第1章 法学講義の現状と21世紀型授業のあり方
多年にわたって行われてきた法律学の「講義」は、はたして現代の社会的ニーズにマッチしているだろうか。学問たる法学、法律学の研究成果を学生たちに伝える場としての意義が大学の「講義」にあることは論を待たない。一方で法学、法律学の成果を多くの人が必要とする社会となり、より広範な人々が法学教育を求める今日、多様な背景を有する人々が法的素養を身につけるための修練の場として大学・大学院が存在することもまた現実である。むしろ、大学・大学院は率先してそのような場と機会を提供する社会的責任があるといってもいい。
2004年に法科大学院(ロースクール)が開学し、新しい法曹養成システムが稼働してから10年。新司法試験合格者数が減少〈注1〉する一方、当初開学した74校中20を超える法科大学院が募集停止に至っている〈注2〉。法科大学院の修了を経ずに予備試験に合格したうえで司法試験を受験した者の合格率が最も高い〈注3〉ことにも、システムの歪みが現れているといえよう。法科大学院での教育が問われているのである。法学「講義」の在り方を見直す必要があるかもしれない。
教室は誰が何を行う場なのか。教室で行われる「授業」の目的は何か。
体育の「授業」を考えてみよう。体育館なりグラウンドなりで体育の授業を実施する際、教員と学生とはどのような関係だろうか。教員だけがエクササイズを続け、学生たちは終始見学をする、という様子はどう考えても滑稽である。あくまでもエクササイズする主体は学生であり、教員はその指導をする。アクティヴィティの方法を説明し、手本を見せ、実際に活動する内容を指示し、学生たちが訓練する時間を確保し、学生たちの活動を観察し、アドヴァイスし、改善を促す。そしてまた次のステップに進んで、同様の手順を踏んで学生たちの活動を促していく。
そのような体育の「授業」において、教員はコーチである。ときには理論を説明するとしても、基本的には学生たちの実践を後押しする。コーチたる教員が体を動かしたり説明したりする時間は最小限にして、学生たちが活動している時間を最大化することが大切。学生たち自身が、自らの肉体を使って訓練を繰り返すことにより、目的とするスキルに習熟していくプロセスこそが「授業」の本筋である。
体育以外の「授業」もその本旨はまったく共通であるはずだ。学生自身が自ら活動し、習熟することを通して成長する場である。目、耳、口、手、そして頭脳は学生たちの肉体の一部なのだ。学生たち自身が身体を実際に使って、思考し、手で書き、挙手し、発言し、他の学生の意見に耳を傾け、賛意を表明し、議論し......という過程で何らかのスキルを身に付けていく場が教室であり、それをコーチたる教員がアシストしながら促していくプロセスが「授業」である。
かように「授業」とは、「業」を「授」ける営為だ。授けるのは教員で授かるのは学生である。業を授かるためには、授業に参加する学生たち自身が「業」を実践的に行う必要がある。その場合、「教える」ことを重視し過ぎて教員が情報伝達する時間が長く、学生たちが自ら訓練する機会が少ないと、(教員が)授けても(学生が)授かることの少ない授業となってしまう。
一方、「講義」では教員が「義」を「講」ずる。講ずるのは教員であって、学生はその講義を受動的に受け止めることになる。学生たちが情報を受信する積極的な意欲がある場合には、教員から伝えられる情報を吸収する。しかしそれを使って学生たちが思考するといった能動的訓練の機会はほとんどない。もし学生が受動的であった場合、教員が淡々と義を講じ続けるだけの時間となる。与えられる情報を学生が吸収する割合は少なかろうし、業を授かることはない。スキルが身に付くこともない。
昔の大学はそれでもよかったのかもしれない。講義によって教員が学問的成果を披瀝するのが大学であり、講義は教員から伝えられる最新の情報を学生たちが摂取する貴重な時間であった。講義で得た情報に基づいて講義以外の場で学生同士が議論をしたり、別の書物で講義で聞いたのとは異なる主張に触れたりして、また自らの見解を構築していく、という能動的な意識を持っていたとすれば、講義はその端緒となれれば十分にその役割を全うしたのである。最先端の研究をしている教員からその内容を大学の講義で直接伝達される機会自体が貴重だったからだ。学問的な情報を得る手段が書物と講義しかなかった時代には、大学の講義で得られる情報は貴重かつ希少であり、その価値は非常に高かったのである。
しかし時代は下って21世紀。情報伝達の方法は多様化し、その速度は加速している。多くの情報がWebを使って伝えられるようになり、市民がアクセス可能な情報量が爆発的に増えるとともに、情報の伝達速度が上がり、即時性が増した。講義の相対的価値は低下の一途である。
なかでも長時間の動画をWeb経由で視聴できる環境が整った現在、「講義」にはもはや従来のような希少性はない。教員があらかじめ「講義」を録画して、Web、あるいは学生限定でアクセス可能なクラウドなどで配信すればいい。現代において従来のような情報伝達型の「講義」をするなら、なにも教室に集う必要はないのだ。教員は随意の時間に「講義」動画を録画し、何度でも撮り直したり、編集することができる。学生たちはそれを自由な時間に視聴し、繰り返し観たり、途中で止めて思考したり、資料を参照することもできる。
実際、世界中の多くの著名な大学が〈注4〉、その大学で実際に行われている講義をWebで無料配信している。「iTunesU」〈注5〉がその好例であるが、日本国内でもすでに複数の大学が講義のWeb公開を行っている〈注6〉。
したがって、そのような環境が整った21世紀においては、もはや情報伝達目的の「講義」を教室で行う意義は小さい。「講義」のために教員自身と多くの学生の時間を同時に拘束し、教室という閉塞空間で教員から発せられる情報を学生たちが記録する、という形態は、存在意義を失いつつあるのだ。
もちろん、Webやクラウドで提供できることを、教室でやってもいい。Webでもできるが教室で直接リアルに行う、ということ自体には依然として「ライブ」という価値がある。教室における情報提供はその直接性という点において重要な意味を持つ。
しかし、Webやクラウドでは実現しにくく、教室でこそ実現できる固有の手法があるなら、それを実践することの価値は高いはずである。教室という場所に、教員と多くの学生とが時間と空間を共有することによってのみ生み出されうる付加価値とは何か。どうやったらその付加価値を生み出し、膨らますことができるか。教員はそれを追求していくべきではないか。
Webやクラウドを介してではなく、教室でこそ実現できる授業とはどのようなものか。教室は、学生(参加者)自身が能動的に活動し、法律の意義と使い方を自ら実践して体得する場であり、教室の運営をする教員は法律情報の提供者ではなく、学生たちの学問的素養の修得活動を支援するコーチであるという位置づけをするところに、その解があると筆者は考える。教室の主人公は学生たちである、との根本的視座に立って、「講義」ではなく「授業」を運営するのだ。
それを象徴するのが「授業は体育である」という基本姿勢である。体育のように学生たちが能動的に授業に参加するためにはどのような工夫が可能か。本稿は、特に法学というすぐれて伝統的な学問分野において、それがどの程度可能か、という実践の研究を記すものである。
本稿は、そのような視点に立ち、ともすると情報提供に専念しがちな教員と受け身になりがちな学生たちとの間で行われてきた従来の教室の「講義」から主客を転換し、学生たちが主体的に活動して教員がそれを促進する、という「授業」のあり方を、法学教育において実現する方法について論じる。筆者は十数年にわたって、そのような方法を研究、実験、実践してきた。特に2011年以降、ITの使い方に本質的な転換が起きたことで、ようやく筆者の理想とする授業形態を実現するに至っているため、本稿で、その現状と成果を論じたい。
ただし、ITの利用は本質ではないという認識は重要である。近年、ITを使って授業を「改善」する、といった提言がなされる〈注7〉が、ITを使ったからといって必ずしもそれが直接授業の改善につながるわけではない。ITはあくまでもツールであって、それを使う教員、そして学生たちの意識と行動の変革が本質である。
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1) 2006年 1,009名、2007年 1,851名、2008年 2,065名、2009年 2,043名、2010年 2,074名、2011年 2,063名、2012年 2,102名、2013年 2,049名、2014年 1,810名, (新)司法試験の受験者数・合格者数等の推移 7) 私立大学情報教育協会「未知の時代を切り拓く教育とICT活用」2012年は第2章で「ICTを活用した授業改善モデルの考察」と題し、31の学問分野にわたって授業改善モデルを提案している