ハイパースティションとCCRU:虚構が現実を生み出すサイクル
序論
1990年代後半にイギリス・ウォーリック大学で結成されたサイバネティック・カルチャー研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit, CCRU)は、学術の枠を超えた特異な思想実験集団である。彼らはサイバーパンクとゴシックホラーの美学、フランス現代思想からの影響、オカルトや数秘術などを融合し、「セオリー・フィクション(理論的虚構)」と呼ばれる文体で狂騒的な理論を展開した。その中核概念がハイパースティション(hyperstition)、すなわち「自己実現する予言の実験的(テクノ)科学」たる超迷信の理論である。本稿では、CCRUの主要人物(ニック・ランド、サディ・プラント、マーク・フィッシャーなど)の思想的背景を辿り、ハイパースティション概念の定義とそれが哲学・ポスト構造主義・加速主義へ与えた影響を考察する。さらに、この概念が現代の芸術実践、特にメディアアートにどのように応用されているかを、具体的な作品・アーティスト・展覧会を例に網羅的に検討する。ポストモダン以後の思想的潮流(アフターポストモダニズム)、脱人間中心主義、サイバネティクスと未来の生成に関する議論とも接続しつつ、ハイパースティションの意義と射程を研究論文の形式で論じる。
CCRUの結成と思想的背景
CCRUの発足:CCRUは1995年にウォーリック大学哲学科の若手研究者を中心に発足した実験的文化研究グループで、公式には大学に認可されないまま2003年に解散した。当時の指導教官ですら「CCRUは決して存在しなかった」と述べるほど、その活動は学内制度から逸脱していた。しかし彼らの発信した理論テクストはインターネット上でカルト的人気を博し、後の加速主義ブームの文脈で再評価されている。CCRU自身は、自らの起源を「1995年10月にサディ・プラントをスクリーン(隠れ蓑)に、ウォーリック大学を一時的な生息地として時空を遡行的(retrochronically)にトリガーした存在」であるとフィクションめかして語っており 、その時点から彼らの理論それ自体がひとつの物語=存在論的実験であったことが窺える。
主要メンバーの思想的背景:初期メンバーには哲学者のニック・ランドと文化理論家のサディ・プラントが含まれ、この二人がCCRUの思想的指導者となった。ランドは当時講師として在籍し、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などポスト構造主義理論に刺激を受けて独自の加速的思弁に傾倒していた。教え子ロビン・マッケイによれば、ランドの講義は「フランス現代哲学」を冠しつつも哲学・経済・文学・生物学・テクノロジーなどあらゆる知の領域を渦巻に巻き込み、“人間の安全保障システム”を解体して知性そのものの潜在力を解放しようとする狂騒的な試みであったという。ランドは、ドゥルーズ=ガタリの示した「絶対的な潜在性(絶対的な未来の開放性)」の概念を再工具化し、人間中心主義に基づく既存社会システムを解体・脱臼させることで知性やテクノロジーが自己展開する未来を志向したのである。一方、サディ・プラントはサイバーフェミニズムの先駆者であり、著書『Zeros + Ones』(1997年)でテクノロジーと女性解放を結びつける大胆な理論を展開した。プラントは「女性は生まれるのではなく作られる」(シモーヌ・ド・ボーヴォワールの命題)にヒントを得つつ、ドナ・ハラウェイのサイボーグ思想やドゥルーズ=ガタリの「生成」を取り込み、ネットワーク化したテクノロジーと女性性が父権制を内側から転覆しうると論じた。このようにランドとプラントはそれぞれ、人間主体の解体とテクノロジーの解放、ジェンダーとネットワークの革命といったテーマで共鳴し、CCRU全体の思想基調を形作った。
CCRUには他にも博士課程の大学院生や批評家、音楽家、芸術家が集った。メンバーにはルチアナ・パリシ、マーク・フィッシャー、コードウェル・エシュン(Kodwo Eshun)、ロビン・マッケイ、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、スティーブ・グッドマン(音楽家Kode9として知られる)らが名を連ねる。文化評論家となったマーク・フィッシャーはランドの弟子の一人であり、ポップカルチャー批評や資本主義批判にCCRU由来の理論的感性を持ち込んだ人物である。フィッシャーは後年、著書『資本主義リアリズム』(2009年)で新自由主義下での想像力の停滞を批判し、「本当に現実を変えるにはオルタナティブな未来像を提示しなくてはならない」と論じた。これは、彼がCCRUで培ったハイパースティション的発想──フィクションによって現実の方を変えてしまう試み──を左派政治の文脈で展開したものと解釈できる。実際フィッシャー自身、ブログエントリ「Left Hyperstition(左派ハイパースティション)」の中で「左翼は過度に現実的で夢のない態度によって文化闘争に敗北してきた。資本主義は常にフィクションを先行させ現実を引きずってきたのに、左翼にはそれが欠けている」と述べ、対抗する未来神話を創出する必要性を説いている。このようにフィッシャーは、ハイパースティションの手法を文化批評と政治思想に応用し、“資本主義の神話”に対抗するオルタナティブを模索したといえる。
ハイパースティション概念:虚構と現実のサイクル
理論的定義:ハイパースティション(超迷信)とは、CCRUが生み出した造語であり、「ハイパー(過度の)+スティション(迷信)」の合成語である。その理論的定義は、単なる迷信とは異なり「観念やフィクションが自己実現的に現実を作り出す働き」を指す。ニック・ランド自身の言葉を借りれば、ハイパースティションとは「文化を構成要素に含む正のフィードバック回路」であり、「自己実現する予言のための実験的(テクノ)科学」なのである。迷信(スーパースティション)が現実とは無関係な誤信に過ぎないのに対し、ハイパースティションは「それが観念として存在するという事実だけで、自らの現実を引き起こす原因的機能を果たす」点に特徴がある。たとえばウィリアム・ギブスンのSF小説に登場した「サイバースペース」という概念は、1980年代当初は架空のアイデアに過ぎなかった。しかしそのサイバースペース像に人々が魅了された結果、1990年代にはインターネットへの巨額投資と技術開発が加速し、フィクションであったサイバースペースが現実のテクノ社会空間として具現化した。このように「架空の概念(虚構)が自らを現実化する」現象こそがハイパースティションであり、ランドは「適切な条件下ではハイパースティションは虚偽を真実に錬金(トランスミュート)しうる」と述べている。現代社会でも金融市場における投資家の信心(信頼感や恐慌)は、噂や予測が自己成就的に相場を動かす現象として日常的に観察でき、これもハイパースティションの一例である。さらに宗教的な例では、例えばエルサレムが「聖地である」という観念そのものが何世紀にもわたり人々の行動と政治を方向付け、結果的にエルサレムを名実ともに「特別な運命を持つ聖地」にしてしまったという指摘もなされている。このようにハイパースティションは、人々が真偽を問わずある観念を現実であるかのように扱うことで、その観念が現実のフィードバックループに組み込まれてしまうプロセスを指す。「信じれば現実になる」という自己実現予言の構造を、CCRUはオカルト的・サイバネティクス的観点から理論化したのである。
文化的フィードバックとナラティブ:CCRUはハイパースティションを文化現象として分析しつつ、それを意図的に発生させる理論的小説=理論のフィクション化という手法を用いた。彼らは「理論とフィクションの絡み合いが避けられないなら、それ自体を創造的かつ破壊的に利用すべきだ」と考え、あえて難解な物語仕立ての文章で自らの理論(フィクション)を発表した。その背景には、「文化・政治・経済・テクノロジー等は相互にフィードバックするサイバネティックなシステムであり、どんな理論記述もそのシステムに新たなフィクション(観念)を注入する行為になる」という認識があった。であれば、理論そのものをフィクション化し意識的に文化に作用させることで、新たな現実の可能性を開くことができる——これがCCRUの狙いであった。CCRUのテクストには、クトゥルフ神話に登場する邪神や魔術的数秘体系(ナモグラム)など一見荒唐無稽なモチーフが散りばめられているが、それらは単なる遊びではなく、「フィクションによって現実を攪乱する」ための装置であった。実際彼らは、自らの著作世界に登場する悪魔的存在やサイバースペースの幻影をネット上に拡散し、読者を巻き込んだ一種の儀式的実験を行っていた。これらはオカルトじみた趣向でありながら、社会的想像力に干渉することで現実変容を促すという意味で文化的ハッキングとも言える。CCRUの数秘サイバネティクス体系である「ナモグラム(Numogram)」はその象徴的な成果で、0〜9の数字と呪術的な時間回路を組み合わせた迷宮図として提示され、CCRU内部では未来予測や物語生成のプラットフォームとなった。このナモグラムは西洋魔術の生命の樹(カバラ)にも喩えられる複雑な図像で 、ハイパースティション理論を半ば実践的に運用するための「記号的マシン」として機能したのである。要するに、ハイパースティション概念は理論であると同時に実践でもあり、CCRUは自らの理論フィクションを文化に浸透させるという自己言及的な方法で、その概念の有効性を証明しようとしたのだ。
ハイパースティションの思想的接続:ポスト構造主義から加速主義へ
ポスト構造主義からの影響:CCRUの思想的源流には、ドゥルーズ&ガタリを筆頭とするフランスのポスト構造主義哲学があった。彼らは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に触発され、欲望と機械の接続による社会の脱領土化、従来のヒエラルキー秩序の攪乱といったテーマを推し進めた。またミシェル・セールやジャン・ボードリヤール、ジャン=リュック・ナンシーらの思想から「システムの内部からの逸脱」「シミュレーションと現実の相互作用」といった問題意識も継承したと考えられる。ランド自身はポスト構造主義の文脈に留まらず、H.P.ラヴクラフトのコズミックホラーやウィリアム・バロウズのカットアップ文学、オクティヴィア・バトラーのSFなどサブカルチャー作品からも等しく影響を受けていた。CCRUの文献にはラヴクラフトやギブスン、J.G.バラードの名が頻出し 、理論とフィクションの境界を意図的に曖昧にする姿勢が伺える。これは思想史的には、ポストモダン文化理論が高尚な哲学と大衆文化とを横断し始めた潮流(ジェイムソンのポストモダニティ論やサイボーグ・フェミニズムなど)の延長線上にありつつも、それをさらに過激に推し進め未来志向を強めた動きと位置付けられる。実際CCRUの登場は、ポストモダン思想がしばしばアイロニーや停滞感を伴って語られた「歴史の終わり」の時代に、新たな未来神話を注入する試みとして異彩を放った。彼らは当時の「急進的批評」が現状の矛盾を嘆くだけで満足していると批判し 、そうではなくシステム内部の加速的な力(テクノ資本の暴走や文化の変容)を分析しつつそれを乗りこなす方向へ向かうべきだと主張した。この点において、CCRUはポスト構造主義の批判的伝統を受け継ぎながらも「批判にとどまらない積極的介入」へと思想のベクトルを変換した存在であるといえる。
加速主義との接続:CCRUの思想は、後に加速主義(Accelerationism)と呼ばれる潮流に直接的な影響を与えた。加速主義とは、資本主義の技術的・社会的加速を否定するのではなくむしろ増幅させ、その先にある地平から現状を突破しようとする思想である。この概念自体は元々ランドの師であるジャン=フランソワ・リオタールの議論から着想を得たとされるが、1990年代末〜2000年代初頭にランドとCCRUが展開した狂騒的な理論実験が加速主義思想の原型を形成した。ランドはCCRU解散後、中国に移住して技術発展を称揚する「ダークエンライトメント(暗黒啓蒙)」思想へ傾斜し、現在では新反動主義(ネオリアクショニズム)の思想的旗手として物議を醸している。一方、ランドと袂を分かった形のマーク・フィッシャーや同世代の理論家ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズらは2010年代に**「#ACCELERATE 加速主義宣言」(2013年)を発表し、テクノロジーの力を左翼的解放のために利用すべきだと訴えた。これはCCRU由来の加速の思想を左派的ハイパースティションとして再構築する試みであった。彼らは資本主義リアリズムの打破には「新たな未来像の創出(=ハイパースティション実践)」が不可欠だと捉え、オルタナティブな社会像を積極的に描き出そうとしたのである。この動きはポストポストモダンの思想的一潮流とも目され、停滞した現状を超えるために神話的未来ビジョンを戦略的に用いる点が特徴的である。
脱人間中心主義とスペキュラティブな哲学:CCRUが志向した「人間を超えた知性の解放」「システムの非人称的自己展開」といったテーマは、その後のポストヒューマン的思潮にも通じる。ランドやブラシエらCCRU関係者の一部は、2000年代後半に思弁的実在論(スペキュレイティブ・リアリズム)の運動に関与し、人間の主体や経験を越えた実在(オブジェクトやシステム)の観点から世界を捉え直す哲学を追求した。思弁的実在論の主要テーマである「人間中心的な認識論の克服」は、CCRUがサイバネティクスやオカルトまで動員して描こうとした「非人間的な時間・知性のビジョン」と響き合う。実際、レイ・ブラシエは「人類消滅後の世界」の思考実験で知られ、またCCRUと協働したイラン人作家レザ・ネグレスタニの著作『サイクロノペディア』(2008年)は、人間ではなく中東の地理や石油そのものを暗黒のエージェントと見立てた理論SFで大きな注目を浴びた。ネグレスタニの試みは「化石燃料と戦争に駆動される地球規模の加速プロセス」という現代の負の壮大叙事詩を提示したもので、これもまたハイパースティション的な思考の産物である。彼の小説は政治学者には荒唐無稽に映るかもしれないが、人間中心のエージェンシー概念を疑い、非人間的な物質やシステムに主体性を見出すという視座を提供した点で極めて示唆的であった。こうした思想的展開は、「人新世」や気候変動の文脈で語られるポストヒューマン/ポスト人間中心主義の潮流と軌を一にする。すなわち、人類が引き起こしたシステム(資本主義やテクノロジー、生態系破壊)が人類をも超えて自律的に振る舞い始めるという認識が広まりつつある中で、CCRUが先駆けて提示した「人間を超える物語」は、今日ますます現実味を帯びてきているのである。ランドの極端な未来志向(しばしばテクノロジーと市場の自己増殖へ陶酔した科学的オカルトと評される)も、フィッシャーらのより穏健な未来左翼像も、その根底には「現在の延長としてではない未来」を描こうとするハイパースティション的想像力が流れている。この想像力は、単なる思索に留まらず現実への介入を意図する点で特徴的であり、実際にその後のアートや社会実験に具体化されている。
現代芸術への応用と影響:メディアアートにおけるハイパースティション
CCRUの思想、とりわけハイパースティションの概念は、21世紀の現代芸術においてもしばしば参照され、創作実践に応用されている。その影響は特定のジャンルに限らず、デジタル・メディアアートから映像、インスタレーション、パフォーマンスまで多岐にわたるが、共通するのは「フィクションと現実の区別を意図的に撹乱し、新たな現実認識を観者に促す」というアプローチである。
CCRUとアートの直接的交差:CCRUは活動当時から芸術家とのコラボレーションを行っており、実験的映像集団オルファン・ドリフト (0(rphan)d(rift>)) はその代表例である。オルファン・ドリフトのメンバー、マギー・ロバーツとラヌ・ムケルジーはランドらと協働し、デジタル映像とテクストを組み合わせた作品を制作した。例えば1999年にロンドンのビーコンズフィールド現代美術ギャラリーで開催された学際的イベント「Syzygy(朔望)」では、オルファン・ドリフトのプロジェクト Cyberpositive が披露されている。Cyberpositive(1995年)はランド/CCRUのテクスト群を視覚・音響作品へと展開した一連の試みで、加速し増殖する情報社会への賛歌と戦慄を同時に含んだ内容であった。この作品名自体「ポジティブなサイバー(肯定的サイバネティクス)」を意味し、否定ではなく肯定によってシステム内部から未来を出現させるCCRU的な姿勢を表している。またCCRUの音楽的側面としては、メンバーのコードウェル・エシュンが著した『より明るい太陽の下で:ソニックフィクションの冒険』 (1999年) が注目される。これはブラック・アフロフューチャリズム音楽(デトロイトテクノやサン・ラーのジャズなど)の批評書だが、その文体は理論とフィクションと音楽評論が交錯する独特のもので、音響の神話論とも言うべき内容になっている。エシュンは「マシンがグローバルに遍在する世界において、テクノロジーに周縁化されてきた黒人音楽が孕む未来解放の潜勢力(サイボーグ的可能性)を増幅する」という視点で音楽文化を捉え、「ソニック・フィクション」という概念を提唱した。この試みは、ある意味で音楽におけるハイパースティションとも言え、音楽作品が内包する未来の物語を理論的フィードバックによって顕在化させるものだった。エシュンの仕事もまたCCRU的思考の芸術領域への適用例といえる。
https://gyazo.com/745b2ecc47e51f70473ab05b82b12b73
(0(rphan)d(rift>) - Cyberpositive
https://gyazo.com/b4a006237663ea5d2a9b364bd953f25b
Kodwo Eshun - Brilliant than the Sun: Adventures in Sonic Fiction
フィクションとしての未来像を描くアーティストたち:具体的なアーティストの例として、ローレンス・レック (Lawrence Lek) とスザンヌ・トリースター (Suzanne Treister) の二人はハイパースティション的発想を巧みに作品化している。ローレンス・レックはCG映像やシミュレーション技術を駆使し、架空の未来世界を描く映像インスタレーションで注目されるアーティストである。彼の代表作の一つ『シノフューチャリズム (Sinofuturism) (1839–2046 AD)』は、中国の台頭をめぐる西洋のステレオタイプな未来像(テクノ東洋主義的な幻想)をあえて「見えざる運動(幽霊のようなムーブメント)」として提示したビデオエッセイである。レックはそれを「既に存在しているSF(サイエンスフィクション)」と称し、中国が「未来そのもの」とみなされる奇妙なねじれを風刺しつつ映像化した。この作品は同時に、ランドらが唱えた「ネオチャイナは未来から到来する」という加速主義的ヴィジョンを映像芸術として検証する試みでもあった。実際、批評家はランドの中国観に見られるハイパースティション(未来がフィクションを通じ現在と過去を組み替えるという現象)がシノフューチャリズムという作品に具現化していると指摘している。レックの他の作品『Geomancer』や『AIDOL』も、架空AIの視点から未来の芸術や社会を描き、フィクションを通じて現実のテクノロジー倫理を問い直す内容で高く評価されている。彼のアプローチは「近未来のシミュレーションを提示し、それが今の我々の世界観に逆投影する」というもので、観客は虚構の中に現実の延長を見出し、現実の方がその虚構に近づいていく感覚を味わう。これはハイパースティション的な手法そのものと言ってよい。
https://gyazo.com/463864904cd11de27f4571a2a4b754f4
Lawrence Lek - Sinofuturism
https://gyazo.com/ab7c8fc816a8d45b48f2fe8990510dac
Lawrence Lek - Geomancer
https://gyazo.com/192523bff6f78dbfd458aa93ae727829
Lawrence Lek - AIDOL
スザンヌ・トリースターは、オカルトとテクノロジー史を組み合わせた作品で知られるイギリスのアーティストである。彼女のシリーズ「HEXEN(ヘクセン)」は特に有名で、陰謀論や政府の極秘実験、カウンターカルチャー史、魔術結社などを綿密にリサーチし、それを架空のオカルト兵器プロジェクトやタロットカードの形でアーカイブ・提示するという独特の手法をとっている。たとえばHEXEN 2.0 (2009-2011)では、第二次世界大戦後の米英諜報機関による洗脳実験やサイケデリック文化、ネットの発明史などが「もう一つの歴史」としてカードや年表にまとめられ、事実とフィクションの境界が曖昧に描かれている。トリースターはこうした作品によって「我々が共有する現実は、語られていない物語やオカルト的信念によって裏から形作られてきた」という洞察を示唆し、観る者に思考実験を促す。彼女のもう一つの代表作『HFT The Gardener』 (2014)では、架空の高頻度取引業者がドラッグ体験によって植物と交信し金融市場を予見するという奇想天外なストーリーが描かれる。これは金融市場という現代の迷信システムとシャーマニズムを融合したもので、まさにハイパースティション(虚構が現実経済を動かす)の寓話といえる。トリースターの作品群は、美術の文脈でハイパースティション概念を体現する最良の例の一つであり、「事実のように振る舞うフィクション」を巧みにデザインすることで現実世界への認識を拡張する効果を生んでいる。
https://gyazo.com/e273854ccc3c632aa8a002c89c0af83c
Suzanne Treister - HEXEN 2.0
https://gyazo.com/155a50ad0ef4e8c78390de39e39e7f8c
Suzanne Treister - HFT The Gardener
以上のように、ハイパースティションの考え方は現代芸術の様々なプロジェクトに息づいている。作品や展覧会の形式は多種多様であるが、共通しているのは「未来のイメージ(フィクション)を現在に投影し、それが現実を変容させる力学を示す」点である。芸術家たちはフィクションの持つ創造的・批判的ポテンシャルを活用し、観客に対して単なる批評ではなく体験的な思考実験を提供している。こうしたアプローチにより、ハイパースティションは哲学概念の枠を越え社会的実践としても展開されているのである。
結論
ハイパースティションとCCRUの活動は、一見すると難解で荒唐無稽な理論実験のように思われる。しかし本稿で見てきたように、その核心には「観念が現実を作り出す」という自己実現的フィードバックの洞察があり、これは現代社会の文化・政治・技術の動態を捉える上で極めて示唆的な概念となっている。CCRUの主要人物—ニック・ランドやサディ・プラント、マーク・フィッシャーら—はポスト構造主義やサブカルチャーの影響下に、人間中心主義を乗り越えるラディカルな思考を追求し、フィクションと理論を融合させることで未来を先取りしようと試みた。その試みは加速主義として思想史に刻まれ、賛否を呼びつつも21世紀の思想的課題(テクノロジーの暴走、気候危機下での人新世、資本主義の神話など)に新たな視座を提供している。さらにハイパースティションの概念は、現代アートやメディア実践の領域で具体的な形をとって開花している。芸術作品を通じて虚構が現実へ作用する様を可視化し、観る者自らが「未来の物語」を思考する契機を生み出している。このようにハイパースティションは単なる机上の空論ではなく、思想と創造の両面に跨がる実践的概念として成熟しつつあると言えよう。ポストモダン以後の世界において何が真実で何が虚構かの境界が揺らぐ今、ハイパースティションのフレームワークは、未来を構想し現実を変革するための強力なツールとなり得る。CCRUの残した遺産は、奇抜さの陰にこのような本質を宿しており、加速する社会への批判と希望の双方を内包したまま、今なお思考と創造のフロンティアで脈打っている。