ベリングキャットの活動と可能性に関する包括的考察
OSINTジャーナリズムの特異性、紛争報道の検証機能、情報倫理上の緊張関係、地政学的影響、民主主義への寄与、および現代アートに見る探究の美学
要旨
本稿は、オープンソース・インテリジェンス(OSINT)を駆使する調査報道集団「ベリングキャット」の活動とその可能性について学術的に考察する。まず、ベリングキャットが採用するOSINT手法の特異性と優位性を論じ、続いて紛争地域の報道における同集団の検証型ジャーナリズムとしての役割を検討する。さらに、情報倫理の観点から、透明性の確保と匿名性・プライバシー保護との間に生じる緊張関係について分析する。また、ベリングキャットの活動が国家間のプロパガンダへの対抗手段として地政学に与える影響を論じ、民主主義や市民参加へ資する可能性を評価する。最後に、ベリングキャットの手法や理念に着想を得た現代アート作品(例:フォレンジック・アーキテクチャー、リサ・バーンハイム、トレヴァー・パグレン)の事例を取り上げ、それらの芸術的・政治的意義を批評的に論じる。
序論
2014年にイギリス人エリオット・ヒギンズによって創設された調査報道ユニット「ベリングキャット(Bellingcat)」は、SNS投稿や商業衛星画像、公開データベース等の公開情報のみを駆使して数々の世界的スクープを達成し、既存の報道機関や情報機関に大きな衝撃を与えてきた。例えば、同集団はシリア内戦におけるアサド政権のサリン使用の証拠を世界に先駆けて突き止め、2014年ウクライナ上空で発生したマレーシア航空17便(MH17)撃墜事件の犯人を特定するなど、国家レベルの虚偽を暴いている。これらの功績により、ベリングキャットは「普通の人々のための情報機関」とも評され、市民主体のオープンソース調査モデルとして注目を集めている。本稿では、ベリングキャットの活動を多角的に分析し、その手法の意義と限界、社会への影響について論じる。具体的には、(1) OSINT手法とその特異性、(2) 紛争報道における検証ジャーナリズムとしての機能、(3) 情報倫理上の課題(透明性と匿名性の相克)、(4) 地政学的影響(プロパガンダへの対抗)、(5) 民主主義と市民参加への貢献可能性、を順次考察する。さらに(6)節では、ベリングキャットの調査手法・理念が現代アートに与えた示唆について、フォレンジック・アーキテクチャーやトレヴァー・パグレンらの作品を例に論じる。以上の考察を通じて、デジタル時代における新しい調査報道と社会との関係性、およびそれが文化芸術面にも波及する様相を明らかにすることを目的とする。
OSINT手法とその特異性
ベリングキャットの中核にはOSINT(オープンソース・インテリジェンス)手法がある。OSINTとは、政府機密など閉鎖情報ではなく、誰もがアクセスできる公開情報源から知見を収集・分析する手法である。ベリングキャットはメンバーが世界中に散在する民間人から構成されており、分析にはSNS投稿、YouTube動画、Google Earth等の衛星画像、各種の公開データベース、さらには流出した名簿や航空機のフライト記録といったリーク情報までも活用する。こうした手法の特異性は、従来の国家機関や大手報道機関とは異なり、「極秘」情報へのアクセス権や内部告発者といった伝統的リソースに頼らずとも高度な調査が可能な点にある。実際、ベリングキャットは膨大なオープンソースの海から決定的証拠を発見し、政府の隠蔽する事実に到達してきた。大手メディアも驚くような迅速かつ正確な調査報道を次々と実現できた背景には、この市民による独創的なOSINT活用がある。同集団は自らを「普通の人々のための情報機関」と位置付けており 、高度な検索スキルさえあれば誰もが参加し得る民主化されたインテリジェンス活動を体現しているといえる。例えば、ベリングキャットのオンライン調査コミュニティには有志のボランティアも参加し、SNS上で公開された写真や動画の位置特定(ジオロケーション)・時間特定(クロノロケーション)、衛星画像解析、兵器の識別、ソーシャルメディア上のネットワーク分析など、多様な専門スキルを持ち寄って協働している。このような分散型コラボレーションと透明性の高い調査手法こそがベリングキャットの特異性であり、従来は政府や一部メディアに限られていた情報分析能力を一般市民に開放した点で画期的である。
さらに、ベリングキャットの成功に刺激され、近年では伝統的な報道機関もOSINT手法を取り入れ始めている。代表例として米紙ニューヨーク・タイムズは2017年にビジュアル調査報道チーム(Visual Investigations Team)を新設し、公開情報を駆使した検証報道を展開している。同チームは元ベリングキャット調査員のクリスティアン・トリーバート氏らを擁し、SNS動画や衛星写真から事実を再構築する報道で成果を上げている。トリーバート氏自身、「今や記者も市民も同じ公開情報を元に調査・分析する時代だ」と述べ、もはやメディアと市民の境界は曖昧になっていると指摘する。このことは、ベリングキャットが先駆けたOSINT手法が、新たなジャーナリズムの潮流として主流にも影響を及ぼしつつあることを示唆している。
紛争報道における検証型ジャーナリズムの機能
ベリングキャットは特に武力紛争や戦争犯罪の報道分野で、検証型ジャーナリズムの新たなモデルを築いている。従来、紛争地の報道は記者の現地取材や政府発表に大きく依存しており、情報統制や危険な環境下では事実関係の確認が困難であった。これに対し、ベリングキャットはインターネット上に散在する映像・画像・データを収集・分析することで、遠隔からでも紛争現場の実情を明らかにする手法を確立した。例えばシリア内戦では、ヒギンズ氏(当時は「ブラウン・モーゼス」という個人ブログ運営者)がYouTube等に投稿された動画を丹念に解析し、シリア政府軍が使用したクラスター爆弾や化学兵器の存在を証拠立てた。この個人の試みを母体に誕生したベリングキャットは、シリアの多数の攻撃事例について映像に映る地形や建物から地点を特定し、武器の残骸写真から種類と出所を突き止めるなど、リモートでの戦場検証を可能にした。2013年以降のシリア化学兵器攻撃疑惑において、ベリングキャットはオープンソース証拠を駆使して実行主体を特定する報告を繰り返し公開し、国際社会の対シリア認識に影響を与えたとされる。
また、2014年7月に起きたMH17便撃墜事件では、ベリングキャットはわずか数か月で公開写真からロシア軍第53防空旅団所属のブク地対空ミサイルが犯行に使われたことを解明し 、当初ロシア政府が流布した虚偽説明を覆した。この極めて詳細な検証報道は各国政府や国際捜査団にも参照され、後のオランダ主導の国際合同調査団(JIT)による公式発表と軌を一にするものだった。加えて、2018年3月の英ソールズベリーにおける元ロシア情報員暗殺未遂(スクリパル中毒事件)では、ベリングキャットはロシアのグループ(GRU)所属の実行犯2名の身元を特定し、その詳細な足取りを暴露している。これは伝統的な報道では得難い成果であり、事件直後から公開情報をたどって欧州各国の入国記録・監視カメラ映像・パスポート情報の流出データなどを組み合わせ、独自に「仮面をはぎ取る」ことに成功した調査であった。
このように、ベリングキャットは紛争や政情不安な状況下で信頼できる事実検証を行う“フォレンジック(科学捜査)的”ジャーナリズムとして機能している。戦場やテロ事件の映像・写真はSNS上で瞬時に拡散するが、それらを断片的情報として終わらせず、地理空間情報や時間軸と照合して一貫した事件の再構成を試みる点に独自性がある。これにより、戦争犯罪の有無や加害主体の特定、民間人被害の実態といった重要事実が裏付けを持って提示されることになる。例えば、ベリングキャットはロシア軍によるウクライナ侵攻(2014年以降の東部紛争や2022年からの全面侵攻)に際しても、前線からの映像や衛星画像を検証し、病院への攻撃やクラスター弾使用の証拠を集めて報告していると伝えられる。これはプロパガンダ合戦の中で客観的事実を示す役割を果たし、人権団体や国際機関による追及の下地ともなっている。実際、オープンソース証拠の信頼性は近年向上しており、欧州や国際刑事裁判所(ICC)でもデジタル証拠活用の検討が進むなど、ベリングキャット型の調査報道は将来的な紛争下の司法的対応にも影響を与えつつある。
情報倫理:透明性と匿名性の緊張関係
ベリングキャットの手法は透明性を重視する点に特徴があるが、それゆえに情報倫理上の新たな課題も浮上している。基本的に同集団は調査で得られた証拠を可能な限り公開し、誰もが検証できる形で報告書や記事にまとめる「show-your-work(作業の公開)」アプローチをとっている。各記事には利用した衛星画像やSNS投稿へのリンク、分析手順の詳細が示され、読者自らデータの真偽を確認し追試できるよう配慮されている。この徹底した透明性は、彼らが直面するプロパガンダ攻撃に対抗する唯一の武器でもある。実際、ロシア政府はベリングキャットを「西側諜報機関の隠れ蓑」「フェイクニュースの拡声器」などと中傷してきたが、ベリングキャット側は証拠を全面公開することで信頼性を担保し、そうした批判を封じている。「信用こそ我々の唯一の資産だ」と同団体の調査員クリスト・グロゼフ氏が述べるように 、証拠を開示し方法論を明かすことが信頼確保に不可欠との信念がある。これは従来の報道機関が匿名情報源を秘匿したり内部資料を裏付けに用いたりする手法とは一線を画している。
しかし一方で、匿名性やプライバシー保護との緊張関係も生じている。ベリングキャットでは基本的に匿名情報源の使用は避ける方針だが 、場合によっては匿名の提供者から得たデータや不正流出した個人情報データベースを用いることもある。たとえば前述のナワリヌイ毒殺未遂事件の調査では、ロシア国内から漏洩した数百万件規模の航空券予約情報や携帯電話通信記録といったブラックマーケット上の個人データを購入し分析に利用した。グロゼフ氏によれば、無料で得られる公開データだけでは特定に限界があったため、有償で決定的証拠を入手する判断をしたという。このように「出所の疑わしい情報に金銭を払う」行為は、西側主流メディアでは倫理上の警鐘を鳴らすものだが、ベリングキャットは伝統的ジャーナリズムの枠外に位置するため大胆な手法も辞さない。グロゼフ氏らは「国家が不正を隠蔽しようとする場合、それを証明する唯一の方法がデータ購入なら倫理的に正当化し得る」と述べ、目的遂行のために一定の越権行為も容認する姿勢を示している。この考え方は「公益のために違法な情報源も使うべきか」という報道倫理上の難題を突きつける。ベリングキャットの場合、調査対象が国家犯罪や大量虐殺といった重大事であるほど、その解明のために多少グレーな手段も取るという目的合理性が優先される傾向がある。
さらに、ベリングキャットは必要に応じて法執行機関や政府当局とも協働する柔軟性を持つが、これも伝統的報道倫理からは逸脱し得る部分である。前掲のトリーバート氏は「従来のジャーナリズムは警察などと一線を画すが、ベリングキャットは法執行機関の支援もいとわない。それが最大の違いだ」と指摘している。実際、ベリングキャットの成果は各国警察や情報当局の捜査を助け、同調査団体自身も政府からの依頼を受けて分析を行うケースがある。このように報道と捜査協力の境界が曖昧になることは、報道の独立性や被調査者の人権との兼ね合いで議論を呼ぶ。さらに、ベリングキャットが公開する詳細な個人情報――たとえば容疑者の本名や顔写真、通信履歴など――は、たとえ加害行為への関与が強い人物であってもプライバシー侵害や名誉毀損のリスクを伴う。報道機関であれば法的助言のもと慎重に判断する局面でも、ベリングキャットは市民の知る権利や真実解明を優先して踏み込んだ公開を行うことがある。そのため、「暴露型ジャーナリズム」としての一面に対し、公開された個人が不当な危険に晒されないか、あるいは誤特定だった場合の責任はどう担保するか、といった倫理的課題も指摘されている。要するに、ベリングキャットは透明性という理念を最大限追求しつつ、匿名性や慎重さを旨とする従来倫理との間で独自のバランスを模索していると言える。この新しいジャーナリズムには依然グレーな領域が多く、今後の活動拡大に伴い内外からの倫理的検証も求められていくであろう。
地政学的影響:国家プロパガンダとの対抗
ベリングキャットの活動は単なる報道に留まらず、国家間の情報戦における新たなプレーヤーとして地政学的影響を及ぼしている。現代は事実認識自体が国際政治の争点となる「ポスト真実」の時代であり、各国政府は自国に不都合な真実を隠蔽・歪曲するプロパガンダを盛んに展開している。その典型例がロシア政府による情報工作であり、例えばウクライナ問題や各種疑惑事件で虚偽の説明を流布し国際世論の撹乱を図ってきた。ベリングキャットはまさにこうした国家プロパガンダに挑み、客観的証拠を提示して対抗する存在として浮上した。MH17撃墜事件では、ロシアは当初ウクライナ側による撃墜説など複数の陰謀論を喧伝したが、ベリングキャットが公開証拠を積み上げロシア軍関与説を裏付けると、国際社会の追及の矛先はロシアに定まった。このケースは、一介の市民調査団体が大国の虚偽声明を覆しうることを示した象徴的事例である。
さらに、欧州で起きたロシア諜報員による暗殺未遂事件(例:スクリパリ事件、ナワリヌイ事件)では、ベリングキャットの暴露がロシア政府に国際的非難を集中させ、ロシア当局が苦しい弁明や情報攪乱を繰り返す事態に追い込んだ。ロシア側はメディアを総動員してベリングキャットへの人格攻撃や陰謀論拡散を行ったが、前述の通りベリングキャットは証拠公開によって粘り強く反論し、逆にロシアの説明矛盾を露呈させている。このような構図は、一種の非対称戦:市民OSINTチーム vs. 国家の情報機関とも言える。ベリングキャットは武力や国家権力を持たないが、デジタル時代のオープン情報網という土俵においては、政府発表よりも信憑性のあるリアルタイム情報を提供できる強みを持つ。特にTwitterなどSNS上ではベリングキャットの速報分析が広く共有され、公式発表より先に人々の認識を形成する局面も見られる。この意味で、同集団は国際世論やナラティブ競争に影響を与えるアクターとなっている。
また、ベリングキャットは時に西側政府や国際組織と連携し、プロパガンダ対策の一翼を担う存在にもなりつつある。例えば2022年のロシアのウクライナ侵攻では、米欧の情報当局がロシアの偽情報に警戒を呼びかける中、ベリングキャットは侵攻前夜から前線の映像を検証し「自作自演の攻撃」疑惑を暴く記事を発表するなど 、民間の立場から対抗情報を提供した。これにより一般市民や他の報道機関が誤情報に騙されにくくする効果が期待され、実際にウクライナ侵攻初期にはベリングキャットの分析が各国メディアで引用される場面もあったという。さらに長期的には、ベリングキャット型の市民調査ネットワークが各国に育つことで、権威主義国家の情報操作にグローバルに対抗する「分散型ファクトチェッキング」のエコシステムが形成される可能性もある。現にベリングキャットは各地でワークショップを開催しOSINTスキルを共有しており 、その出身者がNYタイムズのような主流メディアや新興の調査グループに散らばって活動している。こうした人材ネットワークは、将来的に国家による虚偽宣伝を多方面から検証・阻止する国際市民社会の抑止力となり得る。
無論、ベリングキャットの存在が新たな緊張も生んでいる。政府にとって不都合な情報を暴く同団体は、一部の国家から敵対視・弾圧の対象となりうる。実際、ロシアでは2022年にベリングキャットが「有害団体」に指定され活動禁止措置が取られたとの報道もある。また中国など他の大国も、類似のOSINT調査によって自国の人権弾圧や軍事的動きが暴露されることを警戒しているとみられる。このように、ベリングキャットは国家権力との緊張関係という政治的リスクも抱えている。それでも、デジタル公開情報を軸にした検証モデルは一度社会に広まった以上、特定団体を排除しても容易には消えない。ベリングキャットが切り開いた手法は、すでに他の多くの報道機関・NGO・市民調査コミュニティによって模倣・発展されている。ゆえに、これは単なる一組織の動向ではなく、情報公開社会における地政学的パワーバランス変化の一端と捉えるべき現象である。権威主義的な情報統制に対し、市民と公開情報による監視の目がグローバルに拡大することで、将来的な国際紛争や人権問題への抑止力になりうる点に本質的な意義がある。
民主主義と市民参加への貢献可能性
ベリングキャットの台頭は、民主主義社会における市民参加の新しい形態としても評価できる。従来、重大な調査報道や真相解明はプロのジャーナリストや国家機関の専権事項と考えられてきた。しかしベリングキャットは、一般市民が集合知とテクノロジーを駆使して権力者の嘘を暴き、責任を追及し得ることを実例で示した。これは情報面での権力の脱中央集権化とも言え、知る権利・説明責任を市民自らが担保する動きである。ヒギンズ氏は「社会を守り真実を擁護するのはもはや体制側の独占特権ではない。私たち皆にその責任があるのだ」と述べており 、まさに民主主義における草の根のチェックアンドバランスを標榜している。
具体的な市民参加の形としては、ベリングキャットのオンラインフォーラムやソーシャルメディア上での呼びかけに応じ、多くの協力者が調査に貢献している事実が挙げられる。例えば2021年1月に米ワシントンD.C.で発生した連邦議会議事堂襲撃事件では、ベリングキャットは多数の一般ボランティアに対し、SNS上に投稿された膨大な事件当日の写真・動画の収集と保存を呼びかけた。これは証拠が削除される前に記録を保全し、後の容疑者特定に資する狙いがあったが、短時間で世界中の協力者が画像をアーカイブして提供するなど、市民参加型の捜査協力が実現した。担当の調査員アリック・トラー氏は「少なくとも将来分析のために我々は保存しようとしている」と述べており 、公的機関が手の回らない領域で市民が自発的に証拠保全に寄与した好例となった。
このような取り組みは、市民が単なる受け手ではなく能動的な真実発見の主体となる可能性を示している。民主主義社会では本来、政府やメディアの言説を鵜呑みにせず多角的に吟味する態度が求められるが、ベリングキャットは具体的手法まで提供することで市民のエンパワーメントに繋がっている。実際、同団体のウェブサイトでは「オンライン調査ツールキット」やOSINTのノウハウが公開されており、誰でも地理情報分析や写真検証の基礎を学べるよう工夫されている。さらに各国で開催されるワークショップやトレーニングを通じ、ジャーナリスト志望者や人権活動家、学生など幅広い参加者にスキル移転が行われている。これらの活動は、調査報道の民主化とでも言うべき現象であり、市民社会全体のリテラシー向上と監視能力の底上げに寄与しうる。
また、ベリングキャットは組織運営面でも民主的な支援を受けている点が注目される。創設当初はクラウドファンディングで資金を募り、現在も寄付や助成金によって独立性を保ちながら運営されている。営利企業や国家からの資金に頼らないことで、調査対象の選択や報告内容に外部圧力が及ばないよう工夫している。このモデルは、読者コミュニティが経済的にも調査報道を支える新しいエコシステムとも言えよう。結果として、ベリングキャットの調査成果は特定の権力や利益に偏らない中立性・客観性を担保しやすく、それが市民からの信頼にも繋がっている。この循環は、民主主義社会における公共財としての調査報道のあり方に一石を投じている。
もっとも、楽観的な見方だけでは不十分であり、課題も指摘しておく必要がある。市民が参加可能とはいえ、実際に高度なOSINT調査を行うには専門知識・多大な時間・語学力などハードルが高い。結果的に能力ある一部の「スーパーユーザー」に調査が依存する可能性や、分析誤りが拡散した場合の危険もある。また誰もが監視者になり得る状況は、裏を返せばプライバシーや人権の過度な侵害に繋がる懸念もある。実際、ベリングキャットに触発されSNS上で個人を特定・追跡する動き(いわゆるOSINT私刑)が一般ユーザーに広まれば、無実の人が誤認で糾弾されるリスクも孕む。それゆえ、市民参加型の調査が健全に機能するためには、法的・倫理的ガイドラインの整備やファクトチェックの二重三重の検証体制が重要となる。ベリングキャット自身もサイト上で「オープンソース調査の七つの大罪(OSHIT)」と題した注意事項を公開し、早合点や恣意的解釈の危険を説いている。このように、民主主義への貢献であると同時に、民主的統制を要する側面がある点は留意すべきだ。
以上を踏まえれば、ベリングキャット現象は、市民社会における情報の扱い方を根底から変えうる革新として評価できる。それは「知識は権力」であることを再確認させると同時に、「権力を市民の手に取り戻す」プロセスでもある。十分な情報に裏打ちされた市民が増えることは、ポピュリズム的なフェイクニュース拡散への抗毒素ともなり、公共の議論を健全化する基盤となるだろう。ベリングキャットの試みは、テクノロジーを駆使した参加型民主主義の新局面を開いていると言えるのである。
調査手法に着想を得た現代アート作品の意義
ベリングキャットのような調査手法や真実追求の理念は、報道のみならず現代アートの領域にも大きな影響を与えている。近年、オープンソース情報や科学的分析を用いて隠された社会的・政治的現実を可視化しようとするアーティストやプロジェクトが注目されている。ここでは例として、フォレンジック・アーキテクチャー、リサ・バーンハイム(リサ・バーナード)、トレヴァー・パグレンといった、ベリングキャットと同様の構造を持つ現代アートの事例を取り上げ、その芸術的・政治的意義を考察する。
フォレンジック・アーキテクチャー
フォレンジック・アーキテクチャー(Forensic Architecture)は、ベリングキャットと同時代的に登場した代表的な調査系アートプロジェクトである。2010年に建築家エヤル・ヴァイツマンがロンドン大学ゴールドスミスに設立した学際的研究チームで、建築的手法とOSINT的アプローチを駆使して世界各地の国家暴力や人権侵害の事例を調査・再現する取り組みである。彼らは建築モデルや地理空間解析ソフトウェアを用いて、紛争地域で起きた事件の現場をデジタル空間に再構築し、散在する映像や写真、証言をその中に埋め込んで時系列のストーリーを組み立てる。たとえば2014年ガザ紛争中、イスラエル軍の砲撃で多数の民間人が死亡した「ブラックフライデー」と呼ばれる事件では、現場の3Dモデル上にSNS投稿された動画・画像を配置して弾着地点や時間を解析し、攻撃が組織的報復として行われた証拠を提示した。このような作業は一見すると報道調査や法医学に近いが、フォレンジック・アーキテクチャーはその成果を美術館のインスタレーションや映像作品として発表する点で独特である。彼らの制作物は証拠資料であると同時に、美術的な表現として鑑賞者に訴えかける。実際、同グループは2018年のイギリスのターナー賞(現代美術の権威ある賞)にノミネートされ、芸術界からも「人権に関わる証拠の収集・可視化に革新的手法を開発した」と評価された。これは、伝統的な絵画や彫刻とは異なる「調査する芸術」の存在を世に知らしめる出来事であった。
https://gyazo.com/744e24f4e60cd5014f3cbd024bf4a590
Forensic Architecture - The Bombing of Rafah
フォレンジック・アーキテクチャーの芸術的・政治的意義は、現実世界の隠された真実を明らかにする行為自体を美術の文脈に乗せた点にある。ヴァイツマンらは自らの手法を「対抗的フォレンジクス(counter forensics)」とも呼び 、国家や加害者側が語る公式ストーリーに対抗して被害者側の視点から証拠を積み上げる実践だと位置付ける。彼らのモットーは「報道の虚偽記述の不整合を暴き出すこと」であり 、これはジャーナリズムのミッションと重なると同時に、権力への異議申し立てとしてのアートの役割とも合致する。実際、フォレンジック・アーキテクチャーの調査はしばしば国際法廷や真相究明運動と連携し、芸術の枠を超えて実社会に介入する。例えば地中海で難民救助活動を行っていたドイツのNGO船「イウヴェンタ号」が人身売買業者と共謀しているとイタリア政府に告発された事件では、フォレンジック・アーキテクチャーが同船の航路記録や映像を精査して反証を示し、当局の主張の虚偽を証明する「対調査」を行った。この成果は司法の場にも提出され、虚偽の告発からNGOを擁護する役割を果たした。こうした活動は、アートが単に社会を映す鏡に留まらず、社会正義のための積極的な道具となり得ることを示している。芸術的には、建築模型やCG映像、データビジュアライゼーションなどを駆使した作品群が提示するのは、一種の「調査の美学」である。そこでは厳密な論理と感覚的な表現が融合し、鑑賞者は提示された証拠を追体験しつつ事件の本質に迫ることになる。このプロセス自体が、観客を巻き込んだ真実発見の民主的プロセスとも言えよう。フォレンジック・アーキテクチャーは「科学とアートの間の新領域を切り開いている」と評され 、アートが社会に介入し得る可能性を大きく押し広げたのである。
https://gyazo.com/59c7b7d900aa70e3a95c3d4ccf68074f
Forensic Architecture - The Seizure of the Iuventa
トレヴァー・パグレン
トレヴァー・パグレン(Trevor Paglen)は、アメリカのアーティストであり地理学者で、国家の監視体制や軍事機密といった目に見えない存在を可視化する作品で知られる。彼のアプローチもまた、リサーチと芸術の融合である。パグレンは長年にわたり、米国政府の「ブラックサイト」(極秘軍事施設)を遠望カメラで撮影したり、スパイ衛星の軌道を追跡して夜空に微かな光点として捉えたり、NSAの海底盗聴ケーブルの敷設位置を突き止め水中から撮影したりといったプロジェクトに取り組んできた。これらの作業には天文学的計算やダイビング技能、専門家との協働など高度な調査が必要であり、まさにOSINT的手法とフィールドワークを駆使した「探偵のような芸術家」である。彼の作品《Limit Telephotography》シリーズでは、エリア51など立入禁止の軍事基地を数十マイル離れた丘から高倍率レンズで撮影し、そのぼんやりとした風景写真を展示する。一見すると抽象的な風景だが、背景にある「何が写っているのか」を知ると、そこに国家の秘密主義や監視の実態が浮かび上がる仕掛けだ。このように、パグレンの作品はコンテクスト(文脈)を不可欠とする。写真自体は美しくミステリアスだが、その背後に作家自身による詳細な調査と説明が付されることで初めて社会的メッセージが顕在化する。
https://gyazo.com/c76b76dc77d01c09a037ee81ca9dd70a
Trevor Paglen - Limit Telephotography
パグレンの芸術的意義は、伝統的な視覚芸術の枠組みに批評的文脈を組み込み、鑑賞者に「見るとはどういうことか」を問いかける点にある。本人も「作品は常にリサーチプロセスと結果のイメージとの緊張関係に成り立っている」と語っており 、調査という見えないプロセスと展示された可視イメージのギャップ自体を作品化している。これは、現代社会の監視技術がもたらす「不可視性」と通底している。つまり、われわれの頭上では大量の偵察衛星やアルゴリズムが活動しているが、市民にはそれが直接見えないという現実だ。パグレンは「我々の周囲の世界を見る方法を学ぶのは非常に難しいことがわかった」と述べ 、その困難さに挑むのが芸術家の役割だと示唆する。実際、彼の作品群は「見えないものを如何に見えるようにするか」を一貫したテーマとしており、これはベリングキャットのような調査報道とも共鳴する理念である。彼はエドワード・スノーデンの暴露に触発された作品も制作しており、2015年の個展では暴露資料をもとにNSAが盗聴するインターネット海底ケーブルの具体的地点を割り出し、その海中写真を展示した。このプロジェクトは、リーク情報を活用したOSINT調査が芸術表現に直結した例であり、まさにベリングキャット的な手法と問題意識を芸術に転化したものといえる。
パグレンの政治的意義は、観客に対して国家権力の監視構造や軍事テクノロジーの実在を突きつけ、批判的な思考を促す点にある。彼の作品は美術館やギャラリーで展示されるが、それを見ることで観客は日常では意識しない巨大な監視網の存在を感得し、プライバシーや自由について考えざるを得なくなる。パグレン自身、博士号を持つ地理学者という経歴からもわかるように極めて学際的知見に富み、作品制作には科学者やハッカーらとのコラボレーションも辞さない。例えば彼は「オートノミー・キューブ」という、展示空間に設置して利用者にTorネットワーク経由で匿名Wi-Fi通信を提供する彫刻作品を開発した。これは鑑賞者が実際にその場で匿名ネット利用を体験できる参加型作品であり、監視社会への一種の対抗措置をアートとして提示したものである。こうした活動から、パグレンは「テクノロジーが形作る21世紀の社会」を芸術的前衛として批評する先駆者と評価されている。彼の取り組みは、ベリングキャットと同様に「知ること」を市民に訴えかけ、かつ「知るための方法」を模索するという意味で、芸術とジャーナリズムの垣根を越えた社会貢献を果たしている。
https://gyazo.com/11fe06689e159eb6cb2cc2e7dd9b34ae
Trevor Paglen - Autonomy Cube
結論
本稿では、ベリングキャットの活動と可能性を多角的に検討し、その延長として現代アート作品への影響も論じた。ベリングキャットはOSINTという新時代の手法を駆使し、従来は困難だった紛争下での事実検証や国家による虚偽情報の暴露に成功してきた。その特異なアプローチは、市民が主体となって公開情報から真実を構築しうる可能性を示し、ジャーナリズムとインテリジェンスの境界を融解させた。一方で、透明性を極限まで追求する姿勢は、情報倫理上の葛藤や報道の在り方に新たな論点を提起した。ベリングキャットの存在はまた、国家間のプロパガンダ戦においてオルタナティブな勢力として機能し、地政学的な情報環境に変化をもたらしている。さらに、市民参加型の調査報道モデルとして、民主主義社会における知的公共圏の活性化に寄与しうる一方、その持続には倫理的・制度的枠組みの整備も必要とされるだろう。
現代アートの領域に目を転じれば、ベリングキャット的な「調査の眼差し」は、フォレンジック・アーキテクチャーやトレヴァー・パグレンらの作品に見られるように、創造的実践とも結びついている。これらのアーティスト/集団は、それぞれの方法で公開情報や科学技術を用い、不可視化された権力の構造や戦争の現実を照射している。その芸術的・政治的意義は、単に美の探求に留まらず、証拠の提示や真実の再構成を通じて社会に介入し、観客を啓発する点に認められる。言い換えれば、真実を追求する行為自体が一つの文化的価値を帯び始めているのである。
デジタル技術の進歩と情報環境の変容によって、生の事実をめぐる闘いはこれまで以上に複雑化している。ベリングキャットに象徴される市民の自発的な調査報道と、同じ精神を共有する芸術的実践は、その複雑な状況下で真実と向き合う新たな方法論を提示している。もちろん、こうした動きが万能であるわけではなく、誤情報の氾濫や監視社会化といった別の課題も併せ持つ。しかし、本稿で論じた事例が示すように、オープンソースの力と人間の批判的知性を組み合わせることで、従来は闇に埋もれていた事象に光を当てることが可能となってきた。これは民主主義の原点である「市民による権力監視」がテクノロジーによって強化された姿と言える。21世紀の情報秩序において、ベリングキャット的な取り組みとそれに呼応する芸術表現は、真実と虚偽のせめぎ合う空間で重要な対抗軸として機能し続けるだろう。今後の課題は、これら市民起点の知的営為を持続可能な形で制度化し、健全な公共圏の一部として育んでいくことである。そのためには、社会全体で情報リテラシーと倫理意識を高めつつ、新しいジャーナリズムとアートの交差点から生まれる創造的なエネルギーを支持・評価していくことが求められる。終わりに、真実を追求しそれを共有すること――この民主主義社会の根幹となる営みが、ベリングキャットやそれに触発された現代アートによって再び活力を得ている点を強調し、本考察の結びとしたい。
参考文献(出典)
• Eliot Higgins(著), 安原和見(訳)『ベリングキャット ―― デジタルハンター、国家の噓を暴く』筑摩書房, 2022年(序章より引用) .
• Asahi ジンブンドウ「謎の調査集団『べリングキャット』とは何者か?創設者みずから語る」2022年5月25日 .
• Asahi GLOBE+「OSINTの先駆集団ベリングキャットから報道機関へ」2022年11月15日 .
• The Washington Post, “Bellingcat breaks stories that newsrooms envy — using methods newsrooms avoid.” (Elahe Izadi & Paul Farhi) January 9, 2021 .
• It’s Nice That, “Navigating a new space between science and art: Forensic Architecture on the agency’s Turner Prize nomination.” November 26, 2018 .
• The Guardian, “Hyenas of the Battlefield, Machines in the Garden – Lisa Barnard’s disturbing photographs exploring remote warfare.” February 8, 2015 .
• Artspace, “Can an Artist Take on the Government (and Win)? A Q&A With Trevor Paglen.” September 11, 2015 .
• その他、ベリングキャット公式ブログ、Bellingcat関連の各種記事 および学術文献を参照。