オブジェクト指向存在論(OOO)とハイパーオブジェクト:美術批評への新たな視点
グレアム・ハーマンのOOOからイアン・ボゴストのエイリアンの現象学、ティモシー・モートンのハイパーオブジェクト論など、人間中心主義を超えた哲学の美術批評への影響を検証する。非人間的視点から作品を再解釈し、21世紀美術の新たな批評的地平を論じる。
21世紀の哲学において、オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology, 以下OOO)やハイパーオブジェクト論といった思想が登場し、人間中心主義を越えた新たな視点を提示している。グレアム・ハーマンが主導するOOOは、あらゆる「物」(オブジェクト)を対等な実在者とみなし、人間への従属性から切り離して論じる大胆な存在論である。また、イアン・ボゴストは著書『エイリアンの現象学』において、物そのものの在り方や経験に迫る実践的アプローチを提唱し、「オブジェクト志向美学」ともいうべき視点を提示した。さらに、ティモシー・モートンのハイパーオブジェクト論は、気候変動など人間の尺度を超えた巨大な「物」を捉える概念を示し、エコロジーと哲学の交点で議論を巻き起こした。
本稿では、これらの理論的背景を概観するとともに、それらが近年の美術批評にもたらした影響を考察する。具体的には、ハーマンのOOOの哲学的特徴とその美術批評への展開、ボゴストの「エイリアンの現象学」およびオブジェクト指向美学の主張、モートンのハイパーオブジェクト概念と視覚芸術への示唆を論じる。さらに、OOO/ハイパーオブジェクト的観点からの美術作品解釈の例として、トマス・サラセーノやパトリシア・ピチニーニといった現代アーティスト、およびポスト・ヒューマンアートやエコクリティカル・アート等の動向を取り上げる。最後に、こうした非人間中心のアプローチを従来の人間中心主義的批評と比較し、その意義を総括する。
グレアム・ハーマンのOOOと美術批評への展開
グレアム・ハーマンは2000年代に登場した思弁的実在論(スペキュレイティブ・リアリズム)の一翼としてOOOを提唱した。彼のOOOでは、人間・動物・石ころ・素粒子・架空のキャラクターに至るまで、あらゆる存在を同等の「オブジェクト」として扱うフラットな存在論が掲げられる。この立場は、人間だけを特別視する近代哲学の前提(カント以降の相関主義)からの根本的転換であり、人間を含めどのような存在も特権化しない点に特徴がある。OOOにおける中心概念に「退却(withdrawal)」があるが、これはオブジェクトが常に他者との関係から一部を撤退させ、決してその全存在を晒さないという性質を指す。たとえば火が綿を燃やす時、火は綿の一部の性質に作用するに過ぎず、綿という対象の全てを理解・消尽するわけではない。このように実在する物はそれぞれ、他の存在との相互作用や知覚によっては決して捉えきれない不可知の側面を秘めている。
ハーマンは、オブジェクトがその本質を「退却」させるからこそ、美学(エステティクス)に根源的な価値があると主張する。直接把握し得ない物の実在を、メタファー(隠喩)など審美的手法によって間接的に示すことが可能だという。芸術作品において観者が感じ取る比喩的な暗示は、対象となる物の隠された側面に触れる手がかりとなりうる。ハーマンは、このように感覚上現れる性質と物の潜在的実在とのあいだの緊張に気づかされる瞬間を「魅惑 (allure)」と呼んでいる。それはユーモアや芸術鑑賞において訪れる瞬間であり、私たちは対象の表層を越えて何か不可思議な奥行きを垣間見るのである。
こうしたOOOの思想は現代美術の理論と批評にも影響を及ぼしている。ハーマン自身、美術における審美的経験を「対象とその性質との間に楔を打ち込み、物が隠し持つ実在へと我々をいざなう契機である」と位置付けている。実際、OOOは美術作品を純粋な形式(フォーマリズム)や社会的文脈(コンテクスチュアリズム)だけに還元せず、その作品自体の自律的な実在性を尊重するアプローチを批評に提供する。作品の視覚的・物質的な質だけで評価するのでも、歴史や社会のコンテクストの反映として消費するのでもなく、作品というオブジェクトが内包する独自の存在(しばし「第三のテーブル」とも呼ばれるような、人間の知覚や科学では捉えきれない実在性)に着目し、それが観者にもたらす美的体験の不可解さを重視する視座である。要するに、OOO的批評とは美術作品を人間の意味付けから独立したひとつの「物」として遇し、その秘められた存在へと想像力を働かせることで、美術に新たな深みを与えようとする試みなのである。
イアン・ボゴストの「エイリアンの現象学」とオブジェクト指向美学
イアン・ボゴストはアメリカのゲームデザイナーでもある異色の思想家で、OOOの流れを受けつつより具体的な応用に重きを置いたアプローチを展開した。その中心が『エイリアンの現象学 (Alien Phenomenology, 2012)』である。ボゴストはここで、あらゆる物事を存在論的に対等なものとして捉え、人間も決して特権的な存在ではないとする哲学を提示する。彼の立場では、人間だけでなくあらゆる存在者(たとえば電子レンジからナスの漬物に至るまで)がお互いに相互作用し何らかの「知覚」や「経験」を持つと仮定される。ただしそれらの経験は人間には直接には理解し得ない異質な(すなわちエイリアンな)ものであり、我々がそれに思いを馳せるためには思弁的な想像力、特にメタファーによる飛躍が不可欠だとされる。このようにボゴストは、長らく哲学の中心に座ってきた人間を脇に退かせ、「物の側から世界を見る」ことを試みるよう促す。
ボゴストが提唱するエイリアンの現象学は、単なる思考実験に留まらず具体的な実践の形を取る点でも特徴的である。彼は哲学者に対し「書き手であるだけでなく作り手(メーカー)たれ」と主張し、自身もゲームデザイナーとしての経験から、理論家が実際にオブジェクトを制作・構築することの重要性を説いた。この考えのもと、彼はOOO的思考を実践する三つの方法論を提示している。第一が「オントグラフィ(ontography)」で、世界を人間中心の物語ではなくオブジェクト同士の関係性として記述する試みである。具体的には、さまざまな対象を羅列したりカタログ化することで、それらの存在と相互関係を暴露するような作品や文章を指す。第二が「メタフォリズム(metaphorism)」で、これは物同士の「内的な生活」を類推し、ある物が別の物の経験をどのように捉えているかを比喩的に描くことである。そして第三が「カーペントリー(carpentry)」、すなわち哲学的な工作であり、オブジェクトの視点を体現するアーティファクト(人工物)そのものを創作してみせることである。ボゴストはこのような手法によって、思索だけでなく実際の制作行為を通じてオブジェクトの世界を探究する姿勢を「タイニー・オントロジー(小さな存在論)」とも称した。大風呂敷を広げた抽象論ではなく、個々の物たちのありように寄り添う小さな実践を重ねることで、我々の認識論を更新しようというのである。
ボゴストの提唱したこれらの方法論は、人間中心の解釈を離れ、物そのものに着目する美術の実践や批評にも示唆を与えている。例えば、美術批評においてオントグラフィの手法を用いるなら、作品に登場するオブジェクトやマテリアルの一覧や羅列から出発し、それらの関係性や配置そのものに意味を見出すことになるだろう。また、メタフォリズム的批評は、作品世界の中で物同士が交わす隠喩的な対話—ある彫像が周囲の空間や他の物体をどう「感じている」かといった想像—に目を凝らすことになる。さらにカーペントリーの精神は、批評家自身やアーティストがオブジェクトの視点を代弁するような作品を制作し、それを批評的主張として提示する可能性を開く。実際、ボゴストのゲーム作品やインスタレーションにはこうした哲学の実践が色濃く反映されている。総じて言えば、彼のオブジェクト指向美学は美術における人間の特権的地位を相対化し、作品に内在する「物語ならぬ物の物語」を掬い上げようとする批評精神だと言えよう。
ティモシー・モートンのハイパーオブジェクト論と視覚芸術への影響
哲学者ティモシー・モートンは2013年の著書『ハイパーオブジェクツ(Hyperobjects)』で、人間の時間・空間のスケールをはるかに超えて遍在する特異な存在を「ハイパーオブジェクト」と名付けた。その典型例として、地球温暖化、プラスチック廃棄物の地球規模での蓄積、長半減期の核廃棄物など、途方もない広がりと長大な時間スパンを持ち、人間には全体像を把握しきれない事象が挙げられる。モートンによれば、ハイパーオブジェクトは通常の人間の知覚や理解を凌駕するため、それらを認識・思考するには我々の世界の見方そのものを変革する必要がある。ハイパーオブジェクトに直面することは、一種の崇高体験に近い。つまり、人間中心の時間感覚や空間感覚では捉えきれない巨大さ・遍在性に圧倒され、自らの存在も他の物の一部に過ぎないと悟るような意識の転換を促すのである。
モートンのハイパーオブジェクト論は、哲学や文学のみならず、美術分野にも新たな知見をもたらした。たとえばアメリカ・テキサス州のBallroom Marfaでは、モートン自身がキュレーションに参加した「Hyperobjects」と題する現代美術のグループ展が2018年に開催され、彼の理論を視覚芸術で体験させる試みがなされた。モートンはハイパーオブジェクトについて「理解するには宇宙に対する我々の見方を変えねばならない」と述べているが、まさにこの展覧会でも通常の人間の知覚規模を超えたスケール感覚が志向された。会場では、美術作品や非美術的オブジェクトとの直接的な感覚体験、思索的なビジュアル表現、スケールの揺さぶりなどを通じて、人間の知覚の枠組みをデセンターし拡張する場が作り出された。例えば、アーティストのタラ・ドノヴァンはプラスチック製コップを何万個も積み上げるサイトスペシフィックなインスタレーション《無題(プラスチック・カップ)》を発表し、日用品であるコップというオブジェクトの基本的性質を活かしつつ、その膨大な集合によって見る者のスケール感覚を転換させる作品を展示した。大量生産された安価なコップが巨大構造物へと相転移する様は、プラスチック廃棄物が地球規模で蓄積していく様にも通じ、ハイパーオブジェクト的な不気味さと壮大さを具現化していたと言える。モートンの思想はこのように、美術において人間の知覚や主体性を相対化し、巨大な生態学的問題を感得させるための新たなフレームを提供している。
さらに、モートンは「人新世(Anthropocene)の芸術」において、美学と倫理の刷新を提唱している。彼の概念「ダークエコロジー」は、環境問題に対する従来の楽観的・啓蒙的アプローチを拒否し、不気味さや罪悪感も含めた複雑な感情を受け入れる美学を主張するものだ。このような思想的背景の下、気候変動や環境破壊をテーマとするエコクリティカル・アートの領域では、人間だけでなく動物・植物・気候・物質といった非人間的存在を含むネットワーク全体を作品として捉える動きが出てきた。モートンのハイパーオブジェクト論は、そうしたポスト人間中心的な芸術実践に哲学的裏付けを与え、観客に「人間ではないものの視点」を想像させる美術体験を可能にしているのである。
OOO/ハイパーオブジェクト視点から見る美術作品の解釈
以上の理論は、実際の美術作品を読み解く際にも新たな可能性を拓いている。OOOやハイパーオブジェクトの視座からは、作品中のあらゆる要素—人物だけでなくオブジェクトや環境—が意味と価値を持つアクターとなりうる。実際、近年の現代美術には人間中心の枠組みを超えて制作・解釈される作品が増えており、それらはしばしOOO的あるいはハイパーオブジェクト的な批評に開かれている。
例として、アルゼンチン出身の現代美術家トマス・サラセーノの作品はポスト人間中心的な視点を具現化していることで注目される。サラセーノは2000年代後半から、蜘蛛や雲など非人間的存在のネットワークに着想を得たプロジェクトを展開し、人間と他の生物・環境との新たな共生を探求してきた。彼は最新テクノロジーを用いて、通常は人間には見えないものや聞こえないものを可視化・可聴化し、多種共存的な世界観へ観客を誘う試みを続けている。例えば、巨大な透明ドーム内に蜘蛛の巣の構造を再現し、その振動音を増幅して来場者に「蜘蛛の視点」で宇宙を聴かせる《Free the Air: How to hear the universe in a spider/web》(2022年)というインスタレーションがある。ここでは人間の聴覚では本来認識できない微細な振動が環境音として体験され、観客は蜘蛛という他種の存在が捉える世界の一端に身を置くことになる。また別のプロジェクト「アエロシーン (Aerocene)」では、空気と太陽光だけで浮揚する気球群を制作し、人類が化石燃料に頼らず大気圏を移動する未来像を提示した。これらの作品に通底するのは、人間中心的なコミュニケーションや移動の概念を覆し、物質・生物・空気といった非人間的アクターとの新たな関係性を実験する姿勢である。サラセーノの制作は、「石や蜘蛛や雲にさえ独自の意志や声がある」という先住民的な世界観とも呼応しつつ、OOOが目指す「人間を特別視しないフラットな存在論」を視覚芸術に落とし込んでいると言えよう。事実、批評家によれば彼の試みは「人間中心的理解からの脱却」を目指すものであり、最新の可視化技術によって動物世界のコミュニケーション構造を分析・提示することで、新たなポストヒューマン的環境への感受性を醸成している。サラセーノの空中都市や蜘蛛の糸のインスタレーションに触れるとき、我々は人類だけが特別ではない世界のあり方を、美術を通じて直観するのである。
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Free the Air: How to hear the universe in a spider/web
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Aerocene
オーストラリアの現代美術家パトリシア・ピチニーニは、人間と他生物の境界を揺るがすハイブリッドな彫刻作品で知られており、その作風はポストヒューマンアートの代表例とされる。彼女が制作するシリコン製の生物彫像は、ブタやサル、人間などの特徴を奇妙に組み合わせたキメラ的存在だ。それらは観る者に強烈な違和感や嫌悪感を抱かせる反面、不思議な愛おしさや共感をも催させる。たとえば《The Young Family》(2003年)では豚に似た肌を持つ架空の哺乳類の母子像を表現し、一見グロテスクな「人ならざる者」が母性に満ちたまなざしでこちらを見つめ返す。初見では異様だが、やがて鑑賞者はその存在に哀れみや守ってあげたいという感情を誘発されるだろう。また《The Couple》(2018年)では、人間男性と怪物的な女性クリーチャーのカップルが寄り添い眠る姿を等身大で再現し、フランケンシュタインの怪物に伴侶が与えられ穏やかな愛を享受するという寓話的情景を描いてみせた。ピチニーニの作品世界では、人間と動物・人工物の境界が曖昧になり、現代のテクノロジーやバイオサイエンスによって生み出される「新しい生命」のリアリティが提示される。それはSF的でありながら神話的でもあり、見る者に21世紀の生命観のパラドックスを突きつける。興味深いのは、彼女の作品を鑑賞する体験そのものが一種の倫理的学びとなる点だ。初めは嫌悪を感じたクリーチャーに対し、時間とともに「第二の眼差し(love at second sight)」が芽生え、未知の他者への愛情や思いやりが湧いてくる。この感情の転換は、人間中心主義的な美意識への挑戦であり、まさに観者の側の人間性すら揺さぶる。ピチニーニの作品は、非人間的な存在にも物語と価値が宿ることを私たちに気付かせるという意味で、OOOの理念とも響き合っている。彼女の描くグロテスクで哀切な生命たちは「物としてそこに在ること自体が尊い」というメッセージを放っており、鑑賞者は人間を中心に据えない共存の物語を読み取るのである。
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The Young Family
このような作例に見るように、OOOやハイパーオブジェクト的視点の美術批評は、作品内外の非人間的存在者に光を当てることを可能にした。近年では、美術の潮流そのものにもポスト人間中心の傾向が現れている。たとえば、人新世(アントロポセン)時代の環境問題に取り組むエコクリティカル・アートでは、人間による自然の搾取を告発するだけでなく、人間と非人間の相互関係そのものを可視化する作品が増えている。海洋プラスチックや絶滅危惧種などハイパーオブジェクト的テーマを扱う作品群は、単に人間への警鐘を鳴らすだけでなく、観者に対して「あなたもまた巨大なネットワークの一部なのだ」という感覚を呼び覚ます。また、ポスト・ヒューマンアートと呼ばれる領域では、人間の身体・アイデンティティの境界線を拡張し、サイボーグやバイオテクノロジーによる新たな生命像を提示する作品が生まれている。これらの動向は総じて、人間中心の芸術観を相対化し、OOOが主張する「モノたちのエージェンシー(主体性)」を美術の中に組み込む試みと言えよう。
人間中心主義的アプローチとの比較
従来の美術批評は暗黙のうちに人間中心主義に立脚していた。すなわち、芸術作品は人間の感情や思想を表現したものであり、その価値も人間(鑑賞者や社会)にもたらす意味によって測られるとする考え方である。美術史において作品中の動物や静物でさえ、何らかの人間的寓意や象徴と解釈されることが多かった。批評もまた、作品を人間の文脈—作者の伝記的背景や時代精神、受け手の感じるメッセージ—の中で評価しがちだった。しかし、OOOやハイパーオブジェクト論に触発されたアプローチは、そうした人間中心的見方を根底から覆す。作品やそこに関わるオブジェクトには、人間とは独立した固有の実在性と価値があると捉え、それらを人間の目的に従属する道具ではなく、自律的な存在者として尊重するのである。この視点に立てば、美術作品はもはや「人間が鑑賞する対象」ではなく、人間と物とが出会い相互作用する場へと様相を変える。作品を形作るマテリアル、置かれた環境、鑑賞する空間や光、さらには作品が内包する自然現象や物質循環までもが、批評にとって無視できないアクターとなる。例えばエコクリティカル・アートを評価する際には、作品が人間に与えるメッセージ以上に、作品に組み込まれた非人間的存在(動植物や気候、素材)がどのような振る舞いを見せ、何を語っているかが問われるだろう。ポスト・ヒューマン的な作品であれば、人間と機械・他生物のハイブリッドがどんな新しい主体性を宿しているかを読む必要がある。要するに、批評の焦点が「人間が芸術から何を得るか」から「芸術において人間と非人間が如何に出会っているか」へとシフトするのである。
もっとも、こうした非人間中心の批評姿勢には賛否もある。幾人かの論者は、オブジェクトと人間をあまりに対等に扱うことは、美術の意味を曖昧にし価値判断を困難にする恐れがあると指摘する。人間的視点を排したとき、芸術は何を我々に語り得るのかという問いでもある。また、すべてをフラットに見る態度は倫理の面で危うく、「人間の独自性を否定することはニヒリズムに繋がりうる」との批判も存在する。しかし一方で、20世紀末以降のポストモダン思想が行き詰まりを見せる中で、OOOやハイパーオブジェクト論が示した脱人間中心のビジョンは、新たな地平を切り拓いたとの評価も根強い。現代の地球環境危機やテクノロジーの浸透した社会において、もはや芸術と人間だけの関係を論じていては不十分であることは明らかであろう。人新世の時代、美術もまた「人間だけのもの」ではなくなりつつある。OOOやハイパーオブジェクト的な批評眼は、その変容を捉える上で貴重な知的ツールとなっている。
結びに
グレアム・ハーマンのOOO、イアン・ボゴストのエイリアンの現象学、ティモシー・モートンのハイパーオブジェクト論――これら先端的な哲学は、美術を取り巻く思考に新たな地平をもたらしたと言える。いずれの理論も、人間中心主義的な見方を相対化し、「物そのものの声」に耳を傾ける態度を促している。OOOは作品という物体の秘められた実在性に光を当て、ボゴストは物たちの経験世界を想像力で掬い上げる方法論を示し、モートンは人類の感性を地球規模の存在へと開いてゆく感覚の変革を提起した。これらの視点を取り入れることで、美術批評は人間の物語一辺倒だった解釈を離れ、作品世界に網目のように絡み合う人間と非人間のドラマを読み解くことが可能になる。人間中心主義的アプローチと対比すれば明らかなように、OOOやハイパーオブジェクトに基づく批評は芸術の見方をより多層的かつ包括的なものへと刷新した。雑誌的な批評の文脈においても、こうした哲学に裏打ちされた分析は、美術作品に対しこれまでにない洞察を与えてくれるだろう。21世紀の芸術文化において、人間と物、人間と環境の関係を再考する上で、OOO的・ハイパーオブジェクト的視座は欠かせない知的冒険となっているのである。
参考資料
• Art Curious Contemporary「Graham Harman’s Object-Oriented Ontology (OOO)」: https://www.artcurious-contemporary.com/graham-harmans-object-oriented-ontology-ooo/
• Ian Bogost『Alien Phenomenology』紹介ページ: https://bogost.com/books/alien-phenomenology/
• Wikipedia(英語)「Object-oriented ontology」: https://en.wikipedia.org/wiki/Object-oriented_ontology
• Ballroom Marfa「Hyperobjects」(展覧会紹介): https://www.ballroommarfa.org/program/hyperobjects/
• Charvát, Martin “Tomás Saraceno: semiotic regimes of posthuman temporalities” (Semiotica, 2023) 抄録: https://doi.org/10.1515/sem-2023-0120
• TheCollector「What Are Patricia Piccinini’s Works About?」: https://www.thecollector.com/what-are-patricia-piccinini-works-about/
• Philosophy Now インタビュー「Graham Harman | Issue 139」: https://philosophynow.org/issues/139/Graham_Harman