技術の地政学とメディアの生態系:AI・ブロックチェーン・環境問題が更新するメディア概念
はじめに
2020年以降、人工知能(AI)の飛躍的進展、ソーシャルメディアの社会基盤化、プラットフォームの不可視化、気候危機に伴う環境・エネルギー問題、デジタルアートの新潮流やブロックチェーン技術(暗号資産・NFTなど)の台頭といったテクノロジー環境の劇的変化が進行している。それに伴い、メディア論も新たな展開を見せている。本稿では、この2020年代のテクノロジー状況に根差した新しいメディア理論の動向を概観し、とりわけマシュー・フラーの提唱したメディアエコロジー以後において、メディア概念がいかに更新されたか、どのような方法論や術語が生み出されているかを考察する。まず理論的背景としてフラーのメディアエコロジーの要点を整理した上で、2020年代以降に英語圏で展開する代表的な新理論(プラットフォーム資本主義とその不可視性、AIとアルゴリズム的メディア、環境・エネルギーとメディア、デジタルアート、ブロックチェーンと分散型メディア等)を論じる。さらに、それらの理論に共通する方法論的特徴と新たな専門用語の定義を示し、最後に今後の課題について述べる。
理論的背景:マシュー・フラーのメディアエコロジー
イギリスのメディア理論家マシュー・フラー(Matthew Fuller)は、デジタル文化やソフトウェア文化の批評的実践を背景に、メディアを動的なエコロジー(生態系)として捉える独自の理論を展開した。フラーは著書『Media Ecologies: Materialist Energies in Art and Technoculture』(2005年)で、複雑なメディアシステム同士の相互作用に注目し、それらを静的な物体ではなくプロセス(過程)と見なす視座を提示している。彼によれば、現代のメディアシステムは情報的側面と物質的側面を併せ持ち、「複合的な物質性」を帯びた動的な構成要素として相互に連関する。例えばロンドンの海賊ラジオのネットワークやネットアートの事例分析を通じて、異なるメディア技術・社会要素が混ざり合うことで新たなパターンや可能性、危険性が創発する様相を示した。フラーのメディアエコロジー論は、人間中心で静態的な従来のメディア環境論を超えて、メディア装置・ソフトウェア・インフラ・人間が織りなす政治的かつ物質的な動態を解明することを目指す。彼はメディア同士の相互作用そのものを実践的に調査する中で、統一的枠組みよりもむしろ多様な活動とアイデアの「爆発」を捉えることを試みたと述べている。このように、フラーの理論はソフトウェア・スタディーズ(Software Studies)や戦術的メディアの実践とも呼応しつつ、コードやインフラなど見えにくい要素を含むメディアの生態系全体を分析対象に含めた点で画期的であった。このメディアエコロジー的視座は、後続のメディア論に大きな影響を与え、メディアの概念そのものを拡張し再定義する土台となった。
プラットフォーム資本主義と不可視のインフラストラクチャ
今日のソーシャルメディアや検索エンジンなどのプラットフォームは、人々の日常的な情報流通やコミュニケーションを掌握する巨大システムとなり、そのアルゴリズム的運用は不可視のうちにユーザー行動を誘導している。例えばSNSのフィードや検索結果のランキングは、利用者に直接は見えない「アーキテクチャ(設計)」として情報選択を操作しうる。このようにプラットフォームのアルゴリズムは不可視の「媒介者」として世論形成や文化的態度に影響を及ぼす。実際、FacebookやYouTube、Netflixなど主要プラットフォームはいずれも高度な推薦アルゴリズムによってユーザーごとに情報を最適化し提供しており、そうしたアルゴリズム媒介(algorithmic mediation)の存在が現代のメディア環境の基盤になっている。ブッカー(Taina Bucher)によれば、アルゴリズム駆動のメディアプラットフォームは「遂行的な仲介者」として意見形成を形作り、ときに歴史の流れさえ左右しうる。このようなプラットフォーム支配の状況を理論的に捉えるため、2010年代後半から「プラットフォーム資本主義」や「監視資本主義」の概念が提唱された。
アメリカの社会学者ショシャナ・ズボフは著書『監視資本主義時代』(2019年)において、GoogleやFacebookといった巨大テック企業がユーザーの私的な体験を「無料の原材料」として一方的にデータ収集し、その行動データを分析・商品化して利益を得る新たな経済体制を「監視資本主義」と定義した。彼女はこの体制を「上からのクーデター」になぞらえ、人間の行動や意思決定の自由が企業による隠れたデータ収奪と行動操作によって侵害されていると指摘する。実際、SNS上の個人情報や行動履歴に基づくアルゴリズム解析は、ユーザーごとの嗜好予測だけでなく行動の誘導=行動修正にまで及んでおり、広告表示やコンテンツ推薦を通じてユーザーの選択を密かに方向付けている。このような構図をさらに広い歴史的視野から捉えたのが、ニック・コルドリーとウルセス・メヒーアスらの提唱する「データ植民地主義」(data colonialism)である。彼らは、過去の植民地主義が土地や資源・労働力を収奪したのと類似し、現代では人間の生活世界そのものがデータという形で囲い込まれ搾取されていると論じる。アプリやプラットフォーム、IoTデバイスは生活上のあらゆる行為をデータ化・接続することで便利さを提供するが、その裏では個人の経験が「生の素材」として企業に吸い上げられ商品化され、新たな支配的社会秩序を生み出しつつある。このような批判的概念は、プラットフォームによる権力の不可視化された行使を明らかにし、データ収集の規制やデジタルな権利の擁護といった制度的対応の必要性を訴える理論的根拠となっている。
加えて、プラットフォーム上でのフェイクニュース拡散やコンテンツの過激化問題を受け、プラットフォームのアルゴリズム透明性やコンテンツ・モデレーション(内容管理)の在り方も重要な論点となった。タールトン・ジルスピーはプラットフォーム企業が恣意的な利用規約とアルゴリズム変更によって事実上の「検閲者」や「門番」として機能する現状を分析し、民主的統制の観点から批判している。総じて、ソーシャルメディアとプラットフォーム資本主義に関する近年のメディア論は、不可視化されたアルゴリズム権力を理論概念として可視化し、メディア環境の透明性・説明責任をいかに確保するかという課題を浮き彫りにしている。
AIとアルゴリズム的メディアの融合
機械学習や深層学習といったAI技術の進展は、メディアの生成・流通・消費の各段階において革新的変化をもたらし、新たな理論的問いを提起している。まず、アルゴリズムによるコンテンツ自動生成・編集が現実味を帯び、ジャーナリズムでは自動記事執筆、映像ではディープフェイク技術による合成映像、アートでは生成モデルによる創作(AIアート)の隆盛が見られる。これにより、創造性やオーセンティシティ(真正性)の概念が再考を迫られている。人間とAIの共同作業による創作物は誰の作品と言えるのか、生成モデルが学習したデータセットの偏りがアウトプットの表現や社会的メッセージにどのような影響を与えるのか、といった問題が浮上している。実際、近年の研究ではAIが既存データのバイアス(人種・性差別的偏向など)を無自覚に踏襲・増幅しうることが指摘されており、メディア内容に組み込まれるアルゴリズム的偏見への批判的検証が急務とされる。例えばサフヤ・ノーブルは検索エンジンが黒人女性に対して差別的な補完候補を提示した事例を分析し、アルゴリズムも社会的偏見を反映・再生産することを示した(『Algorithms of Oppression』, 2018)。このような研究は、テクノロジーの中立性という神話を覆し、AIシステムの透明性確保や倫理的設計(Explainable AIやAI倫理の枠組み)を訴える理論的基盤となっている。
さらに、AIがメディア流通にもたらす影響として、レコメンデーション(推薦)アルゴリズムによる情報フィルタリングとパーソナライゼーション(個人最適化)の徹底が挙げられる。人々はニュースも娯楽も各人向けにカスタマイズされたフィードを受け取るようになり、いわゆる「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」といった現象が社会問題化した。これに対しメディア理論では、人間の選好パターンを学習してユーザーの興味を最大化するAIメディアが、知らず知らずのうちに認識の偏りや社会的分断を助長している可能性を批判的に検討している。また、AIによる監視・予測の技術が広告や治安維持に利用され、個人のプライバシーのみならず将来の行動の自由までも侵害するリスクが議論される。ズボフが「人間の未来時制への権利」が脅かされていると述べたように 、常時監視と行動予測にもとづきユーザーを「誘導・調整」するアルゴリズムは、人間の自律性というメディア受容の前提を揺るがす存在である。こうした「アルゴリズム的ガバナンス」(algorithmic governance)の問題を哲学的に分析したのがベルナール・スティグレールであり、彼はデジタル時代の統治が記号操作=アルゴリズムによって新たな「欲望の調整局面」を作り出していると論じた (Stiegler, “Algorithmic Governmentality”, 2019)。この議論はフーコーの統治性概念の現代版として位置づけられ、メディア研究にもAIを権力論の文脈で位置づける視座を提供している。
一方で、AIとメディアの関係を肯定的に捉え直す理論もある。例えばベンジャミン・ブラットンの『スタック』(2015年)は、クラウドAIから都市インフラ、ユーザー端末に至るまで地球規模で重層化した計算環境を「スタック」と呼び、新たな主権空間として理論化した。彼はさらにパンデミック以後の著書『リアルの復讐』(2021年)で、データ駆動型の計算社会は適切に設計すれば公衆衛生など公共目的に資する「現実を補完する技術」となり得ると論じ、AI技術の統治への建設的統合を主張する。こうした見解は、AIをめぐる悲観論だけでなく将来的な社会的テクノロジーのビジョンについても議論を喚起している。
いずれにせよ、AIとメディアの融合に関する理論的展開は、メディアの担い手や受け手の定義を更新している。AIは単なる道具ではなく、メディア環境における能動的なエージェントとなりつつある。興味深い例として、クラウドAIアシスタント(Alexaなど)を分析したケイト・クロフォードらの研究では、ユーザーはもはや受け手に留まらず、音声コマンドを提供しフィードバックを与える「データ提供者」兼「労働者」兼「商品」というハイブリッドな存在だと指摘される。ユーザーの発話はAIシステムの改善に利用され、ユーザー自身もまたシステム訓練に組み込まれた一部となる。このように人間とAIの関係性が再定義される中、メディアの概念自体も「ポストヒューマン」的な広がりを見せ、人間と非人間(機械知能)の相互作用系として捉え直されている。
メディアの物質性・環境性とエコロジー的転回
フラーのメディアエコロジーは、メディア技術の物質的条件に光を当てるという点で先駆的であったが、2010年代後半からは気候変動や環境問題の深刻化を背景に、メディア研究における環境・エネルギー論的視座が一層強化された。これはしばしば「物質的転回」や「エレメント(元素)的転回」と呼ばれ、メディアを支える基盤物質やエネルギー資源、インフラストラクチャを解明する研究潮流として現れている。
ニコル・スタロシルスキーやリサ・パークスの研究は海底ケーブルや通信衛星など地理的インフラを詳細に追跡し、インターネットが地球規模の物理ネットワークによって成り立つことを示した。ユッシ・パリッカは『メディアの地質学』(2015年)で、半導体に使われるシリコンやスマホに必要なレアメタルといった鉱物資源に着目し、メディア技術の根底に地球物質が横たわることを「メディア自然(メディアナチュア)」の概念で表現した。またジョン・ダラム・ピーターズは『驚異のメディア(The Marvelous Clouds)』(2015年)で海・空・火・土などの自然要素そのものを通信媒介の一形態とみなし、メディアの概念を自然環境へと拡張する哲学を提唱した。こうしたメディアの環境への埋め込みを強調する研究により、従来は人間の情報伝達手段と考えられていたメディアが、生態系・地質学的プロセスと連続した存在であることが明らかにされている。その結果、メディア研究は従来の「自然 vs 技術」「人間 vs 環境」といった二項対立を乗り越え、例えば「インターネットとはサーバー群と海底ケーブルだけでなく、水冷却や空調システムによって維持される熱力学的現象でもある」といった包括的理解へとシフトしている。この流れはパリッカのいう「ダーティ・マテリアリズム」(汚れた唯物論)的アプローチとも呼応し、テクノロジーの裏側にある採掘労働、電子ゴミ汚染、炭素排出などの「見えざる環境コスト」を暴き出す政治性を帯びている。
実際、2020年代にはデータセンターの莫大な電力消費やストリーミング配信によるCO₂排出量の増大が問題視され、デジタル技術の環境負荷を批判的に捉える概念として「デジタル・サステナビリティ」や「カーボン・フットプリント」が論じられている。メディア理論家のショーン・キュービットは『有限なメディア』(2017年)で「デジタル技術は有限な地球資源を消費する以上、無限成長は不可能」と指摘し、メディア産業の環境正義の課題を提起した。またケイト・クロフォードとヴラディン・ヨーラーのプロジェクト「AIシステムの解剖学」(2018年)は、Amazon Echo(AIスマートスピーカー)の1回の音声コマンドの背後に膨大な採掘・労働・データ処理のネットワークが存在することを視覚化してみせた。彼らのマップは、リチウム鉱山の労働から海底ケーブル網、データサーバの電力までを一望に示し、ユーザーが享受する「摩擦なき便利さ」の陰で搾取と環境破壊がグローバルに進行していることを告発した。こうした知見に基づけば、現代のメディア技術の発達した「メディア圏(mediasphere)」は中心においてユーザー体験の効率化・透明化を追求する一方、その周縁ではブラックボックス化された資源収奪と環境負荷が拡大するという緊張関係にある。つまり、プラットフォームの不可視化とは単にUI上で装置を感じさせなくするだけでなく、技術を支える物質的インフラ(労働・資源・エネルギー)をも感じさせなくする構造的傾向なのだ。ジャッコ・ケンパーはこれをデジタル時代の「フリクションレス(摩擦なき)・デザイン」の光と影と捉え、ユーザーの知覚から隠蔽されたインフラの実体を環境人文学的観点から問い直す必要を唱えている。要するに、メディア理論におけるエコロジー的展開は、メディアを環境=生態系の一部として再定義し、その持続可能性や倫理を検討する段階に入ったといえる。
デジタルアートとメディア理論の新展開
技術革新は芸術の領域にも新たな創造と批評の潮流を生み、メディア論とアート論の接点で多くの理論的展開がみられる。まず、インターネット以降に登場した現代美術の動向として「ポスト・インターネット・アート」(Post-Internet Art)の概念が提唱され、デジタル技術が日常化した時代の芸術表現を捉える試みがなされた。ポスト・インターネット・アートは、もはやデジタルとフィジカルの区別が意味をなさなくなった状況下で、インターネット文化やソーシャルメディアの影響を前提とした作品群を指す。これはメディア論的には「デジタルが背景化した社会におけるメディア経験」の探求とも言え、アートを通じて現代メディア環境の反省的理解を促すものだった。
近年特に顕著なのが、AI技術を用いた創作(ジェネラティブ・アート)や、ブロックチェーン技術によるアート市場の変容である。前者では、生成的敵対ネットワーク(GAN)などのAIが生み出す絵画や音楽が注目を集め、人間とアルゴリズムの協働による美の探究が進んでいる。美学者たちは、AIが生み出すイメージの特性(例えばデータセットに依存する様式の偏りや、人間には予期できないノイズの創発)を分析し、新しい「AI美学」の可能性を議論している。また、創作プロセスにおける作者性(オーサーシップ)の問題も浮上し、アルゴリズムが作曲した音楽や描いた絵画に対し、それを調整・選択した人間の創造性をどう位置付けるかという哲学的問いが提起されている。一方、NFT(非代替性トークン)アートの爆発的ブーム(2021年前後)は、デジタルデータに唯一無二の所有証明を与えることでデジタル作品の経済流通を可能にした。同時にそれは、美術作品の商品化を極限に押し進める現象として批評の対象ともなった。批評家ゾラン・ポポスキらは、NFTアートがデジタルアートの究極的商品化を体現し、美の価値が暗号市場の投機対象へと還元される危険性を指摘している。この指摘は、ウォルター・ベンヤミン以来の芸術と複製技術をめぐる議論を21世紀の文脈でアップデートするものであり、オリジナルとコピーの概念、アートの経済価値と象徴価値の関係について新たな理論的思索を喚起している。加えて、NFTやブロックチェーンはアートに限らずメディア流通の分散化の試みとしても位置づけられる。中央集権的プラットフォームによらずに作品や情報を流通・収益化できる可能性は、メディアの在り方そのものを変革し得るが、その実現性や環境コスト(暗号通貨マイニングの膨大な電力消費)は慎重に見極める必要がある。こうした論点は「Web3」と総称され、従来のプラットフォーム経済に対抗する分散型メディアのユートピア/ディストピア双方のシナリオが理論的に語られている。
また、デジタル技術は芸術表現の政治的実践としての側面も強化した。代表的なのが、エヤル・ヴァイツマン率いる「フォレンジック・アーキテクチャー」やジュリアス・フォン・ビスマルクらによる社会介入型アートである。ヴァイツマンとマシュー・フラーの共著『Investigative Aesthetics』(2021年)は、ジャーナリズム・人権調査・芸術・法学が交差する「調査的美学」という新領域を提唱した。これは、市民がスマートフォンで撮影した動画や衛星画像等のオープンソース情報を美学的センスで分析・構成し直すことで、国家権力の暴力や環境破壊の真実を暴く実践である。たとえばシリア内戦やパレスチナ問題において、建物の破壊映像や弾道の解析をアート空間で提示しながら法廷証拠としても機能させるなど、従来別個だった分野を横断する活動が展開されている。このような調査的美学は、「見ること」「可視化すること」自体を政治的行為とみなし、アートをオルタナティブな知識生産と権力への対抗の手段として再位置付ける理論的意義を持つ。フラー=ヴァイツマンの指摘する「コモン・センシング(共通の感覚構築)」とは、まさに多様な当事者がセンサー(感知装置)やセンス(感覚)を共有して真実を構築していく新たな公共性であり、これは広義のメディア概念の拡張とも言えるだろう。デジタル時代の芸術実践は単なる美的追求に留まらず、社会的検証・監視への批判・文化的抵抗のメディア論的探究として機能しているのである。
方法論的特徴と新たな用語
以上で見た各領域の新展開には、共通して学際的かつ実践的な方法論志向が認められる。まず、メディア研究者たちはコンピュータサイエンスやデータ科学の知見を積極的に導入し、アルゴリズム解析やビッグデータ分析を用いた「クリティカル・データ・スタディーズ」的手法を発展させている。例えばSNS上の情報拡散ネットワークを可視化する計量分析、検索エンジンの結果偏向を検出する監査実験(Algorithm Audit)など、従来の質的分析と計量的手法を組み合わせた研究が増えている。これはメディア研究の手法を拡張し、技術のブラックボックスを内部から解明する試みでもある。フラーがかつて実践したようなソフトウェアの改変(Webアートによるコードの露呈)やハッカースタイルの実験も、今日では「クリティカル・エンジニアリング」や「クリティカル・メイキング」といった名の下に方法論化されつつある。すなわち、メディア技術を実際に制作・改変することで内在的に批評するアプローチであり、これは理論と言説だけでなくプロトタイプやアート作品という形でも知見を生み出す。
また、人文学と社会科学の協働も顕著である。プラットフォーム研究では政治経済学や法学の視点が取り入れられ、例えば「プラットフォーム労働」(ギグワークやUGC投稿者の労働価値)をマルクス経済学的に分析したり、プラットフォーム規制の法政策論を展開する研究も現れている。同時に、フェミニズムやポストコロニアル理論など批判理論のアップデートも進み、データやAIに潜む権力関係をジェンダーや人種の視角から照らし出す「テクノフェミニズム」「脱植民地的コンピューティング」といった議論も台頭した。これらはメディア技術を取り巻く権力構造を多層的に解析するための概念装置といえる。特筆すべき新用語としては、前節までに挙げた「監視資本主義」(Surveillance Capitalism)、「データ植民地主義」(Data Colonialism)、「アルゴリズム的ガバナンス」、「ポストヒューマン」、「エレメンタル・メディア」、「メディアナチュア(Medianatures)」、「ポスト・インターネット」、「AI美学」、「NFTアート」、「調査的美学(Investigative Aesthetics)」等が挙げられる。これらの新概念群は、それぞれ従来にはなかった視座や分析単位を提示することでメディア論のボキャブラリーを豊かにし、同時にメディアの定義境界を拡張・再編している。例えば「エレメンタル・メディア」という用語は通信インフラを構成する素材要素(空気・水・金属など)に注目する分析を指し 、メディアを構成する基本単位の捉え直しにつながっている。また「ポストヒューマン」的視点は、人間以外のエージェント(AI、動物、環境)が情報プロセスに関与することを積極的に認識し、メディアを複数の主体による分散的ネットワークと見なす捉え方である。こうした用語や概念装置を駆使することで、現代のメディア論は複雑化する実態に理論的メスを入れているのである。
今後の課題と展望
英語圏における新しいメディア論は、テクノロジーの急速な進化に対応して概念と方法論を刷新してきたが、今後さらなる発展のためにいくつかの課題が指摘できる。第一に、学際的対話の深化である。メディア論は既に工学・社会科学・人文科学の交差点で展開しているが、例えばAI開発者やプラットフォーム企業との対話、政策立案者との連携を通じて理論知を社会実装へ橋渡しする取り組みが求められる。ブラックボックス化したアルゴリズムへの規制や倫理指針策定には、理論研究者の知見を現実の制度に反映させる努力が不可欠であろう。第二に、グローバルな視点の取り込みである。現在の理論は欧米中心のテクノロジー企業や社会状況に立脚するものが多いが、データ植民地主義が示すようにテクノロジーの影響はグローバル南南問題や先住民の権利にも及ぶ。したがって非英語圏や周縁地域の文脈を踏まえた理論的検討、現地のオルタナティブな実践(例えば分散型ネットワークの地域実験など)との交流が重要となる。第三に、メディア概念のさらなる拡張である。例えばメタバース(仮想空間プラットフォーム)の普及や、将来的な量子コンピューティングの通信への影響など、新領域への理論的備えも必要だろう。メディアの定義境界は今後も揺れ動く可能性が高く、計算デバイスだけでなく生体データや都市空間そのものがメディア化していく事態にどう取り組むかが問われる。第四に、倫理と人間の位置づけに関する問いの深化である。ポストヒューマン的視座が広がる一方で、人間の主体性や創造性をいかに位置づけ直すかは依然大きな哲学的問題である。人間の尊厳や権利を擁護しつつ技術と共生する道を探る理論的探究(例えば「AIと人類の協調進化」論など)は、今後一層重要となるだろう。
最後に、日本の文脈に目を向ければ、英語圏の最先端理論を参照しつつ日本独自の課題(プラットフォームに対する法制度の遅れ、技術への社会的受容性など)に応用することが求められる。英米の議論との対話を通じて、日本のメディア論もガラパゴス化を避けグローバルスタンダードへ接続していくことが望ましい。本稿で概観した新しいメディア論の展開は、メディアを取り巻く世界の見方を刷新する理論的道具を提供している。メディアをエコロジカルかつプラネタリー(地球規模)的視野で捉え、人間と技術と環境の複合体として理解することは、21世紀におけるメディア論の重要な方向性である。それにより、私たちはテクノロジーの未来をより批判的かつ創造的にデザインしていく指針を得られるであろう。