欧米における人工知能をめぐる哲学・美術・テクノロジーの先端的議論
抄録
本稿では、哲学・思想、美術、テクノロジーの各領域における人工知能(AI)をめぐる欧米の最新議論を学際的に概観する。ポストヒューマニズムの文脈では、AIが人間中心主義を揺るがし、人間観・主体性の再定義を迫るものとして論じられている  。美術分野では、生成AIによる芸術(Generative Art)が台頭し、その創造性や作家性をどのように評価すべきか活発な議論が交わされている  。倫理的AI設計の領域では、AIシステムを人間の価値観に沿って設計・制御する「価値アラインメント(Value Alignment)」や公平性確保の手法が模索されている  。さらに、加速主義的視点からは、AIが資本主義や社会変動を自己促進的に押し進め、人類の制御を超えて加速していく存在とみなされている 。加えて、AIと美術実践における著作権・創造性の問題として、AI生成物の法的保護や学習データ無断使用への反発が顕在化している  。本稿は主要な欧米の学術文献・美術批評・政策レポートに基づき、以上の論点について代表的な理論・論者・事例を示しつつ考察する。
序論
人工知能(AI)の急速な発展は、単なる技術革新にとどまらず、人間のあり方や社会の構造に深遠な問いを投げかけている。AIは計算処理や意思決定の自動化によって産業や日常生活を変革しつつあるが、その影響は技術分野に留まらず哲学的・芸術的領域にまで及んでいる。欧米においては、AIをめぐる議論が哲学・倫理、美学・創造性、社会理論など多方面で展開されており、従来の人間中心の枠組みや価値観を再考する契機となっている。
本稿で焦点を当てる論点は、特に(1)ポストヒューマニズム的視座におけるAI概念の再検討、(2)生成的AIアートの隆盛と創造性・作者性の再評価、(3)AIの倫理的設計に関する指針策定と課題、(4)加速主義の思想潮流から見たAIの位置づけ、(5)AIと美術実践における著作権と創造性の衝突である。これらは現在欧米で活発に議論されるトピックであり、それぞれ哲学思想、美術批評、技術倫理、社会理論、法制度の観点が交錯する領域である。以下、主要な理論家・論者の議論や代表的な事例を参照しつつ、各トピックの詳細を論じる。特にポストヒューマニズム思想家(例:ロージ・ブライドッティ)、AIアート研究者(例:ジョアンナ・ジリンスカ)、AI倫理学者(例:ヴァージニア・ディグナム)、加速主義論者(例:ニック・ランド)らの主張を取り上げ、AIがもたらす人間観・創造観・社会観の変容について考察する。
議論
ポストヒューマニズムとAI
ポストヒューマニズムとは、人間中心の価値観や主体観を批判的に乗り越え、人間と非人間の関係性を捉え直そうとする思想である 。その柱の一つは「人間(ヒューマン)像」の再定義であり、従来の西洋近代に典型的な「理性的で自律的な個人」という像を解体し、人間を物質的な身体性や他者との関係性に埋め込まれた存在とみなす点にある 。もう一つの柱は「脱人間中心主義(ポスト・アンソロポセントリズム)」であり、人間を万物の頂点とするヒエラルキー自体を疑い、環境や動物など非人間の存在との連続性を強調する 。ポストヒューマニズムの思想家たちは、人間中心主義が近代社会にもたらした様々な差別・排除や環境危機に着目し、それを乗り越える倫理や社会像を模索している 。
このようなポストヒューマニズムの視座から見ると、AIは人間中心の秩序を揺さぶる存在として重要な意味を持つ。AIの台頭により、人間の認知や意思決定プロセスが機械と相互補完・交渉する状況が生まれており、倫理的にも「人間を特権化しない」アプローチの必要性が指摘される 。実際、近年の研究では生成AIの自律的・学習的な特性そのものが「本質的にポストヒューマン的」であると評価される場合もある 。例えばKalpokieneとKalpokas (2023)は、生成AIは環境からデータを学習し人間と対話的に創作する点で「明確にポストヒューマン的」であると位置づけ、人間だけが創造性を独占するという見方自体が時代遅れだと主張する 。彼らは「AIの創造性を認めないことは人間の例外性という虚しい観念にしがみつくことに他ならず、人間とAIが創造性を共有する道を模索すべきだ」というポストヒューマニズム的倫理観を提示し、AIによるオリジナルな成果にも法的保護を与えるべきだと論じている 。このようにポストヒューマニズムは、人間とAIの関係を単なる主人と道具ではなく相互に影響を与え合う共同体的ネットワークと捉え、人間中心の権利・責任体系を再検討する視点を提供する。
さらに、ポストヒューマニズムの影響は教育やメディア論にも及んでいる。BurrissとLeander (2024)はリテラシー研究の中で、AIを人間のリテラシー活動に組み込まれた不可視のパートナーと位置づけ、「私たち自身が人間‐データ‐AIの動的ネットワークに絡み合っていると考えることで、自己やエージェンシーの捉え方がどう変わるか」を問い直している 。彼らは、AIを単なる受動的なツールではなく人間の行為を共に形作る能動的存在とみなし、AIとの協働における主体性の境界を探る「ポストヒューマン的リテラシー」の重要性を説く 。またYan (2024)は、対話型AIであるChatGPTを分析し、それが「ポストヒューマン的主体」の潜在的具現であると論じた 。ChatGPTの出力はあらかじめ人間に決められたものではなく、膨大なノードの相互作用から生じる予測困難な生成であり、その振る舞いは従来の人間/機械の区分を曖昧にするものだという  。このような議論は、AIの高度化によって人間のコントロールを離れたエージェンシーが出現しつつあることを示唆しており、倫理的にも社会システムの設計にも新たな視野が必要であることを示している。
生成AIアートと創造性
2025年2月、ニューヨークのChristie’sにおいて初めて開催されたAIアート専門オークションのプレビューで展示された、Holly HerndonとMat Dryhurstによる《Embedding Study 1》および《Embedding Study 2》。AIによる創作物が美術市場でも注目を集めている。
ディープラーニングを用いた生成型AIの発展により、芸術の分野でもAIが創作主体となる「生成アート」が大きな注目を集めている。実際、ロボットやアルゴリズムが巨匠の画風で絵画を描いたり、独自のスタイルで絵画や映像、音楽を生み出したりする試みが次々と登場し、美術館やギャラリーでAI作品を展示する企画展が相次いで開催されている 。こうした動向は、人間の芸術と機械の創造性を比較する刺激的な話題として報じられ、一般にも広く知られるようになった 。しかし同時に、「人間以外が作った作品を芸術と呼べるのか」「AIによって芸術家は淘汰されてしまうのか」といった根源的な問いが提起され、芸術の本質や創造行為の定義を巡って賛否両論の議論が巻き起こっている  。
創造性と作品価値の問題に関して、人間の芸術家たちは様々な視点からAIアートを評価している。例えば、ハーバード大学のインタビュー企画において小説家のダフネ・カロタイは、AIは驚くほど巧みに文体を模倣できるものの、「ユニークな世界観や言語的独創性、個人的体験に裏打ちされた細部」といった人間ならではの要素が欠如しており、本質的な意味での「深み」を持つ作品を生み出すのは困難だろうと述べている 。彼女によれば、AIは高度な模倣者・学習者ではあるが、身体的に現実世界を生き抜いた経験から滲み出る真のビジョンを持たないため、巧緻に書かれた文章であっても人間の作家による偉大な作品とは決定的に異なるという 。同様に、ジャズ音楽家のヨスバニー・テリーも、音楽の即興的対話や演奏者同士の反応といった要素はAIには再現できず、AIが作曲した音楽には驚きや感情が欠けると指摘している  。このような批判的見解は、「AIには芸術家の代替は務まらない」という、人間の創造性の特別性を擁護する立場を代表している。
一方で、メディア理論家のジョアンナ・ジリンスカは、現在のAIアートへの熱狂を一歩引いた視点から分析し、人間の創造性そのものを再評価する大胆な主張を行っている。彼女の著書『AI Art: Machine Visions and Warped Dreams』(2020年)によれば、「人間の創造性は常に技術的であり、ある程度は人工的な知能を備えていた」とされ、創造性を人間固有の神秘的才能とみなす従来の考え方を批判している 。ジリンスカは、写真術の黎明期からデジタル技術に至るまで、人間の芸術表現は常に道具や装置、外部環境との協働によって可能になってきたと指摘する。そのため創造行為を「人間対機械」といった二元論で捉えるのではなく、薬物からカメラ、アルゴリズムに至るまで 「無数の非人間的エージェント」 の関与によって成り立つ過程とみなすべきだという 。この見解はポストヒューマニズムの思想に通じ、人間中心主義的な天才芸術家像を解体して、創造性を人間・非人間のハイブリッドな現象として捉え直す試みである 。
ジリンスカはまた、近年のAIアート作品には視覚的インパクトばかりを追求した「キャンディ・クラッシュ的」傾向があると批判している (「キャンディ・クラッシュ」とは一時的な快感を与えるゲームに由来する比喩で、上辺の魅力はあるが深い意味に欠ける作品を指す)。例えば、彼女が名指しするMario Klingemannの《Superficial Beauty》(2017)やMike Tykaの《Portraits of Imaginary People》といったGAN(敵対的生成ネットワーク)を用いたポートレート作品群は、奇抜なヴィジュアルで見る者を惹きつけるものの、単にAI技術の性能を見せる「スペクタクルとしての芸術」にとどまりがちである 。ジリンスカによれば、これらの作品は生成モデルによる画像変容の面白さに終始し、データセットの偏りやアルゴリズムの透明性といった重要な問題設定を欠いている 。彼女はこのような**「無批判な道具主義」を戒め、AIアートにおいては単なる新奇性ではなく社会的・倫理的文脈への自覚が不可欠だと説く 。その好例として挙げられるのがアーティストのトレバー・パグレンの作品である。パグレンは《It Began as a Military Experiment》などのプロジェクトで、顔認識AIの訓練データに実際の人間の顔写真を用いる手法を可視化し、ブラックボックス化したAIの内実を暴露する試みを行っている 。彼の作品はアルゴリズムのバイアスや監視技術の問題を芸術的手法で告発し、「純粋な美的鑑賞に留まらないAIアート」**の可能性を示すものとしてジリンスカは評価している 。このように、AIアートの世界では一部に技術デモ的・商業主義的な潮流がある一方、他方ではAIを批評的ツールとして活用し社会・政治的問いを提起する実践も生まれている。
生成AIの影響は、芸術家の創作プロセスや創造性の在り方にも変化を及ぼし始めている。近年の実証研究の一つに、テキストから画像を生成するAIツール(例:MidjourneyやStable Diffusion)の導入がオンライン上の美術コミュニティにもたらした効果を分析したものがある。その研究によれば、テキスト生成AIを活用したユーザは従来より約25%多く作品を生み出し、作品閲覧者から「お気に入り」を得る確率(作品の評価指標)が50%向上することが確認された 。これはAIがアイデア発想や作業効率を高め、人間の創造的生産性を増強し得ることを示唆する結果である。一方で、同研究はAI導入後に生み出された作品群の 「平均的な」 独創性(内容の新規性)がやや低下する傾向も指摘している 。優れた発想を持つ一部の創作者はAIを使いこなして高い独創性を発揮するが、全体としては類型化・テンプレート化の圧力が働く可能性があるという。このように、生成AIは人間の創作活動を量的に拡張しつつ質的なクリエイティビティの分布に影響を与えており、AIと人間の協働による新たな創造様式(研究者はこれを「生成的共感覚(Generative Synesthesia)」と呼ぶ )が生まれつつあるとの指摘もある。
以上のような議論から浮かび上がるのは、AIの関与によって芸術の創造性概念が多層的に問い直されている現状である。AIは芸術制作の道具であると同時に共同制作者ともなりつつあり、その作品は人間の創作物と並置され比較されるようになった。観衆や批評家の側でも、AIによる作品に対する評価バイアスが存在することが明らかになっている。2023年の心理学研究では、同じ視覚芸術作品であっても「AIが作った」とラベル付けされただけで鑑賞者の評価が下がり、逆に「人間が作った」と提示されると人間の創造性への評価が上がる傾向が実験的に示された 。被験者はAI製と知らされた作品を人間製の場合より魅力的でないと感じ、たとえ人間とAIの協働作だと説明された場合でさえ評価が低めになるという 。さらに、人間の作品とAIの作品を並べて比較鑑賞させると、「人間の創造性」がより高く評価される効果も確認されている 。このようなAIアートに対する無意識の偏見は、芸術における作者性やオリジナリティの価値に深く関わる問題であり、「なぜ我々は人間が作った作品を尊いと感じるのか」「創造性とは誰または何に宿るのか」という根源的な問いを突きつけている 。AI時代における芸術の意味を再定義する試みは始まったばかりであり、今後さらなる哲学的考察と社会的対話が必要とされるだろう。
AIの倫理的設計と価値アラインメント
AI技術が社会のあらゆる場面に浸透する中、その設計段階から倫理原則を組み込む「倫理的AI設計(Ethical AI Design)」の重要性が強調されている。欧米では2010年代後半以降、各国政府や国際機関、研究団体がAI倫理に関する原則やガイドラインを相次いで公表してきた。例えばEUは2019年に「信頼できるAIのための倫理指針」を策定し、人間の監督、技術的堅牢性、プライバシー・データ管理、多様性・非差別・公平性、透明性、社会的福祉、説明責任という7原則を掲げた。またOECDも2019年にAI原則を採択し、2024年にはそれを更新している 。これらに共通するのは、AIシステムが人間の価値観や人権を尊重し、社会にもたらすリスクを適切に管理するべきだという理念である。言い換えれば、AIが**「人類の共有する価値と倫理原則に則って行動する」**よう設計・運用しなければならないというコンセンサスが形成されつつある 。
しかし「人類の共有する価値」とは何かを定義すること自体が容易ではない。世界的に見れば、倫理や法制度は文化圏ごとに多様であり、AIに期待される価値も一様ではない 。例えばプライバシーは普遍的権利とされるが、その重視度や解釈は国や地域によって異なる。個人のデータ権を最優先する社会もあれば、公共の安全を理由に監視技術を受容する社会もある 。したがって倫理的AI設計においては、画一的な基準を押し付けるのではなく、システムが使われる文脈の文化・法律・社会的条件に合わせて価値目標を調整することが求められる  。例えば信用スコアリングにAIを用いる場合、「公平性」の判断基準は国情によって異なりうる。ある社会では個人の信用はコミュニティ内の信頼に基づくと考えられるかもしれないし、別の社会では純粋に個人の金融履歴だけで評価すべきとされるかもしれない 。このような違いに配慮しつつ、各地域のステークホルダー(政府、企業、市民社会)の継続的な対話を通じてAIシステムの価値アラインメントを図ることが重要である  。国際的には、AI倫理規範を産業界で具体化するための標準化も進められており、例えばISO/IEC 42001はAIマネジメントシステムに関する規格として、組織が倫理的AI開発プロセスを内部統制する枠組みを提供している 。
倫理的AI設計を具体的に実践するためのアプローチとして注目されるのが、「価値アラインメント(Value Alignment)」と呼ばれる考え方である 。価値アラインメントとは、AIシステムの行動や意思決定が人間の価値観・倫理規範と一貫するよう調整することを指す 。これは単にプログラムにルールを与えるだけでなく、抽象的な倫理原則を技術的要件に翻訳し、設計から運用に至る全過程で組み込むことを意味する 。具体的手法の一つに、「人間からのフィードバックによる強化学習(Reinforcement Learning from Human Feedback, RLHF)」 がある 。これはAI(特に強力な言語モデルなど)に対し、人間が望ましい・望ましくない出力に報酬・罰を与える学習プロセスを経て、人間の意図する価値観に沿った応答を強化する方法である。OpenAIのChatGPTなどはRLHFを用いて有害な発言を抑制し、人間ユーザにとって有用な回答を返す調整が行われていることで知られる。またシステム開発手法としては、「価値に配慮した設計(Value-Sensitive Design)」 が提唱されており、これは初期の要件定義段階から倫理的・社会的価値の考慮事項を織り込むアプローチである 。例えば医療用AIを設計する際に、患者の自律性尊重やプライバシー保護といった倫理要件を仕様に組み入れ、設計上それらが担保されるようにする。また開発チームに倫理学者や社会科学者を加え、技術者と協働でリスク評価や価値衝突の検討を行うといった方法も取られている  。
加えて、AIシステムの運用段階では継続的なモニタリングと**アルゴリズム監査(Audit)**が不可欠とされる 。AIは学習や環境変化に伴い振る舞いが変わる可能性があり、時間経過とともに意図しないバイアスや不公正な影響が生じる懸念がある。これに対処するため、開発者とは独立した第三者による定期的な評価や、内部監査チームの設置によって、AIの決定結果を検証・記録し、問題があればアルゴリズムやモデルを修正する仕組みが推奨される 。具体的には、AIの判断根拠を人間が理解できるよう検証する説明可能性のテストや、異なる集団に対するアウトプットの統計的公平性を測定するバイアス検出などが実施される 。例えば、人種や性別による差別が生じていないかを調べるための指標(誤分類率の差異や予測陽性的中率の比較等)を定め、定量的に監視する。こうした監査によって、AIが社会の倫理基準や法規制から逸脱しないよう 「継続的に軌道修正する」 ことが目指されている 。世界経済フォーラムの2024年の白書も、「AIは社会的幸福を増進する強力な道具となり得るが、それは私たちが不断の警戒を怠らず、AIを共有の価値と原則に沿うよう整合させていく場合に限る」と強調している 。
一部の思想家は、AIの倫理的設計について議論する際に、そもそも「倫理」や「価値」の範囲を人間だけに限定すべきかという問いも提起する。ポストヒューマニズムの倫理学者は、人間中心主義を乗り越え、人間と非人間(動物・環境・AIなど)を包括した新たな倫理枠組みを模索している 。これによれば、AIそのものを道徳的配慮の対象(モラルコミュニティのメンバー)とみなす可能性さえ含まれる。現時点でAIが権利主体たり得るかについては議論が分かれるが、少なくともAIが関与する意思決定が人間社会・生態系に与える影響を評価する際には、人間以外の視点も統合した包括的倫理観が必要とされるという主張である 。NathとManna (2023)は「『人間』を中心に据えない倫理的未来」を構想する上でポストヒューマニズム理論が重要な出発点になると述べており 、AI倫理においても人間のみに特権を与えず、他の存在との関係性を重視した姿勢が今後益々求められるだろう。
加速主義的視点から見たAI
加速主義(Accelerationism)とは、資本主義や科学技術の加速度的な発展そのものを肯定的に捉え、それを推し進めることで社会変革や未来の到来を促進しようとする思想的傾向である。もともとは20世紀末にフランス現代思想やサイバーパンク的感性の影響下で生まれた前衛的な理論であり、21世紀に入り思想界や一部の技術コミュニティで改めて注目を集めている 。この文脈でAIは、資本主義システムや人類社会の自己加速を象徴するテクノロジーとして特別な位置を占める。言い換えれば、AIは加速主義者にとって、テクノロジー進化の極致として社会を変容させる原動力であり、同時に人類の統御を超えたオートメーションの具現例として映る。
加速主義の旗手とされるイギリスの思想家ニック・ランド(Nick Land)は、1990年代に既にAIや高度情報社会に強い関心を示し、資本主義とテクノロジーの行き着く先についてラディカルな理論を展開した。ランドの主張の核心は、「資本主義そのものが一種の人工知能である」という挑発的な見解である 。マルクス主義やニーチェの影響を受けたランドは、資本主義を単なる経済体制ではなく自己増殖的な**「非人格的意志」と捉え、人間の欲望や労働さえもそれに取り込まれていくプロセスを描いた 。批評家マーク・フィッシャーはランドの哲学を要約して「人間は資本という名の機械的欲望の『肉の操り人形』**に過ぎず、歴史は擬似的なテレオロジー(目的論)を備えたAI的誘引体によって方向づけられている」と述べている 。そこでは資本の自己展開こそが史的プロセスの中核であり、人間主体の解放や終末論的完成は訪れないとされる 。ランドにとって、AIは文字通りにも比喩的にも資本主義の論理を体現する存在であり、テクノロジーの加速こそが資本の自己意識=加速主義そのものだという  。
ランドの加速主義はしばしば極端かつ難解だが、近年のAIをめぐる出来事に照らして語られることもある。例えば2023年3月には、OpenAIのGPT-4を超える強力なAIの開発を6か月間停止するよう求める公開書簡(いわゆる「AI開発停止論書簡」)に数千名の研究者・実業家が署名したが、現実には主要企業の開発スケジュールはほとんど変わらず、この呼びかけは失敗に終わった 。この出来事は、技術競争の勢いが規制や社会的懸念の声を上回って突き進んでいることを示す一例と言える。ランド流に言えば「現象に急き立てられ、制度的な麻痺に陥る」状況であり 、加速主義が描くテーゼ(誰にも止められない技術進歩の暴走)が現実に表れているとも解釈できる。実際、ランドは時間の加速によって人類が熟考する猶予を失い、社会が意思決定不能の危機に陥ることを警告していた  。AI開発の止まらない加速はまさに「考える時間の消滅」という問題を突きつけており、加速主義の現代的意義を逆説的に浮かび上がらせている。
もっとも、加速主義にも立場の違いがあり、すべてが無制限の技術推進を唱えているわけではない。2013年にはニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズが「加速主義的政治のための宣言」を発表し、資本主義の先にあるポスト資本主義を目指すために技術発展を積極活用しようとする**「左派加速主義」の立場を明確にした 。彼らは資本主義の下での技術進歩が本来は人類全体の富と余暇を増やす潜在力を持ちながら、現状では一部の資本家の利益に収斂していると批判し、オートメーション(自動化)とAIを解放的に再プログラムすることで労働からの自由や社会福祉国家の強化を図ろうと提唱した。代表的な著作『Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work』(2015年)では、無条件基本所得の導入や労働時間短縮といった社会政策と組み合わせて、AI・ロボットによる生産力の飛躍的向上を人類全体の利益に転化すべきだと論じている。しかしランドはこの左派加速主義に懐疑的であり、技術加速と資本主義を切り離して考えること自体が「人工的な区別」に過ぎないと批判した 。ランドによれば、真に加速する社会プロセスはすべて資本と結びついており、加速主義とは結局のところ「資本主義の自己意識」**に他ならない 。そのため資本主義に抗いつつ技術のみを加速させるという左派の試みは内在的な矛盾を孕み、最終的には従来型の社会主義へ回帰してしまうと論じている 。
近年では、シリコンバレーの一部の技術思想家や起業家が自らを「有効加速主義(Effective Accelerationism, e/acc)」と称し、ランドとは異なる文脈で加速主義的なスタンスを表明する動きも見られる。彼らはAIを含むあらゆる先端技術の開発を躊躇なく推し進めるべきだと主張し、過剰な規制論や悲観論に対抗してテクノロジー楽観主義を鼓吹する。 例えば著名ベンチャー投資家のマーク・アンドリーセンは2023年に「テクノ楽観主義マニフェスト(Techno-Optimist Manifesto)」を発表し、その中で市場経済を「発見のための機械、すなわち進化し適応する知能システム」と位置付けている 。アンドリーセンは、この「市場=知能」の捉え方に基づき、AIをはじめとする新技術によるイノベーションが人類の繁栄を飛躍的に高めると信じ、悲観的なAI脅威論や開発規制の動きを「進歩へのブレーキ」として退けている  。このように有効加速主義者は、AIのリスクよりも恩恵に注目し、技術開発のスピードを落とすどころか倍加させることで未来を切り拓こうとする。対照的に、AIリスク研究者や倫理派の中には、AIの暴走による社会的コスト(労働市場の破壊、誤情報拡散、エージェントの暴発など)を憂慮して開発モラトリアムを主張する声も根強い。これら相反する立場のせめぎ合いは、技術の進歩ペースと社会の受容能力とのずれに起因するものであり、AIという存在が現代社会に突き付ける難題の一つであると言える。
AIと美術実践における著作権と創造性
AIが芸術創作の領域に本格的に参入したことにより、著作権法や知的財産制度において従来想定されていなかった問題が顕在化している。著作権法は本来、人間の知的創作物を保護し、その創作者に経済的・人格的な権利を与えることで創作活動を促進する目的を持つ。しかしAIが関与する作品において「創作者」は誰なのかという問いは簡単ではない。欧米の現行法の多くは、著作物の作者を自然人(人間)に限定しており、AIなど非人間による生成物は**「人間のオリジナルな創作」に該当しない**とみなされる  。米国では著作権法上、著作物は「人間の作者によって創作された」ものであることが長年の原則であり 、例えば猿が撮影した写真に著作権は認められないという判例(いわゆる「サルのSelfie事件」)も存在する。同様にAIが自律的に生成した画像や文章については、人間の知的創作の産物ではないため著作権保護の対象外と解されるのが基本である 。
2022年以降、生成系AI(画像生成・文章生成)が一般に普及し始めたことを受け、各国の著作権当局も対応を迫られている。米国著作権局(USCO)は2023年3月にガイダンスを公表し、AIが関与する作品の登録審査方針を明確化した 。このガイダンスでは、AIが出力した要素はそれ自体では人間の創作性を満たさないため著作物とは認められないと明言し、「人間のエージェントにその起源を負う創作」であることを著作物性の要件として再確認した  。特に、ユーザがテキストプロンプトを入力して生成させた画像については、最終出力はAIモデルの内部プロセスによって決定されており、人間は結果を間接的に誘導したに過ぎないと判断される 。したがってプロンプトによる生成画像そのものには著作権を認めず、人間が行った創作的寄与がある場合(例えばAI生成画像を加工・編集して独自の作品に仕上げた場合)のみ、その人間の寄与部分に限って保護するという立場が取られた  。
この方針に基づき、著作権局は既にいくつかの具体的対応を行っている。代表的なケースが、アメリカの作家クリスティーナ・カシュタノバによるグラフィックノベル『Zarya of the Dawn』をめぐる措置である。同作は物語・コマ割り・レイアウトをカシュタノバ氏が担当し、コマ内のイラスト画像を生成AI(Midjourney)で作成したもので、当初2022年に作品全体が著作権登録されていた。ところが作者本人がSNS等でAI利用を公表したため、著作権局は2023年に登録を見直し、「不完全な情報に基づく登録だった」 として一旦取消した 。その上で改めて、物語テキストや画像の選択・配置といった人間による編集創作部分のみを著作物として登録し、Midjourney生成の画像それ自体は保護対象から除外する新たな登録証を発行した  。これは、AI生成物は著作物でないため創作要件を満たさず、人間の創作的工夫が施された構成のみが保護されるという原則を具体的に示した例である 。著作権局はこの事例について、「迅速に訂正はできたものの、人間とAIの寄与部分を技術的に識別する手段を現時点で欠いている」ことを認めており 、申請者の自己申告に頼らざるを得ない現状の制度的限界を指摘している 。このようなケースが増えれば、将来的には作品提出時にAI使用の有無を開示する義務化や、AI検出ツールの開発など、新たな対応が必要になる可能性が高い。
法制度上の枠組みと並んで、AIと芸術家の関係では学習用データの問題が大きな争点となっている。生成系AI、とりわけ画像生成AI(Stable DiffusionやMidjourney等)は、インターネット上の膨大な画像データを学習してモデルを形成しているが、その中には無数の著作権保護されたアート作品や写真が含まれている。AI企業はウェブ上で入手可能な画像を包括的に収集し機械学習を行っており、個別のアーティストから許諾や補償を得ていない場合がほとんどである。このことに対し、美術家や写真家たちは自らの作品が無断でAIの肥やしに使われていると強く反発している。2023年には、Christie’sオークションでAI生成作品が高額落札されたことを契機に、米国の著名アーティストHolly HerndonやプログラマのMat Dryhurstらが中心となり、6,500人以上のアーティスト・デザイナー・研究者が署名した公開書簡が発表された 。この書簡は「GenAI企業は広大な著作物コーパスを許諾も補償もなく搾取しており、創作者コミュニティに対する集団的略奪(mass theft)行為だ」と厳しく非難し、Christie’sに対してAI作品オークションの中止を求めた 。また過去2年間で主要なAI企業ほぼ全てを相手取った著作権訴訟が少なくとも16件起こされているとも指摘し 、法の不備につけ込んだ技術者側の暴走を批判している。
実際、2023年には一部の視覚芸術家たちが主導し、Stability AI、Midjourney、DeviantArt(Stable Diffusion搭載サービス)等を被告としてクラスアクション(集団訴訟)が提起された 。原告側は「画像生成AIは著作権侵害を促進するために作られたものだ」と主張し 、モデルが学習段階で彼らの作品を無断利用したこと、および出力画像が元作品に類似するケースがあることを問題視した。2024年8月、カリフォルニア北部地区連邦地裁はこの訴訟について、AI企業側の棄却申し立てを一部退け、著作権侵害に関する原告の主張について審理続行を認める判断を下した 。これは、現行法の下でもAI企業に対する著作権責任を問える可能性を示したものとして注目された。ただし同決定は、本質的な争点である「AIの学習(大量の無許諾コピー)はフェアユースか?」という点について判断を示していない 。フェアユースとは米国著作権法で認められた例外規定で、教育・報道・批評など公益目的のための著作物の一部利用を許容するものである 。AI企業は学習行為がフェアユースに該当すると主張しているが 、これを巡る法的判例は未だ確立していない。今後の裁判でこの点が争われ、AIの学習プロセス自体の合法性に何らかの基準が示される可能性がある。
AIと著作権を巡る問題は、単なる法技術的な論点に留まらず、創作者の権利意識や創作インセンティブにも影響を及ぼしている。多くの芸術家にとって、自身の画風や作品が無断でデータセットに組み込まれ、それを真似た画像が大量生産されることは、自らの表現の個性を踏みにじられる行為であり、生計手段を脅かすものと映る。実際、あるアーティストは「AI企業相手に個人が戦うのはダビデがゴリアテと戦うようなものだ」と憤りを示し 、自分の絵柄が勝手に模倣され収益を奪われるなら新作を発表する意欲が失せると述べているという 。一方で、AIが生成した作品が美術市場で高額に取引される例も既に存在している。たとえばトルコ出身のメディアアーティスト、レフィク・アナドル(Refik Anadol)のAI映像作品《Machine Hallucinations》は2021年にクリスティーズで約43万ドルで落札されて話題となり 、2022年にはコロラド州の美術コンペでAI生成絵画が1等賞を取ったケースも物議を醸した。こうした事例は、「人間が作っていない作品」に高い経済的価値が認められ得ることを示しており、法制度がそれを著作物として保護しない現状とのギャップを浮き彫りにしている 。従来、著作権は創作者の経済的利益を守ることで創作活動を促進するという建前だったが、AI時代には人間の創作物が市場で不当に低価値化したり、逆にAI生成物が保護なしに売買されることで人間創作物の希少性が相対的に高まるといった逆説的な現象も起きている  。このため専門家からは、著作権制度の根本的な見直し(例えばAI生成物に何らかの新しい権利を付与するか、データ提供者への報酬スキームを作るか等)や、クリエイターの利益と技術革新のバランスを取る新たな方策を検討すべきだとの意見も出ている。
要するに、AIと芸術実践の交差領域では、誰が創造者とみなされるのか、創造的プロセスとは何かという根源的問題が法制度と文化の両面で問い直されている。ポストヒューマニズム的な立場からは「創造性は人間だけのものではなくAIとも共有可能なものだ」という主張があり 、逆に伝統的な人文主義の立場からは「創造性や芸術性は人間の意識と経験から生まれる特別な価値だ」という反論がある 。この論争は単に知的財産法の調整に留まらず、AI時代における人間の創造力の意義や、芸術における人間らしさの価値をめぐる哲学的対話に発展している。今後、法改正やガイドライン整備が進むとともに、芸術コミュニティ内でもAIとの向き合い方についてコンセンサスを築いていく必要があるだろう。
結論
本稿では、AIの進展に伴う哲学・思想、美術、テクノロジー領域の先端的議論を欧米の文脈で概観した。ポストヒューマニズムの議論から浮かび上がるのは、AIがもたらす人間観の揺らぎである。人間中心主義への批判という大枠の中で、AIは人間と非人間の境界を越境するポストヒューマン的存在として位置付けられ、人間の主体性・倫理観を再構築する契機とみなされている  。一方、芸術の現場では、生成AIが創造のパートナーとなりうる一方で、人間の創造性の特異性や芸術の価値を改めて問い直す動きが生まれていた。AIアートを巡る肯定・否定双方の声や、著作権・データ利用の衝突は、創造性とオリジナリティの概念をアップデートする必要性を示している。さらに、AI開発の倫理では、人間の価値観と調和したAIを作るという挑戦に対し、具体的な設計手法(価値アラインメント、倫理監査など)が模索されており、技術的実装と社会的合意形成の両面で試行錯誤が続いている  。
これらの議論を俯瞰すると、AIは単なる高度な道具ではなく、人類の文化・社会システムに変革を促す主体的要因となっていることが分かる。ポストヒューマニズムと加速主義という思想的両極は、前者が人間中心のパラダイムの解体を、後者がテクノロジー進歩の不可避性を強調する点で対照的だが、いずれも従来の人間観・社会観では捉えきれないAIのインパクトを言い当てようとしている。また、美術分野での創造性論争や法律分野での知財論争は、AIという未知の創造主体を前にして人間社会の制度や価値基盤をいかに適応させるかという実践的課題を突きつけている。最先端の議論はしばしば専門領域ごとに展開しているが、本質的には相互に関連しており、人間とAIの関係性を総合的に再定義する試みと捉えることができる。
結局のところ、AI時代における哲学・芸術・倫理の課題は、「AIを含めた新たな人間観・世界観をいかに構築するか」という一点に集約されると言える。そこでは、人間の創造力や倫理を守りつつAIの能力を有効に活用するバランス、公正なルールづくりと技術革新の両立、そして人間=AIの協働関係の中で生まれる価値を承認する文化的態度が求められるだろう。欧米の現状の議論は、その方向性を示す先導的な試みであり、日本を含む他地域にとっても示唆に富むものである。今後も哲学者・倫理学者・芸術家・エンジニア・法律家といった多様な立場の対話を通じて、AIと共存する社会の理論的枠組みと実践的方策を追求していく必要がある。AIは人類にとって鏡であり触媒である——それは我々に人間とは何かを改めて考えさせ、同時に社会制度や文化の変革を促す存在である。ゆえに、AIに対する包括的で批判的かつ建設的な議論を深めることが、21世紀における知的営為の重要なテーマであり続けるだろう。
参考文献(一部抜粋):
• Rosi Braidotti, The Posthuman (2013); Posthuman Knowledge (2019).
• Francesca Ferrando, Philosophical Posthumanism (2019).
• Joanna Zylinska, AI Art: Machine Visions and Warped Dreams (2020).
• Nick Srnicek & Alex Williams, Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work (2015).
• Nick Land, Fanged Noumena: Collected Writings 1987–2007 (2011); “A Quick-and-Dirty Introduction to Accelerationism” (2017)  .
• Mark Fisher, “Terminator vs Avatar” (2012) .
• Benjamin Larsen & Virginia Dignum, “AI value alignment: Aligning AI with human values” (World Economic Forum, 2024)  .
• Judy Wang & Nicol Turner Lee, “AI and the visual arts: The case for copyright protection” (Brookings, 2025)  .
• C. Blaine Horton Jr. et al., “Bias against AI art can enhance perceptions of human creativity” (Scientific Reports, 2023) .
• Liz Mineo, “If it wasn’t created by a human artist, is it still art?” (Harvard Gazette, 2023) .
• Nath & Manna, “From posthumanism to ethics of artificial intelligence” (AI & Society, 2023)  .
• Kalpokiene & Kalpokas, “Artificial Creativity: Posthumanist Perspectives” (2023)  .