タイラー・フォックスのメディアアート理論における技術観と美学 —— シモンドン哲学との関連
はじめに
タイラー・フォックスはメディアアートの理論家・実践者であり、その研究はジルベール・シモンドンの哲学に強く影響を受けている。シモンドンは個体化(individuation)の哲学者として知られ、個体(存在)が関係性の中から生成すると説いた(関係論的存在論)。その中でミリュー(環境)と個体は不可分の対(ダイアード)を成すとし、技術も我々のミリューの一部であると位置付けられる。シモンドンはまた、近代文化が技術的実在を正当に評価していないことを批判し、文化は技術的対象を知と価値の体系に組み入れるべきだと主張した。彼は「技術的精神(technical mentality)」の必要性を説き、その芽生えがとりわけファインアート(美術)の領域に現れていると述べている。フォックスはまさにこの文脈において、メディアアート作品の分析を通じて技術と芸術の関係を探求している。
本稿ではフォックスの英語論文を手がかりに、彼のメディアアート理論における技術観および美学的視座を整理し、とくにシモンドンの哲学(個体化論、トランスダクション、ミリュー等)との関連性を検討する。具体的な事例として、インタラクティブなバイオアート作品《Biopoiesis(バイオポイエーシス)》の分析を含めながら、メディアアートにおける主体・環境・技術の関係を理論的に解釈する。対象読者は美術専門家および情報学・メディア研究者であり、以下では学術的文体(だ・である調)で議論を展開する。
シモンドン哲学に基づくフォックスの技術観
フォックスの技術観の根底には、シモンドンの技術哲学がある。シモンドンは技術的対象(テクニカルオブジェクト)を理解するには、その機能的・操作的側面を重視すべきだと述べている。特に人間と世界の媒介として技術を見る場合、鑑賞者(人間)の主観からではなく、まず技術対象の機能に着目しなければならない。これはセンサーなどを通じて環境と物理的に関わり合うインタラクティブな作品を理解するのに適した分析モデルである。シモンドンによれば、技術的対象は特定の局所的なミリュー(環境)の中で機能し、そのミリューもまたその対象の機能によって条件づけられる。すなわち環境が装置(機械)を維持すると同時に、装置も環境を変化させてゆく。シモンドンはこの相互に形成し合う環境を「技術地理的ミリュー(techno-geographic milieu)」と呼び、ここにはそれまで存在しなかった新たなものがトランスダクション(transduction)によって個体化する過程が含まれるとした。技術と環境が相互作用するこのプロセスそのものが一種の生成(個体化)であり、シモンドンは技術的対象の世界との関係を常にこうしたトランスダクティブ(異質な領域を接続し新たな構造を生む)な過程として理解しようとした。
フォックスはこのシモンドンの視座を継承し、技術を単なる人間の道具以上の存在として捉えている。彼は現代の一般的な技術観——人間が自らの欲求を満たすために技術を作り出し利用するという人間中心的・目的論的な見方——を「貧しい技術観」であると批判する。テクノロジーは本来、それ自体が環境内で独自の役割を果たしうる存在であり、人間の消費欲求を満たす道具以上のリアリティ(現実性)を持つとフォックスは考える。この点で彼の立場はシモンドンの「技術的精神」の提唱と響き合う。シモンドンが技術と文化の分断を批判し技術対象の価値を認める文化の必要性を説いたように 、フォックスもまた技術を文化的・美学的経験の担い手として位置づける。そしてその理解のためには、人間中心の視点ではなく、オブジェクト中心の分析すなわち技術的対象そのものとそのミリューに着目することが必要だとする。実際、James Ashが指摘するように、ある技術の効果(affect)を理解するにはその物質的要素とミリューを把握する「エコロジカルな分析」が有効であり、技術的対象が世界に及ぼす作用の潜勢力を考察すべきだ。フォックスはこのような観点から、技術と環境の関係性のダイナミクスに注目する。
要するにフォックスの技術観は、技術—環境系を動的な相互関係(相補的な個体—ミリューのペア)とみなし、その関係性の中で技術自体が主体性の一端を担いうるというものである。技術的対象は環境との相互作用を通じて自己組織化的に振る舞い、潜在的な創発力を持つ存在であり、人間とは独立した仕方で「感じ」「反応」しうるという見方である。このような見解は、技術を受動的な道具ではなく環境の一部として生成する個体(individuating individual)とみなすシモンドンの思想に基づいている。実際フォックス自身、「テクノロジーは我々の環境と相互作用する個体であり、発明によって生まれた個体である」と述べている。
非人間的視点を含む美学的視座
フォックスはメディアアートにおける美学(aesthetics)を論じる際、人間の感性に留まらない広い視野を提示する。彼はシモンドンの議論から着想を得つつ、技術による知覚の拡張や非人間的な感性の問題に踏み込んでいる。シモンドンは技術的対象にも何らかの「感性的な傾向(aesthetic tenor)」が備わっていると述べ、人間が技術を介して新たな知覚領域にアクセスできる可能性に言及した。しかし同時にシモンドンの記述は暗黙のうちに人間主体の美学的体験を想定しているとも解釈される。フォックスはここで問題提起を行い、美学的経験を人間中心の枠組みから解放する必要を説く。
彼の主張によれば、インタラクティブ・アートにおいては技術を介した感覚拡張が起こっており、その体験は人間だけでなく技術オブジェクトや生物など非人間的な主体にも関わるものと捉えるべきである。フォックスはこの立場を明確にするため「技術的アエステーシス(technical aesthèsis)」という概念を用いている。アエステーシスとは本来「感覚」「知覚」を意味する哲学用語であり、フォックスは「技術的アエステーシス」として、技術システムが環境を感受・感知しうるあり方を指し示す。彼は「インタラクティブな作品はしばしば環境からの入力を用いて人間の鑑賞者をエンゲージするが、それ以上のものが働いている」と述べ、作品内部で非人間的な感覚経験が生起している可能性を示唆する。シモンドンも機械が環境とセンサリーに関係しうる潜在力についていくらか論じていたが、フォックスはこの点をさらに押し進めるために、哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの概念を援用している。ホワイトヘッドの「把握 (prehension)」の概念は、意識に先立つ原初的な感覚的関係性を示すものであり、フォックスはこれを用いることで非意識的・非人間的な経験の次元を理論化している。要するに、センサーを備えた技術オブジェクトが環境から情報を取り込み反応する過程それ自体を、ひとつの感性的経験(=技術的アエステーシス)と見做すことができるという主張である。
この美学的視座の転換によって、メディアアートの経験はポストヒューマン的な広がりを持つことになる。フォックスは、人間とコンピュータの相互作用(HCI)の概念そのものに人間中心主義的偏向があると批判する。従来のインタラクション概念は暗に「人間対機械」の関係を前提とし、人間のための応答という枠に留まっている。しかしフォックスは、インタラクティブアートにおける「相互作用」をミリュー全体に開くことを提案する。その象徴的な例が後述する《Biopoiesis》であり、これは非人間的なセンサー/エフェクター系が主導する相互作用によって成立する作品である。フォックスは「Biopoiesisは非人間的な電気化学的感覚経験を特徴とし、それが周囲の物理世界に対して創発的に応答することで、我々にインタラクションの意味を再考させる」と述べている。この作品は人間に対して直接働きかけることはなく、むしろ環境からの刺激に対して内部変化を起こす自己完結的な応答系である点で、従来の人間中心的インタラクションへの挑戦となっている。フォックスはこのような作品の在り方に着目し、「テクノロジーは人間の知覚能力を世界へ拡張し、人間と非人間の経験を混交させる。それによって本来我々には知覚不可能な動的過程を、感覚的に知覚しうるものへと変換する」可能性を指摘している。こうした観点は、美学を人間の感じる美だけでなく、技術を介した経験や非人間の視点をも包含する領域へと拡大するものである。
インタラクティブ作品《Biopoiesis》の分析
フォックスの理論を具体的に検証するため、彼が詳細に分析した新しいメディアアート作品《Biopoiesis(バイオポイエーシス)》を取り上げる。《Biopoiesis》はアーティストのカルロス・カステリャノスとスティーブン・J・バーンズによるインスタレーション作品で、アナログ計算(アナログ・コンピューティング)的手法を用いて環境と結びついた動的システムを実現している。この作品はシモンドンの哲学に照らして非常に示唆に富むものであり、その分析から技術・環境・主体の新たな関係性が浮かび上がる。
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《Biopoiesis》の基本構成を概観すると、透明なアクリル容器に金属塩(水溶液としての塩化第二スズ: stannous chloride)が満たされており、その中に複数本の電極(アノードとカソードの電極群)が配置されている。容器からは多数の電線が伸びており、それらはコンピュータ制御装置に接続されている。周囲の環境センサー(複数のマイクロフォンとウェブカメラ)が作品周辺の音(サウンド)と動き(モーション)の情報を取得し、カスタムソフトウェアによって解析される。解析された環境データは電極への通電パターンに変換され、その電気信号が電解液に流れ込むことで、中の金属イオン溶液に樹枝状の結晶(デンドライト状の金属析出物)が成長する。環境中の音の周波数帯(低音・中低音・中高音・高音の4帯域)ごとに信号が分配され対応するカソード電極へ電流が送られるほか、カメラ映像から検出された特定領域の動きが対応するアノード電極の活性化を引き起こす。こうして来場者の動きや環境音のパターンに応じて、容器内の各所で結晶成長の速度や方向が変化し、時間とともに複雑な結晶模様が生成されていく。作品はモジュール構造になっており、展示空間や設定に応じて電極配置やセンサー入力の構成を変えることもできるという。
重要な点は、この作品では人間(観客)に直接働きかけるインタラクションは存在しないことである。一般的なインタラクティブ・アートでは観客の行動に応じて作品が反応し、その変化を再び観客が知覚するというフィードバックループを構成する。しかし《Biopoiesis》では、観客は自らが作品に影響を与えていることに気付かないかもしれない。観客の存在はカメラやマイクを通じて環境の一部として取り込まれ、作品内部の物理化学的プロセス(結晶生成)の変容を引き起こすが、その結果が「観客へのメッセージ」として返ってくるわけではない。言い換えれば、人間は作品の相互作用回路から本質的には排除されているのである。作品は環境(音や動き)と自己のあいだで閉じた対話を行い、その内在的な変化(結晶パターンの成長)そのものが作品のアウトプットとなっている。
フォックスはこの作品を分析し、《Biopoiesis》にシモンドン的な個体化過程を見ることができると論じている。まず、結晶の生成それ自体がシモンドンの指摘した典型的な個体化の例である。シモンドンは過飽和溶液における結晶の析出を主要な例に挙げ、溶液という前個体的(メタ安定)状態に微小な種が加わることで新たな構造(結晶)が層状に成長するプロセスを説明した。このとき結晶は、単に予め存在した「形」や「物質」が組み合わさったのではなく、システム内の不均衡(溶液と種という異質な実体の緊張)が解消される中で新たに出現する媒介(メディエーション)の産物だとされる。シモンドンはこれをもってヒュロモルフィズム(形相質料二元論)を批判し、真の個体化原理は形や物質そのものではなく、異質な次元同士を架橋し統合する媒介=トランスダクションにあると述べた。《Biopoiesis》ではまさに、環境中の音響・視覚情報と電気信号・化学反応という異なる次元の現象が出会い、相互に伝搬し合うことで結晶という新たな秩序だった構造が生成している。フォックスはこの作品における一連の媒介過程(環境→センサー→アルゴリズム→電流→結晶成長)こそトランスダクションの具体例であると指摘する。実際、音や動きといった物理的現象がデジタル信号や電流に変換され(第一のトランスダクション)、それがさらに化学的形態(結晶パターン)の変化へと構造化される(第二のトランスダクション)というように、複数段の変換プロセスが同時進行的に進みながら全体として一つの出来事(結晶成長という可視的結果)を生み出している。フォックスはこの連鎖的かつ同時多発的なトランスダクションの総体を《Biopoiesis》という作品イベントの本質とみなす。観客が目撃するのは結晶が成長していく最終段階の姿に過ぎず、その背後では様々な階層の情報変換(トランスダクション)が折り重なって作品を駆動しているというわけである。
さらにフォックスは、《Biopoiesis》がシモンドンの哲学における生物的個体化と非生物的個体化の境界を揺るがす存在である点にも着目する。シモンドンは生物(生命体)の個体化と物理的事物の個体化を概念的に区別し、前者には内部から自己を共振させ継続的に個体化し続ける性質(内部共鳴)があるのに対し、後者(例えば結晶など)は一旦形成されるとそれ以上変化しないと考えた。しかし《Biopoiesis》では、非生物的な金属イオン系の結晶生成にフィードバック・ループが組み込まれ、環境との相互作用を通じて継続的・可塑的に振る舞うシステムとなっている。作品中の金属樹枝状体は一方向に成長して終わりではなく、環境刺激の変化に応じて分岐・溶解を繰り返し、その都度回路の抵抗値が変動して次の反応に影響を及ぼすというヒステリシス(履歴依存)的な性質を示す。その結果、システムには記憶痕跡が蓄積され、前の状態が次の挙動に影響する(逐次的な学習に似た)現象が観察できるという。実際、作者らは「本システムには過去の活動の減衰的な記憶痕が残り、環境が変化しても即座に白紙リセットされるのではなく、以前の構成が後の応答に影響を与える。この意味でシステムはインタラクションから学習しうる」と報告している。さらに特定の環境刺激に対する反応を強化するようフィードバック(電流供給など)を与えることで、システムの挙動を訓練(トレーニング)することも可能であるという。これはシステムが可塑性(plasticity)を備えていることを意味し、フォックスは「Biopoiesisのシステムは一定の可塑性を示し、一種の記憶や学習能力さえうかがわせる」と指摘する。この点で《Biopoiesis》は「物理的個体にも内部共鳴=自己個体化の継続性がありうる」という可能性を示し、シモンドンが厳密に区別した生物/非生物の境界を越境する存在となっている。フォックスは「Biopoiesisは生物と無生物の単純な二分法に疑問を投げかけ、世界を絶えざる動的関係の集合として捉え直すことを促す」とまとめている。
以上のように、《Biopoiesis》はフォックスにとって、シモンドン哲学の核心概念(個体化、トランスダクション、技術的ミリューなど)が実験的に体現されたケーススタディである。同時にこの作品は、デジタル計算への盲信に対する批評性も備えている。作者ら自身「デジタル技術が我々の思考様式にまで浸透した現代において、新媒体の芸術家は暗黙のうちにデジタル形式のみが探究の道だと考えがちだ。しかし《Biopoiesis》ではアナログで連続的なプロセスを用いることで、デジタルが所与とする前提に異議を唱えている」と述べている。フォックスはこの点も評価し、「Biopoiesisは現代技術環境の根底にある離散的・二進法的論理(デジタル)に挑戦している」と論じている。実際、金属イオン溶液中の結晶成長パターンは連続的でアナログな“計算”ともみなせるが、それは決して安定した2値論理では捉えきれないあいまいさ(ambivalence)や揺らぎを孕んでいる。このような計算=表現形態は、生物的現象に近い創発的・適応的な挙動を見せるとともに、鑑賞者に対しても独特の審美的魅力を放つ。フォックスは《Biopoiesis》を「技術と科学を融合させた複雑な作品であり、シモンドンの論じた様々な美学的特質(技術的な機能美や感性)を備えている」と評価するとともに 、それが人間中心の見方を超えた非人間的な美学経験への転換点となりうることを強調する。
メディアアートにおける主体・環境・技術の関係
フォックスの議論と《Biopoiesis》の分析から浮かび上がるのは、メディアアートにおける主体(人間)・環境・技術の関係性に関する新たな図式である。それは従来のように「主体=人間」が中心にいて「環境」は受動的背景、「技術」は主体の目的達成の手段となる図式ではない。むしろフォックスは、メディアアート作品内で主体的位置が分散しうることを示唆する。人間主体(アーティストや鑑賞者)はもはや単独の中心ではなく、技術オブジェクトや生物的要素と並んでひとつの役割を担う存在となる。一方で作品の振る舞いを決定づける中心的な相互作用は、人間の外部で技術—環境間に生じている。言い換えれば、技術システム自体が環境に対して主体的に振る舞うかのような状況が生まれている。
シモンドンの哲学用語で表現すれば、メディアアート作品は個体(技術的対象)-ミリュー(環境)の二項関係を基盤として成立しており、人間主体はそのミリューの一要素へと溶け込む。実際フォックスは「シモンドンの主張するように個体とミリューは共に出現する対であり、Biopoiesisのミリューにはギャラリー来訪者や空間の音響特性などが含まれる。観客が近づけば作品に影響を与え、たとえ短い滞在でもその存在が電極を活性化する」と述べている。この記述から明らかなように、観客(人間)は作品のミリュー=環境の構成要素として機能し、技術的個体(作品)はその環境変動に応答して自己を変化させる。ここでは人間と技術はいわば対等な相互作用体として関係している。人間は環境の一部として技術に影響を与え、技術は自己の変化を通じて環境(ひいては人間の知覚する世界)に影響を返す。この双方向の関係性において、「主体」という概念自体が再考を迫られる。フォックスの理論は、「主体」を人間に限らず技術的個体にも部分的に認め、全体として分散的な主体性(distributed agency)のネットワークが作品を成立させていると見ることができる。
この考え方は、現代のポストヒューマン的思潮とも軌を一にする。フォックス自身、現代を「人新世(Anthropocene)」と呼ばれる人間中心主義の帰結の時代と位置付けつつ、人間と非人間(技術や生物)の経験を共有しうる場を芸術によって作り出すことを目指している。彼は「我々(“Us”)には人間の芸術家や観客だけでなく、生きた非人間的存在や非生物的な技術も含まれる」と述べ、人間以外の経験を無視してきたことへの反省を促す。メディアアート作品において人間・環境・技術の境界を曖昧にし、新たな関係性を構築することは、単なる美学上の実験に留まらず、人間中心的世界観を乗り越える試みとして位置付けられるのである。
要約すれば、フォックスの理論が示すメディアアートにおける主体・環境・技術の関係は以下のようになる。第一に、技術的オブジェクトは環境との相互作用を通じて能動的にふるまい、一種の主体的役割を果たす。第二に、人間の観客は作品系の中心から退き、環境要因の一つとして技術—環境間の関係性に組み込まれる。第三に、作品全体としては人間・技術・環境の三者がフラットなネットワークを形成し、伝統的主客二元論では捉えられない関係論的なプロセスが本質となる。このプロセスはシモンドンの言う個体化の過程そのものでもあり、作品という個体とそのミリュー(観客を含む環境)が共進化的に展開する場としてメディアアートが機能していると理解できる。
結論
タイラー・フォックスのメディアアート理論は、ジルベール・シモンドンの哲学を下敷きにしながら、技術と芸術の関係を再定義しようとする意欲的な試みである。フォックスは技術を単なる手段ではなく、自律的な創発プロセスの担い手として捉え、技術を介した美学体験を人間中心主義の外側へと拡張した。インタラクティブ作品《Biopoiesis》の分析に見られるように、彼は具体的な作品事例の中にシモンドンの個体化論やトランスダクション概念を見出し、それによってメディアアートにおける主体・環境・技術の関係性を理論的に解明している。そこでは人間・非人間の二項対立は解消され、技術的個体と環境(観客を含む)が一体となった動的系こそが作品の本態となる。
このような視座は、美術分野においてテクノロジーを理解する新しい地平を開くものである。シモンドンが「文化は技術的存在を正当に価値付けよ」と訴えたように 、フォックスの理論と実践はまさに技術を文化・美学の文脈に統合し、その人間的・非人間的諸側面を総合的に経験しようとする試みといえよう。そこではアートが単に人間の感性に訴えるだけでなく、技術システムや生物との協働的な創発を引き起こすプラットフォームとなり、鑑賞者には新たな視点——自らも作品を形作る環境の一部であるという視点——をもたらすのである。フォックスの理論は、メディアアートが人間・環境・技術の関係性そのものを問い直す場となりうることを示しており、現代の美術実践およびメディア研究において重要な示唆を提供していると言えるだろう。