ゲリラ・テレビジョンからプラットフォーム時代へ――グローバルなメディア民主化の系譜とその逆説
序論
メディア民主化とは、情報メディアの制作・発信の権利を市民へと開放し、マスメディアの集中支配を打破して民主的な言論空間を創出しようとする試みである。その歴史は、1960年代末から1970年代初頭にかけて勃興したビデオ技術を用いた草の根メディア運動に端を発する。例えばアメリカ合衆国では、ソニー社の携帯型ビデオカメラ「ポータパック」(1967年発売)の登場が引き金となり、アーティスト、ジャーナリスト、活動家らが自主的な映像制作に乗り出した。従来、テレビ放送の制作は大企業や政府機関によって独占され、視聴者は受け身の「消費者」にとどまっていた。これに対して、新たな映像機材を手にした人々は自ら映像を撮り、編集し、配布することで「視聴者を能動的な参加者へと変える」ことを目指した。この潮流はやがて「ラディカルソフトウェア」誌(1970年創刊)や「ゲリラ・テレビジョン」といった概念に結実し、メディアを急進的に民主化しようとする運動として理論化された。本稿では、そうした運動の黎明期から現代までをグローバルな視点で辿り、各時代の主要事例と理論的枠組みを検討する。テレビ草創期の実験からパーソナルメディア時代、公的制度としてのケーブル公共アクセス、インターネットとソーシャルメディアの台頭まで、媒体横断的かつ包括的に歴史を整理する。また分析にあたっては、マクルーハンのメディア論、ネグリのマルチチュード論、ハーバーマスの公共圏概念、ポストモダン理論のメディア観、さらにはメディア考古学的視点など複数の理論枠組みを援用し、メディア民主化の進展と限界を評価する。メディア技術の革新と社会運動の相互作用、政治的・文化的インパクトの変遷についても言及し、最後に現代における課題を展望したい。
I. 1960–70年代:メディア民主化運動の黎明
ゲリラ・テレビジョンとラディカルソフトウェア:1960年代後半、テレビは既存権力による情報独占の象徴であった。ベトナム反戦運動や公民権運動が高まりを見せる中、若い世代の中には「テレビを市民の手に取り戻す」ことを掲げる者たちが現れた。マーシャル・マクルーハンは著書『メディア論』(1964年)で「電子メディアが地球規模の神経網となり、人類を“グローバル・ヴィレッジ”へと変える」と予見した。こうしたテクノロジーへの楽観がカウンターカルチャーに影響を与え、既成メディアへの異議申し立てを後押ししたと考えられる。一方、フランスの思想家ギー・ドゥボールは著書『スペクタクルの社会』(1967年)でマスメディアによるイメージ支配を批判し、既存秩序への挑発の必要性を説いた。これらの理論的刺激を背景に、米国ではゲリラ・テレビジョン(Guerrilla Television)と呼ばれる運動が勃興した。1971年にマイケル・シェンバーグらが刊行した同名の宣言的著書『ゲリラ・テレビジョン』は、テレビ放送を中央集権的な巨大組織から解放し、市民自身が制作に参加できる分散型メディア網を構想している。シェンバーグは「アメリカの子供たちはテレビの見方は教えられても作り方を教えられないまま育つ」と述べ、ビデオこそが人々に「書く」能力を与えると主張した。彼らの合言葉は「カメラを人々の手に!」というものであり、カウンターカルチャーのDIY(Do-It-Yourself)精神に基づき誰もが映像発信者になれる世界を目指したのである。実際、ポータパックを携えたビデオ集団が全米各地に誕生し、デモや集会、コミュニティの様子を撮影して回った。代表的なビデオ・コレクティブとしては、ニューヨークのビデオフリークス(Videofreex)、ピープルズ・ビデオ・シアター、レインダンス・コーポレーション(Raindance Corporation)などが挙げられる。レインダンス社はビデオ研究開発グループとして機能し、1970年には機関誌『ラディカル・ソフトウェア』を創刊して情報通信革命の可能性を論じた。『ゲリラ・テレビジョン』宣言の中で彼らは「テレビジョンの脱中央集権化」を明確に打ち出している。それはテレビ番組を「視聴者のために作るだけでなく、視聴者自身によって作られる」ようにしようという構想であった。この頃の映像作品は荒削りで即興的なものが多く、既存のテレビ美学から大きく逸脱していたが、それは同時に「権力者ではなく普通の人々がテレビに登場しうる」ことを示す実験でもあった。実際、ゲリラTV運動のスローガンは「誰でも、何でもテレビに映せる」という急進的なものであり、「人々が自分たちのメディアに利害関係を持つべきだ」という信念が繰り返し訴えられた。これは表現の民主主義化そのものであり、ハーバーマスが理想とする市民的公共圏(パブリック・スフィア)のビジョンと響き合うものでもあった。すなわち、市民が自らの声で対話し、多様な意見が表出される開かれた言論空間をテクノロジーの力で実現しようとする試みである。
こうした試みは映像芸術と社会運動の境界を融解させ、フェミニズムや黒人解放運動、反戦運動など当時進行中の様々な運動とも連帯していった。ビデオ集団はワークショップやメディアセンターを各地で開き、一般市民への機材貸出や使い方の指導も行った。その倫理は「メディアをピープルズ・テクノロジーへ」という理念に集約できる。すなわちテレビという強力なメディア技術を市井の人々の手に取り戻し、情報発信の手段を権力者から奪って民衆に与えることで、コミュニティ主体の情報環境を築こうとしたのである。これはアントニオ・ネグリらが後に唱えた「マルチチュード(多数性)」の先駆的実践とも評しうる。ネグリとハートは、グローバル化した帝国(Empire)に対抗する民主的主体として、多種多様な人々のネットワーク=マルチチュードを位置づけたが、まさに1970年代初頭のメディア運動は、異なるバックグラウンドを持つ人々が水平的ネットワークを通じて既存権力構造に挑むという点でその萌芽だったのである。実際、1972年の米大統領選挙では、TVTV(Top Value Television)というビデオ集団が民主・共和両党大会の代替報道番組を制作し、CBSなどのメジャー局とは異なる視点から政治ショーの舞台裏を暴露して見せた。このように、ゲリラ・テレビ時代には伝統的メディアが無視・軽蔑してきた対象を積極的に取り上げ、市民目線で描く作品が続出した。そうした作品群は従来の一方向的な放送とは一線を画し、視聴者との対話性や参加を重視する点で革新的だった。
しかしながら、このゲリラ・テレビジョン運動は短命に終わったとも評される。皮肉にも1970年代後半になると、安価になったポータブル映像機材は商業テレビや映画制作の現場にも取り込まれ、次第に「インディペンデント映像」は主流メディアに吸収されていった。また、多くのビデオ制作者が経済的持続性の問題に直面し、活動の勢いは1970年代末には減退した。商業主義に呑み込まれ忘れ去られた側面もあるが、それでも「人々が自らメディアを作る」という革命的瞬間は確かに存在したのである。メディア考古学的に見れば、この時期の試みは一種の「断絶」であり、一度は途絶えたかに見えた。しかし後の時代に再びこの精神が形を変えて甦ることになる。歴史は線形的進歩ではなく、連続と不連続、試行錯誤と定着の繰り返しで特徴付けられるという指摘もある。ゲリラ・テレビの遺産は、80年代以降のメディア民主化運動に堆積したプラクティスとして受け継がれていったと言える。例えば彼らが撮影・保存した無数の映像テープはアーカイブ化され、後の研究者やアーティストに刺激を与えた。また「メディアを自分たちの手に」という思想は細々と生き延び、公民権運動家やコミュニティ活動家らによって次なる場へ引き継がれていったのである。
II. 1980年代:パーソナルメディアと公共アクセスの時代
ケーブル公共アクセスの制度化:1970年代に花開いた草の根メディア運動は、一部は制度的な成果も残した。その代表例がパブリック・アクセス・チャンネル制度である。アメリカ合衆国では1972年、連邦通信委員会(FCC)の改革派委員ニコラス・ジョンソンらの主導により、ケーブルテレビ事業者に地域住民のためのアクセス・チャンネルを開設させる規則が制定された。これは営利放送だけでなく、市民が自前で番組を制作・放送できるチャンネル枠(Public, Education, GovernmentのPEGチャンネル)をケーブル網上に確保するもので、メディアを市民に開放する画期的な制度と評価された。こうした公共アクセス(パブリックアクセス)制度は「言論・表現における民主主義のモデル」と見なされ、1970年代に米国内で定着すると、1980年代には西ヨーロッパ諸国にも輸入され、さらには1990年代以降、東アジア諸国にも広がっていった。例えば日本でも1990年代に市民が参加できるケーブルテレビ局が登場し、地域メディアとして模索が始まった経緯がある。公共アクセス局では「誰もが番組を作れる」ことが原則とされ、その社会的役割として(1)市民の自己表現によるコミュニティ形成、(2)映像リテラシーの向上、(3)公開討論の場の提供と多様性の尊重、(4)協働による地域ネットワーク作り、(5)社会変革のプラットフォームといった理念が共有された。このように、ゲリラ的な映像運動の精神が公的制度に組み込まれ、一種の制度化されたメディア民主主義が1980年代には実現していたのである。ハーバーマス流に言えば、大衆消費社会におけるメディアの専制を打ち破り、市民参加型の公共圏を制度的に担保しようとする試みと言える。実際、パブリックアクセスは市民が地域情報を発信し合う場として機能し、メインストリームから疎外されたマイノリティやローカルな話題が取り上げられる貴重なチャンネルとなった。その理念は通信の基本的人権として「コミュニケーションの権利」を先取りするものであり、メディア民主化運動の一つの理想形と見なされたのである。
もっとも、公共アクセス制度にも限界や課題は伴った。財政基盤が脆弱であるために番組の質や継続性にばらつきが生じたり、視聴者を十分に獲得できないチャンネルもあった。さらに皮肉なことに、2000年代以降の通信政策では大手通信・メディア企業の利益が優先され、公共アクセスへの支援が縮小する傾向も各国で見られた。米国では2000年代後半から州法レベルでアクセス局への財政的義務を緩和する動きが出て、多くの公共アクセス局が存続の危機に立たされた。これは新自由主義的な規制緩和の波の中で、市民メディアへの公共的投資が削減されたことを意味する。つまり、制度化されたとはいえ依然として既存権力との綱引きの中にあり、メディア民主化の理念を維持するには不断の政治的努力が必要であった。
パーソナルメディアとオルタナティブ・ビデオ:1980年代は、テクノロジーの小型化・低価格化が進み、個人が扱えるメディア機器が飛躍的に増えた時代でもある。「パーソナルメディア」とは、個人が情報発信に使える媒体全般を指す用語で、この時期には家庭用ビデオカメラやホームコンピュータ、デスクトップ出版(DTP)などが普及し始めた。ソニーのビデオカメラ8mmビデオ(1985年発売)や、廉価なVHSカムコーダが一般家庭にも広がり、結婚式や地域行事を自主撮影するなど市民映像制作者が生まれ始めた。こうした技術環境の変化を受け、1970年代のゲリラTV運動を引き継ぐ者たちも新たな戦略を模索した。その一つが、公共アクセスなど既存のチャネルを最大限活用しつつ、メディア教育やリテラシー啓発を通じて市民をエンパワーメントする運動である。
ニューヨークでは1981年にペーパー・タイガー・テレビジョン(Paper Tiger Television, PTTV)が結成された。これはメディア活動家ディーディー・ハレックらによるオープンメディアの共同体で、マンハッタンの公共アクセスチャンネルを拠点に実験的な番組を制作した。ペーパータイガーTVは「メディア・リテラシーの向上」を掲げ、巨大メディア企業による情報支配に抗議する草の根映像メディアとして活動した。「表現の自由」と「コミュニケーション手段へのアクセス」を促進するためにボランティア運営の非営利コレクティブとして運営され、ヒエラルキーに抗する集団的実践を体現した。その番組では手書きの字幕や手作りのセットを多用し、洗練とは程遠いDIY美学を逆手にとってメッセージ性を高める演出が取られた。ある番組冒頭では次のような声明が読み上げられた――「我々の生活は巨大企業が作り出し配信する情報によって左右されている。彼らの権力は虚偽の前提に支えられている。この正当性は紙の虎(ペーパータイガー)にすぎない。メディアの企業構造を調査し、その方法と意味を批判的に分析することは、情報産業の神秘を解く手がかりとなる。コミュニケーションについての批判的意識こそ、文化的な自律と情報資源の民主的管理に必要なのである」。このメッセージは、メディアが見せる虚像の背後にある権力構造を暴き、情報の主導権を市民に取り戻すというペーパータイガーの理念を端的に示している。PTTVは草の根の映像作品を全米で流通させるため、1986年にはDeep Dish Television(ディープ・ディッシュ・テレビ)という衛星配信ネットワークを立ち上げた。Deep Dishは全米初の市民衛星テレビ網であり、各地の独立系ビデオ作家や活動家の作品をテーマごとに編集して配信した。例えば1991年の湾岸戦争時には、PTTVとDeep Dishが協力して主要メディアが報じない視点を集めた「ガルフ・クライシスTVプロジェクト」を制作し、戦争報道の偏向に対抗した。このように1980年代から90年代初頭にかけて、衛星や公共アクセスを駆使した代替メディアのネットワークが築かれた。これはゲリラTV世代の夢を技術進歩に合わせてアップデートしたものと位置づけられる。すなわち「民衆のテレビ」を地域から全国へ、そして衛星を通じて地球規模へと拡張しようというビジョンである。実際、Deep Dishに触発されて欧州でも類似の試みが生まれ、オランダや英国では市民テレビ局が衛星やケーブルで独自番組を流す動きが見られた。
他方、音声メディアの分野でもコミュニティFMや海賊ラジオが世界各地に広まった。欧州では1970年代に英国のラジオ・キャロラインなど政府認可を受けない「パイレート」局が登場し、既存メディアに対する異議申し立てとなった。イタリアでは1976年に創設された自由ラジオ局「ラジオ・アリス」が有名である。ラジオ・アリスは学生運動家らにより運営され、労働者ストや政治討論、前衛芸術的な音響実験から料理レシピまで雑多な内容を流した。彼らは状況主義者(シチュアシオニスト)やダダイズムの思想に触発され、「メディア・サボタージュのアート実験」と自称する型破りな放送を展開した。当局によりわずか1年で閉鎖されたが、その後もイタリアでは海賊TVネットワーク「テレストリート(Telestreet)」運動(2002年頃)など、市民によるマイクロ放送が相次いで試みられた。また中南米では実はもっと早くから、農民や労働者によるラジオ局が登場していた。特にボリビアでは1940年代末から鉱山労働組合が鉱山ラジオを運営し、貧困や抑圧への抵抗運動の一環として活用していた。1949年にはラジオ・ミネラ(鉱夫ラジオ)が開局し、1952年までに26のコミュニティ局が労働組合支援の下に設立されるなど、世界初期のコミュニティ放送網が出現していた。これらは主流メディアが伝えない労働者の実情を共有し、ストライキの調整や連帯の呼びかけに使われた。まさに「声なき者に声を」というメディア民主化の理念が自発的に実践されていたと言える。この潮流はラテンアメリカ各地で受け継がれ、コミュニティラジオはしばしば民主化運動や住民のエンパワーメントに寄与した。
総じて1980年代は、草の根メディアが地下から半ば地上に姿を現し、公的制度としても認知され始めた過渡期であった。技術的にはメディア機器のパーソナル化が進み、思想的には「情報を市民の手に」というラディカルな理念が現実的な選択肢として定着し始めた時代である。ただし同時に、大手メディア企業による市場支配も一段と強化され、CNNに代表される24時間ニュースやMTVなどグローバル商業メディアが台頭したのもこの時期であった。メディア民主化運動はそうした巨大メディアに対抗しつつ、自らも新たなメディア環境に適応していく必要に迫られた。次の1990年代以降、インターネットの出現がこの状況を一変させることになる。
III. 1990–2000年代:デジタル革命とグローバル市民メディア
インターネットとオープンパブリッシング:1990年代に商用インターネットが普及し始めると、メディア民主化運動は新たなフィールドを得た。インターネットは放送や印刷とは異なり、誰もが情報発信できる双方向メディアとして期待された。初期のウェブは草の根的な電子掲示板(BBS)や電子メールリスト、個人ホームページなど、小規模ながら多声音的な空間を育んだ。とりわけ1999年のシアトルにおける反WTO(世界貿易機関)抗議行動は、インターネットを活用した市民メディア革命の幕開けとなった。このとき抗議者たちは、自分たちの視点で情報を発信するためにインディペンデント・メディア・センター(Independent Media Center, IMC)、通称インディメディアを設立した。インディメディアは「オープン・パブリッシング」(Open Publishing)という理念の下、誰でもウェブ上に記事や写真、動画を投稿できるプラットフォームを提供した。これは当時として画期的で、従来のメディア組織に属さない市民ジャーナリストたちがリアルタイムで情報共有し、グローバルに連帯することを可能にした。実際、1999年11月のシアトルWTO抗議では、100人以上のボランティアカメラマンや記者が現地に集まり、警察の暴力やデモの実態をネットで生中継・報告した。インディメディアのウェブサイトには「抵抗はグローバルだ…ウェブは多国籍企業と活動家メディアとの力関係を劇的に変える。少しのコーディングと安価な機材で、企業メディアに匹敵する自動更新サイトを設置できる。シアトルや世界中の現場にあふれる活動家メディア制作者の波に、備えよ。彼らがWTO協定の裏にある真実の物語を伝えるだろう」と宣言された。この宣言から伝わるのは、デジタル技術への大きな期待である。すなわちインターネットは情報発信のハードルを下げ、大資本に拮抗しうる対抗メディア空間を生み出すという信念だ。「メディアを憎むな、メディアになれ(Don’t hate the media, become the media!)」という有名なスローガンも掲げられ 、体制批判だけでなく自ら代替メディアを構築するポジティブな行動を促した。
シアトルで生まれたインディメディア運動は瞬く間に世界へ広がった。2000年代初頭には、各国各都市にローカルIMCが設立され、グローバル・ジャスティス運動(オルタナグローバリゼーション)の情報ハブとして機能した。各センターはボランティアによって運営され、共通のソフトウェアと投稿フォーマット(スラスラ読めるニュースワイヤーとコラム)を共有しながら、現地語でも発信を行った。英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、日本語など多言語での記事が配信され、世界社会フォーラムやG8サミット抗議などグローバル規模の運動を結びつけるメディアネットワークとなった。インディメディアはまたストリーミング音声を集約したグローバルなネットラジオ・プロジェクトも運営し、市民視点の放送を試みている。これは1960年代のゲリラTVが夢見た「情報の脱中央集権化」が、インターネットという新技術によって初めて大規模に実現したケースと言える。ハードト&ネグリは著書『〈帝国〉』(2000年)で、国家に代わるグローバル権力の網の目(帝国)と、それに対抗する草の根ネットワーク(マルチチュード)の台頭を論じたが、まさに1999年以降のオルタナグローバリゼーション抗議は、権力がもはや単一国家に集中せず多国籍企業・国際機関・NGO・メディアなど複合的に存在することを直感し、各地の運動も国境を越え連帯する必要性を認識したものだった。シアトル以後、世界銀行やIMF、G8首脳会議、自由貿易交渉などが抗議の標的となり、それぞれ支配権力の異なるノード(結節点)を暴き出した。このようなネットワーク化された権力への対抗にはネットワーク化されたメディア戦術が不可欠であり、インディメディアはまさにその中核を担ったのである。
インディメディアの成功は、市民ジャーナリズムやオルタナティブ・メディアへの注目を高めた。2000年代前半には、韓国のオーマイニュース(OhmyNews)のようにプロ・アマ混成でニュースを作るウェブ新聞が登場し、「誰もが記者」の時代が到来したと言われた。また米国ではブログ(Blog)のブームが起こり、個人が政治や社会問題について意見を発信する場が爆発的に増えた。こうした動きは、大手メディアの報道に対する批判意識とも結びつき、メディア・リフォーム(改革)運動の高まりへも寄与した。ロバート・マクチェスニーやジョン・ニコルズらのメディア改革派は、メディアの所有集中に対抗して公共放送の充実や多様な言論の保障を訴え、Indymediaや市民メディアの事例を引き合いに出しながら政策提言を行った。インディメディア自身も、2003年のイラク戦争開戦時や2005年のG8サミット抗議(スコットランド)などで精力的に活動し、市民側視点の情報を提供した。特に2005年のロンドン同時爆破事件では、地下鉄から歩いて脱出する市民が撮影した携帯電話カメラ映像がBBCで放送され、市民による一次報道(市民ジャーナリズム)の価値が広く認知された。これは、大事件の際にメディア民主化の成果が主流メディアとも交差した象徴的な出来事と言える。
しかしインディメディア運動もまた全盛期を過ぎると勢いを失っていった。各地のIMCの中には内部対立や資金不足で閉鎖するものも出てきた。さらには国家権力からの弾圧もあった。2000年代半ばには、イタリアや米国のインディメディア拠点が警察当局の家宅捜索を受け、サーバーが押収される事件も起こった。グローバルな連帯を強調した運動も、2010年代に入ると反グローバリゼーション運動自体の沈静化に伴い下火となった。メディア技術面でも、ブログやSNSなど新しいプラットフォームの台頭により、人々の発信チャネルはより多様化した。その結果、専用サイトに集まって活動するインディメディア的な形態は古びたものと見なされ、利用者の関心は他へ移っていった。とはいえ、インディメディアの遺産は次世代のデジタルメディアに確実に引き継がれた。例えば「トラックバック」や「共有タグ」といったWeb2.0的機能による情報拡散、あるいはウィキやピアプロダクションによるコラボレーティブな報道、さらにはTwitter上でのハッシュタグを用いたリアルタイム中継など、その萌芽はインディメディアが実践した「開かれた参加型ジャーナリズム」に見て取ることができる。また、何よりも多くの一般市民に「メディアを自分で作ることができる」という自己効力感を植え付けた意義は大きい。それは後述するソーシャルメディア時代の市民運動の基盤ともなった。
IV. 2010年代以降:ソーシャルメディア時代の展開と課題
市民ジャーナリズムとソーシャルメディア運動:2000年代後半から2010年代にかけて、Facebook(2004年創設、一般開放は2006年)、YouTube(2005年創設)、Twitter(2006年創設)といったグローバルSNSプラットフォームが爆発的に普及した。これらソーシャルメディアは、当初「市民にマスメディアに匹敵する発信力を与える画期的ツール」として歓迎された。実際、チュニジアやエジプトでのいわゆる「アラブの春」(2010-2011年)では、抗議活動の呼びかけや海外への情報発信にFacebookやTwitterが積極的に用いられた。参加者たちは携帯電話やデジタルカメラでデモ現場の映像を撮影し、YouTubeにアップロードすることで国際世論の支持を訴えた。エジプトのタハリール広場では市民がUSTREAM等でライブ配信を行い、現地の熱気が瞬時に全球へ伝わった。また、2011年のOccupy Wall Street(ウォール街占拠運動)においてもソーシャルメディアは主要な組織動員手段となり、「We are the 99%」というスローガンはTumblrやTwitterを通じて拡散して世界的な共感を呼んだ。こうした一連の動きを、米国の一部論者は「民主主義の第四の波(Fourth Wave of Democracy)」と呼び、ソーシャルメディアが権威主義体制を崩す触媒になるとの期待を表明した。ハーバーマスの公共圏理論も再評価され、特に中東の民主化運動を分析する際に「SNS上に新たな公共圏が生まれ、従来抑圧されていた人々の声が可視化された」と肯定的に論じる向きがあった。例えばある研究では「リアルタイムで人々が意思疎通できるソーシャルメディアは民主化に資する。SNSは人々に声を与え、既存メディアを通さず直接コミュニケーションする手段をもたらした」と評価されている。確かに、検閲やプロパガンダをかいくぐり、市民が横の繋がりで情報共有しうるSNSは、権威主義国家にとって脅威となりうる新手段だった。
ソーシャルメディア時代のメディア民主化の特徴として、瞬発力と拡散力が桁違いに増大した点が挙げられる。ニュースはもはや記者クラブや編集会議を経ずともTwitter上で瞬時に世界を駆け巡る。2013年のトルコ・イスタンブールにおけるゲジ公園抗議では、大手メディアが沈黙する中でデモ参加者がハンドル名でツイートを続け、国内外の注目を集めた。また、2014年の香港「雨傘運動」ではFireChatというメッシュネットワーク型SNSが登場し、当局によるインターネット遮断に対抗してP2Pでデモ情報が共有された。市民一人ひとりが持つスマートフォンが報道機関のカメラとなり、SNSアカウントが放送局となる時代が訪れたのである。この流れは、警察暴力や人権侵害の暴露にも寄与した。アメリカでは2010年代以降、警官による黒人市民への暴力がスマホ映像で記録・拡散され、#BlackLivesMatter運動へと火がついた。ミネアポリスでのジョージ・フロイド殺害事件(2020年)では、その動画がフェイスブックに投稿され世界的な抗議デモが巻き起こった。このように、「誰もが報道しうる」現実が定着したことはメディア民主化の大きな前進と考えられる。メディア学者の中には「ソーシャルメディアがオルタナティブ・メディアと市民ジャーナリズムを大衆化した」と評する者もいる。実際、インディメディアの合言葉「自分がメディアになれ」は、TwitterやYouTube上で日々体現されていると言える。
プラットフォーム時代の逆説と課題:しかしながら、ソーシャルメディア時代は同時に新たな問題も噴出させた。まず指摘されるのが、情報発信の民主化が情報環境の混乱を招いている側面である。誰もが自由に発信できる結果、フェイクニュースや陰謀論の蔓延、ヘイトスピーチの拡散といった負の現象も深刻化した。ポスト真実(Post-truth)時代と呼ばれるように、客観的事実より感情的訴えや信念が優先される風潮が広がり、従来のジャーナリズム規範が揺らいでいる。これはポストモダン理論で言う「シミュラークルとシミュレーション」の社会――すなわち現実と虚構の境界が曖昧になり、イメージが現実そのものを先行・代替する事態 ――が加速したとも解釈できる。ジャン・ボードリヤールはメディア社会では「記号が現実を凌駕し、あらゆるものが自己言及的なシミュレーションに陥る」と述べたが 、ソーシャルメディア空間ではまさに無数の情報断片が拡散と変容を繰り返し、何がファクトで何が虚構か判別しにくい状況が生まれている。情報過多とポスト真実の風潮は、メディア民主化の成果に対する逆説的な挑戦と言える。市民一人ひとりが発信力を得た反面、「みんなが記者」になったことで誰が信頼できる記者なのか判然としなくなったのである。公共圏の質的低下を懸念する声もあり、ハーバーマス自身も近年「デジタル公共圏はノイズと断片化により熟議を困難にしている」と警鐘を鳴らしている。
またもう一つの課題は、ソーシャルメディア基盤そのものが少数の巨大IT企業に集中している点である。FacebookやGoogle、Twitterといった米国発のプラットフォーム企業は事実上グローバルな情報流通インフラを握っており、新たな寡占的ゲートキーパーとなっている。インディメディア的な自主管理サーバーではなく、商業企業の運営する場で市民運動が行われる状況は、メディア民主化に新たなジレンマをもたらす。プラットフォーマーのアルゴリズムや利用規約次第で、特定の情報が拡散したり検閲されたりするリスクがある。実際、2010年代には各国政府がFacebook等に圧力をかけ、不都合な投稿を削除させるケースも報告された。さらにSNS上での活動は膨大なデータを企業に提供することにもなり、マーケティングや監視に利用される懸念も指摘される。政治学者のジョディ・ディーンは、この状況を「コミュニケーティブ・キャピタリズム(伝達資本主義)」と呼び批判した。人々がネット上で自由に表現・交流しているように見えても、そのプラットフォームは広告収益モデルの下で動いており、参加者の情熱は資本に取り込まれて消費されるだけだというのである。実際、SNSでどれだけ「いいね!」やリツイートが拡散しても、それが直接政治変革につながるとは限らない。むしろ人々はオンライン上で意見を言ったことで満足し、実際の組織行動や権力への圧力が弱まる可能性すら論じられている(いわゆるクリックティヴィズム=クリックだけの擬似行動主義への批判)。このように、ソーシャルメディア時代のメディア民主化には両義性がある。確かに声なき者の可視化という民主化の恩恵は大きいが、その声が無数に噴出することで却って注意経済の中で埋没したり、あるいは権力側がビッグデータ解析によって世論操作に利用する余地も生じている。
さらに21世紀に入り、「メディア民主化」は国家・市場といった既存権力との新たなせめぎ合いの段階に入ったとも言えよう。例えば中国やロシアなどでは、インターネットを使った市民運動に当局が厳しく反応し、サイバー検閲やネット世論操作(プロパガンダ・ボットの投入など)の手法を高度化させている。結果として、一部の国ではかえって情報統制が強化され、独立系メディアが弾圧を受ける逆風の時代となっている。他方で民主国家においても、ポピュリスト政治家がSNSを駆使して大衆動員を図る例が相次ぎ、メディア環境の流動化は既存の民主主義制度にも衝撃を与えている。例えば米国のトランプ前大統領はTwitterを直接国民と結ぶツールとして用い、既存メディアを「フェイクニュース」と攻撃しつつ自身の支持基盤を固めた。その結果、大統領在任中からメディア不信と社会的分断が深刻化し、果ては2021年1月の連邦議会乱入事件に至るまで混乱を招いた。このケースは、ソーシャルメディアが民主化の武器になり得ると同時に、民主主義への脅威(煽動やデマ拡散)の温床にもなることを浮き彫りにした。このような功罪両面の評価を踏まえ、近年では「インターネットに民主主義を取り戻す(Re-democratize the Internet)」ための新たな動きも出てきている。分散型SNS(例:Mastodon)やブロックチェーン利用の検閲耐性メディア、あるいはプラットフォーム協同組合運動など、プラットフォーム自体を民主的に管理しようという試みである。これはメディア民主化運動が、技術や制度の変化に対応しながら自己再生を図っている一例と言える。
結論
本稿では、ラディカルソフトウェアやゲリラ・テレビジョンに始まるメディア民主化の歴史を、テレビ草創期からインターネット・ソーシャルメディア時代まで概観した。1960〜70年代の草の根映像運動は、マスメディア独占への異議申し立てとして生まれ、メディア技術の民衆への解放というユートピア的ビジョンを示した。それは公的制度(公共アクセスチャンネル)の創設や、その後の市民メディア運動の源流となり、世界各地で様々な形で展開・模倣された。80年代にはパーソナルな映像・通信手段の普及に支えられ、公共圏の一部が市民に開かれる成果も得たが、一方でメディア産業の商業化・集中も進み、民主化運動は部分的な成功と限界の両方を経験した。90年代以降、インターネットの出現はメディア民主化に新風を吹き込み、インディメディアのように権力のグローバル化に抗する市民メディアネットワークが登場した。それは多言語・多地域にまたがる分散協調型ジャーナリズムの実験であり、メディア考古学的に見ればかつてのゲリラTV運動の理念がサイバースペース上で復活・拡大したものとも言える。そして2000年代後半から現在に至るソーシャルメディア時代には、発信ツールが真に大衆化し、誰もが瞬時に世界へ語りかけることが可能となった。その意味で「メディアの民主化」という長年の夢は、技術的にはある種の完成を見たとも言える。
しかし同時に明らかになったのは、メディア環境の民主化≠社会の民主化であるという現実だ。声なき声が可視化されても、それが直ちに従来の権力構造を打ち崩す保証はない。むしろパワフルになったメディア技術を権力側も利用し、世論操作や監視のツールとして駆使している。ポストモダン理論が指摘したように、情報過多の社会では真偽の判別が難しくなり、人々はメディアに没入しつつも互いに孤立した「シミュラークルの迷宮」を彷徨う危険すらある。またネグリが述べたようなマルチチュード(多数者)のネットワークも、永続的な変革の主体となるには内包する多様性ゆえの困難が伴う。それでも、歴史を振り返ればメディア民主化運動は波状的な前進を続けてきたことも確かである。ニコ・カーペンティアらは現代のメディア参加現象をいくつかの「波」に区分し、20世紀後半から21世紀にかけて市民のメディア参加機会が構造的・文化的に増大してきたと指摘する。確かに、鉱山ラジオに始まるコミュニティ放送の伝統から、ゲリラビデオ、公共アクセス、オルタナメディア、SNS市民発信へと連なる軌跡の中で、一貫して「情報を発し合う市民」の姿が浮かび上がる。権力と市民メディアの攻防には曲折があり「死角」や「袋小路」もあったが、それでも長期的に見ればメディア空間は以前にも増して開かれ、多声的になってきたとも評価できよう。重要なのは、その過程が自動的にもたらされたものでなく、常に人々の不断の努力と創意工夫によって切り拓かれてきた点である。最初期のビデオ活動家から、現代のSNSユーザに至るまで、一人ひとりの「伝えたい」という情熱が歴史を動かしてきたと言える。
21世紀半ばの現在、メディア民主化は新たな局面に立つ。AIによる情報操作やディープフェイクの台頭、メタバース空間の拡大など、技術環境はまた変わりつつある。それらはまた新たな集中と独占を生む可能性があり、引き続き警戒が必要だ。一方でブロックチェーンなど分散型技術は再び情報主権を個人に取り戻す武器となり得るかもしれない。要するにメディア民主化の歴史は未だ現在進行形であり、その最終章は市民一人ひとりの行動に委ねられている。メディア研究者のアストラ・テイラーが指摘するように、「デジタル・ネットワーク時代における権力の作用を歴史的文脈の中で分析し、強者がこれらチャネル上で影響力を隠蔽する戦術を批判的に検証すること」が今後ますます重要になる。メディアの民主化とは単なる技術的現象ではなく、社会的権力関係の民主化プロセスにほかならない。その意味で、真に「メディアを通じた民主化」(democratization through the media)を達成するには、メディア内の民主化(democratization of the media)だけでなく、メディアと社会との関係性全体を問い直す必要があるだろう。例えばメディア教育の充実やプラットフォーム規制、公平な通信インフラ整備や表現の自由の保障など、多方面からの政策的アプローチも求められる。そうした課題を乗り越えつつ、今後もメディア民主化の歴史がより包摂的で持続的な形へと展開していくことを期待したい。
参考文献:
Astra Taylor, “Phantom Public”, Dissent (Winter 2016) .
Nico Carpentier et al., “Waves of media democratization: A brief history of contemporary participatory practices in the media sphere.” Convergence 19(3), 2013 .
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JETIR “Evolution of Community Radio: Theoretical Purview,” 2023 .
Radio Alice (1976–77) に関する英語版Wikipedia .