元素としてのメディア:自然を媒介として捉える芸術実践
序論:エレメンタル・メディアという視点の射程
「エレメンタル・メディア」とは何か。それは、メディアを技術的装置や情報伝達手段に限定せず、自然環境そのものを媒体と捉える視点である。ジョン・ダラム・ピーターズは著書『The Marvelous Clouds』において、この概念を提唱し、「環境もメディアである」と述べている。彼によれば、メディアとは人間世界を構成する諸要素であり、メッセージの運び手以上の存在である。火の使用や暦作り、星の観測といった文明の初源から、デジタル時代に至るまで、自然と文化を結ぶインフラとしてメディアを捉え直すことで、人間と自然環境の関係を再考することがエレメンタル・メディア論の狙いである。これは従来の技術主義的なメディア観を超克し、自然環境とメディアの交差領域に光を当てる試みである。今日、「クラウド」といえばITインフラを意味するように、自然現象と技術的世界は地続きであり、両者の区別自体が揺らいでいる。エレメンタル・メディア論はまさにその地平で、メディアを自然の諸要素(元素、水、大気、土壌など)や環境そのものとして広く捉えることで、メディア研究の射程を拡張するものである。序論ではまずこの視点の意義と背景を概観し、続く節で理論的基盤、思想的影響、芸術実践、そして現代のキュラトリアルな展開を順に考察する。
理論的背景:ピーターズとパリッカによる理論の展開と交差
エレメンタル・メディア論の理論的背景には、メディア哲学者ジョン・ダラム・ピーターズとメディア理論家ユッシ・パリッカの先駆的な仕事がある。ピーターズは前述のようにメディアを環境へと拡張し、自然(大気や海洋など)を人間文化と結びつける基盤として位置づけた。彼は「環境=メディア」という逆転した視座を提示し、人間が自己や他者、自然界と関係を取り結ぶための根本的インフラとしてメディアを捉える。このアプローチは、従来のメディア=情報伝達装置という図式を覆し、自然環境それ自体が意味伝達や経験の媒介となってきた長い歴史を浮かび上がらせる。ピーターズの議論はドイツのメディア研究やハイデガーの四元論、エマーソンの自然哲学にも通じる幅広い知的伝統に根ざしつつ、「メディアとは何か」という根源的問いに環境論的な地平をもたらしたと言える。
一方、ユッシ・パリッカはメディアの物質性と地質学的側面に焦点を当て、「メディアの地質学 (Geology of Media)」や「メディア自然 (Medianatures)」の概念を展開した。パリッカは、デジタル文化をはじめとする現代のメディアが一見無形で仮想的な領域に思えても、実際には地球物質に深く依存していることを強調する。彼の論考によれば、シリコンチップや光ファイバーからスマートフォンに至るまで、あらゆる電子メディアは地殻から採掘された金属資源や希少鉱物なしには成立しない。「メディアなしに地質学は語れないし、地質学なしにメディアも存在し得ない」という逆説的な表現で、パリッカはメディア技術が地球時間(数百万年規模の地質学的時間)と切り離せないことを指摘する。つまり、現代の情報社会は、地球の長大な時間と物質的資源を背後にもつのであり、私たちが「クラウド」や「ワイヤレス」と呼ぶインフラも巨大な鉱物採取とエネルギー消費の上に成り立つ。またパリッカは、メディアが引き起こす環境汚染や電子廃棄物といった負の側面にも注目し、企業的な資源搾取が招く新たな地質時代を「アントロポブシーン(Anthropobscene、人新世の“猥雑さ”)」と呼んだ。この造語は人新世(Anthropocene)と「obscene(見るに堪えないもの)」を掛け合わせ、人類による過剰な資源収奪と環境汚染の不穏さを批判的に示す。パリッカの議論においても古代の四大元素(水・火・土・空気)が再び参照されており、メディア文化をそれら元素の視点から開くことが提唱される。彼はロバート・スミッソンなど環境に介入する芸術家の思想を引き合いに出しつつ、メディアを人間の延長と見るマクルーハン的発想を批判し、「要素的(elemental)なもの」こそが媒介の根本にあると論じている。
ピーターズとパリッカのアプローチはそれぞれ独自の方向からメディア論を環境や物質性へ拡張するが、両者には大きな交差点がある。それは技術中心のメディア観を脱構築し、人間と自然の相互媒介性を捉え直すという点である。ピーターズが環境そのものの媒質性を強調する一方で、パリッカはメディア技術の地球的基盤と環境負荷を露わにする。ともに、人間と非人間(自然)の関係性をメディアの問題系として統合し、メディア研究に環境人文学的視座を導入した点で共通する。こうした理論的背景は、メディア論と環境論の交差という近年の学際的潮流とも響き合っている。21世紀に入り、メディア理論と環境人文学の「交流」が活発化しつつあることは指摘されており、エレメンタル・メディア論はその代表的な成果と位置づけることができるだろう。
思想的影響:メディア論・環境人文学・美学における射程
エレメンタル・メディアという視点がもたらす思想的影響は広範囲に及ぶ。まずメディア論の領域では、この視点はメディア研究の射程を従来の電気通信やマス・メディアの枠組みから大きく拡張した。ピーターズの提起した「環境=メディア」という概念は、メディアを人間の文化装置としてだけでなく、生態学的環境としても捉えるメディア生態学の発想に連なるものである。マクルーハン以来「メディア環境」という比喩は使われてきたが、ピーターズはそれを文字通りに反転させ、環境それ自体を媒質と見做した点で新機軸を打ち出した。またパリッカの議論は、ドナ・ハラウェイの唱えた「ネイチャー=カルチャー (naturecultures)」にならい、メディア=ネイチャー (medianatures) という統合概念を模索する。これはメディア技術とそれを支える物質的-自然的条件とを一体のものとして捉えるアプローチであり、メディア研究を環境問題や物質文化論と接続する試みである。実際、「メディアと環境の交点に立つ環境メディア研究」とでも呼ぶべき分野が台頭しつつあり、メディア理論を環境的関心へと再定向することの緊急性が指摘されてもいる。人間が地質学的な作用主体となった人新世において、データセンターのエネルギー消費や電子ゴミの山といった問題は、もはやメディア研究において看過できないテーマである。エレメンタル・メディア論はこのようにメディア論の地平を広げ、メディア技術の環境内在性(メディアは常に環境を介して存立し環境へ作用するという事実)を明らかにした。
次に環境人文学の領域では、エレメンタル・メディア論は科学技術と人間・自然系との関係性を論じる上で理論的架橋を提供している。環境人文学は気候変動や環境危機に対し人文学的思考から応答する分野であり、その中では「メディアと環境」「テクノロジーとエコロジー」の関係性が重要なテーマとなっている。ピーターズやパリッカの仕事は、環境人文学にメディア技術の視点を組み込む上で大きな影響を及ぼしたと言える。例えば、パリッカのアントロポブシーン概念は環境人文学に対し、現代テクノロジー企業の環境破壊を告発する批評的視座を提供した。また「環境=メディア」という捉え方は、環境そのものをコミュニケーションや記録の主体として見る発想へとつながり、人間中心主義を超えた環境ナラティブの構築を可能にする。環境人文学におけるエコクリティシズムやポストヒューマニズムの議論とも共鳴し、人間と非人間(動物・物質・気候)の新たな関係性を思索する契機となっている。要するに、エレメンタル・メディア論は環境人文学にメディア技術と情報の次元を組み込み、環境問題を「媒介」という切り口から問い直すことを促進している。
さらに美学および芸術論の領域でも、エレメンタル・メディアの視点は新たな知見をもたらしている。芸術において素材や現象そのものの持つ力に注目する傾向は以前からあったが、エレメンタル・メディア論はそれを理論的に裏付ける枠組みを提供する。すなわち、美学における素材性(materiality) やプロセスの美学への関心と、エレメンタル・メディア論は深く関わる。霧、光、水、石、風といった自然要素を扱う芸術実践は、それ自体が「元素的メディア」の探求と位置づけられる。この観点から見ると、芸術作品は単に人間のメッセージを伝達する媒体ではなく、自然の作用を含みこんだ現象的プロセスそのものとなる。例えば、霧の彫刻や風によって形を変えるインスタレーションは、観客に環境と一体化した感覚経験を提供する。エレメンタル・メディア論はこうした現代芸術の潮流を理論的に支え、芸術における素材と自然現象の役割を再評価する視座を与えている。環境とメディア、自然と技術の融合という今日的テーマに対し、美学もまた感性と素材のレベルで応答しつつあり、その背景にはエレメンタル・メディア的発想が流れ込んでいると言えるだろう。
芸術的展開:ランドアート、もの派、メディアアートにおける素材と自然現象の実践
エレメンタル・メディアの視点は、現代美術の様々なムーブメントや作家の実践に見出すことができる。特にランドアート(大地の芸術)、もの派、そして環境志向のメディアアートの領域において、素材と自然現象を媒介とする表現が展開されてきた。ここでは、具体的な作例としてハンス・ハーケ、中谷芙二子、ロバート・スミッソン、栗林隆らの作品を取り上げ、エレメンタル・メディア論との関連を考察する。
まずランドアートは、1960年代後半から1970年代にかけて主に欧米で興った芸術運動であり、地球そのものをキャンバスや媒体とする大胆な表現を特徴とする。ロバート・スミッソンはランドアートの代表的作家であり、彼の《スパイラル・ジェティ》(1970年)はユタ州グレートソルト湖の湖岸に巨大な螺旋状の土木構造を築いた作品として知られる。黒い玄武岩や泥、塩の結晶といった現地の地質素材を用い、湖水位の変化に伴い露出と水没を繰り返す《スパイラル・ジェティ》は、大地と水という元素が作品の一部となり、時間とともに変容するメディアであるといえる。スミッソン自身、エントロピー(均質化へ向かう不可逆な変化)に強い関心を抱き、自然のプロセスを作品に取り込むことで人間中心の芸術概念を揺さぶった。彼の思想は、メディアを人間の延長とするマクルーハン的発想への批判として位置づけられ、「芸術においても技術装置ではなく土・水・空・火といった根源的要素を再考すべきだ」という示唆を含んでいた。ランドアート全般に目を向ければ、マイケル・ハイザーの巨大な地形切断や、ナンシー・ホルトの太陽の運行と連動する作品(《サン・トンネル》1976年)など、自然の力や天体のリズムを媒体化した例が数多く存在する。これらはエレメンタル・メディアの観点から、自然そのものが「表現者」として働く芸術とみなすことができるだろう。
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Robert Smithson - Spiral Jetty
日本の「もの派」は、ランドアートと同時期の1968~70年頃に台頭した美術動向で、未加工の素材や自然物を作品として提示した点で独特の展開を見せた。もの派の作家たちは石、木、土、紙など手を加えていない素材そのもの(「もの」)に注目し、それらを空間に配置することで作品を成立させた。たとえば関根伸夫の《位相-大地》(1968年)では地面に大穴を掘り起こした土塊を隣に据え直し、「穴」という不在と掘り出された土という存在を並置した。この作品は大地そのものを素材兼メディアとした試みであり、人為と自然の境界を問いかけるものであった。また李禹煥は石とガラス板、水などを組み合わせ、物質同士の関係性を際立たせるインスタレーションを数多く発表している。もの派の理念の一つには、作家の主体性を極力後退させ、素材そのものの声を聞く姿勢があった。加工されていない自然物をほとんどそのまま提示することで、観客に「もの」が本来もつ存在感や場との関係性を感じ取らせようとしたのである。これはいわば自然物との協働とも言えるアプローチであり、環境(場)と素材(もの)が相互に響き合う状態を作家がセッティングするに留まる。関根伸夫の発泡スチロール作品《位相-スポンジ》では、スポンジ材が自然に歪んでいく「偶然性」に着目し、それを自然との協働と述べている例もある。このようにもの派の作品群は、エレメンタル・メディア論が重視する素材の自発的な働きや環境との相互作用を芸術実践として先取りしていたと言えよう。人為と自然、主体と客体のヒエラルキーを揺さぶり、自然物そのものの顕現に立ち会わせるもの派の試みは、技術機械を介さずとも環境自体がメディウムとなり得ることを示した。
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関根伸夫《位相-大地》
さらに、環境に着目したメディアアートの系譜においても、エレメンタルな素材や現象を扱う実践が見られる。ハンス・ハーケ(ハンス・ハーケ)はその初期作品で、生物学や物理現象を用いたシステム的作品を制作した。特に有名な《コンデンセーション・キューブ (Condensation Cube)》(1963–65年)は、密閉された透明なアクリル立方体の中に少量の水を入れ、室温や光の変化によって水が蒸発・凝結して滴となり、再び液体に戻るサイクルを示す作品である。この立方体の中では水が気体・液体の相を循環し、周囲の環境条件(温度や人の存在)に反応して絶えず姿を変える。ハーケの《コンデンセーション・キューブ》は「生きている芸術作品」とも称され、一人の鑑賞者が見ている瞬間と次の瞬間とで内部の様相が変化し続ける。つまり作品=システムが環境要因を取り込み、時間とともに自律的に変容するのである。その外見は単なる水入りの箱だが、環境が変われば水滴のパターンも変わるため、二度と同じ状態にならない。ハーケ自身、生態学やシステム論の影響の下で「作品を取り巻く諸条件との相互作用」に関心を持っていた。彼のこうした試みは、テクノロジーではなく自然現象を媒介としたインタラクティブなアートと位置づけられる。1970年代以降、ハーケは社会システム批判へと作品主題を移していくが、初期の環境システム作品はまさにエレメンタル・メディア的な素材観を体現していた。
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Hans Haacke - (Condensation Cube
日本のアーティスト中谷芙二子も、エレメンタル・メディア的実践の先駆者である。彼女は人工霧(フォグ)を用いた彫刻作品で国際的に著名であり、1970年の大阪万博ではE.A.T.(実験芸術とテクノロジー)の一環として《霧の彫刻》を制作した。中谷は「私は霧の彫刻家だが、自ら形を作ろうとはしない。大気が鋳型であり、風がノミなのだ」と語っている。これは、自然(気象)を共同制作者と位置づける彼女の姿勢を端的に表現している。人工霧発生装置というテクノロジーを使いつつも、最終的な形態は風向きや温度・湿度といった環境条件に委ねられる。霧は刻一刻と姿を変え、可視のものを見えなくし、不可視のものを浮かび上がらせる。中谷にとって重要なのは映像の独創性よりも、メディウム(霧)が持つ自然環境への感応性であると言う。彼女の作品《グリーンランド》シリーズや各地のフォグ・インスタレーションでは、観客は霧に包まれることで環境そのものを「触覚的」に体験する。霧という不定形で消えゆく素材は、人間の制御を超えた要素として作品に生命を吹き込み、「消えてしまうところが一番好き」という中谷の言葉通り、その儚さが逆に強い印象を残す。中谷芙二子の実践は、自然現象とテクノロジーの結節点に立つメディアアートの典型であり、エレメンタル・メディア論が指摘する自然とメディアの融合を芸術として体現したものである。
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中谷芙二子 《グリーンランド》
栗林隆もまた、自然との境界や人間の知覚を問い直すインスタレーションで知られる日本の現代美術作家である。彼は一貫して自然と人間の関係性や「境界」をテーマに作品を制作してきた。代表作の一つ《Sumpf Land》(「湿地」)では、床下に水を張り、その上に観客が立つことで、水面に映る自らの姿と周囲の環境との一体化を感じさせる空間を作り出した。栗林の作品はときに鑑賞者自身を内部に取り込み、上下や内外の視点を反転させることで、人間が普段意識しない環境とのつながりを可視化する。2010年の森美術館「ネイチャー・センス展」においても、栗林は雪や水、森といった自然要素をモチーフにした大型インスタレーションを発表し、都会の日常で鈍化した「自然を知覚する力」の覚醒を試みた。東日本大震災(2011年)以後、人々の自然観が劇的に変化する中、栗林の作品は環境への新たな眼差しと人間の感性(センス)の再発見を促したと評されている。彼の活動は、素材としての自然だけでなく鑑賞者の身体的参与を含めて、人間と自然環境の媒介関係を芸術的に実験するものであり、その点でもエレメンタル・メディア論の問題意識と響き合っている。
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栗林隆《Sumpf Land》
以上のように、ランドアート、もの派、メディアアートにおける代表的な作品群は、素材性と自然現象を積極的に作品化することで人間と環境の関係を問い直してきた。それは偶然性や環境条件を作品に取り込むことで、作者のコントロールを超えた次元で意味が生成される場を作り出す実践である。これら芸術的展開は、技術機器に依存しない形でメディウムを拡張し、「自然」というエレメントそのものをメディアとして働かせる点において、エレメンタル・メディア論の思想と深く共鳴するものであった。
現代的展開:展覧会「Weather Engines」「ネイチャー・センス展」等のキュラトリアル事例分析
エレメンタル・メディア的な視点は、近年の展覧会やキュレーションのテーマにも強く表れている。ここでは、その現代的展開として国際的な展覧会「Weather Engines」(2022年、アテネ)と、日本の「ネイチャー・センス展」(2010年、東京・森美術館)を取り上げ、それぞれの企画意図や内容を分析する。両者は異なる文脈ながら、自然環境とメディア/アートの交錯をキュレーションした点で共通しており、エレメンタル・メディア論の実践的展開例といえる。
「Weather Engines」展は、エコロジーとメディアに関心を寄せるメディア理論家ユッシ・パリッカとキュレーターのダフネ・ドラゴナによって共同企画され、2022年にギリシャ・アテネのオナシス財団ステギにて開催された。この展覧会は、題名が示す通り「天気 (Weather)」を一種のエンジン(装置)と捉え、人間社会や政治と絡み合う気象現象をテーマとしたアート作品と言説を集めている。公式のプレスリリースによれば、「Weather Engines」展は気候危機を出発点とし、「我々の生活をエンジニアしている諸元素(熱・寒さ、風・雨)を探求する」作品群で構成されていた。音響・映像インスタレーション、彫刻、映像作品などが出展され、大地から大気まで、土壌から成層圏に至る環境の詩学・政治学・テクノロジーが扱われた。具体的には、気象観測機器と生物指標(バイオインジケーター)に着目した作品や、過去・現在・未来の異なる地理的文脈における風や雨の経験をテーマにした作品が紹介された。同展のキュレーションの重要な視点は、「人新世の時代にはすべての天気は人工物である」という認識である。人間活動が地球規模で気候システムに影響を及ぼしている現在、もはや「純然たる自然の天気」は存在せず、常に人為的要因が混入しているという指摘だ。したがって、もし「すべての天気が作られたもの (made)」であるならば、我々は望む気候・天候のために闘う可能性も残されている。このメッセージは、単なる絶望ではなく、人為が介入する余地を引き受けつつより良い環境を希求する倫理へとつながる。展示には世界各地から気鋭のアーティストが参加し、例えば雲や海洋を生命を支えるエンジンとして捉えた作品、植民地主義的な天候操作(いわゆる「気象兵器」など)を批判的に検証する作品、温暖化に伴う極端気象を詩的に表現する作品など、多岐にわたるアプローチが見られた。また会期中には「天気の美学とテクノロジー」に関する国際会議も開催され、気象の軍事利用(ジオエンジニアリング)から気候正義、そして詩的な人新世表現まで、幅広い議題が議論された。このように「Weather Engines」展は、天気=環境現象をメディアと捉えるエレメンタル・メディア論的発想を土台に、アートと批評と科学を横断する革新的キュレーションを実現した。メディア理論と環境問題とを結びつけるパリッカの思想が実地に活かされた例であり、現代におけるエレメンタル・メディア論の応用可能性を示している。
一方、「ネイチャー・センス展」(正式タイトル「ネイチャー・センス展:日本の自然知覚を考える3人のインスタレーション」)は、2010年に東京・森美術館で開催された展覧会であり、吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆という日本人アーティスト/デザイナー3名の大型インスタレーションで構成された。この展覧会は日本における自然観や、現代生活に潜在する「自然を知覚する力 (Nature Sense)」に焦点を当てたものである。企画意図によれば、高度に都市化・近代化した現代においても人間の身体はなお自然の存在を感じ取っており、五感や皮膚感覚を通じた「ネイチャー・センス」の覚醒がテーマとされた。出展作品はいずれも雪、水、風、光、星、森、滝といった自然現象や非物質的・不定形な要素を題材に取り入れ、それらを抽象的かつ象徴的に空間へ投影したものであった。例えば吉岡徳仁は純白の結晶体による《Snow》のインスタレーションを発表し、人工雪ともいうべき光景で観る者の知覚に働きかけた。篠田太郎は天体や宇宙の運行に着想を得た作品で光や水を扱い、栗林隆は前述のように水や森を用いた作品で観客を環境に没入させた。それらの作品世界に共通するのは、日本の伝統的な自然観(森羅万象と人間を一体のものと捉えるコスモロジー)を背景に、人間と自然との新たな関係性を提示しようとする点である。ネイチャー・センス展の解説によれば、3人の作品に表れる自然観は「人為と対立する自然」という近代的図式よりも、人間を含む天地万物=宇宙論的な自然観に近いものであり、それは日本文化に脈々と受け継がれてきた感性に根ざすという。したがって本展は、現代のデザインやアートにそうした自然観がどのように活かされているかを問う試みでもあった。展示空間は観客が直接体感できるスケールで構成され、視覚だけでなく全身で自然現象を感じ取る体験が演出された。例えば温度変化や水の流れ、光の変容といった五感に訴える要素が散りばめられ、来場者は都会にいながら自身の中の「ネイチャー・センス」が呼び覚まされる感覚を味わったという。本展は、日本固有の文脈から人間の感覚と自然環境の交差をテーマ化したキュラトリアル事例であり、エレメンタル・メディア論の視点を文化的・感性的側面で応用したものと位置づけられる。技術や情報よりも感性や身体性を強調した点で「Weather Engines」とはアプローチが異なるが、どちらも自然の諸要素と人間の関わりを再構築するという大きな目的を共有している。
このように近年の展覧会事例を見ると、エレメンタル・メディア論的なテーマが各地で立ち上がっていることが分かる。国際的には気候変動や環境危機という文脈の中で天候・気候とメディア技術の問題を芸術で問う企画が現れ、日本においても自然知覚と文化を問い直す展覧会が企画されている。いずれも従来のメディアアート展とは一線を画し、電子技術の先端性を競うのではなく、より根源的な自然元素と人間の関係性に着目している点が特徴的である。これはまさに、エレメンタル・メディア論がもたらした新たな視座が、キュレーション実践にまで浸透している証左と言えるだろう。
結論:エレメンタル・メディア論の可能性と批判的課題
エレメンタル・メディア論は、メディア研究や環境人文学、芸術実践に横断的な影響を及ぼし、新たな地平を切り開いている。本稿ではその概観と展開を論じてきたが、最後にこの理論潮流の将来の可能性と批判的課題についてまとめたい。
まず可能性として強調すべきは、エレメンタル・メディア論が提供する包括的な視座が、現代社会の喫緊の課題に応答し得る点である。気候変動や環境危機が深刻化する中、人間のメディア技術と地球環境との関係を捉え直すことは不可避となっている。エレメンタル・メディア論は、単に環境問題に技術的解決策を当てはめるのではなく、我々の世界認識の枠組み自体を再設定しようとする。ピーターズが提起した「環境もメディアである」という洞察は、人間中心的な思い上がりを戒め、環境を主体的な媒介者とみなす倫理的転換を促す。パリッカの指摘する「メディア=地質学的存在」という現実は、デジタル文明の裏側に横たわる物質と労働と廃棄物の問題を照らし出し、持続可能なメディア技術への批判的視点を提供する。今後の展開として、この視座はさらにポリティクス(政治性)と連携する可能性がある。すなわち、環境正義や資源配分の問題を含めて、誰のためのどんなメディア環境を構築すべきかという問いが立ち上がってくる。実際、「Weather Engines」展が示したように、人為的に作られた気候の中でどのような未来を選び取るかは、市民的・政治的想像力に関わる問題である。エレメンタル・メディア論は、そのような議論の理論的基盤としても機能しうる。さらに、この視点は教育やデザインの領域にも波及し、メディア技術者やアーティストに対して自然要素との新しい協働の道を開くだろう。霧や風や植物といった「非人間の媒介者」を組み込んだデザイン思想、あるいは気候変動データを詩的に可視化するアートなど、既に様々な実験が始まっている。
一方で、エレメンタル・メディア論にはいくつかの批判的課題も指摘されている。第一に、概念の射程が広すぎることによる理論的曖昧さである。ピーターズが「メディア」を極限まで拡張し、「世界そのものがメディアである」とまで定義したことに対し、一部の批評家からは「メディアという概念の特異性が失われるのではないか」という疑問も呈された。何もかもがメディアと化してしまえば、結局それはメディアという言葉の理論的有効性を弱めてしまう恐れがある。しかしピーターズはその懸念を意識しつつ、広義の定義がもたらす新奇な連結に価値を見出せることを示した。それでもなお、エレメンタル・メディア論が学際的に展開するに従い、概念装置の精緻化と境界設定は重要な課題である。第二に、ロマン主義的な自然観への傾斜に対する注意も必要だ。自然を媒介的存在として称揚するあまり、人間社会に内在する権力関係やテクノロジーの暴力性が見えにくくなる危険もある。例えば、美しい霧のインスタレーションがテクノロジーと自然の協和を謳う一方で、その背後にある環境負荷(エネルギー消費や装置の素材由来)を見落としてはならない。また、「人間と自然の調和」という理念が強調されすぎると、環境問題の本質である人間社会の構造的歪み(環境破壊の責任の不均衡など)が覆い隠される恐れもある。パリッカのアントロポブシーン概念はむしろその点を暴き出し、企業的な搾取を告発することで理論に批判的鋭さを与えた。エレメンタル・メディア論の今後の発展においても、このような批判的視座(クリティカルな眼差し)を内包し続けることが重要である。第三に、学際的交流の深化に伴って、各分野(メディア研究、環境学、美学など)の異なる言語を橋渡しする努力も求められる。異なる専門領域間で「元素」「メディア」「環境」といった用語の意味合いが微妙に異なるため、相互理解のための対話が不可欠となるだろう。
総括すれば、エレメンタル・メディア論は、従来の技術中心のメディア観を超克し、人間=環境=メディアの新たな循環を思考する理論枠組みとして高い潜在力を持つ。同時に、概念の濫用による凡庸化への警戒や、環境問題への批判的態度の維持といった課題に応答しつつ発展していく必要がある。幸いなことに、ピーターズやパリッカの嚆矢以来、およそ10年あまりでこの視点は着実に実を結び、批評理論からアートの現場に至るまで豊かな展開を見せている。メディアと環境の関係を再定義するエレメンタル・メディア論は、人類が直面する危機の時代において、我々の思考様式そのものを変革し得るパラダイムである。それは単なる学問的探求に留まらず、日常世界の「驚くべき雲 (Marvelous Clouds)」に目を凝らし、足元の大地や吹きゆく風をメディアとして読み解く感受性へと、私たちを誘う思想なのである。
参考文献(抜粋)
• John Durham Peters, The Marvelous Clouds: Toward a Philosophy of Elemental Media, University of Chicago Press, 2015.他.
• Jussi Parikka, A Geology of Media, University of Minnesota Press, 2015; および “The Anthropobscene: The Elemental Media Condition” (2013)他.
• 「Weather Engines」展 プレスリリース, Onassis Stegi, Athens, 2022..
• 「ネイチャー・センス展 : 日本の自然知覚を考える3人のインスタレーション」展 解説テキスト, 森美術館, 2010..
• 公開インタビュー: 中谷芙二子「霧の彫刻について」.
• その他、ハンス・ハーケ《Condensation Cube》解説、もの派概説等.