キャノン・アートラボの活動とメディアアート史における役割と貢献
はじめに
キャノン・アートラボ(Canon ARTLAB)は、1990年から2001年にかけてキャノン株式会社が展開したアートとテクノロジーの融合を目指す文化支援プログラムである。メディアアート黎明期の1990年代において、企業が主導する実験的ラボラトリーとして、国内外のアーティストと自社エンジニアとの協働による新作メディアアート制作と展覧会開催を行い、日本のメディアアート発展を牽引した。本稿では、キャノン・アートラボの全活動期間にわたる展覧会とプロジェクトを網羅的に整理し、その歴史的文脈における役割と貢献について、技術、キュレーション、社会的影響、美学的特徴など多角的な視点から評価・考察する。特定のプロジェクトに限定せず単独事例研究として論じることで、同ラボの実践がメディアアート史にもたらした意義を明らかにしたい。
設立の背景と目的
キャノン・アートラボは、デジタル技術の進展する中で「科学と芸術の融合による新たなアート領域の創造」を掲げて設立された。当時のキャノンは文化支援活動の一環として、写真公募展「写真新世紀」(1991年開始)なども手掛けており、その延長線上で先端的アート創造を支援する試みがアートラボであった。キュレーターには当時ICC(NTTインターコミュニケーション・センター)開館準備にも関与した阿部一直と、批評家・キュレーターの四方幸子が就任した。両名の下、外部から招聘したアーティストと社内のコンピュータ技術者が約10か月にわたる共同制作を行い、作品制作プロセス自体も公開しながら進める「ワーク・イン・プログレス」形式を採用した。これは作品のための新技術開発も伴う実験的プラットフォームであり、デジタル技術を用いた全く新しい表現の創出を目的としていた。こうした背景には、1980年代末〜90年代初頭にかけて台頭したコンピュータ技術やインタラクティブ・アートへの関心の高まりがあり、企業メセナとしてその可能性を切り拓く使命をキャノンが担った側面がある。
展覧会活動の展開
キャノン・アートラボは専用の常設展示施設を持たず、東京を中心に様々な会場を借りて年1〜2回ペースで展覧会を開催した。1991年の初開催から2001年の終了までに実施された展覧会は企画展(オリジナル新作発表)10回、プロスペクト展(海外先端作品招聘)5回、オープン・コラボレーション展(公募展)1回、特別展1回の合計17展に及ぶ。以下に各展覧会の概要を表形式で示す(表1)。企画展ではキャノンのエンジニアと招待アーティストのコラボレーションによる新作を発表し、プロスペクト展では海外の重要なメディアアート作品を国内紹介した点に特色がある。公募展「オープン・コラボレーション展」は全活動を通じて唯一1993年に開催され、特別展は既存作品の再紹介に充てられた(詳細は下表参照)。
展覧会一覧(1991–2001年)
各展覧会の名称(番号)、開催期間、主な参加アーティスト、テーマ・作品コンセプト、および使用技術の概略を以下の表にまとめる。なお、展覧会名の括弧内は和文タイトルや副題、技術に関する記述は主な作品に関するものである。
ARTLAB 第1回企画展 1991年6月27日–7月6日
コンプレッソ・プラスティコ(平野治朗+松蔭浩之)、中原浩大、福田美蘭
デジタル技術初導入による実験的インスタレーション群。インタラクティブ性の萌芽
デジタル画像処理、オリジナルプログラミング(双方向要素の試行)
https://www.youtube.com/watch?v=n2Hf-bu3sH8
ARTLAB2 第2回企画展 1992年7月17日–27日
ヘラルド・ファン・ダー・カープ(オランダ)、Mission Invisible[石原友明+松井智恵]
マルチメディア時代の新表現模索。欧州と日本の若手による映像インスタレーション
デジタル映像合成、リアルタイム処理(詳細不明)
https://www.youtube.com/watch?v=NRhQ48jLUJM
オープン・コラボレーション展 「PSYCHOSCAPE – アートからの精神観測」
1993年3月27日–4月7日 Boulbous Plants[岡崎乾二郎+津田佳紀]、DTI(沖啓介+ヘンリー川原)、本木秀明
公募による実験企画展。コンピュータ介在の芸術表現プランを一般募集し選出作品を展示
バーチャルリアリティ試作、視覚と音響の対話的インターフェース
https://www.youtube.com/watch?v=1o3zrUolJ00
パーセプチュアル・アリーナ – 空間のパラドックス 第3回企画展 1993年9月23日–10月11日
ウルリーケ・ガブリエル(ドイツ)
視覚と知覚の関係性を探るインタラクティブ環境。空間における参加者の知覚変容実験
人間の生体信号センサー、ロボティクス制御(ガブリエルの作品例:「BREATHE」等)
https://www.youtube.com/watch?v=xs92sEqBn_U
LOVERS – 永遠の恋人たち 第4回企画展 1994年9月23日–10月3日
古橋悌二
ダムタイプ古橋による没入型映像インスタレーション《LOVERS》。部屋全体に等身大人物像を投影
回転式プロジェクター、レーザーディスク同期映像、マルチチャンネル音響
https://www.youtube.com/watch?v=MxZUg0UfEXk
TERRAIN[テライン] 第1回プロスペクト展 1995年4月22日–30日
ウルリーケ・ガブリエル(ドイツ)
海外先端作品の招聘第1弾。ガブリエルのインスタレーション《Terrain》を紹介(重力と視覚の探究)
センサー連動型インタラクティブ装置、物理運動フィードバック
https://www.youtube.com/watch?v=lGZjX70E0ns&t=10s
Molecular Clinic 1.0 On the Internet 第5回企画展 1995年10月21日–1996年4月31日
三上晴子
インターネット上で展開されたオンライン作品《モレキュラー・クリニック1.0》。生命情報の視覚化 Webインタラクション、ネットワーク通信、データベース技術
https://www.youtube.com/watch?v=WNmRMV_vDtM
Molecular Informatics – 視線のモルフォロジー 第6回企画展 1996年3月30日–4月7日
三上晴子
視線検出をテーマにしたインスタレーション《モレキュラー・インフォマティクス》。観者の視線に応じ映像変化
視線検出システム(アイトラッキング)、リアルタイム画像生成
Virtual Cage[ヴァーチャル・ケージ] 第2回プロスペクト展 1997年5月17日–28日
クリスティアン・メラー(ドイツ)
インタラクティブ・サウンドインスタレーション《Virtual Cage》。仮想鳥籠内の音響・映像体験
超音波センサー等による位置検出、動的音響制御
IO_DENCIES テンデンシーズ – 情報からの都市への問い 第7回企画展 1997年10月4日–12日
ノウボティック・リサーチ(KR+cF、スイス)
都市空間と情報ネットワークを結ぶプロジェクト《IO_DENCIES》。都市の匿名データを可視化
ネットワーク通信、分散協調システム、都市データ可視化(ネットアートの先駆)
https://www.youtube.com/watch?v=_Vo79MXH1B4
LOVERS / frost frames 特別展 1998年5月10日–21日
古橋悌二、高谷史郎 古橋による《LOVERS》再展示と高谷による映像作品《frost frames》。没入型映像表現の比較展示
(LOVERSと同様技術)+高谷作品の映像処理
Sound Creatures[サウンド・クリーチャーズ] 第8回企画展 1998年10月17日–11月1日
江渡浩一郎
インターネットと物理空間を連動させた音響インスタレーション《サウンド・クリーチャーズ》。無数の音の生物が環境に反応
ネットワーク接続コンピュータとセンサー内蔵玩具による分散型インタラクション
https://www.youtube.com/watch?v=keSRaaKYj0I
ウルティマ・ラティオ – 物語のカスケード 第3回プロスペクト展 1999年5月27日–6月6日
ダニエラ・アリーナ・プレーヴェ(ドイツ)
物語生成型インスタレーション《Ultima Ratio》。ユーザの選択に応じ物語分岐
ハイパーテキスト技術、対話型物語生成アルゴリズム
SoundCreatures on the Web (オンライン企画) 1999年–2001年
江渡浩一郎
《サウンド・クリーチャーズ》のネット版プロジェクト。Web上で音の生物のやりとりを実現
インターネットサーバ、ブラウザ経由の参加型インタラクション
https://www.youtube.com/watch?v=Nu8nES0rbrM
分離する身体 第9回企画展 1999年10月6日–17日
関口敦仁
身体とテクノロジーの関係を問うインスタレーション《分離する身体》。身体感覚の拡張と分離
バーチャルリアリティ、モーションキャプチャ技術
https://www.youtube.com/watch?v=i5AzD7STFeY
DRIVE[ドライヴ] 第4回プロスペクト展 2000年5月17日–28日
ジョーダン・クランダル(米国)
監視社会と映像メディアをテーマにしたインスタレーション《Drive》。都市映像とデータの交錯
映像トラッキング、データベース映像編集
https://www.youtube.com/watch?v=MnMNiipnpzY
polar[ポーラー] 第10回企画展 2000年10月28日–11月6日
カールステン・ニコライ(ドイツ)+マルコ・ペリハン(スロベニア)
極地データを用いたインスタレーション《polar》。見えない自然現象(磁場や電磁波)を可視化
センサー計測データのリアルタイム映像化、音響フィードバック
https://www.youtube.com/watch?v=hWzSTHw5A6Y
R111 – 仮想から物質へ 第5回プロスペクト展 2001年6月1日–17日
ミヒャエル・サウプ+supreme particles(独)
VR空間と物質世界の融合を図る大規模インスタレーション《R111》。ネット上の知的エージェントとリアル空間を接続
インターネット知的情報検索エンジン、ライブ映像配信システム等先端技術の統合
このように、キャノン・アートラボは約10年間で国内外の多彩なアーティストを起用し、インタラクティブ・アートやネットアートの先駆的作品を数多く送り出した。特筆すべき作品例として、古橋悌二《LOVERS》(第4回企画展, 1994年)では部屋の中心に回転するプロジェクターを据えて360度空間に等身大の人物像を投影する革新的手法が採られ 、観客を取り囲む没入型インスタレーションという新領域を開拓した。また三上晴子《モレキュラー・インフォマティクス》(第6回企画展, 1996年)はアイトラッカーによる視線検出技術を美術表現に導入し、観客の視線の動きに応答して映像が変容する対話的作品を実現している。江渡浩一郎《サウンド・クリーチャーズ》(第8回企画展, 1998年)はインターネットと連動する物理オブジェを用いて、仮想空間と実空間を接続した音響インスタレーションを展開し、ネットワーク時代の新たな芸術表現の可能性を示した。さらに海外招聘作品では、スイスのメディアアート・グループであるノウボティック・リサーチの《IO_DENCIES》(第7回企画展, 1997年)が都市とネットを絡めた実験的プロジェクトとして高い評価を受け、電子芸術祭アルスエレクトロニカにおいてネット部門グランプリ(ゴールデンニカ賞)を受賞している。このように、各展覧会はそれぞれ独自のテーマと最先端技術を備えた作品を発表する場となり、企業ラボが先導するメディアアート実践のショーケースとなった。
技術的革新と制作プロセス
キャノン・アートラボの大きな特徴の一つは、技術革新の推進者としての役割である。各プロジェクトでは、作品コンセプトに応じて必要となる新しいソフトウェアやシステムがキャノンのエンジニアによって開発された。例えば前述の《LOVERS》では複数の映像・音響機器を精緻に同期させる制御技術、《モレキュラー・インフォマティクス》では観客の視線をリアルタイムに解析する画像処理システム、《サウンド・クリーチャーズ》ではインターネットを介した分散型インタラクション基盤など、当時最先端の技術が作品実現のために投入された。これらは単に既存技術の応用に留まらず、作品制作の過程で新技術そのものを生み出す点に意義があった。ラボ内には「ファクトリー」と称する開発拠点が六本木に置かれ、専任のエンジニア陣が常駐していた。アーティストとエンジニアは約10か月間にわたり試作と改良を重ねる継続的コラボレーションを行い、作品が展覧会で初公開された後も、アップグレード(改良・ヴァージョンアップ)作業や国内外への再展示サポートが続けられた。このようなプロセス志向の制作手法は、作品を一度きりの完成品ではなく進化し続けるプロトタイプとして位置付けるものであり、技術的探究と芸術的探究を並行して深化させることを可能にした。実際、《SoundCreatures》は展覧会後もWebプロジェクトとして2001年まで延長されオンライン上で公開・発展した。またプロスペクト展においても、単に海外作品を紹介するだけでなく、必要に応じてアートラボ側が技術提供を行って作品をローカライズ・発展させている。例としてドイツのミヒャエル・サウプによる《R111》(2001年)は、元は欧州で発表されたネットワーク作品だが、日本招聘にあたりキャノンが開発したインターネット知的情報検索エンジンやライブ映像配信システムを組み込み、規模・内容とも拡張したインスタレーションとして公開された。このようにアートラボは技術面での積極的貢献を通じ、メディアアート作品に当時最先端のテクノロジーを実装し、その可能性を押し広げる実験場となった。企業の研究開発力とアーティストの創造力が結集することで、新規性の高い作品群が次々に生み出された点は、キャノン・アートラボの重要な功績である。
キュレーションとプログラム戦略
キュレーションの視点から見ると、キャノン・アートラボは意欲的かつ戦略的なプログラム編成を行っていた。阿部一直・四方幸子両キュレーターは、それまで現代美術の文脈で十分に扱われていなかったデジタル技術を、美学的探究のための道具として積極活用する作家を国内外から発掘・招聘した。第1回企画展(1991年)では平野治朗+松蔭浩之(コンプレッソ・プラスティコ)や中原浩大、福田美蘭といった20代の新進気鋭の現代美術家を起用し、デジタル未経験の彼らにあえて電子技術を使わせることで新発想を引き出す試みを行っている。ここでは当時まだ定義の曖昧だった「インタラクティブ」な要素がアイデアとして随所に現れており、作家の発想力と技術者のプログラミング能力の融合が新たな表現領域を切り拓き得ることを示した。以後の企画展でも、日本のメディアアート草創期を代表する三上晴子や江渡浩一郎をはじめ、欧米からウルリーケ・ガブリエル、カールステン・ニコライ&マルコ・ペリハン、ノウボティック・リサーチといった当時尖端的なデジタルアーティストを招き、国際的視野に立ったラインナップを実現した点が特筆される。プロスペクト展はとりわけ世界の先端事例を日本に紹介する枠組みであり、例えば第4回プロスペクト展《DRIVE》ではアメリカ人アーティストのジョーダン・クランダルを招聘し、監視カメラ映像を用いた作品を通じて当時社会問題化し始めた監視テクノロジーの芸術的問いを提示している。このように各展覧会テーマはデジタル技術と社会・身体・都市など他分野との関係性に焦点が当てられ、単に技術デモンストレーションに終始しない批評性・概念性を備えていた。キュレーターは「プロセス」や「フロー」といった概念を重視し、従来の静的な美術作品とは異なる動的・生成的な展示体験を編み出そうとする指向があったと指摘されている。その意味でキャノン・アートラボは、ギャラリーと研究所の融合という新しい展示モデルを提示したと言える。展覧会に付随してシンポジウム「デジタル・アートの環境と未来」(1991年開催) や各種アーティスト・トークも積極的に企画され、観客や専門家コミュニティとの対話を通じて新領域の理解促進と批評的検討が図られた。出版物としても活動初期にコンセプトブックや機関誌『NeN (New Environment)』を刊行し、各展覧会ごとにカタログを制作するなど、記録・理論面での発信も重視していた。総じて、キャノン・アートラボのキュレーションは実験精神と批評性を兼ね備え、メディアアートを包括的に推進する先駆的プログラムであった。
社会的影響と評価
キャノン・アートラボの活動は、日本におけるメディアアート振興に大きな影響を与え、その社会的評価も高かった。まず、同ラボはNTTのICC(1997年開館)と並び90年代の日本のメディアアートシーンを牽引する存在となった。企業が自前のリソースを投入して芸術分野の最先端にコミットした事例として、美術界のみならず産業界からも注目され、1996年には企業メセナ協議会より「企業メセナ大賞’96審査員特別賞」が授与されている。これはキャノン・アートラボの活動が単なる企業PRを超えて文化的貢献として認められたことを示している。また輩出した作品・アーティストも国際的評価を獲得した。前述の古橋《LOVERS》は1998年にニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションに収蔵され 、ノウボティック・リサーチ《IO_DENCIES》は1998年アルスエレクトロニカで最高賞を受賞、江渡《サウンド・クリーチャーズ》も1999年同フェスティバルのインタラクティブアート部門で入賞を果たした。さらにニコライ&ペリハン《polar》は2001年アルスエレクトロニカでグランプリ(ゴールデンニカ)を獲得している。このような国際賞の受賞や美術館収蔵は、キャノン・アートラボ発の作品群が世界的水準で革新的と評価された証左である。また、活動終了から年月を経た現在でも作品の保存・アーカイブが議論の対象となっており、たとえば《R111》は2006年にドイツZKM(アート&メディア技術センター)において再展示・収蔵され、20年近く経た2020年代に至っても作品状態の検証や価値評価が行われている。これは、同作品を含むアートラボ作品がメディアアートの歴史的遺産として位置付けられていることを物語る。キャノン・アートラボの終了後、そのような包括的企業プログラムは国内では例を見ないが、同ラボで育まれた人材やノウハウはその後のメディア芸術の現場に受け継がれている。阿部一直は2003年開設の山口情報芸術センター(YCAM)の設立に参画し、四方幸子はフリーランスで各所のメディアアート企画に関与するなど、ラボ経験者が各方面で活動を継続している。またキャノン自身は写真新世紀を継続しており、新人映像作家支援など別分野でのメセナを続けている。このように、キャノン・アートラボが蒔いた種は広く散播され、日本のメディアアートの発展基盤形成に寄与したと言えよう。
表現上の特徴と美学的意義
キャノン・アートラボから生まれた作品群を美学的観点で捉えると、インタラクティブでプロセス指向の表現が一貫したキーワードとして浮かび上がる。すなわち、観客の参与によって生成・変化する過程そのものを作品の本質に据えた動的表現が多く、これは従来の完成品志向の美術とは異なる鑑賞体験をもたらした。古橋《LOVERS》では鑑賞者が暗闇の空間を歩く中で次々と幽霊のような人影と出会う没入型の体験がデザインされており、それは「存在の消滅」というテーマを観客自身の身体感覚を通じて詩的に訴えかけるものだったと言える。三上《モレキュラー・インフォマティクス》における視線インタラクションも、鑑賞者の視線という無意識の行為が作品映像に影響を与えることで、主体と客体の境界を曖昧にし人間の認知プロセスを可視化する試みであった。江渡《サウンド・クリーチャーズ》ではネットワーク上の仮想生命(音の生物)と物理空間の音響装置が連動し、鑑賞者は見えない存在の気配を音で感じ取るというユニークな聴覚的インタラクション体験が提供された。これらに共通するのは、人間の感覚や行為とデジタル情報世界とを結びつけ、新たな知覚の拡張や変容を生み出そうとする美学である。また、多くの作品がテーマとして扱ったのは「身体」「都市」「記憶」「コミュニケーション」といった広汎な概念であり、それらをデジタル技術を介して再解釈・再構築する点に芸術的意義があった。例えばノウボティック・リサーチの《IO_DENCIES》は都市空間に潜在する情報の流れを抽出し、都市という存在を電子的ネットワークの視点から問い直すメディア考古学的な試みであったし、ニコライ&ペリハンの《polar》は氷雪の極地という遠隔環境のデータをリアルタイムに表現空間へ取り込み、自然とテクノロジーの関係性をクールな美学で提示した。これらは当時の情報社会やグローバル化への芸術的応答とも位置付けられ、単なる技術実験ではなく批評的メッセージを孕んだ作品となっている。キャノン・アートラボの全期間を俯瞰すると、初期にはコンピュータ技術と美術の出会いによる手探りの実験的作品(例えば平野・松蔭や中原によるデジタル初挑戦の試み)が多く、中期以降になるとネットワーク技術の発達に合わせ社会的テーマに踏み込んだ作品(監視、都市、生命など)が増えてゆく傾向が見られる。この変遷自体、90年代を通じたメディアアート表現の深化を象徴するものであり、キャノン・アートラボはその創造的エネルギーの縮図を提示したと評価できる。
結論
キャノン・アートラボは、1990年代というメディアアート黎明期において企業が主導した異色の芸術実験の場であり、技術開発と芸術創造の融合モデルを提示した点で画期的であった。その約10年間に生み出された作品群は、インタラクティブ・アートからネットアートに至るメディアアートの可能性を実証し、多くが国際的評価を勝ち得てメディアアート史に刻まれている。技術面ではエンジニアリング力を作品制作に直結させることで新領域を開拓し、キュレーション面では国内外の先鋭的アーティストとの協働によるプロセス重視の制作・展示を実践した。社会的にも企業メセナの成功例として評価され、日本発のメディアアートを世界水準へ押し上げる牽引役を果たした。美学的にも観客参加型で動的な作品体験を通じて、現代社会における身体・知覚・情報の新たな関係性を提示するなど深い思想性を備えていた。単独事例研究として検討した本稿の分析から明らかなように、キャノン・アートラボの果たした役割と貢献は多面的であり、その legacy(遺産)は現在に至るまでメディアアート分野に影響を与え続けている。キャノン・アートラボの実践は、アートとテクノロジーの協働が生み出す創造的可能性を先駆的に示したものであり、メディアアート史における重要な一章として評価されるべきである。今後の研究課題として、当時の具体的な制作プロセスのさらなる解明や、作品の保存修復に関する知見の蓄積が挙げられる。そうした検討を通じて、本事例の持つ示唆を未来のアート&テクノロジー実践へと継承していくことが期待される。