ジルベール・シモンドンの個体化論: 理論の中核概念、哲学的背景とメディアアートへの影響
個体化論の基礎と中核概念
ジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon, 1924–1989)は、対象や存在がどのように「個体」として生成し形作られるかという個体化(individuation)の過程に独自の哲学を打ち立てた思想家である。彼は伝統的な質料形相論(hylomorphism)に異議を唱え、個体化をすでに与えられた形相(フォーム)と質料(マター)の結合としてではなく、「未分化なものから個体が生成する動的過程」として捉える。シモンドンによれば、個体を理解するためには「個体化の過程それ自体の観点から個体を理解しなくてはならない」のであり、個体という既成の実体から出発してはならない。言い換えれば、個体とは固定的で自存する実体ではなく、何らかの解決されるべき緊張や不均衡の結果として現れ、しかもしばしば現在進行形のプロセスに関与しているものなのである。
シモンドンの個体化論では、個体化に先立つ段階として前個体的(pré-individuel)な実在が想定される。前個体的な状態とは、多様な可能性が内包された未分化の場であり、諸要素のあいだに未だ明確な境界や秩序がない「準安定(metastable)」なシステムとして特徴付けられる。彼は物理学から「準安定」という概念を借用し、水溶液の例でこれを説明した。たとえば過冷却状態の水(凝固点以下でも液体のままの水)は、非常に不安定な均衡状態にあり、微小な撹乱(不純物の粒子など)が加わると瞬時に氷の結晶化が進行する。ここで個体化とは、前個体的な場に内在する緊張や不均衡(異質なもの同士の不整合)を解消し構造化するプロセスを指す。個体化の結果、それまで直接には交わらなかった異なる次元の要素が結合し、一つの系を形成する。シモンドンの言葉でいえば、「個体化は単に個体を生み出すだけでなく、個体と環境のカップル(対)をも生み出す」のであり 、個体とその付随的な環境(milieu associé)が対になって生成するのである。個体はその環境とともに成立し、環境に潜在していた様々な可能性を引き継ぐ。したがって個体化は完結することのない継続的過程であり、個体が成立した後も、残存した前個体的な潜在性を介して新たな個体化(変化や発展)が続いてゆく。
この過程においてシモンドンが重視する概念が情報(information)である。シモンドンにとって情報とは、単に通信における送受信されるデータではなく、「個体化の過程において二つの不均質な現実が一つの系を形成する際に立ち現れる意味的な契機」を指す。すなわち情報とは、前個体的な場に潜む不整合・緊張そのもののことであり、それが解消され構造が生まれる契機そのものだと捉える。情報は個体化を誘発し、過程全体に形を与える内的原理である。この独自の情報概念は、通信における情報を単なる信号やノイズといった実体化された要素と見做さず、物質的・エネルギー的過程と不可分に結びついた生成の契機として再定義するものである。実際、サイバネティクス黎明期の時代にシモンドンは既に、シャノン=ウィーバーの通信モデルのような発信源と受信者の図式に留まる情報観に対し、形相(フォーム)と質料(マター)を切り離さずに両者の相互浸透として情報を捉え直すことを提唱した。この点で彼の情報概念は、現代情報社会のメディア環境を論じる理論家にも新鮮な視座を提供している(後述)。
さらにシモンドンは、個体化の様式が領域によって異なることを論じ、物理的個体(結晶などの無生物)、生物的個体(生命体)、そして精神的・集団的個体(心理・社会的個体化)の段階を区別した。物理的個体化から生物的個体化への移行において特徴的なのは、個体化のシステム(場)が個体の内部に部分的に取り込まれる点である。例えば結晶では結晶核形成の場は外部に存在するが、生命体では発生の場(胚や有機的基質)が成長後も個体の内に「付随環境」として存続し、個体内でさらなる分化(細胞増殖など)が続く。またシモンドンは、生物個体が生きていく上で他の個体(他の生物や環境)が不可欠な部分をなすことを指摘し、個体と環境の関係をネットワーク的に捉えた。彼が展開したこうした全体的枠組みは、のちに「トランス個体的(transindividuel)な関係性」と呼ばれ、個人を超えた集団的精神や社会的ネットワークの水準にまで及ぶ概念へと発展する。事実、シモンドンは心的および集団的個体化(individuation psychique et collective)という著作で、個人の精神(心的個体化)と集団的な社会(集団的個体化)が相互に連関し合うプロセスを論じており、個人と集団の区別を超えた「トランス個体的」な次元での個体化を提起している。これは人間の主体性を固定的な「個人」ではなく、絶えず生成変化し集団と交わる過程として捉える視座を与え、後述するように現代思想や芸術理論にも影響を与えた。
哲学的背景と思想的影響関係
ベルクソンとの関連
シモンドンの個体化論は、アンリ・ベルクソン(Henri Bergson, 1859–1941)の生命哲学と思いがけない共鳴関係にある。両者はともに静的な実体から生命現象を説明する機械論的見方に反対し、生命過程を問題解決的で創造的なものとして捉えた点で一致する。ベルクソンは『創造的進化』の中で、生物の適応を単なる環境への受動的順応ではなく、「外的状況に対する創造的な応答」とみなした。環境という鋳型に生命が流し込まれるのではなく、生物は環境の困難を能動的に乗り越え、有利な側面を活用し不都合を中和することで、自らに相応しい形態を作り上げると論じている。ベルクソンにとって適応とは反復ではなく応答であり、生物個体は環境から与えられる問題に対し創造的解答を出す存在である。この見解をシモンドンも継承し、生命を「連続的な問題解決の過程」と捉えた。実際シモンドンは、生物的適応を慣習的な均衡回復としてではなく、環境に潜む不整合(齟齬)を減少させ新たな構造を創出する過程と見做しており、個体化論全体を通じて「問題の解決としての意味作用」という情報概念を貫いている。
もっとも、シモンドンはベルクソンから影響を受けつつも重要な点で異なる道をとった。ベルクソンが進化論(エラン・ヴィタール)と結びつけて生命の創発を語ったのに対し、シモンドンは個体化の問題を進化論から切り離し、物理過程から生命過程まで貫く一般的な生成論として再構築した。ベルクソンは内的な意識の持続(デュレー)という心理的モデルを生命進化の原理に据えたが、シモンドンはむしろ物理学の結晶化過程を範例とし、情報理論など当時新興の科学概念も取り入れながら、非生命的自然にも個体化の原理を見出そうとした。例えば前述のように、シモンドンは結晶の生成や化学反応と生命の発生とのあいだに連続性を見いだし、生物と無生物の間に明確な断絶線を引かない。それゆえベルクソン流の生気論的な飛躍に訴えることなく、物理・化学的過程の延長上に生命個体化を位置づけている。もっともシモンドン自身、ベルクソンを明示的に頻繁に言及することは少なく、その参照は控えめで時に批判的である。しかし思想の底流にはベルクソンから得たヒントが確かに流れており、両者の思索は互いに補完し合う関係にもあると指摘される。事実、シモンドンの情報概念の源流を辿るとベルクソンの語法(informer=形作る)に行き着くとの分析もあり 、個体化論の背景にベルクソン受容を読み解く研究も近年現れている。
要約すれば、シモンドンはベルクソンの問題設定(創造的適応、生成する生命)を継承しつつ、科学的知見を踏まえてそれを一般存在論へ拡張したと言える。ベルクソンと同様、シモンドンも機械論的な適応観を批判し、生物が内的エネルギーによって環境に積極的に関与する像を描いた。しかしシモンドンはその枠を生命に限らず、物質世界全般に適用することで、生命と非生命を貫く連続的な個体化の図式を提示したのである。この点で両者の思想的連関は興味深く、シモンドン自身はベルクソンの名を多く語らずとも、根底ではベルクソンの哲学的課題に応答し刷新を図った後継者の一人と位置付けられる。
ハイデガーとの対比
シモンドンはまた、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889–1976)の技術論との比較において語られることも多い。両者は一見対照的な思想家であるが、実は「人間が常に世界内存在として物質的・技術的環境に埋め込まれている」という認識を共有していた点で共通する。ハイデガーは近代技術を存在への脅威(存在の隠蔽)として警鐘を鳴らしつつ、人間が道具操作(「世界‐内‐存在」)を通じて世界を開示するという分析を残した。一方シモンドンも、人間と技術的対象の不可分な関係性を強調し、我々の認知や文化の形成における技術の役割を正面から捉えようとした。
しかし両者の立場には大きな差異がある。ハイデガーはその詩的技術観において、手工業的な道具や職人的な制作を真の開示のモデルと見なし、大規模な産業技術やオートメーション化を「世界の喪失(脱世界化)」として捉えた。彼の視座では、近代技術の発達は人間と世界との本来的な関わりを損ない、人間を計算可能な「在庫」として捉える危険な「存在忘却」を招くと考えられた。これに対しシモンドンは、そうした技術への恐怖症的な反応自体が問題を生むと考える。彼によれば現代文化は「技術に対する防衛システム」として機能し、人間生活を物質的・技術的基盤から切り離すイデオロギーに陥っている。シモンドンは著書『技術的対象の存在様態について』(1958年)において、このような文化の技術排除を批判し、むしろ「技術的実在に人間的な現実が内在すること」を認め、文化の側が技術的存在を知と価値の体系に統合すべきであると主張した。彼は技術を単なる手段や道具としてではなく、人間の生物学的能力の外在化(exteriorization)の過程として捉え直し、技術の進化それ自体が人間の心理・社会的領域を構成していると論じた。
言い換えれば、シモンドンにとって技術は人間から切り離された異質なものではなく、人間と環境の関係を媒介し構造化する積極的な発明の力である。個体化論の観点から見ても、技術的対象やインフラも生物や生態系と同様に進化的な圧力に曝されつつ、独自の発展様式(具体化の過程)を持つとされる。ただし技術には人間の意図や目的を超えた準自律的な作用もあり、環境や社会を再構成する力がある点で特殊である。シモンドンは技術と文化・社会の断絶が産み出す不整合が現代の危機を招いていると考え、この溝を埋めるための「技術の教育学」を構想した。つまり技術を文化へ再統合することで、技術進歩と人間の意味世界との齟齬を解消しようと試みたのである。
この点で、ハイデガーとシモンドンは技術に対する姿勢が対照的だ。ハイデガーが前産業社会の手仕事や芸術創造に人間本来的な世界開示を託し、近代技術を異質な脅威と見做したのに対し 、シモンドンは技術進化に内在する発明性と人間的価値の可能性を見出し、技術と文化の積極的なシナジーを追求した。実際シモンドンは、産業技術の発達によって生じた社会の不適応(テクノロジーと文化の断絶)が、人々に心理的束縛(ウェーバー的「鉄の檻」)をもたらしていると分析し 、それは不可避の運命ではなく技術を文化的に制度化できていないことの副産物に過ぎないと指摘した。そして、求められるのは技術システムの開放性を下から制度化し、個々人の認知能力を再プログラムして集団的な新たな個体化を促すような教育・社会装置であると論じた。
総じて、シモンドンの技術観はハイデガーのそれと深い次元で響き合いながらも、結論は対極にある。両者とも技術を存在論的に重視し、人間が常に物質的環境に投射された存在と見る点では一致する。しかしハイデガーが技術を詩的思索で救済しようと待望するのに対し、シモンドンはより実践的に技術の理解と文化的受容を変革する道を説いた。シモンドンは「詩人や哲学者王」を待つのではなく 、工学的実践や発明の中に潜む人間的創造性を引き出し、人類と技術の新たな共生を図ろうとしたのである。この視座は、人新世とも言われる時代に技術と人間の関係を捉え直すうえで示唆に富んでいる。
ドゥルーズとガタリによる継承と展開
シモンドンの個体化論は、その後のフランス現代思想にも大きな影響を与え、とりわけジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925–1995)とフェリックス・ガタリ(Félix Guattari, 1930–1992)の思想形成に刺激を与えたことで知られる。実際、ドゥルーズとガタリはシモンドンの個体化の哲学から多大なインスピレーションを得ている。ドゥルーズは1960年代にシモンドンの主著をいち早く評価した哲学者であり、彼の著作『差異と反復』(1968年)やシモンドンの書評(1966年)にその影響が表れている。ドゥルーズはシモンドンの個体化論の独創性を高く評価し、シモンドンが提示した新概念群によって「一つの存在論が練り上げられている」とまで述べた。シモンドンによれば個体化の前提には「少なくとも二つの異質な尺度の次元から成る準安定的システム」が必要であり 、個体化とはそのシステム内の潜在的エネルギーを現実化し、複数の特異性(singularités)を統合することで問題を解決する過程である。ドゥルーズはこのシモンドンの図式を自身の哲学に取り込み、「特異性」と「個体性」を峻別して考察する契機とした。彼はシモンドンの功績が「個体性」と「特異性」を厳密に区別し、個体という実態を欠いた純粋な特異性の場を示したことにあると指摘する。その「個体的存在を欠いた特異性の場」とはすなわち「前‐個体的な存在」のことであり 、ドゥルーズ自身の言う「潜在的な差異の場(差異の哲学)」に相当する。ドゥルーズはこの前個体的な特異性の領野を「差異の内在的な場」として哲学的思考の中心に据え、そこから個体や種の生成を論じる独自の形而上学を構築した。これは明らかにシモンドンから学んだ発想であり、実際ドゥルーズはシモンドンについて「個体化が先行する準安定状態を示してくれた」 と述べ、深い謝意を払っている。総じて、ドゥルーズの差異の哲学や「シングラリティ(特異性)」の概念はシモンドンの個体化論を下敷きに新たな展開を遂げたと言える。
一方、フェリックス・ガタリもまたシモンドンから示唆を汲み取り、自身の思想に活かした人物である。ガタリは精神分析的な個人観を乗り越え、主体を取り巻く機械的・社会的ネットワークを重視する「集団的な主体化(個体化)」の理論を展開したが、その際にシモンドンのトランス個体的発想や情報概念を援用した。例えばガタリは後年の著書『カオスモーズ』(1992年)の中で、主観の生成を記述するのにシモンドンの個体化概念を参照し、生物的・技術的・集合的プロセスが交差する中で主体(人間)の存在論的地位を捉え直す試みを行っている。また彼の有名な概念である「マシン的なヘテロジェネシス(異種生成)」も、異質な要素の統合による生成というシモンドンの発想と通底している。ガタリにとって主体とは固定的な個人ではなく、社会的=技術的機械の連接によって絶えず新たに組み立て直されるプロセスである。これはシモンドンの示した「精神的‐集団的個体化」の延長線上にあり、ガタリはそこに独自のエコロジー的視座(環境=メディアとの相互生成)を加えていったと言える。実際、ガタリはシモンドンのトランス個体的関係性の概念と自身の「横断的(transversal)な関係性」の概念とを組み合わせ、ポストメディア時代の新たな主体論を模索したとも評価される。
さらにドゥルーズとガタリの協働作業である『千のプラトー』(1980年)には、明示的な言及こそ少ないもののシモンドンからの着想が随所に生かされていると指摘されている。例えば彼らの論じる「リゾーム」「機械的アンサンブル」「マイナー科学」などの概念には、個体化を静的な存在ではなく動的で集合的なプロセスと見るシモンドン的視点が底流している。また技術的進化を人間の進化に線形にマッピングする「メジャー」な傾向に対し、異なる進化論(マイナー科学)を追求する姿勢もシモンドン的発想の応用と見ることができる。要するにドゥルーズ=ガタリはシモンドンの思想を明示的引用以上に内在化させ、自らの哲学体系の中で再創造したのである。
以上のように、シモンドンの個体化論はドゥルーズやガタリの思想に深く浸透し、その差異哲学や集団的主体論に革新をもたらした。彼らはシモンドンから学んだ概念(前個体的な場、特異性、トランス個体性等)を土台に、自らの問題意識(差異の実在論、欲望の機械論)を押し進めていったのである。その影響はフランス現代思想全般に波及し、のちにはベルナール・スティグレールなど他の思想家にも連なるが(スティグレールはシモンドンの「集合的個体化(transindividuation)」をメディア技術論に継承した一人である )、シモンドンの再評価とルネサンスが進む現在にあってもなお、ドゥルーズとガタリによる創造的継承は特筆すべき出来事であったと言えよう。
メディアアートへの理論的影響
シモンドンの個体化論と技術哲学は、21世紀のメディアアートの領域にも独自の理論的インパクトを及ぼしている。シモンドン自身が予見したように、テクノロジーと思考の新たな融合は芸術の分野で顕在化しつつある。彼は没後発表のエッセイ「テクノ美学に関して」(1982年頃執筆)において、「技術的精神の延長が可能であり、とりわけ美術の領域においてそれが現れ始めている」と述べており 、アートが技術文化と交差する場になることを示唆していた。この洞察は現代のメディアアートの状況に照らして極めて示唆的である。実際、デジタル技術やインタラクティブ技術を用いる現代アート作品の多くは、人間・技術・環境が相互に媒介し合う個体化のプロセスを作品内に取り込んでいる。シモンドンの概念は、そうした作品を読み解くうえで極めて有効な枠組みを提供し、メディアアートの理論家や批評家たちに新たな語彙を与えている。
メディアアート理論において顕著なのは、情報環境下での芸術作品を理解するためにシモンドンの「ミリュー(環境)」概念や「情報=個体化の媒介」という発想が援用されていることである。たとえば、メディア理論家ティツィアーナ・テラノヴァ(Tiziana Terranova)はネットワーク時代のアートを論じる中で「情報的環境(informational milieu)」という概念を提唱したが、これは明確にシモンドンの議論に依拠している。テラノヴァは、サイバネティクス黎明期にシモンドンが提示した「形態(フォーム)が常に物質(マター)と相即しており、情報は潜在的エネルギーに満ちた準安定的なミリュー内部の過程である」というモデルに注目し 、現代のあらゆる人間環境がデジタル情報との絶え間ない交換過程になっている状況を分析した。シモンドンによれば、情報とは系の中で常に流動し構造化し直されるプロセスであり、それは感覚・意味・物質が融合した「没入的かつ動的なもの」だとテラノヴァは指摘する。この観点から彼女は、ポスト・インターネット時代の芸術作品も、単にデジタル技術を使用しているか否かではなく、広域な情報環境の中で自律的に拡散・変容する「展開的(エキスパンデッド)なオブジェクト」として捉えるべきだと論じた。つまり作品それ自体がネットワーク状のミリューに埋め込まれ、一種の自己個体化的な運動(データの流通・再構成)を示すという見方である。この議論の背後にはシモンドンの考えがあり、実際批評家ジョゼフィン・ボズマ(Josephine Bosma)はネットアート論においてシモンドンや彼に触発された思想家(ブライアン・マスミやジル・ドゥルーズ)の名を挙げつつ、デジタル時代の素材と形態の関係を論じている。ボズマはネットアートが物質(ハードウェア)と情報(ソフトウェア)が相互浸透する領野で展開することを示しつつ、シモンドンの「形相と質料の相互包含」というテーゼに言及している。このように、シモンドンの思想は現代メディア環境における芸術作品を理解するキーとして理論的に参照されているのである。
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図1 ジョルジュ・ペリス「Laboratoire Simondon à la GAMeC」(2020-21年) シモンドンの結晶化モデルに着想を得たインスタレーション作品。塩、水、ボトル、金属線などで構成され、展示空間で時間とともに塩の結晶が成長するプロセスを示す。この作品は、未分化な溶液から結晶構造が自己生成する様子を観者に体験させる。ペリスの作品タイトルが示すように、ここではギャラリー空間が一種の「シモンドン実験室」と化し、物質が環境との相互作用を通じて形を成していく過程そのものが作品内容となっている。塩の結晶は気温・湿度や人の介入といった環境要因に応じて成長し、その形状は予め決定されていない。したがって作品は固定的なオブジェではなく、環境との情報的なやりとり(塩の析出という化学的「情報」)を通じて生成変化する個体化のプロセスの可視化とみなせる。このようなアートは、シモンドンが述べた「個体と環境の二項関係からなる生成」を直接に具現化するものであり 、観者は時間とともに変容する構造を前に、芸術を鑑賞するというよりひとつの自然過程を観察する科学者のような立場に引き込まれる。ペリスの作品以外にも、結晶成長や自己組織化現象を取り入れたメディアアート作品は近年増えており、それらはしばしば「プロセス指向の美学」と呼ばれる。シモンドンの個体化論は、そうしたプロセス指向型の作品に理論的裏付けを与え、素材と情報と環境が一体となった美学を説明可能にしている。
さらに、メディアアートの分野ではインタラクティブ・アート(観客や環境の入力によって振る舞いを変える作品)の分析にもシモンドンの概念が応用されている。タイラー・フォックス(Tyler Fox)は、新しいメディア芸術作品のテクノロジーと美学を論じる中でシモンドンの哲学に拠り所を求めた一人である。フォックスによれば、シモンドンの個体化と技術の哲学は現代のテクノロジー芸術作品を理解するために極めて有益な概念ツールを提供する。彼はセンサーやアルゴリズムを組み込んだインタラクティブ作品を分析する際に、シモンドンの「テクノ地理的ミリュー」概念や「トランスダクション(逐次的変換過程)」の考え方を用いている。フォックスの論じた代表例に、カルロス・カステリャノス&スティーブン・バーンズによる《Biopoiesis(バイオポイエーシス)》という作品がある。《Biopoiesis》は音声や映像センサーを搭載し、周囲の環境データ(ギャラリー空間の音や人の動き)をリアルタイムで取り込みつつ、内部の電極系に電流を流して化学溶液中に金属樹状結晶を生成するインスタレーションである。一種のアナログ計算機のように、環境入力を電気化学反応へとマッピングすることで環境-機械のハイブリッドな個体化が演じられている。シモンドンが結晶化を個体化の典型例と述べたことは前述の通りだが 、《Biopoiesis》はデジタル技術を介してそのプロセスを芸術的経験に転化したものと言える。結晶の成長は周囲の物理的出来事(人の足音、話し声、動きなど)によって誘発・変調されるため、作品は単独で完結せず常に環境との「トランスダクティブ」なやりとりの中にある。興味深いのは、この作品では人間観客も作品のミリュー(環境)の一部となっている点である。観客が近づけばその動きがセンサーに検知され、生成される結晶パターンに反映される。しかし観客は従来のインタラクティブ・アートのように中心的な操作主体ではなく、あくまで環境要因の一つとして作用するに過ぎない。作品は人間と非人間(化学物質や機械)の相互作用によって自己発現するオートポイエティック(自己生成的)な系となっており、その意味で「人間中心主義を脱臼したテクノ美学的作品」だとフォックスは評価する。これはシモンドンが夢見た「技術的精神の美術領域への発現」の好例とも言え、技術と芸術が出会う場で個体化のドラマがリアルタイムに展開されるものとなっている。
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以上に見るように、シモンドンの理論はメディアアートの制作と批評の双方にわたって多大な影響を与えている。作家の側にとっては、シモンドンの思想は作品を静的オブジェではなく動的プロセスとして構想する視座を提供する。環境や観者との相互作用を取り込み、作品そのものが進化・変容するものとしてデザインする発想は、シモンドン的世界観と響き合う。また批評・理論の側にとっては、シモンドン由来の概念(個体化、情報、トランスダクション、ミリュー、トランス個体性など)は新しい作品を理解する語彙となっている。ネットワーク時代の作品を「情報的ミリュー」の中に定位する試み 、インタラクションを人間対装置の二項図式ではなく環境全体の過程と捉え直す視点 など、いずれもシモンドンの思考の延長線上に現れている。かくして、個体化論は今や哲学のみならずアートの現場で実験的に展開されつつあると言えよう。
おわりに
ジルベール・シモンドンの個体化論は、潜在的なものの中から現実的な個体が立ち上がるプロセスを解明しようとする壮大な試みであった。その中核概念である前個体的な場、準安定性、トランスダクション、情報といった考えは、伝統的形而上学を刷新する革新的アイデアとして評価される。シモンドンはベルクソンやハイデガーといった先達の問題意識を受け継ぎつつもそれを越え、自然界から人間社会・技術まで貫く普遍的な生成論を築いた。その思想は同時代のドゥルーズやガタリによっても積極的に受容・変奏され、現代思想史に独自の足跡を残している。そして驚くべきことに、シモンドンの理論は21世紀の今日において、デジタル技術と芸術表現が交錯するフロンティアで新たな生命を得ている。メディアアートの作品や理論において、個体化論は創造的な解釈枠として機能し、技術時代の美学に深い影響を及ぼしている。シモンドン自身が願った「技術的存在の文化への統合」は、美術という場で具現化しつつあるのかもしれない。彼の思想は依然発展途上であり、ポストヒューマン的な未来像を思考する上でも豊かな資源を提供している。個体化論の視座から照らせば、我々自身もまた未完のプロセスにある存在であり、テクノロジーと関係し合いながら絶えず自己を更新していく「生成する個体」だと捉え直すことができるだろう。シモンドンの哲学的遺産は、哲学と芸術の交差点で今なお生きた問いを発し続けているのである。
参考文献(主要な出典のみ記載):
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• Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, 1958. 『技術的対象の存在様態について』竹内良知訳、みすず書房、2013年.
• ドゥルーズ『差異と反復』(1968年)宇波彰他訳、河出書房新社、1992年(※シモンドン個体化論への言及あり)。
• 堀江郁智「ジルベール・シモンドンとジル・ドゥルーズの『特異性』の概念」東京大学『情報学研究』88号、2014年 .
• 橘真一「シモンドンにおけるinformationの概念について―ベルクソン受容という背景から照らした考察を中心に」『年報人間科学』33号、2012年 .
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