法学教育におけるトレイニング型授業の実践とICT活用の手法
A Method of Training Class Utilizing IT Tools in Legal Education
塩澤一洋, Kazuhiro Shiozawa
成蹊法学第81号 pp.169-194
2014年12月19日発行
成蹊大学法学会
多年にわたって行われてきた法律学の「講義」は、はたして現代の社会的ニーズにマッチしているだろうか。学問たる法学、法律学の研究成果を学生たちに伝える場としての意義が大学の「講義」にあることは論を待たない。一方で法学、法律学の成果を多くの人が必要とする社会となり、より広範な人々が法学教育を求める今日、多様な背景を有する人々が法的素養を身につけるための修練の場として大学・大学院が存在することもまた現実である。むしろ、大学・大学院は率先してそのような場と機会を提供する社会的責任があるといってもいい。
2004年に法科大学院(ロースクール)が開学し、新しい法曹養成システムが稼働してから10年。新司法試験合格者数が減少〈注1〉する一方、当初開学した74校中20を超える法科大学院が募集停止に至っている〈注2〉。法科大学院の修了を経ずに予備試験に合格したうえで司法試験を受験した者の合格率が最も高い〈注3〉ことにも、システムの歪みが現れているといえよう。法科大学院での教育が問われているのである。法学「講義」の在り方を見直す必要があるかもしれない。
教室は誰が何を行う場なのか。教室で行われる「授業」の目的は何か。
体育の「授業」を考えてみよう。体育館なりグラウンドなりで体育の授業を実施する際、教員と学生とはどのような関係だろうか。教員だけがエクササイズを続け、学生たちは終始見学をする、という様子はどう考えても滑稽である。あくまでもエクササイズする主体は学生であり、教員はその指導をする。アクティヴィティの方法を説明し、手本を見せ、実際に活動する内容を指示し、学生たちが訓練する時間を確保し、学生たちの活動を観察し、アドヴァイスし、改善を促す。そしてまた次のステップに進んで、同様の手順を踏んで学生たちの活動を促していく。
そのような体育の「授業」において、教員はコーチである。ときには理論を説明するとしても、基本的には学生たちの実践を後押しする。コーチたる教員が体を動かしたり説明したりする時間は最小限にして、学生たちが活動している時間を最大化することが大切。学生たち自身が、自らの肉体を使って訓練を繰り返すことにより、目的とするスキルに習熟していくプロセスこそが「授業」の本筋である。
体育以外の「授業」もその本旨はまったく共通であるはずだ。学生自身が自ら活動し、習熟することを通して成長する場である。目、耳、口、手、そして頭脳は学生たちの肉体の一部なのだ。学生たち自身が身体を実際に使って、思考し、手で書き、挙手し、発言し、他の学生の意見に耳を傾け、賛意を表明し、議論し......という過程で何らかのスキルを身に付けていく場が教室であり、それをコーチたる教員がアシストしながら促していくプロセスが「授業」である。
かように「授業」とは、「業」を「授」ける営為だ。授けるのは教員で授かるのは学生である。業を授かるためには、授業に参加する学生たち自身が「業」を実践的に行う必要がある。その場合、「教える」ことを重視し過ぎて教員が情報伝達する時間が長く、学生たちが自ら訓練する機会が少ないと、(教員が)授けても(学生が)授かることの少ない授業となってしまう。
一方、「講義」では教員が「義」を「講」ずる。講ずるのは教員であって、学生はその講義を受動的に受け止めることになる。学生たちが情報を受信する積極的な意欲がある場合には、教員から伝えられる情報を吸収する。しかしそれを使って学生たちが思考するといった能動的訓練の機会はほとんどない。もし学生が受動的であった場合、教員が淡々と義を講じ続けるだけの時間となる。与えられる情報を学生が吸収する割合は少なかろうし、業を授かることはない。スキルが身に付くこともない。
昔の大学はそれでもよかったのかもしれない。講義によって教員が学問的成果を披瀝するのが大学であり、講義は教員から伝えられる最新の情報を学生たちが摂取する貴重な時間であった。講義で得た情報に基づいて講義以外の場で学生同士が議論をしたり、別の書物で講義で聞いたのとは異なる主張に触れたりして、また自らの見解を構築していく、という能動的な意識を持っていたとすれば、講義はその端緒となれれば十分にその役割を全うしたのである。最先端の研究をしている教員からその内容を大学の講義で直接伝達される機会自体が貴重だったからだ。学問的な情報を得る手段が書物と講義しかなかった時代には、大学の講義で得られる情報は貴重かつ希少であり、その価値は非常に高かったのである。
しかし時代は下って21世紀。情報伝達の方法は多様化し、その速度は加速している。多くの情報がWebを使って伝えられるようになり、市民がアクセス可能な情報量が爆発的に増えるとともに、情報の伝達速度が上がり、即時性が増した。講義の相対的価値は低下の一途である。
なかでも長時間の動画をWeb経由で視聴できる環境が整った現在、「講義」にはもはや従来のような希少性はない。教員があらかじめ「講義」を録画して、Web、あるいは学生限定でアクセス可能なクラウドなどで配信すればいい。現代において従来のような情報伝達型の「講義」をするなら、なにも教室に集う必要はないのだ。教員は随意の時間に「講義」動画を録画し、何度でも撮り直したり、編集することができる。学生たちはそれを自由な時間に視聴し、繰り返し観たり、途中で止めて思考したり、資料を参照することもできる。
実際、世界中の多くの著名な大学が〈注4〉、その大学で実際に行われている講義をWebで無料配信している。「iTunesU」〈注5〉がその好例であるが、日本国内でもすでに複数の大学が講義のWeb公開を行っている〈注6〉。
したがって、そのような環境が整った21世紀においては、もはや情報伝達目的の「講義」を教室で行う意義は小さい。「講義」のために教員自身と多くの学生の時間を同時に拘束し、教室という閉塞空間で教員から発せられる情報を学生たちが記録する、という形態は、存在意義を失いつつあるのだ。
もちろん、Webやクラウドで提供できることを、教室でやってもいい。Webでもできるが教室で直接リアルに行う、ということ自体には依然として「ライブ」という価値がある。教室における情報提供はその直接性という点において重要な意味を持つ。
しかし、Webやクラウドでは実現しにくく、教室でこそ実現できる固有の手法があるなら、それを実践することの価値は高いはずである。教室という場所に、教員と多くの学生とが時間と空間を共有することによってのみ生み出されうる付加価値とは何か。どうやったらその付加価値を生み出し、膨らますことができるか。教員はそれを追求していくべきではないか。
Webやクラウドを介してではなく、教室でこそ実現できる授業とはどのようなものか。教室は、学生(参加者)自身が能動的に活動し、法律の意義と使い方を自ら実践して体得する場であり、教室の運営をする教員は法律情報の提供者ではなく、学生たちの学問的素養の修得活動を支援するコーチであるという位置づけをするところに、その解があると筆者は考える。教室の主人公は学生たちである、との根本的視座に立って、「講義」ではなく「授業」を運営するのだ。
それを象徴するのが「授業は体育である」という基本姿勢である。体育のように学生たちが能動的に授業に参加するためにはどのような工夫が可能か。本稿は、特に法学というすぐれて伝統的な学問分野において、それがどの程度可能か、という実践の研究を記すものである。
本稿は、そのような視点に立ち、ともすると情報提供に専念しがちな教員と受け身になりがちな学生たちとの間で行われてきた従来の教室の「講義」から主客を転換し、学生たちが主体的に活動して教員がそれを促進する、という「授業」のあり方を、法学教育において実現する方法について論じる。筆者は十数年にわたって、そのような方法を研究、実験、実践してきた。特に2011年以降、ITの使い方に本質的な転換が起きたことで、ようやく筆者の理想とする授業形態を実現するに至っているため、本稿で、その現状と成果を論じたい。
ただし、ITの利用は本質ではないという認識は重要である。近年、ITを使って授業を「改善」する、といった提言がなされる〈注7〉が、ITを使ったからといって必ずしもそれが直接授業の改善につながるわけではない。ITはあくまでもツールであって、それを使う教員、そして学生たちの意識と行動の変革が本質である。
法学の授業のあり方を考える前提として、長年行われてきた形式を類型化してみよう。
もっともオーソドックスな講義形態である。教員が教壇に立ち、一方的に話す。学生たちはノートを取る。学生たちが声を出す機会は皆無である。
学生たちが講義に対する意識レベルを保ち、それを間断なくノートに書き続けることには、重要な効用がある。耳から聞いた内容を、理解できる場合も理解できない場合も、自分の力で文字、文章として記述するという能動的な作業を続けるからである。
他方、講義内容を記した「講義ノート」を教員が用意し、それに基づいて語るか、中にはそれを読み上げる形で講義する教員もいる。その場合、教員が口語的表現で話しかける場合よりも文章表現に近い言語で語られるため、学生たちにとってはより難解となる。学生たちは90分〜180分に及ぶ講義の間、提供される情報に集中力を傾注し続ける必要がある。
口頭で行う(1)の「講義」に加えて、「レジュメ」と称する書面を講義の冒頭で教員が学生に配布する形態である。そのレジュメは、講義の概要あるいはトピックを数点から10ポイントほど列挙したA4判1枚のものから、A3判数ページにわたって詳細に記述してあるものまで、さまざまである。
トピックが書かれたレジュメを手元に置いて講義を聞くと学生たちは、その日の講義全体を見渡すことができる。いま進行している講義が全体の中のどのあたりかを常時把握できるし、その後の展開も予測できる。理解の助けになるし、安心感があるだろう。
一方、講義内容を詳細に記述したレジュメはどのような効果があるだろうか。教員によっては、講義の内容がほぼそのままレジュメに記述されていて、なかばレジュメを読み上げるに近い講義も行われている。学生たちからは「レジュメをもらうと安心する」という声が聞かれる。当然、学生たちは講義内容を自分でノートに記述することは少ない。講義の冒頭でレジュメだけ受け取って退室する学生もいるし、講義に出席せずに後からレジュメのコピーを受け取る学生もいる。学生の自律的能動的習熟の観点からは、詳細なレジュメの配付は有益とは言えないだろう。
レジュメ提供講義型の派生型として、配付されるレジュメの要所が空欄になっており、講義中に学生がその空欄を埋めていく形式である。(2)の欠点を補う効果があるものと考えられる。
ロースクールの船出に伴って導入を要請された授業手法である。実際には、米国ロースクールの「ケース・メソッド」の導入であり、そのケース・メソッドで授業を実施するに当たり、教員が学生たちに対して質問をし、学生が答えることを繰り返す方式である。
学生の発言が促されるため、(1)〜(3)の各講義形式とは異なり、学生側の積極的な参加が要請される。判例に関してあらかじめ学生が予習をし、その内容や評価について教員が問いを発し、学生が答える形式である。
しかし、着席している学生を席順に教員が指名していく方法がとられると、発言したくない学生が発言を強要されることになるし、当てられても学生が答えられなかったり、当を得ていない発言をしてしまって恥ずかしい思いをすることになる〈注8〉。そのような経験が繰り返されると学生たちは萎縮し、その授業に出席する動機が減殺されることになる。自分が当たる問題だけを考えて、自分の順番が回ってきて解答を終えると安心し、それ以外に意識が向かないという問題も生ずる。
このような従来型の「講義」の問題点をまとめておこう。
まず第1に、情報提供に偏りがちな点である。情報提供はWebなど授業以外で行うこともできるから、学生の能動的な活動を促すなど、学生の積極的な理解に資する時間を設けることが少ない点が問題である。
第2に、その反射として、学生たちのスキルを養う時間が確保されにくい点である。学生たちが発言したり、論述したり、それを互いに評価しあったり、という知的な活動がなされる時間が少なく、学生の好奇心を刺激したりモチベイションを維持するのが難しい。
第3に、「講義」を続けている限り教員は、学生たちがどの程度理解し、何を理解しておらず、何ができ、使えるようになり、何がまだできないか、といったことを検証できない。学生の現時点での水準を把握して、それに適した授業の内容を提供するということを行いにくい。たとえば条文を読む能力がどの程度身に付いているのかいないのか、それを事実に適用する能力はどうか、条文を読んでそれに該当する事実を上げることができるか否か、できないとするとどこで躓いているのか、といったことは、講義だけをしている限り、把握できない。それでいて期末にいきなり論述試験を行うというのは、学生たちの理解の進捗から乖離している危険性をはらんでいる。
教員が情報伝達する従来の「講義」ではなく、学生たちが主体的に参加できる「授業」を運営するためにはどのような方法をとればいいか。第1章で述べた通り、「授業は体育」であり、「教室は学生たちのトレイニングの場」であると考えると、行うべきことが明らかになる。すなわち、授業の主人公は教員でなく学生たちであり、授業とは学生たちが主体的、能動的に自らの肉体の一部である頭脳や身体を使って、それを鍛え、思考する時間と捉えるのだ。教員は、そのような学生たちの活動が可能な限り充実したものとなるように工夫をし、思考や作業の素材を提供する。
教室で学生たちは事務を行うのではない。教室はジムなのだ。
まず最初に、すべての科目において、シラバスと第1回の授業の冒頭でそのような趣旨を伝えて授業運営に学生たちの理解を得、主体的な参加を促す。学生たちの意識を変革するにはこのオリエンテイションが極めて重要である。
その際、「出席をカウントしない」ことを以下の理由とともに明言する。出席をカウントすることは欠席をカウントするのと同じだからである。体育の授業で、出席だけして、授業中のアクティヴィティを一切行わない、ということは考えられない。すべての活動に実質的に「参加」することが必須である。
教室でも同じである。すなわち、学生が発言などの形で積極的に参加をし、他の学生との間で相互に影響を与えあうことによって初めてクラスへの貢献をしたことになる。出席しただけで何も活動をしなければ、クラスというコミュニティーへの貢献はゼロであり、それは欠席者とほぼ同等の無貢献状態である。
たとえばサッカーの授業であれば、一人でリフティングの練習をする時間もあるし、二人組、三人組でパスの練習をする時間もある。小さなコートの小編成で練習試合もある。同様に教室でも学生たちが諸種のトレイニングをするが、学生一人一人の活動が周囲の学生に対してポジティブな影響を与えるようにすることが大切だ。そのためにはまず学生たちが単に
「出席」して受動的に「講義を受ける」態度から脱し、能動的に発信し、周囲に働き掛ける意志を持つよう指導することが大切である。
そのために、単なる出席をカウントするのではなく、挙手による自発的「発言」をカウントするのである。発言をカウントすると宣言することによって、学生たちの意識は転換する。出席しただけでは評価されず、発言して初めて評価されるとわかれば、なんとか発言しようという気持ちが芽生えるのだ。それがトレイニング型授業の出発点である。
各回の授業は、まず教室で教員・学生の準備が整ったところで、教員は「では始めましょう」と言ってから黙る。その時点ではまだ学生たちが互いに会話をしている状態だから、授業には入れない。教員が前に立って「始めましょう」と言ったまま、学生たちをニコニコと見回しながら黙っていれば、そのうちに学生たちが気付く。授業が始まるから黙って教員の方に注意を向けよう、という気持ちになるのだ。
教室内が静寂に包まれたら、授業に学生たちが参加できる体制が整った証拠。「こんにちは」と頭を下げて、授業を開始する。一旦、静寂を得ておけば、以後、私語など一切ない。もし授業内容と無関係に話し始める学生がいても、目立つので、周囲の学生から顰蹙を買う。それでも話している場合は、教員が語るのをやめ、黙って当該学生の方を注視していればいい。「静かに」などと口頭で注意をする必要はまったくない。
発言がカウントされ、評価されることの意味を学生たちが理解したら、教員は発言を引き出すように授業を運営する。educationのeduceとは「引き出す」ことである。学生たちが持っているポテンシャルをいかにして引き出すか。教員の働きかけによってうまく引き出せれば、それがeducationである。したがって教員からさまざまな問いかけをすることが授業における本質的な要素なのだ。
そこで教員は授業の進捗に合わせて、さまざまな方向から学生たちに問いかける。ここで重要なことは、予習を前提としないことである。予習を前提として問いかけると、予習していない学生は萎縮する。予習圧力が強いと、予習してこなかったという理由で授業に参加すること自体を躊躇するようになる。それでは本末転倒である。できるだけ学生たちが授業に足を運びたい、参加したい、発言したい、と思うような仕掛けを重層的に用意することが必要だ。したがって予習していないことを前提として問いかけることが肝要である。もし予習している学生がいたら後述のように褒めれば良い。
問いかけに対して学生たちは挙手する。その際、教員の方から学生に一方的に当てて発言を求めることは決してしないことを明確なルールとするのが重要である。教員が学生を当てて発言を求めるのは、自ら発言する意志を持って挙手をしている学生のみにするのだ。挙手していない学生は発言したいと思っておらず、そのような学生に発言を求めても恥をかかせるだけである。それはトレイニング型授業の本旨ではない。あくまでも発言したいという意向を表明している学生のみが発言するように進めることで、すべての学生が安心して授業に参加することができ、教室内の雰囲気も落ち着いて、すべての学生が授業を楽しむことができる。
問いかけには3つの段階がある。第1にもっとも原始的な二者択一の問いである。「Aは第三者に該当すると思うか」のように、「はい」と「いいえ」、「そう思う」と「そう思わない」、「賛同する」と「賛同できない」といった形で答えられる問いだ。その場合、全員に対して問いかけ、どちらかに挙手してもらう。言語表現を必要としないから、学生たちは容易に挙手ができ、ほとんどの学生の参加感を醸成することができる。同時に、どちらかに挙手することが必要だから、必然的に思考することになる。勘でも良い。どちらかに挙手する、という能動的な行動を起こしたことに意味がある。また、周囲の多くの学生が挙手をしている中で自分も挙手するから、不安感も小さく、付和雷同の学生も比較的安心して参加することができる。
第2に選択肢のある問いである。「第三者はAか、Bか、Cか」というように、選択肢があって、いずれかに挙手することで回答する形式の問いである。この場合、選択肢は4つあり、「Aと考える」、「Bと考える」、「Cと考える」、「AもBもCも第三者ではない」という4つの選択肢を提示して、学生に挙手してもらう。またAもBも第三者であると考える学生の場合は、2回挙手することになる。
この問いも、言語表現を求められないから、比較的容易に回答できる。とはいえ、二者択一より数段難しい。
重要なことは、第1の問い方でも第2の問い方でも、挙手をしてもらった後に、その理由を問うことである。ほぼすべての学生が挙手したあとであるが、その理由を述べることができる学生は数少ない。しかし、一旦、二択あるいは複数択から選んで挙手する段階を経ることで、理由付けが明確になってくる学生も少なからずいる。したがって「理由を述べられる人、いますか?」と問いかけることで、自分が挙手した選択肢を選んだ理由や根拠を述べられる学生が現れるのだ。一人が理由を述べると、それとは異なる意見を持った学生が発言したくなるものである。そうなれば次々と複数の見解が出てくる。教員と複数の学生が時間と空間を共有して、ともに授業に貢献しあう効用である。
第3にオープンクエスチョン。自由に見解を述べる形式の問いかけである。内容によっては相当高度であるから、問いかけても発言がひとつも出ない場合も往々にしてある。その時は、選択肢式の問いに変更することで、学生たちの参加感を保つ。またこの形式の問いであってもたとえば「著作権と聞いてイメージするものといえば?」といった問いだと、簡単に数十の解が出てくる。学生たちの興味関心にしたがって問い方を工夫すれば、発言を促すのは難しくない。むしろ、問いかけても発言が出ない場合は、問い方が悪かったと割り切って、別の問いを繰り出すのが良策である。
活発に発言して欲しいと願うのであれば、学生の発言を聞いたときの教員の反応が極めて重要である。教員の反応がその後の全学生の発言を左右するのだ。大切なことは、どんな発言でも褒めることである。絶対に否定したり、間違っているとは言わない。学生の発言に対して、即座に「なるほど!」「面白い!」「いいアイディアだね!」「すばらしい!」といった肯定的な反応を返す。学生は自分の発言が教員に受け入れられたと感じて安心する。発言して良かった、いいことを言えたという満足感も得て、また次回も発言しようという気持ちを起こさせる。
同時に、それを聞いている他の学生たちは、「あのような発言でも受け入れられるのだ」という安心感を共有し、自分も発言してみようか、という気持ちにつながる。また、他の学生がどのようなことを考えているのかを知ることができ、自分とは異なる意見が多様に存在することに気付く。それらと異なる自分の意見も言ってみたい、という気になっていく。
仮に、本当に間違った意見を言った学生がいた場合、「なるほど、面白い」などと言ってまずは発言をしたこと自体を肯定し、受け止める。そのうえでその発言と矛盾する可能性のある例を提示し、「こういう場合どうなるか考えてみてね」といって別の学生の発言を促す。当該発言をした学生は、教員が提示した例が自分の発言内容と矛盾することに気付くことで、自分の発言内容が不十分だったことを知る。また周囲の学生も同様に矛盾に気付く。このようにすれば、発言の時点で「それはおかしい」とか「間違っている」と明示的に指摘することで学生に恥をかかせてしまう事態を回避できる。
学生の発言をどのようにカウントするか。いちいち教員の名簿に記録などしていては、授業のテンポを阻害する。そこで発言回数は学生自身にカウントして申告してもらう。毎回、授業の最後に学生たちが提出する「オピニオンペーパー」(後述)の最上部に、その日の発言回数と前回までの発言回数、そして両者の合計を記載してもらうのだ。
教員はそのオピニオンペーパーをすべてスキャンして保存し、次回の授業で返却する。スキャンして保存していることを学生たちに伝えてあるし、不正が発覚したら「F評価(不合格)」にするというルールにしているので、不正な回数を書く学生はいないはずである。
発言回数は直接、成績評価の基礎となる点数として加算する。筆者の場合、現在、論述式の期末試験50%、発言回数50%の割合で成績をつけている。その旨、シラバスに明記し、また第1回の授業のオリエンテイションその他で学生たちに周知している。
発言は挙手制だが、複数の学生が挙手した場合は早い者から当てる。しかし、学生たちが慣れてくると、教員が問いかけた瞬間、ほぼ同時に複数の学生が挙手して競合することがたびたび起きる。その場合は、前の席ほど優先して発言権があるというルールにしている。その結果、講義開始5分前には、教室の前から5列はすでに学生で埋まっている、という状況が生じるほど学生の参加意欲が強まる。
発言回数をカウントし、前列ほど発言権が強い、というルールにすることで、学生たちの授業参加へのモチベイションにまで好影響を与えるのだ。仕組みで意欲を喚起することができる。
そのようにルールによって発言を促進すると同時に、実質的にも発言を促す方策を講じている。それは、「法律問題に対する解は無限にある」、「法律問題に対する唯一絶対の解は存在しない」という大前提を最初に学生たちに伝えることである。
高校を卒業して大学に入学してきた学生たちは、法律に最も近い身近な存在として高校までの「校則」を想起する。服装規定や行動規範など、やってはいけないことが列挙されて窮屈な経験をしているのだ。同時に、高校あるいは大学入試までに彼らが遭遇する各種の「問題」はほとんどの場合、「答えがひとつ」という世界である。唯一存在する正解にたどり着くことが絶対的な命題として18年間、すり込まれてきたのだ。
しかし、法律問題の解は複数ある。人の数だけ無限に存在すると言ってもいい。大学受験までの間、「正解はひとつ」という世界に浸りきった学生たちにとって、「正解の呪縛」は強固であり、解が複数ある、無限にある、といってもなかなか実感が湧かない。
そこで、いろいろな例を出すことによって、そのことを理解してもらうことが大切だ。その好例が、裁判の三審制である。ひとつの法律問題に対して裁判は何回できるか、を問う。各学生たちが断片的な知識を発言しあうことによって、地裁、高裁、最高裁といった三審制について情報がクラスに提供される。各裁判ではそれぞれ法律のプロである複数の裁判官が合議して判決を下しているが、はたして3度の判決は同じかと言うと、3回それぞれ異なる判決であったり、結論は同じでも論理構成が異なったりするのが普通である、ということを伝える。
法律のプロである裁判官でさえ、裁判所によって異なる判決を下すのだから、学生たちの解により多様なバラエティーがあっていいのだということを、学生たちが具体的に認識することになる。法律問題に正解はない、あるいは社会に生起する各種の問題に唯一絶対の正解などない、ということを知るのである。正解がある問題は問題ですらなく、単なるクイズであると。
その他たとえば、ひとりの弁護士は、原告側の代理人になる場合と被告側の代理人になる場合とで、真反対の法的立論を必要とする、ということを伝える。またテレビの法律番組で複数の弁護士が異なる見解を提示する、という例を挙げる。
「絶対的な正解がない」、「解は複数ある」、「解の可能性は無限にある」、ということがわかると、「正解の呪縛」から解放され、徐々に躊躇なく「自分の解」を形成し、述べることができるようになっていく。それこそ法学教育の目指すところである。
このような前提とともに、学生の各発言を毎回褒める、という経験が重なって、学生たちは安心して発言できるようになる。その発言内容は多岐にわたり、教員が想定していなかったような優れた発言もあるし、また一方で、本質を突いたスマートな発言がなされることもある。その場合は、他の発言よりも十分に褒め、なぜそれがすばらしいかも説明する。学生たちは美しいシュートを決めたときのような爽快感を味わっているに違いない。
教員からの問いに対して、このように発言で解答をする他、記述式で解答するものもある。「○○について記述してみてね」とか「○○と××との関係を図にするとどんなふうになるか描いてみて」といった具合だ。
その場合、数百人が履修して参加している教室で全員分を解答を教員が確認することは事実上不可能。そこで、学生同士、相互に評価してもらう。問いの内容如何によって2人組ないし5人組を座席の周囲で作ってもらい、ノートに描いた図とか文章を相互に確認しあうのだ。当然、各学生ごとに描いている内容が異なるから、議論が生じる。その後の授業の展開の仕方によっては、どのような点で相違があったかなどを全体に対して発言してもらうこともある。
期末試験の問題案を学生から募集することを、第1回のオリエンテイションで明言するのも科目によっては効果的である。筆者の場合、「著作権法」の講義ではそれを行っている(「民法」では行っていない)。
全15回からなる授業の最終回まで終わった日の23:59を締切りとして、期末試験の問題案を学生から募集する。それを初回の授業で伝えることで、毎回の授業への参加が同時に「期末試験の問題案探し」となる。問題案が100以上集まったら、すべてをWeb上に公開して、期末試験はその中から出題する。学生たちは問題案の公開を望むから、できるだけたくさん、案を出そうとする。いきおい、授業中に「いい問題」を発見しようとして参加意欲がわく。
問題のクオリティーを確保するための方策として、期末試験には「いい問題」を採用し、採用された人には平常点を「10点」プラスする、と伝えている。ここで「いい問題」とはどういう問題かを学生にあらかじめ明らかにしておくことが重要だ。すなわち前述のとおり、法律問題には解が無限にあるから、「10人が回答したら10とおりの回答が出る」のが「いい問題」であると定義するのだ。もし100人が回答して正解1つに収斂するのであれば、それは「問題」ですらなく「クイズ」である。その逆の方向、つまり解答が多岐に発散する問題ほど「いい問題」であると伝えるのである。
このように、期末試験問題を募集すると最初に明言することも、学生たちの参加意欲を醸成する方途のひとつである。仕組みで参加を喚起するのである。
授業が2回目以降の場合は、まず最初に前回のレビューから始める。「前回、何やりましたか?」と問うのだ。
すると学生たちの発言によって、前回の授業で扱ったトピックが散発的に出てくる。それによって学生たちは記憶を呼び覚まし、今回の授業に対する前回からの継続性を確保できる。また、全員が共有しているはずの前回の内容であるから、誰でも発言可能な問いであるため、簡単に発言することもでき、発言マインドへのエンジンもかかる。トレイニングへのウォーミングアップだ。
そして何より、前回の内容を全員が復習することになる。その過程で必要があれば教員は、補足的な説明を行うことができるし、学生たちの理解の深度を確認することにもなる。そのうえで今回の授業内容に入っていくとスムーズだ。
法律的素養の涵養においてその屋台骨となるのは、条文を読めるようになることである。普段、学生たちは条文を読む機会など皆無だし、そもそも読んだ経験のない条文を自分で読みこなせるはずがない。したがってその読み方は法学の授業で教えるべき最重要項目であることは間違いない。
そこで授業の過程で出てくる条文は、必ず授業中に読む。学生全員、教員とともに声を出して音読する。音読は効果的である。難読字とか読み方を間違えやすい漢字を正しく認識することもできる。
次に、条文をノートに書き写す。全員、その場でノートに書くのだ。漢字も覚えるし、句読点の打ち方などに注意を向けるようになる。書いたら文法的に解析する。どの単語がどの単語を修飾しているか、それらの修飾語を取り去ると条文の文言の核心となっているのはどういう文章か。条文を正確に解釈することができるようになっていく。
その後、その条文に該当する具体例を各自、作ってもらう。できたらその具体例を条文に代入し、図を描く。適切に代入できるか、適切な図が描けているか、教員が全員分を確認することはできないので、各自がノートに具体例、代入、図を記述して、周囲の学生と交互に確認してもらうのだ。
そのあとで、具体例などを全体に出してもらい、検討を加える。これらを繰り返すことで、学生たちは徐々に高度な条文を読む力を身に付けていく。逆に、学生たちの反応を見る限り、このような過程を丁寧に経ない限り、条文を読めるようにはならないだろうと思われる。
最後にオピニオンペーパーである。毎回、授業の最後に学生たちが記述して提出する書面をこう呼んでいる。
その目的は3つ。第1に、前述のとおり、その日の発言回数とその日までの発言回数のトータルを申告するためである。
第2に、毎回授業の最後に教員が出す「クエスチョン」の解答を記述する。クエスチョンは、その日に扱ったトピックの簡単な応用問題とか、次回の授業につながる導入になる命題などである。
第3に、教員に対するメッセージである。内容はなんでも良い。疑問、質問、意見、提案などはもとより、その日の授業内容を4コマ漫画にする学生もいるし、詩とか心理学のトピックを書いてくる学生もいる。
教員は、すべてに目を通し、メッセージに関してはコメントを書き込む。すべてのオピニオンペーパーはスキャンして保存した上、コメントやサインを記載して、次週に学生に返却する。
返却は教室のテーブルに並べておき、学生たちが自分で見つけて取っていく。ひとりひとり名前を呼んで返却したいところだが、数百人に対してそれをするほどの時間的余裕は残念ながらない。
次回の冒頭には2つのことを行う。まず第1に、オピニオンペーパーに書かれていた質問に対して、全員の前で解説する。一人から質問が出たということはより多くの学生が疑問に持っていることが予想されるから、当該学生のみでなく全員に対して解説するのである。第2に、前回出したクエスチョンの解説である。前述のとおり、クエスチョンの内容が次回の内容の導入になっている場合が多いから、その解説をすることによって次回の授業につなげていくのだ。
あとは前述の通り、前回の内容についてレビューをしてから授業に入る。その頃にはすでに授業開始から20~30分経過しているから、学生は一旦息抜きして新たに授業内容に入ることができ、その継続時間も1コマより短いから、学生たちの集中力が途切れずに続けやすいのである。
以上のように、ITなど使わなくても、授業を学生主体にすることができる。学生たちは、繰り返し問われる問いに対して思考を促され、口を使って条文を読んだり、手を動かして作文や作図をするという作業が続く。周囲の学生と異なる見解を持って議論する時間もある。私語を楽しんだり寝たりする暇はない。1コマの90分、あるいは2コマ連続の180分があっという間に経過するのである。
これに加えてITを使うと、さらに授業を効果的に進めることができ得る。次章で検討しよう。
本章では、以上のような工夫にITを加えることで実現できる授業形態について論じる。IT分野は日進月歩あるいは秒進分歩であるから、毎年、 ITの使い方も変化する。ここでは、現時点(2014年9月時点)での実践を元にして論じる。
まずもって大切なことは、ITはあくまでも手段であって目的ではないということである。言わずもがなであるが、ともするとITを使うことで授業が改善するという憧憬を抱いてしまう危険がある。しかし、ITあるいはICTは道具であって、それを授業に生かすのは教員であり、学生である。
したがって、見てくれをよくするだけのIT化はまったく眼中にない。本稿が目指す授業の目的、すなわち授業が体育であり、教室がジムになるようなトレイニング型授業の進化と深化のためにITを使うのである。
ITを使うことによって、従来より授業が改悪されては意味がない。ITの導入においては、ITを使うことで従来よりも不便にならないように気をつけることが大切だ。非ITではできていたことがITの導入によってできなくなるという事態は避けたい。
実はPowerPointに代表されるスライドの提示にはそのような側面がある。スライドは当初、医学系、理工系のプレゼンテイションにおいて資料写真、実験画像、図表といったものを提示するのに用いられた写真用スライドフィルムの映写を、コンピューターによって代替したものだ。それが今や、あらゆる分野で使われるようになった。文系の講義において使われるときは、図表などは少なく、文字ばかりが羅列されていることが多い。
スライドが利用されるようになる以前、講義を構成する文字情報は、黒板あるいはホワイトボードに教員が直接記述していた。当然、書くには時間を要する。それは同時に学生たちも一緒にノートに書くために必要な時間を確保することになっていたのだ。
それがスライドに変更された結果、各スライドにはかなり分量の多い文字列があらかじめ記載されている。多くの情報量を抱えた1枚のスライドがパッと表示されるため、学生はいったいそのどこを見たらよいのかとまどう。読んで内容を把握するだけで時間がかかる。そこで教員は、レーザーポインタを使うが、こんどはそれを追うことに忙しい学生は、ノートをうまく取ることができない。たいがい学生たちがノートを取るほどの時間的余裕のないままに次のスライドに移行してしまい、中途半端にノートを取った結果、後で読んでも意味がわからない。結局、ノートを取ること自体をあきらめることになる。
次善の策として、スライドと同じ画像を印刷した「レジュメ」を教員が配布することになる。それを手にした学生は、ノートを取らないだけでなく、レジュメを入手しただけで安心して、講義の内容に身が入らない。講義中にレーザーポインタを追うこともあきらめてしまう。講義がつまらない、と感じるようになり、プロジェクターで映写するために暗くした教室の室内環境が眠気を誘う。
すなわち、教員が善かれと思って情報を提供すればするほど、学生たちは受動的になり、講義内容から遠ざかってしまうのだ。なんともったいないことだろうか。
リアルタイムに情報が追加されていき、それをノートに書き留める時間的余裕もあるという点において、黒板あるいはホワイトボードに勝るものはない。これだけMacやPCとプロジェクターが普及した今日においてもすべての教室に黒板かホワイトボードが設置されているのはそのためである。
しかし、デジタルデバイスを使ってプロジェクターに情報を映写するメリットは黒板・ホワイトボードを超えている。綺麗に描画されたグラフ、各種の写真、資料、Webサイトの情報、映像資料......。そういったものを一括して提示できるメリットは大きい。
そこで、資料の提示にはプロジェクターを使い、リアルタイムに何かを書くときは黒板を使う、という方法がとられる。その場合、両者のメリットを享受できるから、講義を進めるツールの使い方としては最も効果的といえるだろう。
しかし、そのようなスペイスがすべての教室で確保できるとは限らない。使い勝手や見やすさの点から考えても、できることなら両者を一体的に扱える方がありがたい。リアルタイムに自在に手描きできる環境と、電子情報を自由に表示できる環境とが一体となったツールがあれば最善である。
ここで、いわゆる「電子黒板」導入の是非が問われる。黒板を電子化して、黒板のメリットと電子媒体のメリットを合体させるのである。
一口に「電子黒板」といってもその種類は複数ある〈注9〉。描画可能なタッチディスプレイにPCの画面を映す方式、プロジェクターから映写するスクリーンが黒板のように描画可能な方式、既存のホワイトボードに取り付けて描画を検知するユニット式などである。
方式によって差異はあるものの、専用ペンが必要で書きにくい(実際に書いている部位とずれた位置に描画される)、高価、場所を取る、重くて移動に難儀する、ペン入力のために位置調整が必要、PCと専用ソフトが必要、といった難点がある。残念ながら電子黒板は総じて使いにくく見にくい。そもそもPCが必須という点においてすでに使い勝手に限界がある。
そこでiPadを使う。「電子黒板」の一種であるが、PCを使う他の「電子黒板」とは一線を画する使い勝手であるため、それを特に「デジタル黒板」と呼ぶことにする。
手元のiPadの画面がワイヤレスでそのままプロジェクターに映し出される。「MetaMoJi Note」〈注10〉や「MetaMoJi Share」〈注11〉といったアプリを使うと、指やスタイラスペンを使ってiPad上に書く軌跡がそのまま表示されるから、従来の黒板と同じように使える。その軌跡も、デジタルなドットの集積ではなく、リアルタイムで滑らかな曲線となるため、見た目にも美しく、書いた人の筆跡がそのまま生きた軌跡となる。
iPadの画面だから、拡大縮小も容易。今注目して欲しい部分をぐっと拡大して表示し、終わったら元に戻して全体の中の位置づけを再認識する、という見せ方が簡単にできる。それはあらかじめ用意しておいたPDFとかスライドでも可能だし、単なるWebページを表示しているときにも有益だ。法学教育においては、条文を映し出しているときに、注目すべき文言を拡大表示してフォーカスしたり、法律全体のなかの位置づけを俯瞰するといった使い方ができる。
また、4本指で左右にスワイプするとアプリが切り替わるので、たとえば一般的なスライドを映写しながら話を進めつつ、MetaMoJi Noteに移行して黒板に手描きするように説明を加えるといったこともできる。スライドの内容をMetaMoJi Noteに張り込んでしまえば、そこに直接書き込んで説明を補充することもできる。レーザーポインターと同様、画面内の任意の場所を指し示しつつ軌跡が消滅するツールを使えば、レーザーポインターは必要としない。
Wi-Fiを使ったワイヤレス接続だから、教員はiPadを持ったまま、教室内のどこに移動してもiPadに文字や図表を書くことができ、それがリアルタイムに映像としてプロジェクターから投影される。板書と机間巡視を同時に行えるのだ。
iPadの画面が常時、プロジェクターに映されるので、例えばiPadでカメラを起動し、学生がノートに描いた図をそのまま映し出すこともできるし、それをカメラで撮影して手描きで添削したり、何かを書き加えたりする様子をすべてプロジェクターで全学生が観察することも容易だ。
iPad上の「MetaMoJi Note」に書いた内容がそのまま「黒板(と同視しうるプロジェクターのスクリーン)」に投影されると、「板書」の内容は常にiPadの中にある。たとえば授業の途中で質問などが出たときに、「それは3回前の授業で扱ったあのトピックを思い出してみよう」などといいながら、3回前の授業中に描いた「板書」をそのまま表示することができる。
また、授業の進捗に応じて、以前に書いた「板書」の内容をコピーしてペイストし、そこに新たな図を描き加えるとか、図の中のパーツを動かして見せるということが簡単にできる。たとえば有効な契約について作図したものを複製し、こんどは無効な契約の場合はどこが異なるか、ということを並べて見せることができる。また登記や所有権の移転を扱う際に、誰から誰にどの時点で移転したかを明確に動かして見せることができるのだ。
授業中に条文を読む際に、第3章で述べたような具体例の作成、代入、作図といった作業をするには、このデジタル黒板が大変好都合だ。活字で書かれた条文をMetaMoJi Noteに貼り付け、そこに手書きで具体例を書き加えていったり、作図をして見せるという作業を、目の前でスマートにやって見せることができるのだ。
またオピニオンペーパーに書かれている質問は、毎回授業の前に、スキャンした画像から質問部分を抜き出して、MetaMoJi Noteに貼り付けて用意しておく。毎回だいたい10個前後の質問に答えることになるが、実際に学生が書いた直筆の質問文が画面に表示されるから、リアリティが高い。
このように「デジタル黒板」は、従来の黒板・ホワイトボードの良さを失うことなく、デジタルで同様のことを実現できる。あらかじめ素材を用意しておいてパッと見せるのでなく、授業の現場でひとつひとつ実際に教員が書き、描く。その姿を手本として生で見せることによって、学生たちも自ら書き、描くという訓練ができる。
書くというトレイニングするのは学生で、教員はその見本を見せる、という黒板時代に当たり前だったことが、ようやくITを使って実現できる時代が来たのだ。加えて、過去の板書をいつでも見せられるし、WebブラウザでWebサイトを表示したり、動画と音声を流したり、およそiPadでできることはすべて授業の素材として使える。大変有益なツールである。
「デジタル黒板」は安価で、その実現が容易なのも大きなメリットである。準備するものは、「iPad」〈注12〉、「AppleTV」〈注13〉、プロジェクターまたはモニター、Wi-Fiの4つ、それに必要があればスタイラスペン〈注14〉である。
まずAppleTVをHDMIケーブルでプロジェクターに接続し、プロジェクターが映写可能な状態にする。AppleTVをWi-Fiにつなぎ、同じWi-FiにiPadを入れる。するとiPadの画面最下部から引き上げる「コントロールセンター」の「AirPlay」にAppleTVが表示されるのでそれを選択しミラーリングをON。これでiPadの画面がプロジェクターから投影される。あとはiPadで授業に必要なコンテンツを選んで表示すれば良い。
なお、Wi-Fiを使えない環境では、「Lightning-VGAアダプタ」〈注15〉あるいは「Lightning-DigitalAVアダプタ」〈注16〉を使って、iPadからプロジェクターに直接ケーブルで有線接続すればいい。Wi-FiとAppleTVは不要である。ケーブルによって教員の行動範囲が制約を受けるものの、画面は安定して確実に投影される。
その場合、用意するものはiPadとプロジェクター、スクリーンのみ。既設のプロジェクター(とスクリーン)がある教室なら、iPadを1枚(および上記アダプタのいずれか適切な方)を持参するだけですぐに「デジタル黒板」を始めることができる。非常に安価に実現できるし、専用の機材を必要としないから無駄も生じない。運搬はiPadのみなので軽量。資料の作成も容易だ。
黒板として使うには、アプリ「MetaMoJi Note」を起動すればいい。普通の黒板同様の使い方ができるのみならず、拡大縮小表示が容易だし、過去の板書や別の科目で書いた内容を表示することも簡単だ。
さらに「MetaMoJi Share」を使うと、普通の黒板では到底実現できないことができる。教員のiPadで書いている画面を、リアルタイムで他のiPhone/iPad/Android端末に表示できるのだ。まず教員が黒板として使っているファイルを、メイルやクラウドを通じて学生が持っているiPhone/iPad/Android端末に配布する。すると教員が書くたびに、同じ内容が学生の画面にも表示される。インターネットに接続していればいいから、同じ教室にいる必要もない。遠隔授業でもリアルタイムで画面を共有できる。
さらに「MetaMoJi Share」内で学生に発言権限を付与すると、学生が書き込んだ内容が他の全員の画面にも反映されるようになる。すなわち、教員だけが書いて見せるという使い方だけでなく、学生の側からの画面上に発言して、それを全員でシェアできるのだ。学生の参加を積極的にする環境が簡単に構築できるのである。
この機能は、講義よりもゼミのような小規模なクラスでより効果的である。全員がiPhone/iPad/Android端末で同じ黒板を共有しつつ、議論しながら書き込んでゆくことができる。また論述を相互に読みあって添削するような場合にも有益だ。
授業のIT利用では、グループチャットシステムも有益である。筆者は過去数年にわたって、サイボウズLive〈注17〉、Facebookグループ〈注18〉、ChatWork〈注19〉といったWebサービスを使ってゼミ的なクラスのコミュニケイションを行ってきた。コミュニケイションのインフラができることで、時間外にも学生たちの知的な交流が生じる。
例えば、ロースクールの授業で27名の履修者による「秘密グループ」をFacebookに作成したところ、授業で出した課題を1週間かけて履修者同士で検討したり、個々人の見解を述べたりする場として大いに利用された。週1回90分の授業時間よりも、残りの7日間の方が議論が進捗するかに見えるほどである。
現在は、すべてのゼミとゼミ的なクラスにおいて、ChatWorkを利用している。学生たちが無料で使えて、メイルアドレス以外の個人情報を入力する必要がなく、広告表示もほぼない。ブラウザとiPhone/iPad/Android端末の両方で使える安定したグループチャットサービスだ。たとえば1年生対象の「民法1B発展講義」では開始日に履修者35名全員のグループチャットを作成。課題問題の配布、学生が作成した答案の共有などに使っている。また6つの班それぞれのグループチャットも学生自身で作成して、班ごとの議論に用いられている。
LINEのように学生たちが日常的に使っている仕組みではなく、授業用に特別な環境を用いることによって、日常会話とは区別することができる。またChatWorkはすでに書き込んだ内容を編集することもできるので、一旦提示した見解を後から修正することも容易だ。
現在のゼミ的な法学教育において、もはやグループチャットシステムの利用は不可欠といって良い。これがあるおかげで、従来だと毎週の課題に対して班ごとに提出し、全員分プリントして配布する必要があった班ごとのレジュメをすべてChatWorkで共有することができ、紙をまったく使わないでゼミを運営できている。他のゼミにおいても、資料の配付等はすべてChatWork上にPDFをアップロードして共有している。
この他、上級生のゼミでは、「Evernote」〈注20〉がよく使われている。学生たちが収集した資料はEvernoteに入れて、班の中で共有。また報告用の原稿などもEvernoteで書き、ゼミの場ではそのままEvernoteのプレゼンテイションモードを使ってプロジェクターで映写しながら報告している。
また、ゼミの各メンバーが判例研究の成果を執筆するにあたり、原稿を共同で編集する際には、「Google Drive」〈注21〉が使われている。大学などひとつの場所に集合しなくても、各メンバーの自宅などからMac/iPhone/iPadの「メッセージ」やFacebookメッセージでチャットしたり、Skype22等で音声で会話しながらGoogle Drive上の原稿を共同編集することによって、各人の意見が反映された原稿を練り上げていけるのである。
法学教育においてもっとも肝要なのは、学生たちが法解釈と法適用を自ら繰り返すことで、それに習熟してゆくことである。その訓練をする機会を提供し、適切なカリキュラムとアドヴァイスによってそのスキルを身に付ける環境を整えるのが教員の役割だ。
教室で学生たちは、繰り返し条文を読み、解釈し、事実を当てはめ、条文を適用して事案の法的解を導く、という訓練をする。そのための仕組みを教員が構築し、実践することが、今日の法学教育に対する社会的な要請だと考える。ビジネスにおける個々の契約や、法的アプローチを要する諸活動において、ルールに基づいてプレイし、判断するスキルを身に付けた社会人が求められているからである。単なる法的知識は使いものにならないから、教員からの情報伝達ではなく学生自身が法律を使う知的トレイニングを重ねることこそ、法学教育の実りを大きくするものと考える。
本稿が法学教育の進化とFD(FacultyDevelopment)の一助となれば幸いである。
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1) 2006年 1,009名、2007年 1,851名、2008年 2,065名、2009年 2,043名、2010年 2,074名、2011年 2,063名、2012年 2,102名、2013年 2,049名、2014年 1,810名, (新)司法試験の受験者数・合格者数等の推移 7) 私立大学情報教育協会「未知の時代を切り拓く教育とICT活用」2012年は第2章で「ICTを活用した授業改善モデルの考察」と題し、31の学問分野にわたって授業改善モデルを提案している 8) 安念潤司教授は総務省「第6回法科大学院(法曹養成制度)の評価に関する研究会議事録」(2010年1月9日)25ページにおいて以下のように述べる。「次に、ソクラティック・メソッドの機械的な実行はしておりません。ソクラティック・メソッドがいいと信仰している人がおりますが、どこを見てああいうことを言っているんでしょうかね。アメリカの大学でも、ソクラティック・メソッドが成功しているのはアイビーリーグを中心とする極めて優秀な大学だけです。当たり前の話です。ソクラティック・メソッドがいい場合もありますが、それは極めて優秀な教師が極めて優秀な学生とつき合っているときだけでございまして、それ以外では学級崩壊いたします。私もハーバードローに留学しておりましたが、教師も学生もやっぱり優秀ですよ、だけど、学級崩壊になるところを見ました。彼らは授業というのはああいうもんだって思っているから成り立っているだけの話であって、日本の学問、特に日本の法律学は、細部にわたる綿密さを過剰なまでに求めますので、そのようなところでは、ソクラティック・メソッドだけの授業なんて絶対成り立ちません。これ、成り立つと言っている人がいるなら、私、見せていただきたい。お客様から見れば、ソクラティック・メソッドは、大抵の場合、迷惑なんです。そもそも体系的な知識が何にも残りませんからね。 ですから、私も質問や意見を出すようにエンカレッジしますし、雰囲気は盛り上げますが、無理やりに一人一人当てていくなんていうことはしません。特に答えられなかった学生は実は結構傷つくものなんです。今の子はとっても傷つきやすいんです。そんな傷つきやすい子にわざわざ恥をかかせてまでやるほどの価値はありません。つまり、ソクラティック・メソッドというのは、やるべきとき、クラスの雰囲気が盛り上がってきたときにやるといいんです。それは事前に準備していくようなものじゃないんです。その場での雰囲気でやらなきゃいけない。これができない教師はだめです。つまり、学生にとって迷惑です、端的に、と私は思っております。」