に至るまで「生存のための種々の手段」の歴史を百科全書的に紐解き、メディアの系譜を文明史・自然史の両面から描き出している。その射程は広く、海・火・空といった自然要素を通じたコミュニケーションや、動物や神話的存在との意思疎通、暦や文字といった記録技術、宗教的儀礼とメディアの関係など、多岐にわたる。こうした議論を通じ、ピーターズはメディアの前史とも言うべき長大なスケールで「メディアとは何か」を問い直す。その結論は、メディアは人間と世界の相互作用(環境との関係性)を取り仕切る根源的な装置であり、私たちが日々当たり前の基盤と見なしている生命世界の条件そのものだという認識である。このようにピーターズの理論は、メディア概念をテクノロジーの枠から解放し、自然哲学・文明論・存在論的問いへと接続する大胆な哲学的試みと位置付けられる。
両者の共通点と相違点
パリッカとピーターズの理論はいずれも、「メディア」を単なる人間の情報伝達装置ではなく自然環境や物質的基盤に根差した存在と捉え直す点で共通している。ともに自然と文化の二分法を乗り越え、メディアを人間界と自然界をつなぐハイブリッドなものと見做している。例えばパリッカは地球環境を「メディアの地層(メディア自然圏)」と表現し、ピーターズは環境(大気・海洋など)そのものをメディアとみなす。この点、両者ともメディアの概念を従来よりはるかに包括的に拡張しており、人間中心的・現在中心的な発想からの脱却を図っていることがわかる。また両者とも現代のデジタルメディア環境を歴史的・地質学的な長い時間軸の中に位置付け、人新世(Anthropocene)という地球規模の文脈で捉え直そうとしている点でも共通する。パリッカは気候変動や電子廃棄物問題への危機意識から理論を展開し、ピーターズもまた人類による環境改変(火の使用や気象操作など)をメディア史の核心に据えている。したがって両者のアプローチは、メディア研究を環境人文学的な広がりへとシフトさせるという学際的転回の一環に位置付けられる。
もっとも、両者には焦点と方法論の違いも存在する。パリッカの関心がとりわけメディア技術の物質性と環境負荷に向けられているのに対し、ピーターズはメディア概念の哲学的普遍性に軸足を置いていると言える。パリッカの議論は現代IT産業の背景にある採掘労働や有害廃棄物、公害といった問題意識が色濃く、現代文明への批判的・啓発的スタンスが強い。例えば彼は電子ゴミや「ゾンビメディア」が人間に害を及ぼしうることを指摘し、テクノロジーの進歩神話に警鐘を鳴らす。一方のピーターズは、デジタル技術をそれほどネガティブには位置付けず、むしろ火や言語の延長として捉えることでメディアの連続性と包摂性を強調している。彼の筆致は批判よりも博識な瞑想(meditation)に近く、現代メディアを「人類の営みの最深層にある問い」へと結びつけることで新たな認識を促すことに重きがある。また両者のスケールの捉え方にも違いがある。パリッカは地質学的深時間にフォーカスし、人間スケールを超えるマクロ・ミクロの視点から現代を見る。これに対しピーターズは、人類史全体(古代から現代まで)の長さにおいてメディアの役割を再評価するという文明史的スパンで語っている。言い換えれば、パリッカが主に未来志向・警鐘的に語るのに対し、ピーターズは過去志向・哲学的に語る傾向がある。ただし両者は決して対立するわけではなく、むしろ相補的である。両理論を合わせてみることで、メディア技術の物質的持続と人類文明の環境関係という両面から、現代メディアを包括的に理解する視座が得られるだろう。
理論の近年の展開:地球メディア論・エレメンタルメディア・環境人文学・メディア・エコクリティシズム
パリッカとピーターズの提起した「自然要素としてのメディア」概念は、その後のメディア研究や人文学全般に大きな影響を及ぼし、さまざまな理論的展開を生んでいる。近年では、メディアと環境の交差領域である環境人文学やエコクリティシズム(環境批評)の文脈において、彼らの議論を継承・発展させる動きが活発化した。たとえば大学の講義でも、メディア考古学からパリッカの『メディアの地質学』へ読み進めることで「メディア理論とエコ批評(エコクリティシズム)の交差点」を考察する試みが行われている。これは文学・文化研究など従来の人文学分野にメディア=環境の視点を導入する動きの一環であり、逆にメディア研究側から環境問題にアプローチするメディア・エコクリティシズム(環境批評的メディア論)という新領域も模索されている。実際、パリッカの研究は「メディア考古学」の手法を拡張してエコクリティカルなメディア論へ接続するものと評価されており、彼自身も2010年代後半以降「Anthrobscene(人新世の不穏さ)」と題した小著を発表するなど、人新世批評に直接コミットしている。ピーターズの仕事もまた、環境人文学の領域で高く評価され、2010年代には「元素的メディア」や「プラネタリー・メディア(地球規模のメディア論)」というキーワードの下で議論が進められた。例えばニコル・スタロシルスキーやリサ・パークスらはメディアインフラストラクチャー研究の文脈で、海底ケーブルやデータセンターなど地理的スケールのメディア技術を分析しつつ、その基盤にある物質(光、電波、鉱物資源)に注目する研究を行っている。スタロシルスキーは2019年に「この10年でメディア研究はエレメンタル(要素的)になった」と述べ、メディアを構成する物質・基盤(サブストラテ)への関心が高まったことを指摘している。実際、彼女は編集した論集『Signal Traffic』(2015年)でインターネットを支える物理的インフラ(海底通信網や放送塔、サーバー施設など)に光を当て、メディアを支える環境=基盤への新たな視座を提示した。またスタロシルスキー自身の論文「The Elements of Media Studies」(2019年)では、パリッカ(2015)やマッターン(2017)によるメディア技術に含まれる鉱物の研究、マコーマック(2018)の大気的メディア論、デイヴィス(2015)のプラスチックという人工物質の媒質性の研究、ラッスィル(2017)の「地球は我々の家である以前に媒体(メディウム)である」という主張など、関連する多様な試みが紹介されている。これらを総称してスタロシルスキーは「エレメンタル分析」と呼び、メディアを構成する物質的要素・環境条件を解明するアプローチとして位置付けている。
このように近年の理論的展開としては、地球規模でメディアを捉える視点(プラネタリー・メディア論)や、伝統的な四元素や化学的元素に着想を得てメディアの要素還元的分析を行う視点(エレメンタル・メディア論)、さらには人文学と環境科学の橋渡しとしての環境人文学的アプローチなどが挙げられる。それらはいずれも、パリッカやピーターズの問題提起――すなわち「メディアを取り巻く環境」ではなく「環境そのものがメディア」であり、「人間の文化装置」ではなく「地球的な物質プロセス」としてメディアを捉える発想――を踏まえて発達してきた潮流と言えるだろう。メディア研究者だけでなく、批評理論家・文化人類学者・科学技術史家など多分野の研究者がこの領域に参入し、「メディアと地球」「テクノロジーとエコロジー」を巡る新たな対話が生まれているのが現状である。
現代のアート・建築・映像・デザイン・情報インフラへの応答と実践例
こうした理論的動向に呼応して、現代の芸術・建築・映像・都市設計・情報インフラの分野でも、メディアと自然要素の関係を探究する先鋭的な実践が数多く現れている。以下では、それぞれの領域から主な例を挙げる。
• 現代アート領域: メディア技術の物質性や環境とのもつれをテーマにしたアート作品が近年注目を集めている。パリッカ自身が指摘するように、最新テクノロジーと太古の資源との時間的「もつれ」を可視化するメディアアートは、メディアの地質学的思考を体現するモデルとなっている。具体的には、電子廃棄物を素材にしたアート作品や、鉱物・石油由来の物質を用いたインスタレーション、デジタル機器の分解・再構成によって寿命を延ばすハッカソン的作品などが挙げられる。例えばガーネット・ハーツとパリッカが提唱した「ゾンビメディア・プロジェクト」では、廃棄電子機器をハードウェア・ハッキングによって蘇生させる芸術実践が紹介されている。これは廃棄物に再び命を吹き込むことでテクノロジーのライフサイクルを批評する試みであり、まさに理論上の「ゾンビ・メディア」を視覚化するものだ。また、自然のプロセスを直接媒介とする芸術も盛んである。日本人アーティストの中谷芙二子は人工霧を用いた環境彫刻《フォグ・スカルプチュア》シリーズで知られるが、霧(=水蒸気)という自然現象そのものをメディウムにする彼女の作品は、「雲を創造する芸術家の例」としてピーターズの議論とも共鳴する。中谷の作品では、鑑賞者は霧の中に身を置くことで自ら自然現象の媒介性を身体的に体験し、環境への意識を直観的に深めていく。このようなエコロジカルな意識を喚起する作品群は「メディア・エコロジー」の芸術的実践とも言え、観客に人間と環境メディアの関係性を再考させる役割を果たしている。
• 建築・都市設計領域: 建築分野でも、自然の要素を積極的に取り込んだメディア的建築の試みが見られる。象徴的なのは、2002年のスイス国際博覧会に出現した《ブルーア・ビルディング (Blur Building)》である。これは建築家ディラー&スコフィディオらの設計による「大気の建築」で、湖の水をくみ上げて霧状に噴霧することで建物全体を巨大な雲のように覆ったものだ。ブルーア・ビルディングは、視覚メディアに満ちた現代社会への応答として「ローデフィニション(低精細)の霧の環境=建築」を創出し、人々が内部で視界ゼロの霧と白いノイズ音に包まれるという、「居住可能な媒質」への没入体験を提供した。水という自然要素が構造体の主要な建材かつ演出媒体となり、天候や時間の変化によって刻々と姿を変えるその様子は、人工物と自然現象のせめぎ合いをリアルタイムに提示する動的インスタレーションであった。まさに自然=メディアを素材とした建築の白眉であり、ピーターズの言う「環境そのものがメディア」のコンセプトを空間化した例といえる。また近年のサステイナブル建築や都市デザインにも、情報メディアと環境要素を融合させたプロジェクトが増えている。都市スケールでは、センサーネットワークを都市環境に組み込んでリアルタイムで空気質や気候データをモニタリングし、それを可視化して都市計画に反映する試み(環境モニタリング都市)がある。例えば各所に配置した環境センサーが集めたデータを巨大スクリーンや建物のメディアファサードに表示し、市民に環境情報をフィードバックするアート的プロジェクトも行われている。これにより都市空間そのものがメディアとして環境情報を発信・共有するプラットフォームとなり、住民の環境意識や行動変容を促す狙いがある。同様に、建築物の設計でもパッシブデザインやバイオフィリック・デザインとデジタル技術を組み合わせ、日光・風・水といった自然エレメントを巧みに利用する「スマートでグリーン」な建築が増えている。たとえば北欧のデータセンター建築では、寒冷な外気を自然の冷却材(クーラント)として活用しサーバーの冷却エネルギーを大幅に削減する試みが進んでいる。さらにサーバーから出る廃熱を地域暖房に転用し、情報インフラと都市エコシステムを循環的に統合するプロジェクトも実現している。これらは情報ネットワークの物理的基盤を地球環境と調和させるデザインであり、パリッカが提起した「メディア技術の物質的地盤への自覚」を実践に移すものと言える。
https://gyazo.com/960d4ed9bc297e88ab67a0f7c1083fa5
• 映像・映画領域: 視覚メディアの分野でも、環境とメディア技術の関係を批評するエコクリティカルな映像作品が数多く生まれている。ドキュメンタリー映画では、巨大な工業生産と環境改変の実態を捉えたエドワード・バーティンスキーの『マニュファクチャード・ランドスケープス』(2006年)や、人類が地球に刻んだ地質学的痕跡を探る『Anthropocene: The Human Epoch(人新世: 人類の時代)』(2018年)などが代表的だ。『Anthropocene』は人間活動がもたらした地球規模の変容(採掘場、巨大ダム、石炭火力発電所、鉱滓の山など)を圧倒的な映像美で描き出し、「人間が引き起こした地質学的新時代」というコンセプトを直観的に訴える。これらの作品は映像メディア自体が強力な環境批評の媒体となりうることを示しており、単に環境問題を扱うだけでなく、映像技術の物質的側面(例えばカメラが捉える採掘現場の光景そのものが人類のメディア活動の結果である点など)にも目を向けさせる。劇映画やアニメーションの分野でも、環境とテクノロジーの相克をテーマに据えた作品が増えている。SF映画では環境破壊後の未来像を描くもの(例:『ブレードランナー2049』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』)や、テクノロジーと気候操作を題材にしたもの(例:天候を制御するアニメ映画『天気の子』)があり、いずれもメディア技術と自然環境の関係性を主題化している。またドキュメンタリー的手法と芸術表現を融合し、監視カメラ映像や衛星写真といったメディア技術のアウトプットを用いて地球環境の変容を可視化するアート映画も現れている。現代美術家のテレール・ブランコやハリル・ジョセフソンらは、ネット上のライブカメラや地理情報システムを駆使してリアルタイムの地球像を映像インスタレーション化する試みを行っており、観客はメディアを介して「今この瞬間の地球環境」に直に向き合う体験を得る。このように映像メディアは、それ自体が地球規模の視野を提供するメディウムとなりつつあり、理論面で言われる「プラネタリー・メディア」の実践形態として機能している。
https://www.youtube.com/watch?v=ikMlCxzO-94
• 情報インフラ・デザイン領域: 情報通信インフラやデジタルデザインの分野でも、環境との統合を図る新しい実践が台頭している。前述のデータセンターの例に加え、グローバルなインターネット基盤を持続可能な形に作り替える実験的プロジェクトが挙げられる。例えばソーラープロトコルは、世界各地の太陽光パネルで動く分散型ウェブサーバー群によりインターネットサービスを運営する試みで、日照条件に応じてサーバー負荷を動的に割り振ることでエネルギー消費を最適化する。このプロジェクトでは天候(太陽)という自然要素がインフラ制御の一部となっており、「太陽と連動するインターネット」という新たなメディア環境を提示している。また、大規模なクラウドサービス企業が再生可能エネルギー利用や排熱利用に力を入れ、「グリーンなクラウド」を実現しようとする動きも広がっている。さらに、都市インフラではスマートグリッドや気象データ連動型の交通システムなど、環境データをリアルタイムで集積・分析して制御にフィードバックする仕組みが導入されつつある。これらは都市や社会の運用基盤そのものが環境メディア的な感知・応答性を備えていくプロセスだといえる。デザイン分野では、廃材や自然素材を用いたプロダクトデザイン、あるいはAR技術で環境情報を重畳表示するナビゲーションデザインなど、物質循環や環境知覚を意識した情報デザインが注目されている。要するに、情報インフラストラクチャーと環境システムとを一体のものとして捉える発想が実務面でも広がり始めており、それはパリッカらが提唱した「媒質としての環境」という思想を現実世界に実装していく動きとも言える。
https://gyazo.com/930e91030b9fc7e03f500bee9b157092
solarprotocol.net
以上のように、ユッシ・パリッカとジョン・ダラム・ピーターズが2015年に提示したメディアと自然要素の理論は、多方面で理論的・実践的な波及効果を生んでいる。両者の核心的な主張(メディアの物質的・環境的再定義)は、メディア研究の地平を広げただけでなく、人類が直面する環境危機の中でテクノロジーや文化を見つめ直す視座を提供した。現在進行形の地球環境問題に対し、メディアの観点から応答する理論(地球メディア論、エレメンタル・メディア)や、それに呼応する実践(環境に配慮した設計・芸術・インフラ構築)は今後さらに重要性を増すだろう。それらは「人新世のためのメディア論」として、人間中心主義を超えた包括的な思考と創造を促しているのである。