「部分的な繋がり」としての知識――マリリン・ストラザーンにおける関係論的人類学の再定位
マリリン・ストラザーン(Marilyn Strathern)は、イギリスの人類学者であり、特にメラネシア(パプアニューギニア)研究とフェミニズム人類学への貢献で知られています。彼女が提唱した「部分的な繋がり(partial connections)」は、人類学理論における画期的な概念であり、1980年代後半から1990年代にかけて展開されました。この概念は、従来の「全体」と「部分」という捉え方に挑戦し、社会や文化を捉える新たな視座を提供するものです。ストラザーンは、自身の著書『部分的つながり』(初版1991年、2004年に改訂版)や代表作『ザ・ジェンダー・オブ・ザ・ギフト(The Gender of the Gift)』(1988年)において、この理論を展開し、メラネシアの民族誌的事例から得た洞察をもとに西洋的発想に再考を迫りました。本稿では、「部分的な繋がり」の概念について、その定義と理論的背景、成立の文脈を整理し、人類学・フェミニズム・科学技術研究 (STS) における議論との関わりを検討します。また、この概念が影響を受けた思想的潮流(メラネシア人類学、フェミニスト知識論、ブリュノ・ラトゥールやドナ・ハラウェイの理論など)を明らかにし、さらに「部分的な繋がり」がその後の人類学・社会科学・哲学においてどのように引用・展開・批判されてきたかを概観します。加えて、具体的な応用事例と、提唱以来指摘されてきた批判や限界についても論じ、最後に総括します。
部分的な繋がり:定義と理論的背景 (Definition and Theoretical Background)
ストラザーンの「部分的な繋がり」概念は、一言で言えば「部分同士の関係性に着目し、単一の全体像ではなく断片的かつ相互に関連しあうネットワークとして世界を見る」視点です。ストラザーン自身の言葉では、「部分的であることは(全体の一部としてではなく、何かとの)繋がりとしてのみ作用する 」という表現に端的に示されています。つまり、ある事象や存在を何らかの「部分」と捉える時、それはあらかじめ想定された「全体」の中の欠けたピースとして機能するのではなく、何か他のものとの繋がりを通じて意味を持つということです。ここで重要なのは、「部分」はそれ自体で完結した存在ではなく、関係性の中で初めて姿を現すという点です。ストラザーンは「部分(partial)」という語を、「不完全な一部」という否定的な意味ではなく、「部分的な視点から得られる繋がり」という積極的な意味合いで用いています。
この発想が生まれた背景には、ストラザーンのメラネシア民族誌研究があります。彼女はメラネシアの人々の社会関係や人格観に深く学び、西洋近代社会の前提とは異なる論理を見出しました。『ザ・ジェンダー・オブ・ザ・ギフト』においてストラザーンは、メラネシアにおける「人(人格)」は関係の束として構成される「分人(dividual)」であり、西洋的な自律的個人(individual)像とは異なると論じました。実際、「人はそれを生み出す諸関係の複数的・複合的な場として構築されている(Strathern 1988:13) 」との指摘は、西洋のように個人が固定的な単位ではなく、様々な関係によって常に部分化されうる存在であることを示唆します。この**「可分な人格(partible person)」というメラネシア人類学から得られた洞察が、「部分的な繋がり」概念の基礎にあります。すなわち、社会を分析するとき、そこに固定した全体(社会そのもの)や個人主体を想定するのではなく、関係そのものを単位として捉える視点が必要だという問題意識です。
ストラザーンは1980年代の人類学理論の動向、とりわけ「社会」という概念への懐疑に影響を受けていました。1980年代には構造主義への批判を経てポスト構造主義・社会構築主義の思潮が台頭し、「社会全体」を俯瞰する神の視点の不可能性が議論されました。人類学や社会学では、「社会」という統合的単位をあたかも客観的に記述できるかのような発想自体が西洋近代固有のものであり、その限界が指摘されていたのです。こうした文脈でストラザーンは、従来のように社会全体像を描くのではなく、「部分的でもよいから、そこにある関係に丁寧に着目することで社会がわかる」アプローチを模索しました。彼女は明確に、全体を前提とした説明図式を退け、部分的な視点を支持する立場をとっています。その具体的主張が「『部分』を書くべし」、すなわち社会を書くとは部分同士の繋がりとその論理を書くことなのだ、という点にありました。
以上の背景から、「部分的な繋がり」はフラクタル的な世界観としても説明されます。ストラザーン自身、メラネシア社会の分析から得た直観を、西洋の二つの思考法になぞらえて述べています。一つはフラクタル理論、もう一つはフェミニズム批評から生まれたサイボーグの比喩です。フラクタルとは部分と全体が自己相似的に現れるパターンを指し、彼女によれば世界は断片化され多元的・自律的な単位の寄せ集めなのではなく、「異質な部分同士が相関し合っている」ものです。各部分はそれ自体として完結した全体でもあり、同時に他の部分との繋がりによってさらに大きなパターン(全体)を形作ります。「部分そのものが一つの全体でもある」というフラクタルな世界観は、ストラザーンの主張する部分と全体の関係を端的に物語っています。彼女は「世界は常に一つであると同時に複数的に実現されており、一度にそのすべてを見ることはできない」と述べ、世界を分断された断片ではなく重層的な連なりとして捉えます。このように「部分的な繋がり」は、全体主義的な把握に代わって、複雑な社会現象を過不足なく捉えるための新しい理論枠組みとして提示されたのです。
人類学・フェミニズム・STSとの関連 (Relation to Anthropological, Feminist, and STS Debates)
「部分的な繋がり」の概念は、人類学のみならずフェミニズム理論や科学技術社会論(STS)とも深く関わっています。まず人類学的には、ストラザーンの議論は従来の社会概念や比較手法への批判と連動しています。彼女は人類学に古くから浸透していた「比較」という発想自体を問い直し、個別社会を自明の単位として安易に比較することが「社会思考(society thinking)」の再生産に他ならないと指摘しました。ストラザーンによれば、従来の比較研究では各社会や文化を「個々の実体」として切り出し、それらを俯瞰する位置から共通点・相違点を論じるため、暗黙裡に普遍的な「社会」という全体概念を前提してしまいます。彼女の代案はアナロジー(類比)の活用です。アナロジーとは、一見異なる事象同士の間に構造的な類似を見出す試みであり、そこでは比較のための絶対的基準(ベースライン)は存在せず、関係そのものが浮かび上がります。ストラザーンは「アナロジーにはそれ自体の論理があり、繋がりは部分的になる。つまり類比においてはその用いられ方に基準となる原点がない 」と述べています。これは、例えば西洋社会とメラネシア社会を単純に対比するのではなく、両者に横断的な関係モデル(例えば贈与や親族概念)を類比的に捉えるような手法と言えます。ストラザーンの試みは、1980年代の人類学における「表象の危機」やポストモダン的な自己省察とも呼応しており、民族誌記述それ自体への批判的まなざしを孕んでいました。実際、『部分的つながり』という書物それ自体が「自己の分析の記録」であり、同時に人類学的レトリックのモデルとして読まれうることが指摘されています。この本は単なる視点批判の書ではなく、読者に視点のずらし(perspectival shifting)を体験させ、馴染んだ概念の境界を破壊して異なる比較の地平へと誘うよう構成されているのです。こうしたアプローチは「文化間比較の基盤となる概念の妥当性を問い直し、人類学の未来のあり方にまで射程を持つ」と評価されています。
次に、フェミニズム的観点との関わりです。ストラザーンは自らもフェミニスト人類学者であり、1970年代から女性や親族に関する研究を行っていました。その経験も踏まえ、彼女はフェミニズムがもたらした知的挑戦を人類学に組み込もうとしました。ただし彼女の立場は単純な「女性の地位向上」論とは異なります。ストラザーンは西洋的なジェンダー概念や家父長制理解をそのまま他文化に当てはめることに慎重であり、たとえば「メラネシアでは『社会における女性の従属』という問題設定自体が西洋固有のものに過ぎないのではないか」と問いかけました。これは、「社会における男性優位」といった普遍化された問題ではなく、その社会固有の関係論理(男女というカテゴリーの構成原理)を解明すべきだという指摘です。こうした思想的姿勢は、ドナ・ハラウェイやサンドラ・ハーディングらのフェミニスト知識論とも響きあいます。とりわけハラウェイの唱えた「位置付けられた知(situated knowledge)」や「部分的な視座(partial perspective)」の主張は、ストラザーンの議論と表裏一体と言えます。ハラウェイは1980年代に、従来の科学が装ってきた神の如き客観性(いわゆるthe God trick)を批判し、知は常に部分的で特定の立場から生み出されることを強調しました。ストラザーンはまさにその考え方を人類学の方法論として体現したと言えます。彼女自身、「(ハラウェイの)客観性の議論では、客観性とは超越性ではなく、特定の具体的な身体化=具現化であることが判明する」と述べています。つまり、ある視点からのみ世界を見ることができ、その部分的視点を意識的に組み合わせることで初めて多面的な理解が可能になるという立場です。この意味で「部分的な繋がり」は、フェミニズムの知識論が提起した「単一の真理ではなく多数の部分的真理からなる知識像」を、人類学的実践に落とし込んだ理論だと位置づけられます。
ストラザーンがハラウェイから直接受け取ったインスピレーションとして、サイボーグの比喩があります。ハラウェイの有名な「サイボーグ宣言」(1985年)で描かれたサイボーグとは、「自然/文化や女/男といった二元論を乗り越え、生物と機械の境界を融合した存在」です。ストラザーンは『部分的つながり』の中でハラウェイのサイボーグ像に言及し、その「異質なもの同士の繋がり方」に着目しました。ストラザーンによれば、サイボーグにおける有機的部分(生身の身体)と機械的部分(テクノロジー)は、互いを包摂したり支配したりすることなく、互いの可能性を引き出し合う関係にあります。彼女は「サイボーグは、比較可能性=等質性を前提とせずにつながりを作ることができる。 」「もし一方が他方の能力を実現・拡張する関係だとしたら、それは同等でも包摂でもないだろう 」と述べ、サイボーグ的な結合は、共通の性質(同質性)や序列を前提にせずとも成立する特殊な繋がりであると指摘します。ここにストラザーンは「部分的な繋がり」の理想型を見ています。すなわち、異なる要素同士がお互いを部分として認め合いながらも、全体化されず独自性を保つ繋がりです。このサイボーグ的関係は、「二元論を超える具体的な繋がりの在り方」であり、ストラザーンはハラウェイの示したこの方向性に大いに鼓舞されたと述懐しています。実際、ハラウェイの提示した「部分的視点からなる客観性」という理念と、ストラザーンの「部分的な繋がり」は、学問分野は異なれど互いにエコーする概念であり、1980年代以降のフェミニストSTSと人類学を横断する知的対話を象徴しています。
さらに、科学技術社会論(STS)やアクターネットワーク理論 (ANT) においても、ストラザーンの着想は参照されています。ANTの提唱者であるブリュノ・ラトゥールやジョン・ローは、社会を固定的な実体ではなく、人間と非人間(モノ)を含むネットワークとして捉える視点を打ち出しました。この考え方では、社会秩序は行為者(アクター)同士の連関によって常に生成されていくものであり、あたかもすべてが連結した「ネットワーク」によって説明されます。しかし、ストラザーンはラトゥールらのネットワーク概念にも独自の批評的視点を示しています。彼女の論文「ネットワークを切る (Cutting the Network)」(1996)では、あらゆる関係は同時に繋がりであると同時に分断でもあることが論じられました。ネットワークというと無限に連結が広がるイメージですが、ストラザーンは関係を記述する際にはどこかで「カット(切断)」して境界を設けねばならず、その境界設定自体が社会分析の一部になると指摘したのです。この議論は、ANTが強調する普遍的連接性に対し、一種の節度を与えるものでした。むしろストラザーンは、どこを「部分(切り出した単位)」と見なし、それをいかに他と繋げるかという記述行為そのものを可視化しようとしています。その意味で「部分的な繋がり」の方法論は、ANTの思想とも共鳴しつつ一歩進んで、分析者が設定する関係の枠組み(どこでネットワークを区切り、どの部分に焦点を当てるか)を自覚的に取り扱うことを促しているといえます。
理論的源流と影響 (Theoretical Influences and Intellectual Lineage)
前節までで見たように、「部分的な繋がり」は複数の理論的源流から生まれた複合的な概念です。その主たる源流は、メラネシア人類学、フェミニスト知識論、および科学技術研究(STS)ですが、より広く言えば1980年代前後の「ポスト近代的」な知的潮流全般が影響しています。
まずメラネシア人類学については、ストラザーンが参加した1980年代のある重要な論争に触れておく必要があります。それは「〈社会〉という概念は理論的に時代遅れではないか?」という問いです。1989年、イギリス人類学協会の討論で提示されたこの問題に対し、ストラザーンは「社会」という包括概念を用いずにメラネシアの現象を理解する可能性を示唆しました(この討論はTim Ingold編 Key Debates in Anthropology (1996) にまとめられています)。ストラザーンの応答は、自身のメラネシア研究に基づき、「社会を前提としない描写」でどこまで現地の論理に即した説明が可能かを模索するものでした。この試みの中核にあったのが、既述の「可分な人格(dividual)」概念や、贈与・交換を通じた関係性の動態的把握でした。メラネシアでは贈り物のやり取りによって人々は互いの身体や社会的アイデンティティを構成しあうため、個々人や集団の境界が常に揺れ動きます。ストラザーンはそうした文化に触発され、「何が全体を形作るのか」という問い自体を組み替える必要性に気づいたのです。この発見は、人類学理論におけるオントロジー(存在論)への関心とも合流します。21世紀に入り「関係性のオントロジー」や「存在論的転回(ontological turn)」と呼ばれる動きが人類学で注目されますが、ストラザーンの業績はその先駆けの一つに位置づけられます。彼女の弟子筋に当たる人類学者マーティン・ホルブラードやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロらは、異文化の世界観そのものを西洋哲学のカテゴリーを超えて理解しようとする際に、ストラザーンの理論から大きな示唆を受けています。例えばアマゾン先住民の多元的世界観(ヴィヴェイロス・デ・カストロの「多自然・単文化」論など)を論じる上でも、「部分と部分の連関が生み出す単一性」というストラザーンの視点は参考にされています。もっともストラザーン自身は、直接にはメラネシアという特定地域の民族誌から議論を起こしました。しかしその内容は、「社会」「親族」「人間・非人間関係」など、人類学の基礎概念を再考する普遍的意義を持つものでした。そうした点で、メラネシア人類学から普遍理論へと向かったストラザーンの仕事は、批評的かつ創造的な知的伝統に立つものといえます。
次にフェミニスト知識論・科学哲学からの影響です。ストラザーンはしばしば哲学者・科学史家のドナ・ハラウェイや、STS研究者のカレン・バラドらと並び称されます。彼女たちはそれぞれ異なる領域に軸足を置きながらも、「知の客観性とは何か」「部分と全体、主体と客体の区別はどこまで可能か」といった根源的問題を共有していました。ハラウェイからの影響は前述の通りですが、他にもストラザーンはサイエンス・スタディーズの議論を積極的に摂取しています。例えば、ストラザーンは英国で1990年代に活発化した「バーチャル・ソサエティ?」プロジェクト(社会のバーチャル化に関する学際研究)に参加し、そこで「抽象化と脱文脈化:人類学的コメント」(1996年)という講演を行っています。この中で彼女は、新たな情報技術がもたらす社会の変容を論じつつ、人類学者の知識生産もまた「部分的な繋がり」の一形態だと示唆しています。つまり、私たちが捉える「社会」像はつねに理論的抽象(脱文脈化)の所産であり、それ自体ひとつの比喩的接続=部分的繋がりであるという洞察です。このようにストラザーンの思考は、単にメラネシアという一地域の民族誌分析に留まらず、現代社会の諸相(バイオテクノロジーの進展、デジタルネットワークの浸透など)にも応用可能な柔軟性を持っていました。彼女の理論が幅広い領域で援用されているのは、そうした理論的包容力のおかげと言えるでしょう。
ストラザーンの影響関係を語る上でもう一人挙げるなら、人類学者ロイ・ワグナーの名も欠かせません。ワグナーはメラネシア研究者で、文化の概念生成や比喩的思考について独創的な議論を展開しました。彼の著書 Symbols That Stand for Themselves (1986) などでは、メラネシアの人々が世界を理解する際の自己言及的(自己が他者を映し出すような)象徴操作を論じ、文化を単なる与件でなく創造的プロセスと捉え直しています。ストラザーンはワグナーの考えにも触発され、彼の言う「発明としての文化」論を下敷きにしつつ、自身の「部分的な繋がり」理論を磨き上げました。実際、『部分的つながり』ではワグナーをはじめ、先行する多くの思想家(ジェームズ・クリフォード、マイケル・タウシグ、クロード・レヴィ=ストロース等)の知見と対話しながら議論が進みます。これはストラザーンの文章が難解とも評される一因ですが、それだけ当該概念が様々な理論的文脈の交点に立つことを示しています。彼女のテキスト自体が「複数のオーサー(著者たち)との対話や衝突から成り立ち、その断章間に読者自身が繋がりを見出す」という構造になっているとの指摘もあります。このメタな文章構造は、「部分的な繋がり」の思想を体現するレトリックでもあり、ストラザーンの理論が単独で完結した教義ではなく、多声的な思想運動の一部であることを示唆しています。
その後の展開:引用・応用・批判 (Subsequent Developments: Citations, Applications, and Critiques)
「部分的な繋がり」は、その提唱以来、人類学のみならず社会科学や哲学の領域で幅広く引用・参照され、発展的に応用されてきました。その影響の大きさは、アメリカ人類学会の機関誌による書評で「将来の人類学の在り方や、比較の基準をめぐる問題に対して極めて広範な含意を持つ 」と評されたことにも表れています。研究者たちはこの概念を手がかりに、新しい分析枠組みや方法論上の工夫を生み出しましたが、同時にいくつかの批判的検討も行われています。
まず、人類学・社会科学における発展的引用例を挙げます。代表的なのは医療人類学者アネマリー・モルの著作『多としての身体――医療実践における存在論』(原題 The Body Multiple, 2002年)でしょう。モルはオランダの病院における動脈硬化症の治療プロセスを詳細に記述し、一つの身体(患者)が医療現場ではいかに複数の実在(複数の身体像)として現れるかを分析しました。モル自身はストラザーンに直接言及しています。彼女のアプローチは、ストラザーンが提唱した「部分的繋がり」の記述法を具体化したものと評価できます。すなわち、動脈硬化という一つの疾患が、検査技師・外科医・看護師など異なる実践の場ではそれぞれ異なる様態で扱われる様子を部分ごとの視点から丹念に描き出し、それら部分的実在の繋がりとして「身体」を再定義したのです。モルの研究は医学的対象を扱っていますが、その背後には「世界は部分的にしか把握できないが、それら部分を重ね合わせることでより豊かな現実像が得られる」というストラザーン的発想が流れています。実際、モルは著書の結論部で「存在論的政治学」なる概念を提唱し、現実を一元的に捉えるのでなく多元的に扱うことの倫理と政治性について論じていますが、これもストラザーンの問題意識を受け継ぐものです。
人類学の内部でも、ストラザーン以降「部分的な繋がり」に着目した比較研究が登場しました。たとえば、イギリスの人類学者エドゥアルド・カーンやマルティン・ホルブラードは「存在論的転回」という動向の中で各文化の世界観(例えば精霊信仰やシャーマニズム)を記述する際、安易に西洋のカテゴリーへ翻訳するのではなく、その文化内での関係性の網の目をそのまま捉えることを目指しました。彼らはストラザーンの理論を明示的に援用することもあり、特に「関係が先立ち、そこから存在が立ち上がる」という彼女の考え方を重要視しています。さらに応用範囲を広げると、デザイン研究や組織論においても「部分的な繋がり」の概念が参照されています。例えばUX(ユーザー体験)デザインの分野では、サービスや製品が大規模化・複雑化する中で「すべてのユーザー体験を一挙に理解することは不可能」であるため、部分的な知見を積み重ねていく手法が提唱され、その理論的裏付けとしてストラザーンの概念が紹介されています。デザインリサーチャーのトマス・ライトは、「ストラザーンによれば、複雑な社会を研究し記述することから得られる知識は常に不完備である。重要なのは複雑さを十分に簡略化しつつ、関係性の網を損なわずに記述することだ」と述べ、部分的な繋がりの考え方をデザインに活用できると論じています。このように、「部分的な繋がり」は社会調査の実践的指針としても広まりを見せています。
哲学や思想の領域でも、ストラザーンの仕事はしばしば参照されます。フランス現代思想のドゥルーズ=ガタリの哲学(リゾームや器官なき身体の概念など)との共鳴が指摘されることもありますし、イタリア出身の科学哲学者フェデリコ・モンテギアが提唱する「部分的な実在論」といった議論にも影響の痕跡が見られます(モンテギアは直接ストラザーンを論じてはいませんが、彼の複数世界論はストラザーン同様に全体視座を否定します)。また、アメリカの哲学者ケン・マッレイ(Ken Maly)は、比較哲学にストラザーンのアイデアを応用し、西洋哲学と非西洋哲学の対話に「部分的接続」というメタファーを用いることを提案しています。このように哲学的応用例は散発的ではあるものの、ストラザーンの問題提起は「我々は他者の世界を決して完全には理解できないが、それでも部分的理解をつなぎ合わせていく責務がある」という認識論上の示唆として受け取られています。
一方で、「部分的な繋がり」概念にはいくつかの批判や限界指摘もあります。第一に挙げられるのは、その難解さと抽象性です。ストラザーンの文章はしばしば高度にメタファー的で凝縮されており、「非常に独特な文体と思考法のため正確に読解し翻訳することが難しい」とまで評されています。実際、ストラザーンほどの著名人類学者でありながら、日本語への紹介が遅れ翻訳も少なかったのは、この難解さが一因だと言われます (※ストラザーンの主要論考が初めて本格的に邦訳されたのは2015年の『部分的つながり』であり、これは初版刊行から実に24年後のことでした)。理論自体が抽象度の高いものですので、現場の調査にどう適用するか戸惑う研究者も少なくありません。この点について、批評的立場の人類学者は「ストラザーンの議論は優美だが、一般のエスノグラフィー執筆者には再現困難ではないか」と指摘しています。しかしストラザーンは、あくまで自らの著作を一つの思考実験的なモデルとして提示しており、他者に安易にトレースして欲しいとは考えていない節もあります。むしろ彼女の読者には、自身のフィールドに即した新たな「部分的記述」を創出することが期待されていると言えるでしょう。
第二に、「部分的な繋がり」は全体像の放棄につながりかねないという批判があります。つまり、あまりに部分に執着するあまり、大きな構造(例えばグローバルな権力関係や資本主義の制度)を見逃してしまう危険です。この懸念は特にマルクス主義系の社会科学者から示されました。しかしストラザーンは「部分を見ること」が必ずしも「全体を無視すること」ではないと答えています。彼女の目的はむしろ、「全体とは複数の部分が一定の論理で連関した効果に過ぎない」ことを示す点にありました。例えば、「社会構造」という全体も、人々が日々行う部分的な関係行為の集積として理解できますし、「ジェンダー秩序」といったものも具体的場面場面での関係性から構築される現象と見做せます。このように、全体を一度解体して部分の相関から再構成するというアプローチは、全体概念の透明性を逆に高める効果もあります。ただ、依然として批判として残るのは「どの部分に注目するか」という選択の主観性でしょう。部分的な繋がりの分析では、研究者自身がどこで関係のネットワークを区切るかが問われます。その区切り方によって描かれる社会像が変わり得るため、「記述者の恣意性」を完全には排除できません。ストラザーンもこの問題は承知しており、それゆえに上記の「Cutting the Network」で境界設定の恣意性自体を論じたり、民族誌記述のレトリックそのものを暴露するような文体を採用したりしています。しかし読者にとっては難易度が上がるため、この手法に対しては評価が分かれるところです。
第三の論点として、フェミニズム的観点からの批判も少数ながら存在します。ストラザーンはフェミニストでありつつも、ポストモダン的立場から一部のラディカル・フェミニズムを相対化しました。彼女は「フェミニズム自体が人類学にパラダイム転換をもたらすとは限らない」といった趣旨の発言をし 、女性の視点だけでは不十分で、より構造的転換が必要と論じました。これに対し、一部のフェミニストからは「ストラザーンの立場は冷めすぎている」との批評もあったようです。しかしストラザーンの真意は、単なる運動論以上に知的装置としてのフェミニズムを位置づけ直すことで、人類学全体の理論刷新に繋げる点にありました。実際、『部分的つながり』の中でも彼女はフェミニズム人類学の成果を大いに取り入れつつ、それを人類学一般の方法論への問いへと拡張しています。このように若干の摩擦はありつつも、ストラザーンの仕事はフェミニズム理論と人類学理論の架橋として全般には肯定的に受け取られています。
具体的応用事例 (Concrete Application Examples)
「部分的な繋がり」の理論は抽象的で難解と思われがちですが、そのエッセンスは様々なフィールドワークや分析で具体化されています。いくつか代表的な応用事例を挙げてみましょう。
1. メラネシアの儀礼と社会構造の再解釈: まずはストラザーン自身のフィールドであるメラネシアでの応用です。『部分的つながり』では、メラネシアのイニシエーション儀礼(通過儀礼)やカヌー建造、聖なる笛の管理、男の集会所(クラブハウス)、仮面、編み袋ビルム、樹木信仰、ヤム芋畑の栽培といった多彩な事例が論じられています。一見バラバラに見えるこれらのトピックは、メラネシア社会における「関係性の編成法則」を示すものとして関連付けられています。ストラザーンは各事例において、人と物、文化と自然の境界がいかに揺らぎ、部分が部分として他と連関しているかを描写しました。例えば、パプアニューギニア・ハイランドのフツラ人の男性の集会所は、あるとき二つに分裂すると、それぞれが完全な集会所(全体)として機能するという報告があります。このように**「一つのものが分かれても各部分が全体として振る舞う」現象は、フラクタル的社会性の典型です。ストラザーンはこのエピソードを引用しつつ、メラネシアでは部分間の関係が状況に応じて全体性をも帯びることを示しました。また、贈与交換のネットワークも部分的繋がりの宝庫です。ある村から別の村への贈り物(ヤム芋やブタ)が巡り巡って戻ってくる循環は、一見閉じた全体のようですが、実際には常に新たな参加者や媒介物を取り込みつつ更新されます。このようにストラザーンは、メラネシアの社会現象一つひとつを「部分的つながるネットワーク」として再解釈し、西洋人類学が当たり前としてきた対立(二元論)に揺さぶりをかけました。その結果描き出されたのは、「メラネシアの『社会性』とハラウェイが描くサイボーグに満ちた世界とが部分的につながりあう地平」であり、人間/物・自然/文化といった境界を越境する鮮やかな社会像でした。
2. 医療現場におけるマルチスケールな身体: 前述したアネマリー・モルの研究は、ストラザーン理論の応用例として特に有名です。モルは病院という一つの組織内で、医師・看護師・患者それぞれが異なる実践と言説を通じて「病態」を構築していることを示しました。X線写真の中の動脈硬化斑、手術室で触知される血管の硬さ、病理検査の数値、といった具合に、「動脈硬化」という一つの病気が様々な部分的現れを持つことを描いたのです。そして重要な点は、これら異なる部分的現実(multiple realities)が互いに全体として統合されることなく、それでも実用上矛盾せず共存しているという事実でした。モルはストラザーンを引用しつつ、「身体は常に複数であり、その多様な部分は完全には統合されないまま医療行為に投入されている」と論じました。これは部分的な繋がりの一つの応用であり、「医療人類学における部分的実在論」とも言えるアプローチです。モルの仕事以降、科学技術社会論では「単数ではなく複数としてのオブジェクト(対象)」という考えが広まり、たとえば一つのテクノロジー(スマートフォンなど)もそれを取り巻く利用文脈ごとに異なる存在として記述する試みがなされています。これらは発想の源を辿ればストラザーンの理論に行きつくものです。
3. 組織論・経営学への示唆: 社会学や経営学の分野でもストラザーンの概念は顔を出します。たとえば組織論では、すべての成員が共通の目的に向かう一枚岩の組織像は実態を捉え損ねるとの認識から、「部分的組織化(partial organization)」という概念が提唱されています。これは必ずしもストラザーン自身の用語ではありませんが、組織が完全には秩序化されず部分的・断片的な繋がりで動いているという発想は、彼女の理論と相通じます。経営学者のニルス・ブルンソンらは、企業やNPOなどの実際の組織運営を見ると、正式なヒエラルキーや規則だけでは説明できない非公式なネットワークや部分的構造が機能していると指摘し、それを理解するのに部分的繋がりの視点が有用だと述べています。このように、ストラザーン由来のアイデアは組織現象の複雑さを捉えるためにも応用されています。
4. デザインと社会調査: 前述のUXデザインの例 にも見るように、社会調査一般に「部分的な繋がり」思考を取り入れるケースが増えています。質的調査では、調査者が得られる知見は常に限られており、全体像を得ることはできません。しかし部分的な知見(例えばインタビューで聞いた断片的な物語や、観察した一場面)同士を「繋げていく」ことで、ある程度のパターンや構造が浮かび上がります。ストラザーンの理論はこの調査の認識論的限界を謙虚に認めつつ、「スケールの異なる部分的知見を接続していく」**という作業を正当化してくれます。デザイン分野では、ユーザーリサーチを行う際に、多様なユーザーグループや使用文脈をすべて網羅することはできないため、限られた調査から得た洞察をいかに総合するかが課題です。そこでストラザーンの言う「常に不完備な知識」概念を引用し、部分的でも厳密なエビデンスに基づいてデザイン判断を下すことの重要性が説かれています。この事例は学術研究ではなく実践の場ですが、「部分的な繋がり」の思想が現実問題の解決にも資することを示しています。
以上のように、「部分的な繋がり」はフィールドワークやケーススタディを通じて様々に実践・具体化され、その有効性を示してきました。ストラザーン自身も、「社会記述の方法として、部分と部分の配置を書くことが重要であり、それによって初めて『その部分を部分たらしめている社会』が見えてくる」と述べています。例えば上記のいずれの事例でも、個々の部分(儀礼の断片、診療行為、組織内の非公式ネットワーク、ユーザー体験の断片)を丁寧に描写し、それらの配置関係を記述することによって、従来とは異なる全体像(社会像)が浮かび上がっています。この手法は、一見すると全体を記述しているように思われますが、本質的には部分の繋がりそのものを書いている点に特徴があります。まさにストラザーンが意図した「部分を書け」という実践が、さまざまな場で実現されつつあるといえるでしょう。
結論 (Conclusion)
マリリン・ストラザーンの提唱した「部分的な繋がり(partial connections)」は、人類学理論に新風を吹き込んだ概念であり、近代西洋的な全体観・普遍観を批判的に乗り越えようとする知的営為でした。メラネシアの民族誌から生まれたこの発想は、個人や社会を固定的・自明の単位とせず、関係性のネットワークとして世界を捉える大胆な試みでした。ストラザーンは自らの著作を通じ、「確実性それ自体が部分的にしか現れず、情報は断続的であり、答えは常に新たな問いとなり、繋がりは同時に隔たりであり、類似は差異でもある」という逆説的な世界観を示しました。この世界観は、フェミニズムの部分的視座やSTSのアクターネットワーク論と響き合い、1980年代以降の社会理論全般に深い影響を及ぼしました。
「部分的な繋がり」は、人類学内部では比較手法の再検討やオントロジー論争に刺激を与え 、メラネシア人類学のみならず様々な地域研究・主題研究で応用されています。またフェミニズム人類学の文脈では、文化固有の論理を抉り出す道具立てとして評価され、科学技術論の文脈では複雑系の一部を捉える方法論として引用されています。学際的にも、医療現場の分析や組織研究、デザイン思考まで、この概念が援用されていることは先に述べた通りです。ストラザーン自身は、自らの議論が「部分的」であることを自覚しつつ、それでもなお読者に新たな視点の転換を促すものとして位置づけました。事実、彼女の理論は多くの研究者にとって思考を揺さぶる刺激となり、新たな知的探究を誘発しています。
もっとも、「部分的な繋がり」は決して完成された理論というより、不断に読み直され更新されるべき問いでもあります。その難解さゆえに批判も招きましたが、それは同時に本概念が扱う問題の難しさ(全体と部分、理解と誤解の問題)を反映しているとも言えるでしょう。ストラザーンの仕事が示したのは、「我々の知り得ることは常に部分的である」という認識論上の制約と、それを踏まえて「部分と部分を繋ぐ語り」を追求せよという方法論上の提案でした。この提案は、人類学のみならず現代の知的挑戦に対し今なお有効性を持っています。グローバル化した世界で多様な文化や知識体系が交錯する今日、あるいはビッグデータや巨大システムの前に個人の経験が埋没しそうな今日だからこそ、ストラザーンの提起した「部分的な繋がり」の視点が再び重要になっていると言えるかもしれません。実際、近年の研究でも彼女の文献が再読され、新たな文脈で引用が増えていることが報告されています。それは、「部分的な繋がり」という概念が時代を超えて普遍的な問題意識――我々はいかに他者や社会を理解しうるのか?――に応答し続けている証左でしょう。
総括すれば、「部分的な繋がり」は人類学的思考を革新し、多くの議論を巻き起こしつつ発展してきた生きた理論です。それは単なる学術用語ではなく、異なるもの同士を安易に一元化せず、その差異を保ったまま関係づけていくという姿勢を象徴しています。ストラザーンの示したこの姿勢は、今後も社会科学や人文科学のさまざまな場面で参照され、新たな洞察を生む源泉となることでしょう。「部分的な繋がり」という言葉自体が、彼女の思想を体現する一種のメタファーであり、それを解き明かす作業はまだ部分的にしか成し遂げられていないのかもしれません。私たちは引き続き、この概念と「部分的に繋がり」ながら、人間社会の理解に向けた探究を深めていく必要があるのです。
参考文献(References):
• Strathern, Marilyn. Partial Connections. 1991 (Updated Edition 2004). (=大杉高司ほか訳『部分的つながり』水声社、2015年)
• Strathern, Marilyn. The Gender of the Gift: Problems with Women and Problems with Society in Melanesia. 1988. (邦訳なし)
• モル,アネマリー『多としての身体――医療実践における存在論』村上慧訳,青土社,2016年. (Annemarie Mol, The Body Multiple, 2002).
• 橋爪太作「社会を持たない人々のなかで社会科学をする――マリリン・ストラザーン『部分的つながり』をめぐって」『相関社会科学』26号, 2017年, 79-85頁 .
• Haraway, Donna. “A Cyborg Manifesto: Science, Technology, and Socialist-Feminism in the Late 20th Century.” 1985 (『サイボーグ宣言』高橋さきの訳、河出書房新社、2018年).
• Latour, Bruno. Reassembling the Social: An Introduction to Actor-Network-Theory. 2005. (ラトゥール『社会的なものを組み直す――アクターネットワーク理論入門』京藤好男訳, 法政大学出版局, 2008年).
• その他本文中で参照した論文・資料 等。