教育とは教えないこと
教室も同じです。「授業は体育だ」と言っておりますけれども、体育の授業はおよそ身体全部使います。普通の体育の授業は身体全部使う。では教室ではどうか。まさか走り回るわけにはいかない。だけど一番鍛えるべきはこの脳みそです。脳みそは我々の身体の一部です。学生の身体の一部です。だからどんどんこれを使って、エクササイズをする。脳みそのエクササイズです。手を動かします。手は身体から出た脳である。それから、口を動かします。しゃべる。目を動かします。こういった身体のどこかしらの部分を使って、実際に学生達がエクササイズをしていく時間にしたいんです。この授業を。
さあ、そのために、どんなことができるか。それが我々教員の工夫です。本日のトピックの最初に「学ぶとは、教えるとは」と書きました。いま「学ぶ」についてはお話しましたけれども、次に「教える」というのはどういうことか。究極的には、教えないことなんです。教えない。究極的には、教育とは教えないことだと思っています。
実際私のゼミはそうです。ゼミというのは10人から20人くらいの学生達が「ああでもない、こうでもない」って、1つのトピックについて議論し合う場です。私はほとんど口出さない。正確に言うと、口を出す暇がない。学生たちが彼らだけで本当に真剣に議論してますから私が出る必要がない。議論がある程度進んだとき、膠着して学生達でどうしようもなくなったら、学生たちは「shioの意見聞いてみようか」となる。学生たちから私は「shio」と呼ばれるんですけれども、「shioの意見」をきかれます。そのとき例えば、一連の議論の冒頭部分に関して「ところでこの事案って、債務不履行したのどっち?」と問う。学生達はAさんが債務不履行したものだとして議論をずーっと展開してきて、最後のところで結論までたどり着けずに膠着してしまった。よくよく考えてみたらば、実は「債務不履行していたのは、Bさんの方なんじゃないの?」っていうことに気付く。振り出しに戻るわけです。
もし私が最初から「これ、Bが債務不履行していますね?その後、どうなる?」と教えてしまったら、Aが債務不履行をしたとの想定の下になされた議論は一切行われないです。学生達はBが債務不履行をしたという答えを知って、その先の議論します。そうすると、もしAの行為が債務不履行であったならば、という仮定で思考を展開する機会は無い。そういう議論がゼミで実際になされたということは、おおかたの学生は自分では「Aが債務不履行をしたんだろうな」という方向で事案を読んで考えたわけですが、そこに誤謬があるということに、気付く機会すら私が奪ってしまう、教員が奪ってしまうことになる。
もちろんAが債務不履行をしたという立論の可能性はあるんです。だけど、その方向で検討したら最後に行き詰ったので、考え直してみたら債務不履行したのはBの方かもしれない、と。学生達がそうやって自分で議論をしてすべて自分たちでロジックを組み立てて行ったんだけども最後で上手くいかない、という経験をして初めて学ぶんです。要するに、自転車に乗ってコケたわけですね。じゃあもう一回別の過程でロジックを立ててみようということになる。こんどはBが債務不履行をしたという想定で考えてみよう、とトライする。そうすると上手くつじつまが合って、法律構成、ロジックを組み立てることができた。こういう展開の過程で、学生達は「学ぶ」のです。ほんの一例ですがこれがゼミです。
ゼミでは、したがって私はほとんど教えません。今の話でも、議論が膠着した後に私は、「債務不履行したのBでしょ?」とは言ってないのですね。言わない。冒頭から考え直すきっかけだけを与えるのです。その際、水の向け方はいろいろあります。「ちゃんと契約関係を図に描いてみた?」と言ってみると、描いていないんです。で、学生達は描いてみる。体育です。その図を描いてみると、どうやらAとBとの関係において、どちらにどういう債権が発生して、どちらにどういう債務が発生するか、明らかに見えてくる。おのずと「あれ?債務不履行したのって、Aじゃなくて、Bなんじゃないの?」と自分達で気付けるわけです。
人から教わったことなんて、明日忘れます。だけど、自分で考えて、自分で導き出した答えであれば、忘れにくい。仮に忘れてももう一回自分で考えて、そのアイデアを出すことができるはずです。それだけの自信がつくわけです。
ですから、究極的には私は教育とは教えないことだと思うのです。いかに教えずに気付いてもらって、彼らが知的に向上したなと実感できる機会を提供するか。こちらのヒントの出し方次第なので、非常に知的に面白い。