メディアアート前史(1960年代〜1990年代)
1960年代:テクノロジーと芸術の邂逅と実験的潮流
1960年代、西洋(アメリカおよびヨーロッパ)の芸術界では、それまで存在しなかった新たな動向が生まれた。映画や美術の延長線上で、電子テクノロジーやビデオ、コンピュータを用いた実験的表現が台頭し始めたのである。例えばナム・ジュン・パイクは1963年にテレビ受像機に磁石を当てて映像を変調する作品を発表し、世界初のビデオ・アート作品を創出した 。彼はフルクサスの流れの中で前衛音楽やパフォーマンスと電子メディアを結びつけ、「テレビという新しいキャンバス」を開拓した人物であり、後に「ビデオアートの父」と称される 。パイクの初期作品「マグネットTV」(1965年)では観客自身が磁石で映像を乱すことができ、テレビを双方向メディアへ転化させている。このように観客参加やインタラクションを伴う作品が芽生え始めた点が特徴的である。
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1960年代半ばには、芸術とテクノロジーの交差点を模索する動きが各地で加速した。アメリカでは1966年、芸術家ロバート・ラウシェンバーグとベル研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァーらによって「E.A.T.(Experiments in Art and Technology)」が設立され、芸術家と技術者の協働プロジェクトが推進された 。同年開催された「9 Evenings: Theatre and Engineering」では、センサーや無線機器を取り入れた舞台作品が発表され、ダンサーの動きで音響や照明がリアルタイムに変化する試みが行われている。ヨーロッパでも同時期にテクノロジーと美術の融合を掲げるグループが登場した。例えば1950年代末〜60年代初頭にかけて、ドイツのZEROグループ(1958年結成)、イタリアのグルッポT(1959年結成)、フランスのGRAV(視覚芸術研究グループ)(1960年結成)などが結成され、新素材や機械仕掛けによるキネティック・アートや光のアートを追求した 。これらのグループは芸術におけるテクノロジー活用を積極的に標榜し、動く彫刻や光のインスタレーションといった実験的作品を多数制作している。
こうした流れの集大成ともいえる画期的展覧会が1968年の「サイバネティック・セレンディピティ」展(ロンドンICA)である。同展は「芸術とテクノロジーの交差」に本格的に焦点を当てた世界初の大規模展覧会であり 、130名以上の参加者には美術家、エンジニア、作曲家、詩人など多彩な人々が名を連ねた 。展示内容も多岐にわたり、コンピュータが生成した絵画や音楽、電子工学的なデバイスアート、詩の自動生成に至るまで網羅された 。例えばゴードン・パスクによる《Colloquy of Mobiles》(1968年)は光と音で相互に対話する複数の機械が観客の動きに反応し、まるで鑑賞者を会話に招き入れるようなインタラクティブ・インスタレーションであった 。エドワード・イーハトウィッツの《SAM(音に反応するモビール)》(1968年)は音に向かって首を振るロボット彫刻であり、ジャン・ティンゲリーは自動描画マシンを提供した 。ナム・ジュン・パイクもロボット彫刻《K-456》や歪んだ映像のテレビ作品を出展し、テクノロジーを駆使したユーモラスな表現を示している 。この展覧会では観客が音を入力するとコンピュータが即興演奏を行う装置や、来場者が持ち帰れるプロッター描画の自動生成作品など、リアルタイム性・生成性のある作品も展示された 。まさに情報工学や電子工学を応用した芸術実験のデパートと言える内容であり、芸術作品を「オープンなシステム」として環境や観客と相互作用させるという発想が具現化された場でもあった。
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Gordon Pask — Colloquy of Mobiles
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Edward Ihnatowicz — SAM (Sound Activated Mobile)
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Nam June Paik — Robot K-456
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Jean Tinguely — Drawing Machines
1960年代のこうした実験的潮流の背景には、新しいメディアと情報科学に対する思想的影響があった。ノーバート・ウィーナーが提唱したサイバネティクス(Cybernetics)の概念――「生物と機械における制御と通信」――は芸術にも刺激を与え、先述の展覧会でも「サイバネティック(=通信・制御的)な装置によって制作されたか、作品自体がサイバネティックに振る舞うもの」が意図的に集められた 。またドイツの哲学者マックス・ベンゼや仏の批評家エイブラハム・モールらは情報理論に基づく美学(情報美学)を提唱し、芸術作品の美的価値を情報量や確率で捉える試みを行った 。実際、ベル研究所のエンジニアでもあったA・マイケル・ノールはコンピュータでモンドリアン風の線画を描き(《コンピュータ構成による線画》1965年)、それを人々が本物と見分けられるか好むかを実験した 。100人中28%しかコンピュータ生成画像を見破れず、むしろ59%がこちらを好んだという結果(ノール自身の報告)も示され 、芸術の効果を科学的に評価し得るとする野心的姿勢が当時の一部には存在した 。このように情報理論やサイバネティクスといった新思想が芸術家にインスピレーションを与え、作品にフィードバック(帰還)やインタラクション(双方向性)の要素を組み込む素地となった。またマーシャル・マクルーハンの『理解の媒介(Understanding Media)』(1964年)によって「メディア(媒体)それ自体がメッセージである」という認識が広まり、テレビやコンピュータといった媒介そのものを主題化・素材化する芸術的アプローチも促されたといえる。1960年代末の評論家ジーン・ヤングブラッドは著書『拡張映画(Expanded Cinema)』(1970年)において、ビデオ、コンピュータ、ホログラフィー等による新しい映画的表現を論じ、これを「従来の枠を拡張したシネマ」と位置付けた 。彼は映像メディアを駆使した芸術が人々の意識を変容させうる未来を展望し、この概念は後に「メディア・アーツ(media arts)」という新領域を確立する上で大きな影響を与えた 。すなわち1960年代は、電子メディアと芸術の邂逅から「メディアアート的」とも呼べる諸アプローチが萌芽し、次世代の芸術の地平を切り開いた時代であった。
1970年代:システム指向の芸術と思想の深化
1970年代に入ると、前衛芸術の潮流はさらにシステム指向を強めてゆく。美術評論家ジャック・バーナムは1968年の論文「システム・エステティクス」において、美術の重心が固定的な物質作品から動的なシステムへと移行しつつあると指摘した。彼は芸術作品を環境・観客・情報が相互作用する開かれたプロセスと見做し、そのような作品群が現代社会の複雑な諸関係を反映していると論じたのである。これは前節で触れたサイバネティクス的発想の理論化と言え、実際1970年前後には「システム・アート」あるいは「情報芸術」と呼ばれる動向が見られた 。ニューヨーク近代美術館(MoMA)で1970年に開催された展覧会「Information(情報)」では、コンセプチュアル・アートの文脈で情報伝達やメディアの役割に関心を寄せた作品が紹介され、美術における「情報」の概念がクローズアップされた 。同年、ジャック・バーナムがキュレーションした展覧会「Software」(ニューヨーク、1970年)では、コンピュータを使った対話型システムやデータベース的発想の作品が多数展示され、芸術におけるソフトウェア的思考が提示された。例えば観客がタイプライター端末を操作して未来予測を問うとコンピュータが応答する作品や、画像認識によって鑑賞者の動きに反応するインタラクティブ作品などが披露されている。これらは後のデジタルインタラクティブ・アートを先取りする試みであった。
一方でビデオ・アートは70年代を通じて発展し、芸術の一ジャンルとして定着していった。安価なポータブル映像機材(ソニーのビデオローバーなど)の普及により、多くの美術家が映像記録や閉回路テレビを作品に取り入れた。ナム・ジュン・パイクは引き続き先駆的役割を果たし、テレビモニターを複数組み合わせたインスタレーションや、音楽家と協働したビデオ合成実験(Paik-Abeビデオシンセサイザーの開発、1969年)を行った。欧米の美術館でもビデオ作品が収蔵・展示され始め、技術と芸術の融合は徐々に認知を得ていく。例えば米国ではニューヨークのElectronic Arts Intermix(1971年設立)など専門組織が芸術家のビデオ制作を支援し、欧州でも各国でビデオ・フェスティバルが開催され始めた。また電子音響芸術の分野では、電子音楽の作曲家やサウンド・アーティストが空間インスタレーションへ活動を広げた。ブライアン・イーノは環境音楽の概念を提唱しつつ映像作品ともコラボレーションし、スタジオではなく現場空間で体験されるマルチメディア作品に発展させている。こうしたマルチメディア的実験は、音・映像・テクノロジーを横断したインターメディア(異種媒介融合)的な芸術実践として70年代を特徴付けた。
1970年代にはまた、インタラクティブ・アートの黎明も見られた。コンピュータ技術の進歩に伴い、ごく一部ではあるがリアルタイムで観客と反応し合う電子環境が制作可能となっていた。米国の情報科学者マイロン・クルーガーは「ヴィデオプレイス(Video Place)」と呼ばれる一連の実験的環境(1970年代後半)を開発し、カメラで捉えた人のシルエットにコンピュータグラフィックスの映像を重ねて投影することで、来場者の動きに即座に反応するバーチャル空間を提示した。鑑賞者は自分の姿が画面内のオブジェクトと触れ合う感覚を味わい、計算機との対話的関係に没入することができたのである。このような取り組みは当時の美術界ではまだ主流ではなかったものの、技術と身体・知覚を統合するメディアアート的アプローチの重要な先駆けであった。
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Myron Krueger — Videoplace
ただし1970年代全般を見ると、60年代に隆盛した「アートとテクノロジー」運動は一時的な停滞期に入っていたとも言える。欧米の現代美術の主流はコンセプチュアル・アートやミニマル・アートへと移り、テクノロジーの積極活用は一部の先鋭的試みに留まった。前衛芸術の文脈では、ハンス・ハーケのようにシステム理論を社会批評に応用する作家も現れたが(例:環境の物理現象や生態系を利用したインスタレーション)、テクノロジーそのものを素材とする作品群は「前時代的な未来志向」とみなされ、美術館や批評から十分な評価を得にくかった 。事実、1960年代後半に隆盛したテクノロジー・アートの動向は、70年代には社会情勢の変化もあって下火となり、美術史の中で周縁視される傾向すらあった 。しかし水面下ではパイクやクルーガー、アスコットら先駆者たちが着実に活動を続け、また大学や研究機関で次世代の実験が進行していたのである。
イギリスの芸術家ロイ・アスコットはその一例で、1960年代から一貫してサイバネティック・アートの理念を推し進めた人物である。アスコットは「変化の構築」(1964年)や「行動主義芸術とサイバネティック・ビジョン」(1966年)といった論考で、芸術教育や作品制作において観客の参与とフィードバックを組み込む必要性を説いた。彼自身、初期には観客が付箋を貼って変化させられる絵画作品(Change Paintings)を制作し、次第にコンピュータや通信を用いる作品へ移行していった。アスコットは「インタラクティブなコンピュータ・アート」「電子的芸術」「テレマティック・アート」といった領域を先駆的に開拓し、まさにメディアアート的実践を時代に先駆けて体現した人物である 。彼は後に「アートとテレコミュニケーションがもたらす意識の変容」に着目した理論(テレマティックス理論)を展開し、コンピュータネットワーク上で共同制作を行う芸術(1983年の《La Plissure du Texte》など)にまで活動を発展させる。このように1970年代は、一見テクノロジーと芸術の融合が停滞したかにみえるが、裏ではシステム理論や通信理論に裏打ちされた芸術思考が成熟し、少数ながらも本格的なインタラクティブ作品が生み出された時期であった。それらは次の1980年代に訪れるデジタル技術ブームにおいて再評価され、活用されることになる。
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Roy Ascott — Change Paintings
1980年代:デジタル革命とメディアアートの胎動
1980年代に入ると、パーソナルコンピュータやビデオゲーム機器の普及、CG(コンピュータグラフィックス)技術の進歩など、デジタル技術が急速に身近なものとなっていった。芸術の分野でもデジタル技術の活用が拡大し、この時期に「ニューメディアアート(メディアアート)」の萌芽が本格化する 。とりわけ1980年代後半には、ビデオ・アートに加えてCGを駆使した映像表現やコンピュータ制御のインスタレーションが増え、メディア技術を積極的に取り入れる潮流が明確になっていった 。例えば米国のビル・ヴィオラはビデオのスローモーションや電子音響を巧みに組み合わせた映像インスタレーションで国際的評価を得、オーストリアのヴァルター・プリクセルらはコンピュータによる抽象映像の探究を進めた。またメディアを素材とする芸術の祭典として、1979年に創設されたオーストリアのアルス・エレクトロニカ・フェスティバル(リンツ市)は80年代に規模と注目度を拡大し、最新テクノロジーを用いた実験的作品を発表する場として機能した。アルス・エレクトロニカではコンピュータ・グラフィックスやロボットアート、電子音楽コンサートなどが包括的に扱われ、芸術と科学技術の交差点における世界的ハブとなっていった。同様に、米国でもSIGGRAPH(コンピュータグラフィックス学会)のアート部門などでデジタルアート作品が紹介されるようになり、技術コミュニティと芸術コミュニティの交流が生まれ始めた。
インタラクティブ・アートも1980年代にさらに洗練された形で現れる。オランダ出身の芸術家ジェフリー・ショーは、観客が自転車型コントローラーを漕ぐことで仮想都市を巡るインタラクティブ映像作品《レジブル・シティ》(1989年)を制作した。また、観客の動きを取り込むセンサー技術やタッチスクリーン装置が改良されるにつれ、美術館で観客が直接操作・体験できる作品(インタラクティブ・キオスクやデジタル彫刻)が登場した。例えば小型コンピュータを組み込んだ彫刻が人の接近に反応して動作を変える作品や、レーザー光線の弾幕を観客が避けつつ進む体験型インスタレーションなど、人間の働きかけによってリアルタイムに変容する芸術が少しずつ定着していった。これらはまさに1960年代の理念(フィードバックやオープンシステム)を最新技術で実現したものであり、メディアアートの中核的手法が形を取り始めたことを示している。
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Jeffrey Shaw — Legible City
思想的側面では、1980年代はメディア哲学や情報社会論の発展が芸術に影響を及ぼした時期でもあった。ドイツの思想家ヴィレム・フルッサーは著書『テクニカルイメージの宇宙へ』(1985年)で写真やビデオなど技術媒体による画像がもたらす新たな認識論を論じ、画像生成装置を扱う芸術の意義を哲学的に問い直した。またフランスの思想家ジャン・ボードリヤールはシミュレーションと虚構の蔓延を論じ、メディア時代における現実とイメージの関係について警鐘を鳴らした。こうした議論はメディアを素材とするアーティストにも刺激を与え、シュミレーショニズムと呼ばれる手法(メディア由来のイメージを引用・増幅して現実感を操作する作品群)にもつながった。実際、80年代後半のアメリカ美術ではシミュレーショニストと呼ばれる作家たち(ジャック・ゴールドスタインやシャリ・レヴィン他)が映像技術を用いて「現実らしさ」そのものを主題化する作品を発表している。メディアに関する哲学的・批評的視点が醸成されたことは、後のメディアアート作品に深みを与える素地ともなった。
さらに1980年代末には、インターネットの前身となる通信ネットワークや衛星通信を使った芸術も試みられた。ナム・ジュン・パイクは1984年に衛星中継を利用した国際共同パフォーマンス《グッドモーニング・ミスターオーウェル》を実施し、世界各地のスタジオを衛星回線で結んで同時中継するという、通信ネットワーク時代の芸術の先駆けを示した。これは地理的に離れた参加者同士が一つのアートイベントをリアルタイムに共有する初期のテレコミュニケーション・アートであり、メディア技術が「世界を一つのステージにする」可能性を示唆した 。同様に、カナダの芸術家キット・ガロウェイとシェリー・ラビノウィッツは街頭に大型スクリーンとカメラを設置して遠隔地の人々を互いに映し出し対話させる《ホール・イン・スペース》(1980年)を行い、「電子広場」での出会いというコンセプトを提示した。これらはネットワークを介したインタラクションを扱う芸術の嚆矢であり、後のインターネット・アートやソーシャルメディア時代のアートに通ずる発想であった。
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Nam June Paik — Good Morning, Mr. Orwell
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Kit Galloway & Sherrie Rabinowitz — Hole-in-Space
1990年代:メディアアートの確立と展開への接続
1990年代に至ると、前節までに育まれたアプローチが結実し、「メディアアート」が現代美術の一大ジャンルとして確立するに至る 。パーソナルコンピュータの爆発的な普及とインターネットの台頭(商用Webの開始は1993年)は、芸術家にこれまでにない創作プラットフォームを提供した。デジタル画像処理やインタラクティブ・ソフトウェアが容易に扱えるようになり、従来は実験的だった手法が広範な作家によって採用され始めたのである。またリアルタイム3DCGやVR(バーチャル・リアリティ)、ネットワーク通信といった技術も90年代半ばには芸術作品に取り入れられ、メディアアートの領域は一気に拡大した 。
例えばインターネット・アートと呼ばれるジャンルは1990年代後半に登場し、ブラウザ上で動作する対話的作品や、電子メール・チャットを素材に用いるプロジェクトが数多く制作された。これらは物理的ギャラリーを離れてオンライン空間で展開する芸術として注目を集め、国際展でも取り上げられた。さらに、仮想現実技術を応用した芸術(観客がヘッドマウントディスプレイを装着して没入するVRアート)や、人工生命・人工知能を組み込んだシステムアート(コンピュータ上で自己増殖・進化するヴィジュアルや、観客に応じて振る舞いを変えるロボット彫刻)など、システムの振る舞いそのものが作品となるような形態もこの時期に登場した。まさに1960年代から模索されてきた「芸術をシステムとして捉える」視点が、デジタル技術によって具体化・多様化したと言える。
制度的にもメディアアートは評価・支援されるようになった。1989年にドイツ・カールスルーエにZKM(芸術とメディア技術センター)が設立され、メディアアート専門の美術館・研究機関として先駆的役割を果たした。各国でメディアアート系のビエンナーレやフェスティバルが開催され、日本でも文化庁メディア芸術祭(1997年〜)が創設されるなど、公的な賞や助成の枠組みも整い始めた。こうした背景の中、先駆者の功績も改めて光が当てられた。ロイ・アスコットは2014年にアルス・エレクトロニカから「ヴィジョナリー・パイオニア・オブ・メディアアート(メディアアートの先駆者)」賞を授与されている 。ナム・ジュン・パイクも90年代に至るまで精力的に活動を続け、大規模な回顧展が各地で開催されるなど、そのメディアアートへの貢献が広く認知された 。彼らのような1960年代からのパイオニアは、晩年まで新技術への探究心を失わず、衛星アートからインターネット、さらには21世紀のデジタル時代に至るまで一貫してメディアを用いた芸術の可能性を追求したのである。
総じて、1960年代から1990年代にかけての米欧の芸術動向を俯瞰すると、「メディアアート的」とみなされるアプローチは次第に輪郭を明確にしながら発展してきたことがわかる。当初は美術の周縁であったテクノロジー利用の試み(電子装置を組み込んだハプニング、コンピュータによる生成美術、実験映像や音響の新手法など)は、徐々に理論的裏付けと洗練を得て、一つの表現領域として自立していった 。テクノロジー(電子工学・計算機・映像機器)の活用は、単なるガジェット的魅力ではなく「新たな人間経験を創造する手段」として位置付けられるようになった。加えてインタラクティブ性やリアルタイム性といった手法面の革新は、「作品」と「観客」「環境」との関係を刷新し、芸術を動的なオープン・システムへと転換した 。その背景には、情報理論・サイバネティクス・メディア哲学といった思想的支柱が横たわっており、芸術家たちはそれらをヒントに「情報」「ネットワーク」「インターフェース」という現代的テーマを作品に織り込んでいったのである 。
こうして芽生えたメディアアート的アプローチは、1980年代後半から1990年代にかけて隆盛するデジタル技術と結び付いて一気に花開き、現在に連なるメディアアートの本流へと受け継がれていった 。言い換えれば、1960–90年代の先駆的実践こそが「メディアアート」という領域の基盤を築き、芸術の地平を拡張した原動力であったと言えるだろう。その遺産の上に、21世紀の我々はさらに進化したメディア表現を展開しているのである。各時代の芸術家たちが示した創造性と実験精神は、メディア環境が変貌を続ける今なお、メディアアートの核心に脈打っている。