メディウムとしてのゲーム——現代アートにおける方法・制度・批評
研究の目的と対象
本研究では、ゲームという媒体をアート表現の手法として用いる芸術実践について批評的に考察する。対象とするのは商業的なインディーゲームやAAAタイトルではなく、アーティストがビデオゲーム(コンピュータゲーム)の形式・技術・インタラクションを作品制作に取り入れた事例である。ゲームを用いた作品が美術にもたらす新たな表現の可能性、芸術の枠組みの再編につながるかどうか、その理論的・批評的検証を目的とする。具体的には以下の観点に着目する: (1) ゲームを用いる代表的アーティストや作品・展示の事例、(2) それらに見られる美術的手法、コンセプト、インタラクション性、空間構成、批評的意図、(3) ゲームをアートとみなすための理論的枠組み(アートゲーム概念、ニュー・メディア・アート、遊びの理論、インタラクティヴィティなど)、(4) 参照すべき批評家・思想家の視座、(5) 美術館・ギャラリーにおけるゲーム表現の受容史や制度的評価である。本稿ではこれらを包括的に調査し、批評的論考としてまとめる。
理論的枠組み:ゲームとアートの交差
ゲームとアートの関係性を論じる上で、まず「アートゲーム」と「ゲームアート」という概念を区別しておく必要がある 。ゲーム研究者ジョン・シャープ (John Sharp) は、アートゲーム (art game) を「ゲーム本来のインタラクティブ性や目標、チャレンジ要素を用いて省察的で意義深いプレイ体験を生み出す作品」と定義する。典型例としてジョナサン・ブロウの『Braid』(2007)が挙げられ、時間を巻き戻せる独自のゲームメカニクスがプレイヤーに人生のやり直しについての省察を促す点で芸術的であるとされる。これに対してゲームアート (game art) は「ゲームを素材にしたアート作品」を指し、既存のゲームの要素を改変・流用して制作された美術作品を意味する。例えばマイファニー・アシュモアによる『Super Mario Trilogy』(2006)や、コリー・アーケンジェルのインスタレーション作品《Super Mario Clouds》(2002)、あるいは JODI の《Jet Set Willy Variations》(2002)などがゲームアートの例である。これらゲームアート作品はゲームの映像やデータを素材としているが、作品それ自体はもはや「ゲーム」として遊ぶことは想定されていない。インタラクティブ性や明確な目標といった典型的ゲーム要素はほとんど含まれず、その代わりにメディアアートとして鑑賞者に知的刺激や省察を促す。雑に言えば、アートゲームはゲームとして鑑賞・体験するもの、ゲームアートはアートとして鑑賞するものという違いがあると整理できる。もっとも、この区別は作品そのものの特徴というより、それが想定する受け手コミュニティ(ゲーマーかアートファンか)の違いによるものとも指摘されている。
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Myfanwy Ashmore — Super Mario Trilogy
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Cory Arcangel — Super Mario Clouds
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Jonathan Blow — Braid
上記の枠組みを踏まえ、本研究ではゲーム的手法を用いた美術作品全般を視野に入れるため、アートゲームとゲームアートの両面を含めて論じていく。また、ビデオゲームを芸術とみなす理論的枠組みとしては、新旧さまざまな議論がある。例えばメディア論のマクルーハンは『メディア論』において「ゲームはある文化の主要な駆動力に対する集団的な社会的反応であり、大衆的な芸術(popular art)である」と述べ、ゲームが社会の縮図・文化のモデルとしての役割を果たすと指摘している。これはゲームを文化的産物として真剣に捉える先駆的な視点であり、ゲームを芸術の一形式とみなす発想につながる。また、ベンヤミンの「アウラの消失」論(『機械的複製時代の芸術作品』)は、映画など複製技術を用いたメディア芸術が伝統的芸術の一回性・聖性を変容させたことを論じたが、デジタルゲームにも同様にオリジナルがなく無限に複製可能で参加型であるという特性があり、芸術におけるオーディエンスの役割を大きく変える。つまりゲームは鑑賞者をプレイヤーへと転化させ、受け身の鑑賞では得られない主体的・体験的な関与を生み出す。このインタラクティブ性は、従来の美術理論(例えば観客参加型のインタラクティブ・アートの議論)や遊びの理論とも関連する。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』にならえば、遊びは文化形成の基盤であり、「マジックサークル」と呼ばれる特別なルール空間を形成する。ゲームを用いたアート作品はしばしば、美術館という現実空間の中にプレイのためのマジックサークルを発生させる。これは鑑賞行為とプレイ行為の境界を融解させ、芸術体験を能動的な「遊び」へと拡張するものである。現代のゲームスタディーズの研究者イアン・ボゴストは、ゲームの持つシステム表現力に着目し、「プロシージャル・レトリック(手続き的修辞)」という概念を提唱している。これは、ゲームのルールやシミュレーションを通じて説得的・批評的メッセージを伝える手法であり、アートゲームの理論的一支柱といえる。ミゲル・シカールもまた『プレイ・マターズ』等において遊びの哲学を論じ、ゲームの倫理性・創造性について考察している。こうした思想家の議論を踏まえ、ゲーム表現を分析する理論的視座としてニュー・メディア・アート論、プレイ理論、インタラクションデザイン、美学・文化批評などを統合的に用いる。
代表的アーティストとゲーム作品の事例
ゲームをアートの手法として積極的に用いてきた代表的なアーティスト/グループと、その主な作品は以下の通りである。
• テイル・オブ・テイルズ (Tale of Tales) – ベルギー出身のオーリエ・ハーヴィーとミカエル・サミュンによるアートゲーム開発デュオ(2003年設立)。インディーゲームの形式でありながら純粋芸術志向の作品を制作し、『The Path』(2009年)、『The Graveyard』(2008年)、『Sunset』(2015年)など寓話的・叙情的なゲームを発表した。商業ゲームのインタラクションの停滞に失望し、「インタラクティブ・アート」を創造する意図で活動したと述べている。プレイヤーに明確な目標や高難度のチャレンジを課さず、物語体験や雰囲気の中に没入させる詩的ゲームを追求した。
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Tale of Tales — The Path
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Tale of Tales — The Graveyard
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Tale of Tales — Sunset
• JODI (Joan Heemskerk & Dirk Paesmans) – ネットアートのパイオニアであるオランダ・ベルギー出身のアートユニット。1990年代後半より既存ゲームの改造(Mod)による「アート・ゲーム」作品を数多く制作した。代表作に、FPS『Wolfenstein 3D』(1992)を徹底的に改変した《SOD》(1999)がある。SODではゲーム内のグラフィックが全て白黒の幾何学模様に置き換えられ、元のゲームの迷路構造だけが抽象的に残されている。また《Untitled Game》シリーズ(1996-2001)では『Quake』など複数のゲームをModし、画面表示を意図的にグリッチ(崩壊した視覚パターン)のようにしたり、プレイヤーを閉じ込めた立方体空間を表示するなどの実験的作品を制作した。JODIの手法は建築のデコンストラクショニズムになぞらえられており、ゲームを要素分解し直感に反する形で再構成することで、ゲームの枠組みそのものを可視化・批評化している。
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JODI — SOD
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JODI — Untitled Game (series)
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JODI — Jet Set Willy Variations
• エド・スターン (Eddo Stern) – イスラエル生まれで米国を拠点とするメディアアーティスト・ゲームデザイナー(1972年生)。1990年代からC-Levelというアート集団で活動し、ゲームと現実の境界を問う実験的作品を発表してきた。代表作には、米国のカルト事件を題材にした没入型シミュレーション《Waco Resurrection》(2004年、C-Level名義)や、プレイヤーの知覚を制限する感覚遮断型ゲーム《Darkgame》(2007-2015年)シリーズ、ヴァーチャルな戦争体験をロマンチックにコラージュした《Vietnam Romance》(2015年〜)などがある。スターンはゲームそのものだけでなく、マシニマ(ゲーム映像映画)やゲームを題材にした彫刻・パフォーマンスなども手掛けており、ゲーム文化に内在する暴力性や物語、人間心理の問題を批評的に探究する先駆者と評価されている 。彼の作品はサンダンス映画祭、Tateリバプール、ニューミュージアム(NY)など国際的な美術機関で展示されている。
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C-Level — Waco Resurrection
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C-Level — Tekken Torture Tournament
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Eddo Stern — Darkgame
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Eddo Stern — Vietnam Romance
• モリインダストリア (Molleindustria) – イタリア出身のゲームデザイナー、パオロ・ペデルチーニ (Paolo Pedercini) が2003年に立ち上げたプロジェクト型ユニット。左派的な社会批評を込めた政治的ゲームを多数制作しており、「ラディカルゲーム」の旗手として知られる。Flashを用いた短編ウェブゲームを中心に、労働、環境、宗教、資本主義批判などのテーマを風刺的に扱う作品を公開している。主な作品に、マクドナルドのファストフード産業の裏側を描いたシミュレーションゲーム《McDonald’s Videogame》(2006年)、宗教間対立を風刺した格闘ゲーム《Faith Fighter》(2008年)、先進国の消費社会がもたらす悲劇を扱いAppleにBANされたモバイルゲーム《Phone Story》(2011年)などがある 。モリインダストリアは公式に「ソフトな闘争(soft conflict)の理論と実践」としてゲームを再領有することを掲げており 、商業ゲーム業界へのアンチテーゼとしての政治的アートゲーム運動を展開した。
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Molleindustria — McDonald’s Videogame
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Molleindustria — Faith Fighter
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Molleindustria — Phone Story
表現手法の分析:遊び、インタラクション、批評性
ゲームを用いた芸術作品には、美術表現として特徴的ないくつかの手法・コンセプトが認められる。第一に、既存ゲームの改変(モディフィケーション)やグリッチの美学がある。前述の JODI はその典型で、彼らの作品は「カウンターゲーミング」の実例と見なされる。メディア理論家アレクサンダー・ギャロウェイは、カウンターゲーミングとはゲームのあり方そのものを自己批判・自己言及的に問い直すゲームだと定義し、そのパターンとして「プログラムコードやデータを露呈する」「インタラクティブ性を意図的に削ぐ」「三次元ゲームの写実的グラフィックではなく二次元的なグリッチ表現を強調する」「自然な物理法則を逸脱した不自然な物理を導入する」などを挙げている。まさに JODI の作品群はこうした手法を取り、プレイヤーに不自然さと戸惑いを与えることで、透明で当たり前だと思われていたゲームというメディアそのものに目を向けさせるモダニズム的効果を狙っている。例えば《SOD》における白黒の抽象迷路空間や、《Untitled Game: Arena》(1998)における操作と視覚の乖離は、ゲームエンジンの内部構造やルール系を剥き出しにし、プレイヤーに「これは一体何か?」というメディウムへの問いを抱かせる。こうした戦略は伝統的美術で言えばデュシャンのレディメイドや、前衛映画におけるフィルムの物質性の強調にも通じ、ゲームを素材とする美術特有の批評性と言える。
第二に、物語性・テーマ性の表現とインタラクションの関係が挙げられる。Tale of Talesの作品群に顕著なように、ゲームのインタラクション(操作・ルール)そのものを叙情的な体験や寓意の表現手段とする手法である。例えば『The Graveyard』では老女が墓地をゆっくりと歩くだけという極限まで単純化されたインタラクションを提示し、死や老いといったテーマを静謐に表現した。また『The Path』では「一本道(path)から外れる」こと自体が物語の隠喩となり、プレイヤーに従来ゲームで期待される目標達成よりも逸脱と探索を促すデザインがなされている。このように商業ゲーム文法の反転(Notgameの提唱)によって、ゲームを詩的メディアへ変容させる試みも見られる。作家主義的なゲームでは、制作者の個人的な体験やビジョンがインタラクションやルールに反映される場合もある。ジェイソン・ローラーの短編ゲーム『Passage』(2007年)は開発者自身の人生観を象徴的にゲーム化したパーソナルな作品だが、インタラクション(狭い通路を左右に動き進むだけの操作)とゲーム展開(途中で結婚し最終的に老いて死に至る)が一体となって人生の儚さを感じさせるよう設計されている。このように、ゲーム独自のインタラクションによって物語的・寓意的テーマを体験させることが、アートゲームの重要な美学的手法となっている。
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Jason Rohrer — Passage
モリインダストリアの《McDonald’s Video Game》(2006年)は、ファストフード産業の裏側を扱った経営シミュレーション・ゲームであり、社会批評的ゲームの代表例である 。プレイヤーは牛の飼育から店舗運営までを管理し利益を追求するが、ゲーム内では利益維持のために森の伐採や劣悪な飼育、労働者の解雇、環境団体への買収など倫理的に問題のある行為に手を染めざるを得ず、最終的には環境破壊によって破綻するようプログラムされている 。これは資本主義的ビジネスの構造的問題を戯画化し、どうプレイしてもバッドエンドになるシステムを通じて批判的メッセージを伝えている。この作品は単に映像や文章で社会風刺をするのではなく、ゲームのルールそのものをレトリック(論証)として用いる点に特徴がある。ボゴストはこのような表現技法をまさにプロシージャル・レトリックと呼び、ゲームならではの批評の方法であると評価した。娯楽としての面白さよりもプレイヤーに考えさせることを重視したゲームであり、社会問題への意識を喚起する手段としてゲーム媒体を活用した政治的アートである。
さらに、身体性とテクノロジーの関与もゲーム表現ならではの要素である。Eddo Sternの《Darkgame》は、プレイヤーの視覚や聴覚を制限・拡張する装置を用いて、対戦相手の感覚的弱点を突くようなゲーム体験を提供する。これは視覚中心のデジタルゲームに対し、触覚や平衡感覚といった身体感覚を統合するインスタレーション的ゲームで、プレイヤーの身体を作品の一部に組み込む実験であった。また C-Levelによる《Tekken Torture Tournament》(2001年)は、対戦格闘ゲーム『Tekken』のプレイ中に与えられるダメージを電気ショックとして現実の参加者にフィードバックするというパフォーマンス要素の強い作品で、ゲーム内の暴力と現実の痛覚を接続することでゲームと身体の関係性を暴露した。このようにゲーム表現はしばしばデジタルとフィジカルの両領域に跨がり、観客=プレイヤーの身体・感覚に直接作用する芸術体験を生み出す。インタラクティブ・アートの一形態として、ゲームの参加型・没入型の性質を極限まで引き出した作品群と言える。
以上のように、ゲームを用いたアートではシステムの改変による媒質批評、インタラクション設計による寓意表現、ルールを通じた社会風刺、身体的没入など多彩な手法が取られている。それらはいずれも単なる視覚表現に留まらず、「プレイする」という行為そのものを芸術の文脈に取り込んでいる点で共通している。ゲームの美学的評価には、視覚芸術としての評価軸だけでなく、ルールや操作性、参加者の体験といった総合的観点が必要になる。実際、ゲームはプログラムによってリアルタイムに実行される総合芸術であり、仮想世界の時間・空間を動的にシミュレートする点でかつてない表現領域を切り開いている。その芸術的意義は、視覚芸術・音響・物語・身体性・相互作用といった要素が統合された「今・ここで生起する総合芸術」という特質にある。
美術館・ギャラリーにおける受容と制度的評価
ビデオゲームが美術館やギャラリーで本格的に取り上げられるようになったのは、1980年代末以降のことである。1989年、ニューヨーク近代美術館 (MoMI) において開催された展覧会「Hot Circuits: A Video Arcade」は、初期のアーケード・ゲームを回顧的に展示し、コンピュータゲームを芸術的文脈で提示した先駆けとなった。この時はすでに歴史的遺物となりつつあったゲーム機をキュレーターの意図によって芸術作品として見せる試みであり、制度的なアプローチによってゲームに新たな価値付けを行った例である。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、メディアアートの文脈でゲーム表現を扱う展覧会が相次いだ。例えばウォーカー・アートセンターの「Beyond Interface」(1998年)や、ネット上のキュレーション企画「Cracking the Maze: Game Plug-Ins as Hacker Art」(1999年)、カリフォルニア大学アーバイン校ビール・センターの「Shift-Ctrl」(2000年)などである。これらはハッカー的なゲーム改造やインターネット・ゲームアート作品を紹介し、当時勃興しつつあったゲームアートの潮流を美術館が捉え始めたことを示している。
2000年代には、デジタルアートと商業ゲームの交差から「アートゲーム」というジャンルが成立したとの分析もなされている。ティファニー・ホルムズは2003年の論文にて、古典ゲーム(『ブレイクアウト』『パックマン』等)へのオマージュや、複雑なゲームへのアートModの出現を重要な新傾向と指摘し、商業ゲームとデジタルアートの交差点にアートゲームが生まれたと論じた。この頃から、美術館以外にもゲームフェスティバルやギャラリーでアート寄りのゲーム作品が取り上げられる機会が増えていった。また2010年にアトランタで開かれた「Art History of Games」というカンファレンスでは、ゲーム研究者のシーリア・ピアースが、美術史の中にゲームを位置付け直す試みを報告している。彼女はデュシャンの作品や1960年代のフルクサス、ニューゲームズ運動(身体を使った反スポーツ的遊びの運動)などが現代のアートゲームの先駆となったとし、例えばフランク・ランツによる都市ゲーム《Pac Manhattan》(ニューヨークの街中でパックマンを模倣する遊び)はパフォーマンス・アートのようでもあると述べている。ピアースはさらに、アートゲーム運動とインディーゲーム開発の動きが合流しつつあることを指摘し、それによりアートゲームがより広い観客に届き、インディーゲームにも新たな可能性が開かれると期待を示した。実際、2000年代後半から2010年代にかけて、インディーゲームの中から『Flowery(英題: Flower)』や『Journey』のように美術的評価を受ける作品が登場し、美術館でも展示・収蔵されるケースが出てきた。
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thatgamecompany — Flower
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thatgamecompany — Journey
公的な制度面でもゲームの芸術性が徐々に認められてきた。2006年、フランス文化省は「ゲームは文化財であり芸術表現のひとつ」と公式に位置付け、ゲーム産業への助成を決定するとともに、ゲームデザイナーのミシェル・アンセルや宮本茂らに芸術文化勲章を授与した。2011年にはアメリカの国立芸術基金 (NEA) が助成対象に「インタラクティブ・ゲーム」を追加し、芸術プロジェクトの一形態としてゲームを認可した。同じく2011年、米国最高裁判所は (Brown v. EMA事件) において「ゲームも他の芸術形態と同様に憲法修正第1条によって表現の自由が保護される」と判決し、法的にもゲームを芸術として扱う見解を示した。ドイツでも2018年に法律上ゲームが芸術として認められ、ナチス表象の扱いに関する規制が緩和されるなど、各国でゲームの制度的な芸術認知が進んでいる。
美術館での展示事例として特筆すべきは、2012年にアメリカ・スミソニアン美術館が開催した大規模企画「The Art of Video Games」である。これは初期のアタリから最新世代まで歴史的ビデオゲーム約80作品を網羅し、その視覚様式やクリエイティブな影響を検証する展覧会で、ビデオゲームの芸術性を包括的に示す試みであった。同展は広く一般にも注目され、終了後にはインディー作品『Flower(Flowery)』やデメイク作品『Halo 2600』がスミソニアンのパーマネントコレクションに加えられている。さらにニューヨーク近代美術館 (MoMA) は2012年以降、パックマン、テトリス、スーパーマリオなど歴史的に重要なゲームタイトルを順次収蔵し、「ゲームのインタラクションデザイン」を展示する計画を進めている。MoMAのキュレーターはビデオゲームを「広義のデザインコレクション」の一部と位置付けつつも、ゲームという芸術メディアを称える取り組みの一環と位置づけており、美術館がゲームを正式に所蔵品とする画期的な例となった。
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Ed Fries — Halo 2600
ゲーム表現が美術館で展示される際、そのカテゴライズは一様ではない。場合によってはインタラクティブ・アートやデジタルデザインの一部として紹介され、場合によっては映像インスタレーション的に扱われることもある。これはゲームと他の芸術領域の境界が流動的であることを示している。たとえば、先述のコリー・アーケンジェルの《Super Mario Clouds》は2004年のホイットニー・ビエンナーレに出品され現代美術作品として評価されたが、一方、宮本茂の『スーパーマリオブラザーズ』はMoMAでインタラクションデザインの偉業として展示されている。いずれの文脈にせよ、ゲームに内在する創造性や文化的価値が美術の制度に正式に認められつつあるのは確かである。近年ではゲーム専門の展示空間やイベントも増え、ニューヨークのインディーゲームスペース「Babycastles」やドイツ・ケルンの「GAMESCOM」のアート部門など、従来の美術館に留まらない受容の場が生まれている。また映画祭でゲームが扱われる動きもあり、トライベッカ映画祭では2021年に初のゲーム部門賞が創設された。このように、美術制度・文化産業の両面でゲーム表現への評価が深化しており、ゲームは単なる娯楽商品から文化的・芸術的表現メディアへと地位を向上させている。
結論:ゲームとアートの融合がもたらすもの
以上の調査から明らかなように、ゲームという媒体は21世紀の芸術表現において重要な役割を果たしつつある。ゲームはプログラムによる動的表現と高いインタラクティブ性を備え、プレイヤー=鑑賞者の能動的参加を通じて作品世界を成立させる点で、従来の芸術にはない体験を提供する。アーティストたちはゲーム技術やデザインを利用して、批評的メッセージをシミュレーションに織り込んだり 、物語やコンセプトをインタラクションに体現させたり 、あるいはゲームそのものを解体することでメディア批評を行ったりしてきた。そうした実践は、美術の表現領域を拡張し、観客の体験の在り方を再定義している。ゲームは総合芸術としての様相を持ち 、視覚芸術・音響・テキスト・身体的インタラクションが融合するプラットフォームである。ゆえにゲームを分析・批評するには、美学・ゲームデザイン・メディア論・社会批評といった学際的視点が求められる。
ゲーム表現の芸術的評価をめぐっては、「ゲームは芸術か?」という古典的な問いから 、実際に美術館が収蔵すべき芸術作品になり得るのかという制度的議論まで、様々な論点がある。しかし本稿で見てきたように、既に現代のアーティストたちはゲームを用いて新たな美的体験や批評的対話を生み出しており、その成果は美術の文脈でも認知され始めている。ゲームという媒体は、単に新奇性のためでなく、現代社会やメディア技術を映し出す鏡として芸術家に利用されている。それは時に社会への風刺であり 、時にメディアそのものへの内省であり 、またある時は人間存在への哲学的問いかけとなる。こうした作品群は、美術の領域に「遊び」という要素を持ち込み、観る者を参加者へと変えることで、芸術体験の在り方を再構築している。
今後の課題として、ゲームを用いた芸術がさらに発展し主流の美術史に組み込まれていく中で、批評的枠組みの整備が求められるだろう。例えば美学的な評価基準をどのように定めるか、ゲーム特有のインタラクション体験を言語化・批評する方法論、保存や再展示の問題(技術の陳腐化への対処)などである。また教育機関や研究機関でもゲームとアートの交差領域を扱うプログラムが必要となる。ゲームは依然として娯楽産業の巨大な部分を占めるが、その中から生まれる創造性やメッセージ性は芸術の文脈でいっそう光を当てられるべきである。ゲームとアートの融合は、デジタル時代における表現の地平を拓くとともに、我々に芸術とは何か、創造とは何かを改めて問い直させる契機となっている。今後も批評的眼差しをもってこの領域を探求していくことが重要である。
参考文献・出典(一部):
• Sharp, John. Works of Game: On the Aesthetics of Games and Art. MIT Press, 2015.
• Bogost, Ian. Persuasive Games: The Expressive Power of Videogames. MIT Press, 2007.
• Flanagan, Mary. Critical Play: Radical Game Design. MIT Press, 2009.
• Sicart, Miguel. Play Matters. MIT Press, 2014.
• Matサ永伸司「ゲーム・ミーツ・アート:ビデオゲーム・アヴァンギャルドの可能性」
• JODIアート集団によるゲーム改造作品に関する記述
• Molleindustria(Paolo Pedercini)による政治的ゲームとプロジェクトの説明
• Eddo Sternの経歴と作品に関する記述
• 美術館・制度によるゲームの受容史に関する記述
• その他本文中に示した【】内の引用箇所。