ゲームの原理を展示する――ルール・フィードバック・エージェンシーの美学
はじめに
ゲームはルール、相互作用、報酬構造、エージェンシー(主体性)といった構成原理によって成り立っている。商業ゲームやインディーゲームでは、これらの要素は主に娯楽や物語性のためにデザインされているが、現代の芸術・メディアアート分野では、ゲームの構造的・論理的側面そのものを主題としたコンセプチュアルな作品が数多く制作されている。本研究では、そうした作品の具体例を時代・地域を問わず収集し、それぞれがゲームの本質的構成要素(ルール性、インタラクション、フィードバックループ、勝敗条件、プレイヤーのエージェンシーなど)をいかに解体・可視化・再構成しているかを分析する。これらの作品は、単に「遊び」や視覚的表現を楽しませるのではなく、ゲームというシステムの根幹にある論理を露わにし再考させる点に特徴がある。
ルールと勝敗条件の抽象化:ゲーム規則の解体・再構成
ゲームの最も基本的要素であるルールや勝敗条件に介入し、その意味を変容させる作品は、ゲームの構造を抽象化する代表例である。オノ・ヨーコの《Play It By Trust(信じて進めよ)》(1966)はその先駆的作品であり、従来は対立する二者を表す白黒のチェス駒をあえて全て白一色に統一した巨大なチェス盤を提供する。プレイヤーは自分の駒と相手の駒の区別がつかなくなるまで対局を続けるよう促されるが、やがて誰の駒か分からなくなりゲームの継続自体が困難になる。この状況では既存の勝敗条件が機能しなくなるため、プレイヤー同士は新たなルールや目的を協働的に創出せざるを得ない。実際、本作では「相手のキングを取る」代わりに「互いに平和的で合意可能な配置を見つける」ことがプレイの目標へと転換され、対戦から対話・協調へとゲームの目的が変容する。このように競争的ルールの解体によって戦争ゲームのメタファーを反戦的メッセージへと反転させ、ゲームの目的・ゴール構造そのものを再構成してみせる点で、《Play It By Trust》はゲーム原理を主題化したコンセプチュアル・アートの代表例である。
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Yoko Ono – Play It By Trust (1966)
類似したアプローチでゲーム内の記号やテキストを操作することでルールの意味を浮き彫りにする作品もある。トムソン&クレイグヘッドの《Trigger Happy》(1998)は古典的シューティングゲーム『スペースインベーダー』を改変し、攻撃対象である敵キャラクターを全てミシェル・フーコーの論文「作者とは何か?」の文章断片に置き換えたインスタレーションである。プレイヤーは宇宙人の代わりに理論テキストの文字列を撃ち落とすことになり、その行為自体がフーコーのテキストの「解体」を暗示するものとなっている。批評家は「文章を爆撃することで、作者という概念を脱構築したフーコー自身のテキストをメタファー的に解体している」と指摘しており 、ゲームのルール(撃つ・破壊する)と意味内容との関係性を暴露する試みといえる。すなわち、本作はゲームメカニクスと言説の接合によって、プレイヤーにルールに従った行為の背後に潜む文化的意味を再考させる。
さらに、デジタルゲーム内部の視覚情報を削ぎ落とすことで純粋なルール構造のみを提示する実験も行われてきた。ネットアートの先駆者であるJODI(ジョーン・ヘームスケルク&ダーク・パイスマンス)は、1990年代後半から2000年代初頭にかけて『Wolfenstein 3D』や『Quake』といった3Dゲームの改造(Mod)作品《SOD》《Untitled Game》シリーズを発表した。例えば《Untitled Game (Arena)》(1999)では、ゲーム内の全てのグラフィック要素が白一色に塗り潰されており、一見すると画面は何もない空間に見える。しかし実際にはオブジェクトや地形の当たり判定・3D空間はそのまま残され、プレイヤーは見えない壁や敵に衝突し、効果音だけが聞こえる。つまり視覚的情報と物語を徹底的に削除しつつも「ゲームプレイの力学(mechanics)は元のまま維持されている」状態であり 、プレイヤーは純粋なルールだけが支配する抽象世界を体験することになる。この作品によって、「視覚表現を取り去ってもなおゲームとして成り立つ要素は何か」「ゲームはどこまで構造を削ぎ落とせばもはやゲームでなくなるのか」といった問いが提示される。JODIの一連の作品はゲームを構成するコードやアルゴリズムそのものを可視化し、鑑賞者にゲームの本質を考察させる実験と位置づけられる。
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Thomson & Craighead – Trigger Happy (1998)
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JODI (Joan Heemskerk & Dirk Paesmans) – Untitled Game
以上の作品群は、いずれもゲームのルール体系や勝敗条件を意図的に改変・除去することで、普段は隠れている構造的論理を露わにしている。それはゲームを遊ぶ上で当たり前だと思われていた前提(敵味方の区別、勝利目的、視覚的手がかりなど)を揺さぶり、新たな認識や社会的メッセージを引き出す試みである。
インタラクションとフィードバックの物理化:仮想行為の現実への拡張
ゲームにおける相互作用(インタラクション)とフィードバックループを物理的現実へと接続し直す作品も、ゲーム構造の理解を深化させる重要な事例である。デジタルゲームでは通常、プレイヤーの行為に対するフィードバック(得点、効果音、振動など)は仮想的な範囲に留まり、身体的・現実的な結果を伴わない。しかし、メディアアートの文脈では仮想の行為に現実の結果(肉体的体験や物質的現象)を結びつけることで、ゲームに内在する因果関係を再考させる作品が登場した。
代表的なのが、ドイツ人アーティスト集団 “/////////fur////”(ティルマン・ライフ、フォルカー・モラーヴェ他)による《PainStation》 (2001)である。これは古典的ビデオゲーム『Pong(ポン)』の対戦台を改造したインタラクティブ彫刻であり、二人のプレイヤーは卓上スクリーンでボールを打ち合うと同時に、左手を金属製の「痛み執行装置 (Pain Execution Unit)」の上に固定する。ラケットを操作し損ねてボールを逃すと、ミニチュア鞭による打撃、電気ショック、加熱といった現実の痛みが即座に与えられる仕組みになっている。スコアに関わらず「先に手を引っ込めた者が敗者となる」という追加ルールも設けられており 、勝敗は身体的限界によって決まる。この作品では、ゲームの報酬・罰則のフィードバック構造が極端化され、バーチャルな敗北が即座に**「電撃や熱による痛覚」という現実の罰に結びつけられている。作者たちは「身体をゲーム体験に組み込み、ゲームをより物理的な経験にすること」を意図したと述べており 、デジタルゲームが本来欠如させている肉体的リアリティを強制的に付与することで、プレイヤーにゲーム行為の意味を再考させる装置となっている。
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/////////fur//// (Tillmann Reiff, Volker Morawe 他) – PainStation (2001)
同様に、格闘ゲームでの被攻撃体験を身体化した作品にエド・スターン&マーク・アレンの《Tekken Torture Tournament》 (2001)がある。参加者は格闘ゲーム『Tekken』で対戦し、ゲーム内でキャラクターが受けるダメージに応じて腕に装着した電極から電流ショックを受ける。攻撃を受けるほど強い痛みが加えられるため、ゲーム内のライフポイントの減少が即座に現実の苦痛としてフィードバックされる仕組みである。これもまた仮想の暴力と現実の痛覚をリンクさせることで、「ゲームだから安全に暴力を行使できる」という前提を崩し、バーチャルな行為の意味を問い直している。
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Eddo Stern & Mark Allen – Tekken Torture Tournament (2001)
他方で、痛みではなく物質的現象としてフィードバックを可視化する作品も存在する。日本のアートユニットExonemo(エキソニモ)のインスタレーション《UN-DEAD-LINK》 (2008)は、改造したFPSゲーム(『Half-Life 2』)内でキャラクターが死ぬたびに、連動する現実の装置が作動する仕掛けを持つ。展示空間の1階には古いミシンや電気スタンド、シュレッダーなど日用品を改造した複数の機械装置が配置され、地下の暗室で上映されているゲーム画面内で兵士のアバターが撃たれて倒れるごとに、地上階のどれかの機械が連動して動作・光・音を発し観客に“死”の余波を伝える。例えば、キャラクターが一人倒されるとシュレッダーが紙片を裁断し、別の死ではスタンド照明が明滅し、ミシンの針が動く――といった具合である。さらに展示では、観客が赤いボタンを押すとゲーム内の全アバターが即座に自殺し、それに対応して全ての装置が一斉に「悲鳴」を上げるようにも設計されている。この作品によって、普段は画面上でスコアやエフェクトとして消費されるだけの「キャラクターの死」が、物理世界における不気味な騒音や動きとして再現され、現実世界の出来事として知覚される。批評家は「仮想的な死の結果を見ることは、テレビで本物の戦場を目撃するよりも不気味で重みがある」と評しており 、ゲーム内の象徴的な出来事に現実の手応えを与えることで、その意味を再評価させる効果が生まれている。
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Exonemo – UN-DEAD-LINK (2008)
アメリカのアーティスト、ライリー・ハーモンのインスタレーション《What It Is Without the Hand That Wields It》 (2008)も、ゲーム内の殺戮を物質化する作品として挙げられる。本作ではオンライン対戦ゲーム『Counter-Strike』のサーバーに接続された装置が用意されており、ゲーム内で誰かのキャラクターが死亡するたびに、美術館の壁面に取り付けられた電磁弁が作動して赤い擬似血液が一滴ずつ滴り落ちる。時間経過とともに壁や床には無数の血痕が流れ落ち、生々しい「流血の跡」が蓄積されていく。観客はオンライン上の匿名のプレイヤー達によって引き起こされる仮想の殺人行為が、目の前の物理空間に痕跡を残していく様子を目撃することになる。それはバーチャルな暴力と現実の流血のインターフェースであり、ゲームで日常化した「死」のイメージを現実的質感でもって再提示する装置である。Exonemoやハーモンの作品は、ゲーム内の出来事をデータとして抽出し物質へと変換することで、プレイヤーが普段は軽視しがちなフィードバック(特に負のフィードバック)を可視化・身体化しているといえる。
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Riley Harmon – What It Is Without the Hand That Wields It (2008)
以上のような作品では、ゲームのインタラクションとフィードバックループが現実世界に拡張されることで、「なぜ我々はゲーム内で許容される行為を現実で問題視するのか」といった倫理的・感覚的問いが浮かび上がる。仮想と現実の境界を曖昧にするこれらの実験は、ゲームに内在する制度や安全圏(魔法円)の脆弱性を指摘し、インタラクションの本質を再考させる試みと位置付けられる。
プレイヤーのエージェンシーとシステムのメタ構造
ゲーム作品においてプレイヤーのエージェンシー(主体的行為の範囲)やシステム全体のメタ構造を問うアートも現れている。とりわけ、現実世界の行為者とゲームシステムの関係を再構築する作品は、ゲームの持つ社会的・政治的含意を強く示唆する。
ワファ・ビラルのパフォーマンス《Domestic Tension》 (2007)は、ゲームのエージェンシーを現実の人間関係に埋め込んだ作品である。ビラルはシカゴのギャラリー空間に30日間籠もり、自身は常にライブ映像でインターネット配信されながら、観客(オンライン参加者)に向けて「遠隔操作式のペイントボール銃」を提供した。ウェブサイトにアクセスした任意のユーザーは、リアルタイム映像を見ながらマウスクリック一つで銃を操作し、ビラルに向けてペイント弾を発射できる。これはまさにビデオゲームの一人称シューティング(FPS)のインターフェースを模したものであり、参加者は画面越しに人間を撃つ「プレイヤー」になることができる。ビラル自身は防護もままならない標的として日夜銃撃に晒され、会期中になんと65,000発以上の弾丸が世界各国から発射された。本来ゲームでは匿名のプレイヤーが安全に引き金を引ける構造になっているが、ここではその構造が生身の人間に直結したことで、参加者には「現実の他者への攻撃」という倫理的重圧が発生する。また匿名の遠隔プレイヤーたちの間では、チャットルーム上で「撃て」「やめろ」といった議論が起こり 、ある者はペイントガンの銃口を逸らすハッキングを試み、別の者は防御用にとランプをビラルに差し入れるなど、予期せぬ協力や対立も生じた。ゲーム的文脈に身を置いた人々の行動と心理がそのまま現実にフィードバックされた本作は、「画面上では平気で人を撃てるのに、実際に相手が人間だとどうか?」という根源的問いを投げかける。同時に、戦争や暴力がオンライン化・ゲーム化する現代社会への風刺ともなっている。ビラルはこの作品によって、ゲームのインタラクティブ性に潜む政治性と、プレイヤーのエージェンシーの危うさを暴露したのである。
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Wafaa Bilal – Domestic Tension (2007)
他方、人間とコンピュータのエージェンシーの差異に着目した作品として、アート集団JODIの《OXO》 (2018)を挙げることができる。これは世界最古級のコンピュータゲームとされる三目並べ(ティックタックトウ)に関するインスタレーションで、ハーバード大学美術館などで公開された。《OXO》では9面のスクリーンに9種類の三目並べゲームが同時展開され、そのうち5つはコンピュータ同士や動物(ニワトリ)といった自動プレイヤー同士で進行し、残る4つで観客が人間プレイヤーとして参加できる。観客は据え付けのボタン盤で自分の「×」や「○」の配置を入力するが、対戦相手として用意されたアルゴリズムは完全無欠な打ち手であるため、人間が勝利することは極めて難しい。実際、三目並べはルールが極めて単純であるがゆえにコンピュータにとっては解が完全に探索可能なゲームであり、一度アルゴリズムが最適化されれば人間はまず勝てなくなる。JODIはこの歴史的ゲームにおける人間対AIの勝敗構造を視覚化することで、単純なルールでも計算力で圧倒される現代技術の様相や、プレイヤーのエージェンシーがシステムに制約される状況を浮き彫りにしている。また本作には、かつて存在した「ニワトリと三目並べをさせる見世物小屋」への言及も含まれており 、ゲームにおける知能や主体の問題がユーモラスに提示されている。鑑賞者は、ゲームの勝敗が誰(または何)によって決定されるのかという根源的問いに直面し、プレイヤーの主体性とシステムの決定性について考えさせられる。
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JODI – OXO (2018)
以上のように、ゲームを主題とする実験的作品はプレイヤーとシステムの力関係を再構成したり、ゲームのフォーマットを現実の社会文脈に当てはめたりすることで、ゲームが持つメタ構造(権力関係、倫理、知的体系)を露呈させている。そのアプローチは多様であり、暴力性の転化からAIの問題提起まで様々であるが、共通しているのはゲームを通じて人間の行為や判断がいかに規則や環境によって規定されるかを示唆している点である。
おわりに
本研究では、ゲームの構成原理そのものを題材にしたコンセプチュアル/実験的作品の事例を通じて、それらがゲームの本質的要素をどのように解体・可視化・再構成するかを考察した。オノ・ヨーコのチェス作品に見るルールと勝敗条件の転覆、デジタルゲームModにおける視覚情報の削除によるメカニクスの純化、痛みや物質の導入によるフィードバックループの現実化、そしてプレイヤー主体とシステムの関係性の批評的再設定――これらの多様なアプローチはいずれも、ゲームというメディアの構造的・論理的側面を芸術の文脈で再評価する試みであった。
このような作品群は、ゲームを「遊び」や「物語」としてではなく制度(システム)として捉え直す視点を提供する。その結果、普段は娯楽に埋没しがちなゲームのルールやインタラクションに内在する意味(競争と協調、現実と虚構、生理的反応、倫理的判断など)が浮かび上がり、鑑賞者はゲームの本質を哲学的・批評的に洞察する機会を得る。言い換えれば、これらのアート作品はゲームの構成要素を解体し再構成する行為そのものを通じて、「ゲームとは何か」**という根源的問いへの思考を促しているのである。ゲームとアートが交差するこの領域は近年ますます発展しており、ゲーム原理の探究を通じて私たちの社会や行動原理を映し出す新たな表現が今後も現れるだろう。
参考文献・出典
• オノ・ヨーコ《Play It By Trust》, 1966年(Artnews Japanによる解説)
• Thomson & Craighead《Trigger Happy》, 1998年(作品解説)
• JODI《Untitled Game (Arena)》, 1999年(Rhizomeによる分析)
• “/////////fur////”《PainStation》, 2001年(作品説明)
• Eddo Stern & Mark Allen《Tekken Torture Tournament》, 2001年(作品言及)
• Exonemo《UN-DEAD-LINK》, 2008年(WMMNAによるレビュー)
• Riley Harmon《What It Is Without the Hand That Wields It》, 2008年(WMMNAによるレビュー)
• Wafaa Bilal《Domestic Tension》, 2007年(Rhizome Net Art Anthology)
• JODI《OXO》, 2018年(Harvard Art Museumsによる紹介)