ウルリケ・ガブリエルのメディアアート作品と理論的・歴史的背景
序論
ウルリケ・ガブリエル(Ulrike Gabriel, 1964年生)は、ドイツ出身のメディアアーティストであり、研究者・キュレーターでもある。彼女は「人間の現実とその知覚・構築」を探求し、「ジェネラティブ(生成的)なシステム」に焦点を当てた作品で知られている。ガブリエルの作品群には、バーチャルリアリティ(VR)環境、ロボティクス、インスタレーション、オンライン上の集団的スペース、コミュニティ・プロジェクト、詩的なマシン、ライブ・パフォーマンス形式まで多岐にわたり、人間の身体の諸要素(呼吸や眼球運動など)を直接インタフェースとして用いたインタラクティブ作品が含まれる。本稿では、ガブリエルの初期から現在に至るメディアアート作品とその背景について包括的に検討する。まず彼女の作品世界の全体像を概観し、次にメディア理論的観点からインタラクティビティや環境・フィードバックとの相互作用の理論的背景を考察する。さらに各代表的作品を美学的に分析し、その表現手法、感覚性、身体性、空間構成を論じる。また作品制作に用いられた技術の進化と応用について技術史的文脈から位置づけ、最後にガブリエルの実践をジェンダーやテクノクラシー批判、生態系との関係といった社会・政治的文脈の中で考察する。以上を通じて、ウルリケ・ガブリエルのメディアアートが持つ理論的意義と歴史的価値を明らかにしたい。
理論的枠組み:インタラクションとフィードバックの思想
ガブリエルの作品理解に不可欠なのは、「人間-マシン-環境」の相互作用を捉えるメディア理論的枠組みである。20世紀後半以降の芸術において、鑑賞者の参加やインタラクションは中心的な概念となった。とりわけ1960年代のハプニングやフルクサス以降、作品は開かれた動的プロセスとして捉え直され、鑑賞者は受動的な存在ではなく創造的行為の共同制作者となっていった。インタラクティブ・アートの文脈では、鑑賞者の行為(身体的な動きや生体情報など)が作品システムに入力され、それによって生成される出力が再び鑑賞者にフィードバックされる循環構造が重視される。ガブリエルはまさにこのようなサイバネティクス的フィードバックの思想を作品に組み込んでいる。彼女の作品群では、コンピュータや機械によって媒介された人間と環境のやり取りがデザインされており、その相互作用のプロセス自体が作品の本質となっている。
ガブリエル自身、作品制作にあたり第二次サイバネティクスやジェネラティブ・アートの理論から影響を受けていると考えられる。第二次サイバネティクスでは「観察者を含むシステム」が強調され、人間の認知や行為がシステムの一部として循環する。ガブリエルの代表作では、鑑賞者の生体情報(呼吸、脳波など)がリアルタイムにセンサーで取得され、それがコンピュータによる生成プロセスに組み込まれることで、鑑賞者=観察者が作品世界に影響を与え、その変容をまた自身が知覚するという自己言及的なループが形成される。この構造は、観察者の介入によって作品空間が進化し、その変化が再び観察者の認知や行為にフィードバックされるという二階のサイバネティクス的な関係そのものである。また人工生命(Artificial Life)や生成芸術の潮流もガブリエルの理論的背景として挙げられる。1990年代初頭はアルゴリズミックに生命的振る舞いを見せるシステムをアートに取り込む試みが盛んであり、ガブリエルも小型ロボットの群生や仮想空間の動的進化を作品化することで、生成的プロセスそのものを美学の中心に据えている。このような作品では、あらかじめ固定されたメッセージや形態よりも時間的に展開する振る舞いや予測不能な変化が重視されており、鑑賞者との対話的プロセスの中で作品の意味が生成され続ける。
インタラクション概念の変遷にも触れておくと、1960年代の「社会的相互作用」としての参加型アートから、1980~90年代の「人間-機械間インタラクション」としてのメディアアートへのシフトがあった。ガブリエルの活動した1990年代前半はまさに後者の文脈であり、彼女の作品は技術的インタフェースを通じた人間とコンピュータの対話に焦点を当てている。しかし同時に、彼女は単なるマンマシーンインターフェースに留まらず、そうしたテクノロジーを用いて人間同士の新たなコミュニケーションや関係性を探究することにも関心を示している。特に後述する作品「バリア(Barriere)」や「テライン(Terrain)」シリーズでは、複数の参加者が相互作用に関与することで社会的な対話モデルが現出し、技術的インタラクションを人間同士の関係性に拡張している点が注目される。この意味で、ガブリエルの作品はメディア技術を媒介に主体(人間)と世界(環境)との相互作用を詩的かつ批判的に可視化する試みであり、その理論的根底にはサイバネティクス思想とともに、テクノロジーと社会への批評的眼差しが存在している。
作品の展開:初期インスタレーションからジェネラティブ・プロジェクトへ
初期作品(1990年前後):生成プロセスの萌芽
ガブリエルは1980年代後半にミュンヘン美術学院で絵画を学び、新メディアへの関心からフランクフルト市立シュテーデル学院のINM(新メディア研究所)でポストグラデュート課程を修了している。この背景から、初期作品にはコンピュータ・プログラミングや電子技術を美術に取り入れる姿勢が早くから表れていた。彼女の最初期の公開作品には「Chart (1989-90)」などがあるが、本稿ではインタラクティブ性が顕著に現れた1990年代以降の作品に焦点を当てる。
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Chart (1989-90)
1991年、ガブリエルは代表作「ブレス (Breath)」の制作に着手した。これは人間の呼吸を直接インターフェースとするインスタレーションであり、ガブリエルの作風を決定づけた作品である。参加者は腰に呼吸センサー付きのベルトを装着し、大画面にリアルタイムで生成されるコンピュータグラフィックスを対峙する。呼吸のリズムや深さといったデータがコンピュータに送り込まれると、それに応じてスクリーン上のポリゴン構造体が振動・変形し始める。ゆっくり規則正しく呼吸をすればするほど、画像内の幾何学的パターンは複雑化・無秩序化し、逆に呼吸が乱れると構造体は落ち着きを取り戻すように変化する。このシステムでは「呼吸を安定させよう」とする人間の意志が、結果的にヴィジュアルと音響のカオスを増大させてしまう】という逆説的なバイオフィードバックが組み込まれている。言い換えれば、人間の生理的な自律リズムとコンピュータ生成プロセスとが相互に影響し合い、秩序と無秩序の狭間で映像と音響が絶えず形を変える。実際に作品を体験した観客は「スクリーン上の無数のポリゴン様の形が自分の呼吸に合わせてねじれ、絡み合っていくのを息を呑んで見つめた。それは不安を誘うと同時に、不思議な高揚感を伴う体験であった」と述べている。この「Breath」は人間の身体性(内なる生体リズム)をメディアアート作品の入力に直接用いた点で画期的であり、観客は自らの身体が作り出すイメージによってフィードバックを受けるという特異な没入体験を得ることになる。ガブリエルは本作を通じて、生物とコンピュータの境界を横断するサイバネティックな詩的空間を創出し、観る者に自らの呼吸という無意識的行為とデジタル空間との新たな関係性を提示したのである。
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「Breath」は初期から国際的に注目を集め、1993年のアルスエレクトロニカ(リンツ)「人工生命と遺伝子芸術」展などに出品された。またオーストラリア(シドニー)のPerformance Spaceなど世界各地で公開され、その技術的・芸術的革新性が評価された。技術的には当時最新だったCG技術とセンサーによる生体情報取得を組み合わせており、1991年当時として極めて先端的な試みであった。さらに本作はメディア理論的にも「身体とデータ領域の相互作用」の典型例として言及されている。メディア批評家インケ・アルンスは、ジェフリー・ショーの《Legible City》やクリスタ・ゾンマ―&ロラン・ミニョノーの《A-Volve》と並べてガブリエルの《Breath》を紹介し、いずれも「観客が単なる受け手ではなく能動的なエージェントとなるインスタレーション」であると位置づけた。同時にそれら90年代前半の作品では観客は一度に一人、多くても二人程度しか参加できず、「対話者」はほぼ孤立した存在であったとも指摘されている。実際「Breath」も一度に一人が体験する形式であり、内省的かつ個人的なインタラクションに重点が置かれていた。後に見る彼女の他作品が社会的インタラクションへ広がっていく前夜に、この作品は身体内部の生理現象とデジタル媒体のインタフェースというテーマを鮮烈に提示したのである。
没入型VR環境(1993年):《Perceptual Arena》
1993年、ガブリエルは東京のキヤノン・アートラボの招聘により、大規模なVRインスタレーション《パーセプチュアル・アリーナ (Perceptual Arena)》を制作した。この作品は、観客の身体的インタラクションによってリアルタイムに変容する没入型の仮想環境であり、初期VR芸術の代表例の一つである。半円形に囲まれた木製構造のインスタレーション空間(直径3メートルの円形ステージ)に観客が立ち、正面の大型スクリーン(幅10メートル)に投影されたCG空間とサラウンド音響に没入する仕組みであった。観客はデータグローブ(有線型の電子手袋)を手に装着し、頭部の動きをトラッキングされ(ヘッドトラッキング)、仮想空間内で自分の視点や手の動きによってポリゴンで構成された抽象世界を操作することができる。スクリーンに広がるのは現実の重力や物理法則から解放された「物理的意味をもたない」オーディオビジュアル空間であり、観客の視線や動作がこの空間に影響を及ぼすことで、まさに観客自身の「知覚」が世界を投影・構築していくような感覚が得られる。作品の解説によれば、「観客は自らの見ているものを投影する (the viewer projects his/her views)」ことによって時間・空間相対的なポリゴンと音の世界を創り出し、それが常に変化し続ける。観客の視点移動や腕の動きに応じて、仮想空間内のクレイ(粘土)のようなポリゴン物体を掴んだり変形させたりでき、その痕跡が空間に履歴として蓄積される。すなわちこの「Arena」内部では、観客の行為履歴が仮想世界のテクスチャや構造を規定し、逆に「知覚されるもの(空間の複雑さ)は知覚の行為を通じて進化する」とされる。この言葉どおり、観客が関与すればするほど空間は複雑化し、無秩序な操作をすれば空間はバランスを崩し破綻しうるという。ガブリエルはこの作品で、認知と環境の相互生成というテーマを直截的に表現してみせた。鑑賞者は能動的な介入者としてバーチャル空間の生成に関与し、その結果生じる視覚・音響的テクスチャを全身で感じ取るという、没入と創造が一体化した体験を味わう。
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技術的観点から見ると、《Perceptual Arena》は当時隆盛しつつあったVR技術を芸術的文脈に投入した先駆的事例である。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)ではなく大型スクリーン投影を用いたことで、観客は酔いや閉塞感なくVR空間を体験できるよう工夫されていた。またデータグローブによるハプティックな操作や3次元位置トラッキング、仮想センサーなど複数のインターフェースが組み合わされ、C言語でプログラムされた独自ソフトウェアによってリアルタイム生成が実現している。制作は日独の協働で行われ、オフェンバッハの「Otherspace」スタジオと東京のキヤノン・アートラボで開発され、音響はミヒャエル・ザウプらが担当した。この国際的プロジェクトは東京・ロッポンギで初公開され、以後ロッテルダムのV2やパリ、ミュンヘンなど各地で展示されている。メディア芸術史的には、同時期にモートン・ハイリッグのSensoramaやジェフリー・ショーのEVEなどVR/没入型作品が登場していたが、ガブリエルの《Perceptual Arena》は特にユーザーの認知行為そのものを作品変容の原動力とした点で独創的であった。「知覚可能なものは、それが知覚されることを通じて進化する」という作品ステートメント には、観察者を組み込んだシステムという現代思想と、創発する仮想世界への驚嘆が込められている。観客は自らの動きが形作る世界に没入しつつ、その世界がまた自らにフィードバックを与えるというインタラクティブな認識論的実験を体感したのである。
インタラクティブ・ロボット群とブレインウェーブ:《Terrain》シリーズ(1993-1997)と《Barriere》
「Breath」で生体情報、「Perceptual Arena」で身体動作によるVR空間操作を探究したガブリエルは、並行して人工生命的なロボット群制御のプロジェクトにも取り組んだ。それが「テライン (Terrain)」シリーズとインスタレーション《バリア (Barriere)》である。これらの作品では、脳波という人間の認知・精神状態の生体データがインターフェースとして採用され、小型ロボットの振る舞いを制御する試みが行われた。すなわち、観客の精神的リラックス度がサイバネティックな生態系(ロボット群)に影響を与えるという構図である。
第一作《Terrain_01》は1993年に発表されたインスタレーションで、直径数メートルほどの半円形のフィールド(円卓上の囲われた空間)に、太陽電池で駆動する30台ほどの小型ロボットが放たれた作品である。二人の参加者がテーブルを挟んで座り、頭部に脳波センサー付きのヘッドバンドを装着する。各参加者のα波・β波といった脳波信号が常時モニタリングされ、その状態に応じてテーブル上方から照射される光の強度が制御される仕組みであった。ロボットたちは光エネルギーを動力源としており、光量によって移動速度や動きが変化する。具体的には、参加者がリラックスして脳波に一定のパターンが現れるとその度合いに応じて光が明るくなり、太陽電池ロボットは活発に動き出す。逆に緊張状態になると光が弱まり、ロボット群は静止に近くなる。この時、動き出したロボットが発するノイズや振動が参加者に感知されると、参加者は驚き緊張してしまい再びロボットの動きが止まる――こうしてリラックスと緊張のフィードバックループがインスタレーション内に生まれる。言い換えれば、「落ち着けばロボットが騒ぎ出し、ロボットが騒ぐとこちらが落ち着かなくなる」という自己矛盾する関係性が発生し、参加者は自らの内的状態と人工生命的環境との間のジレンマを体験することになる。この設計は人間の精神と機械の動作とが直接リンクしたサイバネティックな生態系とも言える。実際に《Terrain_01》の場では、テーブル上を蠢く甲虫のようなロボット群と対峙する参加者の姿が見られ、その様子自体が観客にとって視覚的インパクトを与えた(上掲画像は改良版《Terrain_02》の展示風景で、ヘッドバンドを付けた二人の参加者と円卓上のロボット群が確認できる)。この作品はガブリエル自身のプログラミング(電子工学は共同制作者ロバート・オーケインが担当)によって実現され、人工知能というより人工生命(Artificial Life)的なアプローチ──すなわちシンプルなロボットの集団から創発する予測不能なパターン──を芸術に取り入れた点で評価された。アルスエレクトロニカ1993「遺伝子芸術」展への出品やV2オルガナisatie(オランダ)のイベント参加など、国際的にも話題を呼び 、メディア芸術評論家スティーブン・ウィルソンも自著で本作に言及している。ウィルソンは《Terrain_01》を「参加者の脳波で制御されるビートル型ロボットのコロニー」と紹介し、そのコメントで「参加者がリラックスすればロボットが動き出し、ストレス状態では静まる。ロボットの発する騒音は参加者をかえって緊張させ、さらなる集中(リラックス努力)を必要とする」と解説している。これは前述のフィードバックの構造を端的に表したもので、人間‐マシン間の相互制御というテーマを浮き彫りにする。
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Terrain
1996年には、このコンセプトを発展させたインスタレーション《Barriere(障壁)》が制作された。基本的なセンサー=脳波、アクチュエータ=光とロボットという構図は《Terrain_01》と同様だが、《Barriere》では二人の参加者の間に物理的かつ象徴的な「壁」が設置された点が特徴である。参加者二人は向かい合って座るが、その間には低いスチール製の板(テーブル状)があり、その上に先程と同様のビートル風ソーラーロボットたちが待機している。この鋼鉄の障壁には上方から可変強度の光が当てられ、下側にはエレクトロルミネッセンス(EL)シートが仕込まれていて下方からも発光するという凝った構造になっていた。二人の頭にはそれぞれ脳波測定用のヘッドセットが装着され、両者の脳波パターンがリアルタイムで解析・比較される。システムは二人の脳波スペクトルの類似度を計算し、その同期度合いに応じて障壁に当てる光の強さを変化させる。もし二人の精神状態が異なっていれば光は弱いままだが、ある特定の周波数帯で波形がよく似た(=二人がある種の共鳴状態にある)場合、その対応する光が明るく照射される。そして極限的には両者の状態が完全に同調した瞬間、障壁上に並んだ全てのロボットが一斉に動き出し走り回るよう設計されていた。つまり《Barriere》では、一人で努力するのではなく二人が心をシンクロさせることが作品駆動の鍵となっている。この「非言語的な対話」による協調行動というテーマは、先行作Terrainのソリプシス的関係を超えて、テクノロジーを介した人間同士の社会的インタラクションの表現へと踏み出したものと言える。「Breath」から一貫してきた“人間の内的状態を可視化する”という路線を保ちつつ、それを他者との関係性に拡張した点で、《Barriere》はガブリエル作品の中でも特に社会・政治的示唆に富む作品である。
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Barriere
実際、再制作プロジェクト「re:Konstruktion – Barriere 1996」の解説では、本作についての詳細な文化的背景が述べられている。それによれば、ガブリエルの《Terrain》と《Barriere》はちょうど1990年代半ば、「心の哲学」が情報工学・神経科学と結びつき、人間の精神活動を機械的プロセスに接続しようとする思想が高まった時期に登場したと指摘される。特に《Terrain_01》の「精神とオートマトンの結合による人間-機械インタフェース」という構想は、現代の我々がスマートデバイスと密接に結びついている状況を先取りするものでもあった。しかしガブリエルは、このようなサイバネティック技術への没入を単純に礼賛しているわけではない。彼女の作品にはどこか皮肉や批判の視点が込められている。《Barriere》についての解説文は、バロック期の機械仕掛けの世界観(神が機械仕掛けの世界を設計・維持する)から現代の人間中心主義(人間がプログラマーとして世界を制御する)への転換に触れ、さらに21世紀人類がシンギュラリティ(技術的特異点)やAIによる統治のユートピア/ディストピアを夢想または危惧している状況を論じている。そのうえで、サイバネティックな主体と世界の相互作用を批判的に捉えることの重要性を説き、特に《Barriere》では《Terrain》で見られた一人と機械の関係を二人の人間の協調関係に発展させ、人と人の非言語的な対話が調和して初めてシステムが機能するという社会的メッセージを示したと論じている。このように、《Barriere》にはテクノロジーによる支配や孤立ではなく、テクノロジーを媒介とした協働と共振の可能性が秘められている。それは同時に、テクノロジーの誤用による監視や統制(テクノクラシー)への批判、そして他者や環境との調和の必要性といった社会哲学的テーマを想起させる。
技術史的に見ても、《Terrain》シリーズと《Barriere》は注目すべき作品だ。脳波をアートのインタフェースに用いる試みは1960年代末から実験的に行われてきたものの、本格的なインスタレーションとして実現した例は少ない。ガブリエルは市販の脳波計等を用いて独自回路を組み、ロボット制御とリアルタイム連動させることで、それまで抽象的だった「マインドとマシンの接続」を具体的な体験に落とし込んだ。ソーラーパネル駆動の簡易ロボットたちは人工知能的高度さはないが、むしろ単純なだけに環境(光)への反応がダイレクトでわかりやすく、参加者は自分の精神状態が環境エネルギー=ロボットの生命線そのものを握っていることを直感できる。ここには、人間が環境(生態系)に与える影響と環境からフィードバックを受ける人間というエコロジカルな主題も読み取れるだろう。ガブリエル自身、2003~06年にアルゼンチンで有機農業に従事した経歴を持つように、生態系や環境との関係性にも関心を示している。《Terrain》/《Barriere》のロボットたちは人工のビートルではあるが、その振る舞いは小動物の群れにも喩えられ、人間参加者との共生・協調が試みられたともいえる。こうした作品を通じてガブリエルは、テクノロジーと人間と環境の三者が織りなす新しい生態系のビジョンを、芸術という枠組みの中で実験的に提示したのである。
生成詩/集合知への展開(1998-2004):《Oskarine》から《flow》まで
1998年以降、ガブリエルの作品はデジタルネットワークや言語、集合的創造性へと関心の幅を広げていく。まず1998年の《メモリー・アリーナ (Memory Arena)》は、それまでの生体センサーやロボットとは異なり、「テキストと言語」を素材にしたインスタレーションであった。この作品は仮想空間内で言葉(テキスト)と図像(グラフィック構造)の双方を生成・結合させる試みで、観客は任意の「言葉」を入力しそれを空間内に配置することができた。言葉は仮想空間内で意味のクラスター(語の関連群)を形成し、同時に視覚的なグラフィック要素とも結びついてハイブリッドなイメージ=テキストを生み出す。ガブリエルはこれらを「記憶のファントム」と呼び、可視的な感覚性(sensuality)とテキストの意味作用(sense)の狭間でちらつく存在だと表現している。この作品はケルン・メディア芸術アカデミー(KHM)やV2ラボで開発され、プログラマーのダヴィド・リンクと協働した。人工生命的アプローチが言語空間に応用された例と位置づけることができ、データベース化された人類の膨大な言葉を仮想「記憶空間」で結び直すことで、新たな意味と感覚のネットワークを提示した。
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Memory Arena
2001年には、詩人オスカー・パスティオールの言葉に触発されたソフトウェア作品《オスカリネ (Oskarine)》を開発した。これは一種のジェネラティブ詩作マシンで、パスティオールの詩の朗読音声を細切れにサンプリングし、コンピュータが再構成して自動的に詩を読み上げるものである。具体的には、録音されたパスティオール自身の肉声朗読から1100以上の断片を抽出し、その音片を詩の構造規則(パスティオールが用いた言葉遊びのアルゴリズムや韻律パターン)に従って毎回異なる順序に並べ替える。生成された詩は元の詩の音韻的雰囲気を保ちながらも決して同じ内容にはならず、常に「新しい詩」としてスピーカーから発せられる。興味深いのは、ガブリエルがパスティオール本人と交流し、彼の詩作ルール(例:セスティーナ形式や各作品固有の言語操作)を解析・実装した点である。そのため機械生成でありながら、パスティオールの詩的スタイルを継承した「詩」が立ち現れる。ガブリエルは言語のアルゴリズム的側面と創造行為の自動化に挑むことで、デジタル時代の詩の可能性を示した。これは彼女の経歴における「リリカル・マシン(詩的機械)」志向を端的に示す作品であり、ドイツのデジタル詩展p0es1s(2004年)などで紹介されている。
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Oskarine
さらに2002年から2004年頃にかけて、ガブリエルは《flow(フロー)》と総称される一連のライブ・パフォーマンス/コンサート形式のプロジェクトを手がけた。これは従来のインスタレーションとは異なり、複数の音楽家・パフォーマーがリアルタイムで協働し、情報メディアから採取した断片を加工・再構成して即興的な音響とテキストを生成するという、マルチメディア・コンサートシリーズである。ガブリエルは自身が創設したベルリンの媒体実験スペース「Codelab」を拠点に、欧州のアーティストたちとオーケストラ的ユニット「flow ensemble」を組織し、公演を行った。具体的な公演内容としては、まずテレビ・ラジオ・インターネットといったメディアからニュース等のライブ情報ストリームを取得し、さらに開演直前に街頭で通行人へ「日常生活における演出(劇場性)」について短いインタビューを行い、それらの生の声を素材として追加する。そして本番では、演奏者たちが各々「マニピュレーター/ジェネレーター」として電子音やプログラムによるテキスト生成を行い、語り手役の「トーキングヘッド」は観客にテキストを読み上げ、遠隔地からネット参加するゲスト(「幽霊」)も自身のコンテンツをライブ送信して加わる。こうしてテレビのニュース音声、街頭インタビュー音、電子音楽、生成テキスト朗読などがリアルタイムでミックスされ、一種の「プロパガンダ生成コンサート (concert generating propaganda)」が行われる。そこでは情報社会に氾濫する言説や他者の意見を即興素材として取り込みつつ、演奏者たちがそれらを再フィルタリング・再配置して、新たな連想的「語りの流れ(flow)」を生み出す。ガブリエルは「近年大きな変化はなかった…意見を作り出す人々の意見以外は(flow120103)」という暗示的な引用を残しており 、メディアが作り出す虚実ないまぜの現実に対する批評がこのプロジェクトの根底にあることを示唆している。実際、公演タイトルには政治的文脈を思わせるもの(例:「Sieben Tage Raumkontrolle=7日間の空間制圧」)もあり 、イラク戦争前夜のメディア状況など当時のホットトピックも反映されていたと言える。技術的には、ネットストリーミングやプログラミング(テキスト生成プログラム)を駆使し、ライブで生成されるデータと即興演奏を同期させる複雑な試みであった。ガブリエルはflowプロジェクトを通じて、メディア空間における集合的創造や参加型パフォーマンスの可能性を追求し、固定したオブジェクトではなく出来事そのものを作品と見なす「プロセス志向」の姿勢をさらに先鋭化させたといえる。
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flow
最近の動向(2006年以降):教育・絵画・遠隔協働プロジェクト
2000年代後半から2010年代にかけて、ガブリエルはアートプロジェクトと並行して教育・研究活動にも従事した。ベルリンのコーデラボを率いた後、2006~2012年にはオッフェンバッハ芸術大学で電子メディア専攻の教授を務めている。その間も創作は続け、2006年にはアルゼンチンでの経験を活かした《voces_ar》というコミュニティプロジェクトを実施し、2012年前後には電子廃材やノイズに着目した《TrashHits》《TrashPrints》シリーズを展開したようである。また2013年の《Arsenal》、2014年の《see you》、2015-16年の《voces_songs》など、小規模な展示やプロジェクトも散見される。この時期、ガブリエルはデジタル技術の物質性や記録性に関心を持ち、電子廃棄物や印刷物などアナログ要素を取り込んだ作品を制作していたと考えられる。実際、2013年にベルリン・アルゼナルで行われた展示では、過去の作品資料や試作物を再構成したインスタレーションが公開された可能性がある。
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TrashHits
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Arsenal
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see you
2020年代に入ると、彼女はテレプレゼンス技術を用いた国際コラボレーションにも注力している。例えば2024年のプロジェクト「paredverde(緑の壁)」では、ドイツとアルゼンチンを結ぶ遠隔即興音楽セッションが開催され、複数都市のアーティストがネット経由で同時演奏・配信を行う試みがなされた。ガブリエル自身もピアノ奏者やビジュアル担当として参加し、ベルリンと南米を結んだライブパフォーマンスを実施している。これは1980年代以降の「テレマティック・アート」の流れに連なるものでもあり、ガブリエルが自身の90年代からのテーマ──例えば「距離を超えた相互作用」や「分散した創造性」──を現代のストリーミング技術でアップデートしている様子がうかがえる。
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paredverde
以上のように、ウルリケ・ガブリエルの作品はこの30年以上にわたり進化と変容を続けてきた。しかしその根底には一貫して、「人間(身体・知覚)と技術(システム)と世界(環境)の関係性」を問い直す姿勢が流れている。次節では、これら作品に通底する美学的特徴と社会的意義について、さらに掘り下げて考察する。
美学的分析と考察:身体性・空間性から社会的文脈まで
身体性と感覚性: ガブリエルの作品群は、人間の身体と感覚を作品プロセスに深く取り込む点で一貫している。呼吸、脳波、眼球運動、身体動作、音声といった身体から発せられる信号が作品の入力となり、それがコンピュータを介して変換・増幅され、再び視覚像や音響となって観客にフィードバックされる。このループの中で、観客は自己の身体・知覚について新たな気づきを得る。例えば「Breath」では呼吸という普段意識しない行為が巨大な映像変化を引き起こすことで、観客は自らの生を実感すると同時にその制御不能性に戸惑う。VR作品「Perceptual Arena」では、自身の視線や手の動きが形而上の空間を形作る不思議な感覚に浸り、身体の延長としての仮想世界を経験する。ロボット作品では、脳波や緊張といった内面的状態が環境の動静に影響を与え、自身の心と外界との繋がりを身体越しに感じさせる。これらの体験は、観客の身体図式(body schema)を拡張・変容させる効果を持つ。言い換えれば、ガブリエルの作品は観客に「自らの身体がどこまで自分なのか」「環境との境界は何か」を問いかけ、身体感覚と自己認識を揺さぶる知覚の実験となっている。
特に注目すべきは呼吸や心拍、脳波といった自律的生理を扱った作品に現れる美学である。規則正しい呼吸が映像を乱す様や、リラックスしようと努めると逆に環境が騒然となる様子には、ユーモラスさと不気味さが同居する。これは制作者の意図するところで、完全なコントロール幻想を崩し去ることで、観客に身体=システム間のエラーやノイズを体感させる美学といえる。そこには、メディアテクノロジーが提示する「人間を自在に制御できる」未来像へのアイロニーもうかがえる。実際、脳波でロボットを動かすと聞けば一見SF的な支配感を想起するが、ガブリエルの作品ではむしろロボットの気まぐれな反応や制御困難さが強調される。この制御不可能性の美学は、観客にテクノロジーとの関係を謙虚に見つめ直させる効果を持っている。ガブリエル作品における身体性は、決してテクノロジーに身体を服従させるものではなく、身体の持つ予測不能なリズムやノイズを積極的に作品内に解放することで、生身の人間性を逆説的に浮かび上がらせる役割を果たしている。
空間構成とインターフェース: ガブリエルのインスタレーションは、観客を取り囲む空間設計にも工夫が凝らされている。VR作品では円形ステージと巨大スクリーンで疑似的な360度環境を構築し、ロボット作品ではテーブル上の「生態圏」に観客を覗き込ませることで舞台性を演出した。これらの空間はしばしば円形や球面を想起させ、人間を中心に据えつつも上下左右あらゆる方向との相互作用を可能にするデザインとなっている(例えばArenaの円環、Terrainの円卓、Sphere2000のデータ上の地球球体など )。円や球は閉じた全体性を象徴するとともに、循環やフィードバックのトポロジーとも関係する。ガブリエルは空間形状そのものにも理念を込めており、観客が没入する場そのものがシステムのメタファーとなるよう工夫している。さらに、各作品で用いられるインターフェース装置(センサーベルト、データグローブ、脳波ヘッドセットなど)は、観客の身体と作品空間を結ぶ境界面として機能する。これらデバイスの存在を観客は強く意識せざるを得ず(装着する感触や見た目)、それ自体が身体延長の体験を喚起する。インターフェースが観客を機械と接続するプローグレム的器官となる一方、その不自然さや奇妙な格好は観客に「いま機械と繋がっている」というメタ意識も芽生えさせる。こうした没入と客観視の揺らぎもまた、ガブリエル作品の空間体験の一部である。言い換えれば、観客は作品世界に没頭しつつも、自らが装着した装置越しにそれを見つめる二重の立場に置かれる。この構造はテクノロジーと身体の関係を批評的に捉える視座を提供しており、観客に単なるユーザー以上の反省的主体となる契機を与えている。
技術の進化と創造性: 技術史的観点からガブリエルの作品を追うと、常に当時の先端テクノロジーを巧みに取り入れつつ、その可能性と限界を探究してきたことが分かる。1990年代初頭には高価で希少だったセンサーやVR装置を用い、2000年代にはインターネットやデータマイニング、2010年代にはストリーミングや遠隔協調技術を組み込んできた。彼女の姿勢は単なる技術礼賛ではなく、技術による新表現の開拓と技術への批評を両立させる点に特徴がある。例えば「Sphere 2000」は地球上の地点データベースと仮想地球儀、ネット通信を活用し、地球規模の遠隔作用(仮想の球体爆撃が現実の展示空間を振動させる)を演出した。これはインターネットが地理的距離を消し去るというポジティブな幻想に対し、逆に物理的破壊を即時にもたらしうる負の連結を示唆したと言える。2000年代のflowプロジェクトでも、ライブストリーミングや生成ソフトを駆使しつつ、その内容は情報操作やメディアの影響力への批判で満ちていた。つまり、ガブリエルは技術そのものを主題化することで、我々の社会が進む技術化の方向性を内側から問い直している。彼女はインタビューで「メディアテクノロジーは現代社会の変革を牽引する主旋律となった」と指摘される90年代の風潮を踏まえつつも 、その中で人間の創造性や主体性をいかに位置づけ直すかを模索してきたのだろう。ジェネラティブ・アートというと人間が介在しない自動生成と捉えられがちだが、ガブリエルの場合、人間参加者の存在が常に不可欠であり、人間とアルゴリズムの協働こそが作品を完成させる鍵となっている。この姿勢は、今日議論されるAIアートにも通じる示唆を含んでいる。すなわち、アルゴリズムが高度化してもなお、人間の感性や関与が創造の核心であるというメッセージである。彼女の近年の絵画作品も、おそらくデジタルなプロセスから派生しつつも人間の手でキャンバスに定着させるというアナログとデジタルの融合を試みており、これはテクノロジーの進化に対する彼女なりの回答といえるだろう。
社会・政治的文脈: ガブリエルの作品世界には直接的な社会批判は前面に出ないが、その底流には常に社会や政治への問題意識が横たわっている。女性アーティストとしてテクノロジー分野で活躍した彼女の存在自体、テック業界におけるジェンダー不均衡へのひとつの挑戦と言える。実際1990年代当時、インタラクティブ・アートや電子音楽の分野で女性は少数派であり、彼女はそのパイオニアの一人であった。彼女の作品においてジェンダーを直接扱ったものは見当たらないが、人間の身体をテーマにしつつ性別に言及しない普遍性を保っている点は注目に値する(例えば「Breath」は男女誰でも体験者になりうるが、呼吸というテーマ自体が生命一般を象徴する)。また、テクノロジーへの姿勢において、ガブリエルは決してテクノロジー万能主義に陥らず、むしろテクノクラシーへの警戒を内包させている。前述の《Barriere》解説にもあったように、サイバー空間やAIが謳う客観的支配に対し、彼女は人間的な同期や協調こそが重要だと示唆した。Flowプロジェクトでのプロパガンダ生成も、情報が操作される社会への皮肉と抵抗を孕んでいた。さらに、生態系との関係という視点では、ロボット作品で人工的エコシステムを構築したこと、アルゼンチンで農業に携わった経験、そして「paredverde(緑の壁)」のようなプロジェクト名から、彼女が環境問題や持続可能性にも関心を持っていることがうかがえる。緑の壁とは都市の壁面緑化や環境運動を象徴する言葉であり、同名プロジェクトでは南北を遠隔で結ぶ試みがなされている。これは地理的・文化的距離を越えた交流であると同時に、異なる環境圏(南米と欧州)を繋ぐ行為でもあり、グローバルな相互依存関係を示唆する。ガブリエルはテクノロジーを用いて人間と人間、人間と環境の新たな関係性を作り出すことで、現代社会が抱える分断や疎外を乗り越えるビジョンを描いているようにも思われる。
結論
ウルリケ・ガブリエルのメディアアート作品は、初期のインタラクティブ・インスタレーションから近年のジェネラティブ・プロジェクトに至るまで、一貫して人間・技術・環境の相互作用を核心に据えてきた。その創作の歩みは、1990年代のVRや人工生命ブームからインターネット時代、そして現在のネットワーク協働へと至るメディアアート史そのものを映し出していると言える。呼吸や脳波といった生体情報を直接作品に組み込む大胆な試みは、身体性とデジタル技術の融合という現在のバイオアート的潮流にも先駆的役割を果たした。一方でVR空間における知覚の可塑性や、ロボット群とのフィードバック関係など、彼女の提示したテーマは未だ色褪せていない。むしろAIやウェアラブル技術が進展した今日において、ガブリエルの作品が問いかける「人間の主体性」「協調の重要性」「制御不能性の美」などは、より切実な意味を帯びている。
ガブリエルはアーティストとしての活動のみならず、教育者・研究者として後進を育成し、新たな実験の場を作り出してきた。彼女の設立したCodelabや各種シンポジウム(例えば2001年の世代的対話イベント「Informel」 )は、学際的な知の交流を促し、メディアアートの発展に寄与した。ジェネラティブ・アートやインタラクティブ・アートの文脈で必ず参照される存在として、ガブリエルの名前は多くの文献・アーカイブに刻まれている。その功績は、技術と芸術の橋渡し役として、そしてテクノロジーに人間的深みを与える詩人として、高く評価されるべきであろう。
結論として、ウルリケ・ガブリエルの作品群は、単なるメディア技術の実験以上の哲学的寓意と批評性を備えている。インタラクティブなシステムを通じて彼女が描き出すのは、「世界を変容させる我々自身の知覚」であり、「他者と響き合うことで初めて動き出す世界」であり、「ノイズすら包摂する生命の創発」である。そこには人間と機械の関係性に対する深い洞察と、人間性への信頼が感じられる。ガブリエルの作品が我々に提供する体験は、美術館の一瞬の出来事に留まらず、現実世界におけるテクノロジーとの関わり方を省みる契機となる。彼女の創作は今なお進化を続けており、その先鋭的な取り組みはメディアアートの理論的・歴史的蓄積にこれからも新たなページを加えていくに違いない。
参考文献(Reference)
• Ulrike Gabriel 公式サイト: プロジェクト記述(Breath, Perceptual Arena, Terrain他)【28】【30】【41】【42】【46】【47】
• Panke.gallery “re:Konstruktion – Barriere 1996” 展解説(2019年)【21】
• Eduardo Kac “Robotic Art Chronology” (2006) - 《Terrain_01》解説【40】
• Fairfax Media (Paul Jones撮影) 「ウルリケ・ガブリエルと《Breath》体験記事」 (via Getty Images, 1996年)【68】
• Inke Arns 「Interaction, Participation, Networking: Art and Telecommunication」(2004年)【64】【66】
• Medien Kunst Netz (Medio Art Net) - ガブリエル作品紹介・略歴【70】
• その他、作品展示カタログ・インタビュー等一次資料【7】【8】(本文中に適宜引用)