「講義」と「授業」の相違
私が大学生の時、講義中に学生がしゃべる機会はほとんどありませんでした。演習は別ですが、講義では先生がずっとしゃべっている。そこでは学生は知識の受信に終始します。知った楽しみはあるけれども、それ以上のことはない。
法律の授業は特にそうです。法律の授業、法律はつまらない、とよく言われます。「条文はこう書いています」、「判例はこう言っています」、「こういう学説があります」という情報の提供に終始するのが世の中で一般的な法学部の法律関係の講義ですから、当たり前です。
だけど私の願いは違います。学生たちが世の中に出たらどうするか。法律というルールを自分で使って、たとえば取引先と契約を締結します。契約のルールは民法に体系的に書いてあります。基本的なルールは、民法の第3編債権の第2章契約という所に書いてあるんです。それをルールとして実際に使えるようになって世の中に出て欲しいのです。知識では意味がないのです。使えるようになって欲しいのです。
しかし大学の講義でやっているのは、知識の提供がほとんど。
例を出しましょう。自転車、たぶんおおかたのみなさんは乗れますよね。どうやって自転車に乗れるようになりましたか。はるか昔のことかもしれませんが、自転車に自分が乗れるようになった時、はたして、講義を何時間受けましたか。受けないですね。自転車の乗り方マニュアル300ページ、読んだか。黄色いマーカーとか引いてね、熟読したか。受験だとチェックペンといって、塗ってシートをかけると見えなくなるものがあり、それを使って暗記をする。
自転車に乗れるようになった時、マニュアルの暗記とかそんなことやりませんでした。自転車の乗り方の授業を何時間受けようが、一向に自転車乗れるようにならないし、マニュアルを何ページ、何時間かけて読もうが、自転車に乗れるようにはなりません。
どうするかというと、実際に自転車に乗って、コケる。乗って転んで、乗って転んで、を繰り返すしかないんですね。でも学生たちはコケたくない。一番若くても18歳ですけれども、もう、コケるのが嫌なんです。失敗したくない。恥ずかしい。ですから、乗ってコケてという試行錯誤をしたくないのです。授業の中で、自分で考えて、自分で出した解を発言して、それが答えとしてはズレていたり間違っていたりすると堪え難いわけです。
そういう学生たちがいかにして授業の過程で、自転車が乗れるようになるときと同じようなプロセスを経て、法律を使い、ルールを使って、何か新たな価値を創造していくためのスキルを身に付けることができるか。これこそ我々教員が工夫すべき一番重要な課題であり、それを実践するのが教室で行なう授業であります。
「授業」というのは「業」を「授」けるものです。「講義」は「義」を「講ずる」ものですから、先ほど言ったように、こうやって高みから義を講ずればいい。偉そうに。一方的に。義を講ずればいいから、講義は教員が滔々と語る。これでいいわけです。
しかし私は大学であっても、講義ではなくて、授業をしたい。授業は「業」を「授」けるわけです。授ける主語は確かに教員ですが、授かるのは学生であって、学生たち自身が「業」を身につける。授かるためには、自分で業を実践してみるしかないわけです。教室がそういう場であって欲しい。この教壇の上で「講義」するのは偉そうで大嫌いだから、私はいつも学生と同じ床に降りて「授業」します。