『<現実>とは何か』第一章
日付:1/15(木)
担当範囲:1章(p.19~p.64)
担当者:進藤
第一章:実体から不定元へ
「量子場」概念の根本的再考
現代の物理学がわれわれに迫る「思考上の革命」とは、いったい何を意味しているのか
現代物理学が、我々の自然観、現実観に革命を起こしたと言われる
それがどのような革命であり、どのような革命としてわれわれが受け止めていくべきかについて、(物理学者の中ですら)一般的な理解があるわけではない
**「光が波動であり同時に粒子でもある」**とはどう理解すればよいのか
物理学者でさえ通常は踏み込まない根本的な領域に踏み込む。
いいかえれば、物理学者にとっては自明な前提に属するような事柄を問題にする
とりわけ、現実の中に「実体的な何か」を置こうとする思考や、数学と現実を見えない壁で隔絶された二つの次元と考える思考が、以下の議論で解体されていく
議論の根本には**「現れるものを現れるままに受け取る」**という現象学的な思考法を含む
素朴な実態観を解体し、現象そのものに即するということを徹底し、新たな形での現象学的思考を提案することを目論む。
1節. 「場」とは何か
p.20~p.26
二重スリットの実験:粒子的現実観の破綻
具体的検討のために、最も有名な「二重スリットの実験」を振り返る。
**現象の観察:**乾板の前に二本のスリットがある衝立を置き、弱い光を当てる。乾板にはポツポツと「点状」に感光が現れる(粒子の性質)。しかし、これを繰り返すと、やがて鮮やかな「縞模様」が浮かび上がる(波動の性質)。
**素朴な解釈とその限界:**多くの人は「光はまず粒子として存在し、個々の着弾点は予測不能だが、統計的に集まると波動のパターンになる」と考える。しかし、この「まず粒子がある」という額面通りの受け止め方は、直ちに論理的な困惑を招く。
どちらのスリットを通ったのかという難問
もし、光が「一貫して粒子のまま飛んでいく実体」であるならば、一つの粒子は二つのスリットのうち「どちらか一方」を通るはずである。
1. 左のスリットのみを開けた場合(パターンA): スリットに近いところで密度が高く、遠くなるにしたがってまばらになる単純な山なりの分布。
2. 両方のスリットを開けた場合: もし光が粒子なら結果は単純な足し算(二つの山の重なり)になるはずだが、実際には「干渉縞」が現れる。
この推論は次の仮定に基づいている。仮定:「一つ一つの粒子の行動は、一方のスリットが塞がれているか否かに関係が無い」。しかし、実際には明らかに関係がある。粒子が発射の瞬間に他方のスリットの状態を「知っている」かのような神秘的な作用を想定しない限り、粒子の実体観は維持できない。
「場(フィールド)」という概念の登場
この神秘的的な説明を避け、合理的な記述を可能にするために導入されたのが「場」という概念である。粒子とは独立した実体ではなく「場の励起」にすぎない。場という広がりが両方のスリットを同時に通過し、干渉を起こした結果として特定の場所で点状に感光する。
2節. 粒子も場も実体ではない:真に現れているものへ
p.27-p.47
この節では、ファラデーによる場の発見からアインシュタインの相対性理論までを辿り、「実体」という考え方自体を徹底的に解体していく。
「物」はないのに、何かがある:磁場の例(p.27-p.30)
改めて「磁場」の不思議:「何もないところに力がはたらく」という点が不思議(真空でも磁場ははたらく)。「物」を媒介にしているわけではないが、砂鉄を撒いてみるとわかるようにパターン、すなわち「何か」が存在している。(砂鉄を媒介にして目に見える)
「何も物がない」ところに「何かがある」:「物ではない何かが現に働いている」と言わざるを得ない。「場」という概念はこのような直観に基づく。 「物」を自明の前提とする限り、場の必然性を論理的に導き出すのは難しい。
**「物がある」の条件:「**経験の有無/観察にかかわらず同じようにある」ことが「物がある」であると言いたいかもしれない。しかし、磁場は、荷電粒子に対して静止して観測する観察者には「ある」が、荷電粒子とともに運動する観察者には「ない」。これは論理的に破綻しているのではないか?(実はそうではない。根本に戻って考えてみる。)
「動いている」とはどういうことか:相対性理論への道(p.30-p.32)
**「動いている」の最も基本的な事態:**それは「見ている私にとって動いている」ということである。
**例:**列車に乗っている時、我々は「自分(の視点)が動いている」と認識するかもしれないが、これは自分が実際に観測していることではない。実際に動いているのは風景の方であり、自分の視点の移動は、動く風景から一定の「変換」によって理解されているのである。
「私」は絶対的に固定しうるものではないため、「動いている」とは「誰かにとって動いている」ということである。
磁場の話に戻る: 荷電粒子が「動いているか、止まっているか」(すなわち、磁場があるのか、ないのか)を絶対的に決定することはできない。「誰にとってでもない」仕方で動いているかどうかは決定できないから。「運動している」といったとき、すでに磁場についての言明は**「誰にとって」という問題を回避することはできなくなっている**。
変換規則の恒常性:「物」より普遍的な何かへ(p.33-p.35)
**恒常性の重心移動:素朴な「物」の観念は「誰にとっても同じようにある(観測者から独立している)」ことを恒常性として捉えてきた。しかしこれまでの議論のように、「観測者をも考慮に入れた変換規則の恒常性」**に力点が移っている。むしろ、この変換規則は厳密に計算が可能であり、極めて揺るぎのないものとして明らかになる。(相対性理論)
再度問う:「観測者から独立である」とされる「物」のあり方は自明なのか?:「誰から見ても、どのような仕方で見ても(観測者との関係がどのように変化しても)ある」のが「観測者から独立」。すなわち、「観測者から独立」という恒常性は、「観測者をも考慮に入れた変換規則の恒常性」の特殊な一例といえる。
より普遍的な恒常性である後者から、どうして前者のような特殊な恒常性の成立が可能になるのか、の方が自明ではない問題である。(ちなみに、現代物理学においては、「物(粒子、原子)」から見るより「場」の方から見る方が、問題を見るときのより一般的な見方である。)
実体論の誘惑:日常的現実観の限界(p.35-p.38)
**「場」というものはそもそも何なのか?:**ここまで述べたのは「観測者をも考慮に入れた変換規則」ということにとどまる。数学的定式化を目的とするならそれでよいが、そのような形式的な構造が、普段目にする「物の本体」だと言われると違和感。
**「本当に<ある>のは何か」という実態をめぐる問いの誘惑:**経験に対して現れる「物」が「実体」なのか、その背後にある「数学的構造」が実態なのかという問いの立て方をすると、そもそもの問題としていた「場」という現実の問題から離れてしまう。
現れていないが、それを想定しないと現れているものが理解できないような現実の在り方として、「場」というものが問題化されてきた。「場」を「実体」と考えるなら、「現れ」から独立したものとして存在すると言えるはずだが、「場」の根本的な規定は「「現れの」変換規則の恒常性」である。(「現れ」を捨象した単なる形式ではない)
このように考えた途端、「場」というものが本来考えられなければならなかった理由が失われてしまう。
(消化不良)「現れ」から独立したものである「実体」として「場」を考える必要があったが、「場」の規定を考えると「現れ」から独立することができない、ということ?
**根深い問題:**多様な現れの中に決定論的な法則性を見出すのが科学であるはずが、二重スリット実験のように、いかなる決定論的な法則を仮定できない結果が存在する。つまり、少なくとも個々の粒子的な現れについては、決定論を断念する必要がある(量子跳躍)。
二つの「実体論」の限界(p.39-p.42)
1. 粒子の実体論:
粒子概念を実体として保持したがる。(量子論はある種の神秘とみなす傾向)
例えば、光はずっと粒なのだが、「両方のスリットを同時に通過する(不思議な重ね合わせとして遍在)」のであり、人間の測定によって一点に収縮すると説明。
「どういう実験なのか」を理解するために、実体化された粒子の表象を前提することを強いる。
しかし実際は、そういう粒子の描像では理解できない出来事についての実験だから、パラドキシカルに見えるのは当然。
2. 場の実体論への批判:
粒子を実体として前提するから矛盾が起きるのであって、本当の実体は「場」なのだという考え(場の一元論)。
しかし、場を一元的な実体とすると、なぜ現象(感光)が「点状(離散的)」に現れるのか、なぜそれが「確率的(ボルンの確率解釈)」(決定論的ではない)なのかを説明できなければならない。
ボルンの確率解釈:場の強度と粒子の発見確率との間に相関関係がある
確率「解釈」とあるように、ここには解釈が挟まれるため、場の一元論によってすべての問題が解決するわけではない。また、場の理論を決定論的に記述して満足するということもできない。
**反論:**自然は場の理論の通りだが、人間に理解できないため、理解できるように確率を持ち込んで理解しているに過ぎない
**再反論:**では、その「偶然性を含まない現実」についてはどうやって知るのか?やはり、具体的な現象に関する実験を通して知るしかない。これらを超えた「現実」を想定するなら、それはある種の不可知論にコミットしていることになる。
「実体」神話の解体:現象に即すということ(p.43-p.44)
共通の前提: 粒子論も場の実体論も、「現にある現象を離れて、その背後に同一的な真の実体を仮定する」という点で共通している。その意味で、現象そのもの(科学的探究の出発点)から遊離した不自然な考え方に陥る。
問題は、粒子であれ場であれ、それのみが現れの背後に**「ずっと」ある**と想定していること。科学は現れとその背後にある同一的なものとの関係を、数学的な意味で同一なものとする方向で進んできたが、これは「数学的な構造」こそが「現実」なのであって、「我々の現れている現象」は単なる仮象なのだという極端な結論を導きかねない。
これは、そもそも場というものを考える出発点となった「現象に即す」という方向性を自ら裏切る。(同一的なものがないのに、何かが現れている、というところから「場」が出てきた。)
「場」の考えが乗り越えたはずの試行の習慣の戻るのではなく、さらに徹底して乗り越えることが必要。すなわち、より徹底して「現象に即す」。
「場が粒子となる」ということ(p.45-p.47)
より「現象に即す」ために必要なこと:「場が粒子となる」ということを徹底して(そこで現れていることを、何も否認することなくそのまま)引き受けること。
「場が粒子となる」とは、最初はある種の拡がりにおいて想定されていたものが、局所的な出現形態をとること。そしてそれが原理的にいって、決定論的に記述できないということ。
**なぜ「場が粒子となる」があまり意識されてこなかったか:**決定論的で同一的なものこそが、物理学の探究すべき「現実」であるという形而上学が、隠れた前提として物理学的思考を支配してきたからでは。われわれが直面している「現象」は、そのように「現実」を先行的に決定することを考え直すように迫っている。
3節. 法則とは何か:問いがなければ答えはない(p.47-p.54)
前節では、現代物理学が「決定論的で同一的なものが現実である」という形而上学を捨てるよう迫っていることを確認した。しかし、これは自然科学の柱である「法則」という概念そのものの問い直しを意味する。ここからは、「場が粒子となることを徹底して引き受ける」すなわち、認めなければならない最低限の事柄(=「場が粒子となる」)に問題を絞ったうえで、背後に別の道具立てを想定することなしに、現象そのものを考察し直す。
法則と「置き換え」(p.48-p.51)
統計的アプローチの再考: 「場が粒子となる」事態は決定論的には記述できず、統計的にしか語れない。この「統計的」という言葉が自明視している前提、統計的とは何を意味しているのかを掘り下げる必要がある。
試行の「繰り返し」とは何か::統計的な知見は「同様な条件(=独立同一分布)の下で」試行を繰り返すことで得られるが、本来、個々の出来事は時間的・空間的に異なる一回きりのものである。「同様な条件」を持ち込むことで、様々な時間点や空間的な非均質性を超えて生起する出来事の間に成り立つ「置き換えの関係」を発見する(=「法則を見出す」)。
しかし、我々の意識が向かう先は「法則」の方であり、「置き換え」の操作それ自体は目標として意識されるものではない。
統計的法則(例:確率分布)とは、一つ一つの試行を置き換え可能性の関係で結んだうえで集積したもの。法則が見えてくるとは、「二度と繰り返すことのできない」出来事の間の置き換えに立脚して物を見るということである。
驚くべき置き換え可能性(p.51-p.52)
**量子論がもたらした革命:統計的法則について語ることの意味は、絶えず変化し異なる多様な出来事の中に、この「驚くべき置き換え可能性」**が立ち現れるという点にある。法則とはこの置き換え可能性の表面的な現れにすぎない。法則そのものを生み出す根拠は、法則の中には書ききることができない。
問いがなければ答えはない(p.52-p.54)
条件設定と法則の変容: 統計的法則は、設定された「条件(境界条件)」に応じて劇的にその姿を変える。二重スリットを両方開けるか、片方を塞ぐかという「条件」を変えれば、現れる分布も変わる。(波動性)
これはあらかじめ定まった一つの必然性があるのではなく、「こうすればこうなる」という形で条件と法則が結びついている。
つまり、自然は問いかけ(実験条件の設定)以前に何かが確定しているのではない。問いかけがあって初めて答え(法則)が返ってくる。
二重の「書ききれないもの」:
1. 統計的法則が定まっても、どの選択肢が選ばれるかは法則には書ききれない。(個々の感光点は決定論的に記述できない)
2. 統計的法則それ自体がどのような条件を用意するかによって変化するが、「どのような条件を選ぶべきか」は書かれていない。
**「問いがなければ答えはない」:**どのような問いを用意すべきかは、自然ではなく我々が決める。この、法則には書かれていない我々の「問う」という活動なしには、答えとしてのいかなる法則も姿を現さない。
4節. 不定元としての自然と数学の核心(p.54-p.62)
実体論的な現実観が取り逃がしてしまう量子論の根幹について、数学的な「不定元」という概念を補助線に考察する。
「粒子になる」という出来事:実体論の盲点(p.54-p.57)
**粒子の限界と場の誤解:**粒子のみに注目すると現実を「偶然性」のみで(確率を根源的なものとして)捉えることになる。逆に場を「背後に隠れた決定論的な実体」とみなす極端な見方も、結局は実体論の罠に陥っている。
**場と粒子の不可分な運動:**場について語れるのは粒子的な現象があるからであり、逆に粒子的な法則を問おうとすれば場に送り返される。問いかける前には、場は「不定」だが、答えてくれた時には粒子的になり不定性が消える。粒子にならないと我々にとって答えにならない。
「粒子になる」: 確定したデータとしての「粒子になった状態」ではなく、場から粒子へと移行する**「粒子になる」という出来事こそが決定的**である。場を「はっきりつかもうとする」こと自体に意味はなく、むしろ「それ自体としてつかめない」ことこそが自然(場)の本来的あり方を示している。
「場をはっきりつかめない」ということを、積極的に捉えるかどうかが決定的なこととして問われてきている
未知数から不定元へ:数学的転換(p.57-p.59)
**「つかめないが現れている」:**これに違和感を覚えるのは、「現われてくるもの」は「つかめる」という前提があるから。しかし、「現れているが掴めない、つかめないが現れている」ことが、自然、さらに言えば「現実」一般の核心的なあり方に関わる。
「つかめないが現れている」ことの理解: これを理解するために、代数学における文字の役割の発展を振り返る。
1. 未知数:本当は決まっているが、今たまたま知らないだけのもの。式変形を通して明らかにする。
2. 変数: 式変形において、「その正体が何か」を抜きにして操作できることから、「正体が何でもよいもの」=「変数」としての文字概念に至る。ここでも、「値」というものは不可欠と考えられていた。
3. **不定元(indeterminate):**あらかじめ値を持っていないあり方を扱う可能性を開いた。ある状況が設定されたとき、場合に応じて「値を取りうる」。
**「場」とは自然における不定元である:**場が「粒子になる(値をとる)」前の不定なあり方は、数学的な不定元の概念と類比的である。むしろ、現代の代数学によってはじめて量子論の数学的な基礎付けがなされたのであり、不定元なしには量子場を考えることはできない。
不定元としての自然:「数学」のもつ深い意味(p.59-p.61)
実験という問い:「実験の条件が設定されていなければ、いかなる法則も見えてこない」。我々の認識の側の問題とみなされていたが、量子論において、このこと自体が自然の在り方の決定的な特徴を示していることがこれまで明らかになってきた。
数学の役割: 「どのように問いかけるか」があらかじめ決まっていない中で、それでもいえることは何であるかを明らかにするところに主眼がある。これはまさに、あらかじめ値を取らずに厳密な議論ができるという「不定元」の考え方そのもの。
数学と「現実」:「現実」というものが一つの形をとるということ、つまり究極的にいえば「現れる」ということが、不定元を用いる数学によってまさしく表現されている。「数学」というものの核心には、どこまでも「不定」なものがあり、それを「不定なもの」として持ちこたえ続けることが、まさしく数学である。そしてこれが、ほかならぬ「現実」そのものの本質的な現れ方である。
数学とは?:時間のなかで時間を超えること(p.61-p.62)
再現性と時間::法則は現在、過去、未来の無数の試行に対して同じ結果を生む。すなわち、「再現性」が含まれる。しかし、その法則がまさしくそのように現れるのは、「問う」という時間のなかで一度きり行われる具体的な遂行からである。したがって「法則」という時間を超えることそれ自体が、時間の中で起こっている。
「数学」のあり方: 「時間を超えているということそれ自体が、時間の中で成立する」ということはパラドキシカルに見えるが、そうとしか言えないことが実際に起こっている。この「時間の中で時間を超える」という活動に名前を与えるとすれば、それが「数学」なのではないか。
5. 数学と現実:壁の崩壊(p.62-p.64)
まとめ:
「場」の概念を通して、法則とは何か、現実が法則的に現れるとは何かを問題にしてきた。
法則的に現れるとは、現実が「形をとって」現れるということであり、いかなる形も取らずに現実が現れることはありえない。
それは、「現れる」ということそれ自体を問題にしていたということになる。
「現れる」ということが、まさに「時間の中で時間を超える」ということであり、それこそが「数学」の最も原初的な核心である。
これまでの考察は数学を物理に応用してきたのではなく、徹底的に「現象に即した」(「場が粒子になる」を徹底的に受け入れた)結果、徹底的に「現象に即す」ということがおのずから「数学」になる(現実を「不定元」として考える)、という洞察に至った。
現代物理学が迫る思考上の革命は、我々の現実観を大きく転換させるものであったが、その転換の姿が、「不定元」を核心とする数学の姿とそのまま重なるということは、我々の数学観もまた、大きな転換を迫られている。
次章ではこの章で露わになった「数学とは何か」という根本問題をさらに究明していく。