知恵の樹 輪読会 雑記メモ
◎ 第二章
今日の文脈
「認識は行為である」
⇨ Cognizer的なものを想定しない
⇨ 生物とは何か
p.56 時代ごとの生物のたとえ
現代生物学
デカルトの機械論 (⇔ 生気論、観念論)から
・17C 時計
・18C 蒸気機関
・19C 化学工場
・20C コンピュータ
現代の生物の複雑さ:創発
※生気論はふわふわしているものと思われがちだが、生物が持つ「生気」という物質を信じていた時代があった。
街はオートポイエーシスかどうか?
・城壁を膜とする
・その内部にいる「人」が、城壁が壊れると修復する
・
・
・物理学的現象論
・生物学的現象論
「オートポイエーシス」単体で捉えられる
熱力学
第一法則〜第三法則で全て説明する
構成要素はどうでもよくて、粒子でもいいし、人間がアボガドロ数集まれば熱力学の法則にもなる
統計力学は、熱力学と「神の方程式」をつなぐ
統計力学も
p.57 「オートポイエーシス単体の<存在>と<行動>は一つであり...」
way finding, navigation
◎ 第5章
p.115
構造的カップリングは生物でなくても成り立つが、「ナチュラル・ドリフト」は生物においてのみ起こる。
p.117
生物の存在に欠かせない条件
オートポイエーシスの維持ならびに適応の維持
ドリフト
維持しつつ変化する
p.119
「セレクト」という用語については注意。
「身体化された心」にて、適応主義とのコンフリクトを記している。
現代の進化の主流
個体や環境へ、あまり注意が向かない
遺伝子の変異など頻度などを中心にしている。
ドーキンス(適応主義) vs グールド
ドーキンス:個体発生はデザインではないんだが、進化の結果として「デザノイド」される
利己的な遺伝子:「種の保存」のためは誤り。「個体の保存」でもなく、遺伝子に着目。
適応主義:ある種方向づけ
知恵の樹では、全く適応主義的な立場を取らない。(遺伝子についても意図的に触れていない?)
Reproduction の方で少し触れてる
進化:環境と有機体のセットの変化で捉えるべきでないか
適応主義(総合説)は個体や環境の観点はあまり含まず、「遺伝子の頻度変化」で進化を語る
脳ともアナロジーできる?
神経細胞のダイナミクスで認知を見る?(遺伝子で進化を見る)
センサーモーターと環境のダイナミクスで認知を見る?(環境と有機体のセット、ナチュラルドリフトで進化を見る)
ニッチ構築
生き物が環境を作り替えて、それがリバウンドする
エリオットソーバー
進化はざるでこすようだ
『理不尽な進化』
p.108
「有機体の小僧的変化の歴史的メカニズムを十分に理解するのでなければ、<認識>という現象は理解できないからだ。」
→ p. 125
生物がおこなう<認識>の歴史を
ここでは「認識」をさらに広い意味で捉える
釜谷さんの研究計画から:認知に脳は必要なさそう?
「認知」を心の働きと捉える?心の働きは「生きていることと等しい?」
biology of
ナチュラル・ドリフトが定義されていない!?
「構造的ドリフト」はよく出てくる
生物における「構造的ドリフト」がナチュラルドリフト?
p.133 <進化とは進行する系統発生的選択のもとでの構造的ドリフト現象として起こる>
◎ 第6章 行動域
p.141
予測可能性と神経システム
決定論と予測可能性を区別しなくてはならない
進化の章などでは、構造的決定は生物の話には限らない(楽器など)
生物は構造的決定と見做している世界観の中での話
従来にあるように、構造的に決定されているもの(予測可能) vs 構造的に決定されていないもの(予測不可能) ではなく、
全ては構造的に決定されているもの。しかし、構造的に決定されているからといって予測可能とは限らない。という形。
なぜ予測可能とは限らないのかというと、私たちがその構造全てを知ることができないからだ。
p.143
厳密にいって、ぐうぜんのできごとであるようなものは、なにもない。とはいえ、僕らの経験とは、創造における自由の経験だ。それに僕らのものの見方においては、高等動物の行動は予測不可能なものに見える。神経システムを持った動物の行動の、この豊かさと多様性は、どうやって生じるのだろう?
この問いをよりよく理解するためには、神経システムの存在が可能にしている構造的カップリングの領域の豊かさの全てとともに、神経システムの作動そのものを、よく調べてみなくてはならない。
例が出される
オタマジャクシの時に眼を180度回転させられたカエル
本質的には逆さメガネと同じことをした。視野が180度回っている
センサーモーターコンティンジェンシーがない
人間の場合は、逆さメガネは順応するんだが、カエルは順応しない
カエルは新たな感覚運動随伴性を作り出すことはできない
この例で言いたかったことは、行動は内的構造(網膜に映ったもの)によって決まるのであって、外の環境(ハエの本当の位置)が行動をきめることはない。
子羊 & オオカミに育てられた少女
オオカミに育てられた少女の話は現在では否定されている。
代わりに本質的に同じ例を出すなら以下の猫の話かな。
生まれたばかりの猫に縦縞だけ見せる ⇨ 横縞に反応できなくなる
さらに、アクティブに動く猫と動かない猫では、動く方だけが縦縞に反応できるようになる
片目だけ閉じたままの子供は、両眼視野による立体視が難しくなる
生まれて数ヶ月〜1年の間にこの能力は形成され、獲得できなかったらその後獲得することがない
眼帯はつけないようにしよう
p.151
剃刀の刃の上で
ありがちな神経システムの見方
環境からの情報を受け取り、それによって世界の生存に適した行動を判断する
しかし、有機体の一部としての神経システムは、これまで見てきたように、それ自身の構造的決定によって作動するものである
すなわち、環境の構造は、神経システムの変化を特定することはできず、ただ変化を始動させることができるだけ
このような齟齬が生じるのは、「有機体の行動を観察者の視点から描写しているから」
これらの外部からの描写は、神経システムそのものの作動を反映してはいない!
表象は構造から考えると否定される()
神経システムそのものの作動を記述するのが科学的説明である
表象は
Di polo
エナクティヴィズムと生態心理学とSMC
定義:行動とは「postureの変化」
p.160
脳の可塑性:選択の幅を広げてあげる(可能な領域が広がる)
神経システムが行っていることは、有機体に対してきわめて融通のきく過疎的な構造を与えることによって、可能な<行動の領域>を広げることなのだ。
その後に、環境によって行動が決まってくる
これ以降は7章で回収される
6章だけの内容だと、神経が何をしているかまだ決定できないので、行動の幅が狭まって感じるよね。
◎ 第8章
サード・オーダーの構造的カップリングはオートポイエーシスか?
valera : それは答えないでおこう
matulana : オートポイエーシスである
『知恵の樹』内では varelaとmaturanaの意見は一致していない
進化をナチュラル・ドリフト
生態心理学も構造的カップリングも、「道具」を使うことで全て説明しようとするのは大変じゃないか?
理論のオペレーショナルクロージャー?
群れやサードオーダーの視点で捉えることで、理解しやすくなる
AILFEは群れの意識を考えていたりする
メトロノームの同期
台が揺れるから同期する
構造的カップリングのプリミティブな例
構造的カップリングは生きていないものでもできる
構造的カップリングと操作的閉包がコラボすることでオートポイエーシス
力学系は正しい
入出力という形で見るために、工学的な記述をするとゲーム理論みたいなものになる
力学系が苦手なもの得意なもの
台座の揺れが小さいからこそ
オートポイエーシスや力学系は同じものの見る方向を変えているだけか?
というよりは、得意と不得意がある
再生産を続ける:作動的閉包
作動的閉包+膜 = オートポイエーシス
サード・オーダーはオートポイエーシスとは言えないかもしれないが、オートノミーな単体とは言えるかもしれない。
varela : domein of interaction
と
知恵の木で書かれている「システム内現象論」
は似たようなことを言っている?
コミュニケーション
系統発生的:本能?アリやミツバチのダンス。
固体発生的:学習されたもの。脊椎動物の例
p.217 社会性昆虫
昆虫はリジッドに決定されている
アリの例
働きアリ、女王アリ
そこにはやはり体の大きさによる神経システムの大きさが制限されている
p.222 社会性脊椎動物
社会性昆虫と異なり、「行動」を学習が可能
体は大きい、成長する = 神経システムが大きくなれる=学習ができる
p.227 社会現象とコミュニケーション
コミュニケーションは「社会的単体の間に相互的に引き起こされた調整行動」
言語はどうなんだろうね、という議論があった
なぜなら、意図して相手に何かを伝えようとするし。
語用論は味方してくれるかもしれないが、意味論は難しいね。
p.232~p.233 <チューブ>というメタファー
「情報を伝達する」とは全く異なる事態だ
p.229 <文化>現象
学習した行動を安定して継承していく=文化
例:猿の芋洗い、アオシジュウカラが牛乳瓶からクリームの膜を食べる
p.234 利己行動と利他行動
利他行動:自身の適応度を下げるので、自然淘汰で無くなってしまうはず
しかし、現実に利他行動というものがある。なぜか?
p.235, 最適者ではなく「適者」である!
p.236, このアンテロープの行動が、グループの一員としての個別性、を表現するものである限り、そこに矛盾はない
見張り役のアンテロープの構造的カップリング自身が、集団の構造的カップリングの構成要素になっている
集団の構造的カップリングの構成要素は、個体自身ではなく、個体の構造的カップリング
よって、集団がナチュラルドリフトしている中に、その見張り役のアンテロープ自身の構造的カップリングも含まれている。
そういう意味で、利他的で利己的。利己的で利他的。
セカンドオーダーがオートポイエーシスであるかどうかは、ヴァレラとマトゥラーナの違い。
しかし、ここではそこの違いは影響しない。
p.237
有機体と社会
有機体と社会はどちらもメタシステムであるという点では共通
その構成要素の自律性は大きく異なる。例えば細胞と人間。
自律性の程度差=神経システムの複雑さから生まれる行動やカップリングの差異のこと?
p.239, 下段l11, 有機体は、構成要素単体の個別の創造性を制限する。個々の構成要素は有機体全体のために存在するのだから。人間の社会システムは、構成要素である個人の個別の創造性を増幅させる。
ここでいう「創造性の差」は、自律性の程度差のことかもしれない。
メタシステムの形成において、それぞれの構成要素がどの程度メタシステムの形成への参与に依存しているかにしたがって、並べることができる。
(構成要素の自律性最大) 人間社会 → スパルタ → 社会性昆虫 → 有機体 (最小)
しかし、これらの間にある差異は操作することができる
メタシステム内の内的ダイナミクスあるいは外部との関係のダイナミクスにおいて、何らかの変化を与えられると、この並びの左右に動く可能性がある。
メタシステムとしての有機体は、その構成要素の構造的カップリングにおいて、作動的閉域をもっている。
有機体全体としての適応の維持を可能にするような安定した特性にしたがって作動しなければならない。
これが、構成要素である細胞の諸特性の安定化を選択する、という進化の上での基本的な結果をもたらす。
人間の社会システムも、人間という構成要素の構造的カップリングにおいて作動的閉域をもっている。
しかし、人間の社会システムは、言語という領域においても、その構成要素である個人にとって、単体として存在している。
よって、人間の社会システムのアイデンティティは、有機体としての人間の適応の維持に依存するだけではなく、言語という領域での構成要素としての人間の適応の維持にも、依存するのだ。
人間の進化の歴史は、その言語行動と関連している。
その歴史は個体発生的な行動の可塑性をはらみ、それが言語の領域を可能にする。
そしてその歴史において、有機体としての人間が適応を維持するためには、言語の内部で作動することと、行動の可塑性が維持されることとが要求される。
有機体の存在にはその構成要素の作動的安定性が要求されるように、人間の社会システムの存在には構成要素の作動的(行動の)可塑性が要求される。
有機体がその構成要素相互の間に非言語的な構造的カップリングを要求するように、人間の社会システムは、その構成要素が言語において構造的にカップリングされることを要求する。
言語において構成要素(個人)は言語を用いて作動することができ、また観察者となることもできるのだ。
こうしてみると、ある有機体の作動にとって本質的なものとは、その有機体そのものだ。
その構成要素の諸特性の限界は、その有機体から(トップダウン的に)もたらされる。
有機体は、構成要素単体の個別の創造性を制限する。個々の構成要素は有機体全体のために存在するのだから。
一方、人間の社会システムの中心になるのは、その構成要素(個人)が生み出す言語の領域と、構成要素の諸特性の拡大だ。(個人から社会へのボトムアップ的構図)
人間の社会システムは、構成要素である個人の個別の創造性を増幅させる。システムの方が、これらの構成要素のために存在するからだ。
一つの個としての発達をつづける特定の有機体における、構成要素間の関係=相互作用の統一性と調和は、構成要素の構造的可塑性を制限する、再生産・個体発生的な様々なファクターによって生まれる。
人間の社会システムにおける、メンバー間の関係=相互作用の統一性と調和は、メンバーの成長の中から生まれる統一性と調和によってもたらされる。
この成長とは、メンバー自身の社会的(言語的)作動によって決定され、メンバーに構造的可塑性を与えている再生産・個体発生的プロセスによって可能になる、進行する社会的学習として成し遂げられるものだ。
※スパルタ
言葉の由来は、古代ギリシャのスパルタという国で、軍隊の兵士を育て上げるために子どものうちから厳しい訓練をしていたという史実
ガッチガチに固めてしまったのでダメだった。
戦争、という状況においては良い構造的カップリングかもしれない
p.248
意味論的描写
カミソリを歩くとは
意味論的描写側:表象主義
作動的側:独我論的
有機体同士が再現的(リカレント)に相互作用を行うとき、社会的カップリングが生じる。(8章)
そのカップリングにおいて、有機体はそれぞれのポイエーシス(発生=組織化)の達成に、相互に巻き込まれている。
こういった社会的カップリングにおいて行われる行動 = コミュニケーション的なもの
これは生まれつき、あるいは後天的に獲得されたものでもあり得る
本能的行動と学習された行動は、どちらも観察者にとってはアクションの調整であるように見える
観察者はこれを意味論的用語によって描写することができる
しかし、これら2種類のコミュニケーション行動は、それを可能にしている構造に関して異なっている
先天的コミュニケーション行動:個体発生とは独立に生じる「種として決まった構造」に依存している
p.250,l11 本能的コミュニケーション行動は<言語域>には入らない
この例に入るものはほとんどない。()
本能的コミュニケーションからは、個体発生的に生み出されたコミュニケーション行動の調整は起こらない
ミツバチのダンスは、本来の意味での言語ではない。?
本能的は言語域に入らないが、ミツバチのダンスは方言があって、本能と獲得されたコミュ行動の混じり合ったケースであると言える。
sensorimoter のみだけでは説明できない
死にそうになった時に、現在のsensorimoterをリセットして、ランダムにチャレンジして上手くいったsensorimoterに落ち着くという実験結果がある。
獲得されたコミュニケーション行動:その個体が行ってきた社会的相互作用の歴史に従って生じる
観察者は異なったコミュニケーション行動の意味は、個体それぞれの共=存在(構造的カップリング)の歴史に付随して生じてくるのだと主張しつつ、容易に意味論的描写を行うことができる。
このような、学習されたコミュニケーション行動のことを「言語域」と呼ぶ
言語に基礎を構成するが、本来の意味での言語そのものではないため、言語"域"。
p.250, l4 ことばを<世界のさまざまな事物や状況を指し示すもの>(表象の道具)として描写するとき、ぼくらは、そこにおいてことばが個体発生的に樹立された行動の調整であるような、構造的カップリングの条件を、反映しない描写を、おこなっているということだ。(表象説の欠陥)
つまり、ことばは表象の道具ではないということ?
これは神経システムが、ある独立した世界の表象によって作動するものではない、という我々の神経システム観に矛盾する
p.251, l1 このヴァリエーション(方言など)の存在から言って、ある特定の言語行動とそれが調整するアクションとの間の類似性の欠如は、その下に横たわっている構造的カップリングと矛盾しないということは明らかだ。
たしかに、行動の調整をもたらす再現的相互作用が個体間に樹立されるやり方は、何通りでもある。
言語によって「テーブル」を指し示す言葉は異なる
何通りもあるというのは、肝心なのは形式ではなく、それらによって可能になるアクションの調整だからだ。
確かに、言語域はあらかじめ定められたデザインのないままに、ある社会システムにおける文化的ドリフトとして生じる。そしてそのプロセスは、構成要素の行動を通じてなされる社会システムの維持に必要な、行動の変換プロセスに他ならないのだ。
p.252, 言語域
個体発生的なコミュニケーション行動(固定発生的構造的カップリングの中で行われる)
観察者が意味論的用語によって描写できる
言語域とは、その有機体のすべての言語的行動の領域のこと。
意味の使用説はだいぶマイナー
トマセロなど認知言語学とは相性が良さそう
言葉の意味や文法というものは、使用の後から生まれてくる
脳に表象のようなものがあるように。
ライカンの言語哲学入門。(使用説とは逆)
チョムスキーなどは、脳に文法処理の構造がある。表象的。
酒井邦義さん、チョムスキアンなのでチンパンジーの言語については否定する
ブランダムの推論主義の哲学おすすめ。
文法が
トマセロ:
チョムスキー:
<言語域>を生み出す動物は、人間だけではない。
人間に特徴的なのは、行動の言語的調整において、一つの新しい現象領域を生じさせること。つまり、本来の意味での言語という領域だ。
これは、人間のアクションの、共=個体発生的調整を通じて生み出される。
<言語域>に本質的なのは、ある社会システムのメンバーたちが一緒に生きてゆくにつれて起こる、共=個体発生の構造的ドリフトだ。
社会システムの観察者にとっては、それは様々な調整のダンスの、驚くべき調和であるように見えるだろう。
こうしたアクションの調整が、色々な異なった実体を生じさせる。
再現的な社会的相互作用の流れにおいて、ある<言語域>での作動が、<言語域>そのものについてのアクションの調整をもたらすとき、言語が出現する。
つまり、<言語域>が自己言及的構造を持つように(自らを描写できるように)なるとき、言語が出現する
p.254, 言語の革新的な特性とは、言語はその内部で作動するものに、さまざまな言語的識別を言語的識別することによって、環境と自分自身とを、描写することを可能にする、というものだ。
観察者
p.280 精神と意識
分離脳
てんかんなどの手術のために、脳梁を切断
人格は3つ
左半球
右半球
二つのコンビネーション人格
言語野は普通左脳なので、右方向の言語情報しか処理できない
特殊な分離脳患者ポール
言語処理部分が右半球にもある
右半球に「smile!」と指示
体が笑う
左半球に「why are you smile?」
paulは辻褄が合うように、「Your're funny」と答える
左半球が優位?
※これだけではそれは言えなくないすか?
p.280 Mind and Conciousness
ポールの実験が示すこと
<mindを経験する>が起こるにはlanguageが必要不可欠
1つの身体に3つの独立人格
独立した自己意識存在(self-conciousness)の根拠は、「体ではなく言語能力になる」
我輩 I の出来(しゅったい)
the I を他から区別する「複数の Recursive Lingusitics Disctinctions 」が、
p.281 重要部分
僕らは僕らが「私」と呼ぶ、進行する描写的リカージョンを維持していくのだということを教えてくれる。そしてその私が、野蔵の言語的な作動の一貫性と、言語への適応とを、維持することを可能にしてくれるのだ。
かなりマトゥラーナの論調。エナクティヴィズムからは遠くなっている?
ここで言う「私」の定義でいくと、動物の意識なども無い事になる!?
narrative self と minimum self
身体所有感と行為主体感
minimum self を自己の要件として捉えている人にとっては、ここで言う「self」は疑問?
minimum self :
narrative self を補助線にするとここで言う「self」は腑に落ちる部分はある
narrative self :
良い引用:攻殻機動隊の人形使い