『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
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河出文庫
2017/9/6 発売
裏表紙より
全世界をインターネットが覆い、我々は相互監視のはざまで窒息しかけている --- 現代の「接続過剰」から逃走するチャンスはどこにあるのか?従来「接続を推進する」ものと見なされがちだった ジル・ドゥルーズの哲学を大胆に読み替え、「切断の哲学」を提示した本書は、人間の弱さや「有限性」をこそ思考する、世界的に特異な「生成変化論」である。巻末には千葉=ドゥルーズ思想を読み解くための手引きを付す。異例の哲学書ベストセラー、文庫化。 序 ——— 切断論
0 - 3 接続的 / 切断的 ドゥルーズ p.57より
読書界においては、ドゥルーズ&ガタリと単独でのドゥルーズはしばしば一緒くたにされ、リゾームという一語に極まる「と」の乱舞としての めちゃくちゃな 逃走線の危なさへの憧れが、今日でも曖昧に抱かれ続けているだろう。こうした大まかなドゥルーズ(&ガタリの)ポップ化は、彼(ら)自身、望んだことだ。私たちは、これほど大まかに愛されてきた哲学の、その 大まかさの細部に注がれるべき眼差しを改めて研がなければなるまい。そのために、<ドゥルーズ哲学の幼年期>におけるヒューム主義に注目し、そして、それとの或る連関において<ドゥルーズ哲学の少年期>におけるベルクソン主義についても、新しい解釈を試みる必要があるのだ。
生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない
2つの動きすぎを節約(エコノマイズ)する必要がある
「知識人=代表者」の動きすぎ
自意識の暴走
あれこれを表象してばかりで忙しいこと、節操がないこと
ジャンキーの動きすぎ
自己破壊としての生成変化の加速
オーバードーズ、バッドトリップへの警戒
自分の有限性に身を任せて、「すぎない」ほどに動くくらいがよい
有限化してくれるのは、他者であり、自分の享楽的な部分
他者 = 自分の享楽的な部分なのか?
第1章 生成変化の原理
生成変化の解釈
関連人物