世界史
「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典となっていく」
これは古典部シリーズに登場する折木奉太郎の台詞ですが、この言明は真と言えるでしょうか?
まず自らの視点に立った場合、これは真と言って差支えないように思われます。全ての物事を記憶したり、書き留めていつでもそれを呼び覚ませるような能力を持たないわたしたちは不可避に物事を忘れます。対象に応じて忘れる速度や状況は異なります(今日コンビニで買ったお茶の値段と両親の誕生日の重要性はどちらが高いでしょうか?)が、絶対的にわれわれが死すべき存在である以上、そのすべては喪われるでしょう。
そして、われわれのものが(手段はなんであれ)失われた先にある未来は、他の出来事とのヘゲモニー的連関の断絶と、なんでもありの解釈合戦です。 例えば、ある人の死後、その人の部屋から日記が出てきたとします。日記とは元来日々の出来事を記録するものですから、それと照らし合わせれば故人が日記を書いた理由は明確に(apparently)判断できるでしょう。しかしながら、その日記が日々の記録という一般的理由の他に、故人の個人的な動機に理由づけられて記されていたとして、我々は故人が喪われた状況でそれを推測できるでしょうか? その推測こそが物語化(古典化)であり、現行広く行われる世界史の営為はこの柵から脱することができずにいます。
なにも、物語化が悪い、と言っている訳ではありません。歴史に興味がない人間に事柄の羅列を押しつけたところで寝てしまうでしょうし、すこしでも日常的な情報受容の手法と合致させて歴史の門戸を広げていくことは重要です。
しかし、物語化にはこの利点とともに大きな弊害も存在しています。我々が物語と対峙するとき、どのような物語であれ読者は少なからず登場人物に感情移入し、あるいは彼らの視点に立って寸劇を始めることになります。
あなたがハリー・ポッターを読んでスネイプ先生に嫌悪感を持ち、ハリーが次にとる行動を考えたりするのと同じように、世界史を学ぶ際にはきっとレオポルド2世や閥族派のスラに嫌悪感を抱き、次に孫文がとるであろう行動を予測するでしょう。もしくは、ドラマの人間関係早わかり表のように、特定の国家を人と同じような主体として捉え国際紛争をわれわれの口喧嘩と同じ次元にて解釈しようと試みるかもしれません。
しかしながら、我々がそのような判断を下す背景には、我々のもつ強いバイアスがある、ということを忘れてはいけません。現在あなたが属する共同体においてあなたの価値判断が特異である、ないに関わらず、今を生きる我々のもつ概念は総じて現在の社会情勢のもとでたまたま存在しているに過ぎない仮初のものです。例えば、みなさんが持っている(と信じていますが)平和と平等を尊ぶ精神は、たまたま我々の合議体が自由民主主義的な傾向を持っているからにすぎません。もしあなたがどこかしらの奴隷制の持続する独裁国家に生を受けて何不自由ない生活をしていたとした場合、きっとあなたは人種・能力に基づく人間の階級付けは合理的であり、自らの生存のための競争を拡大した国家間紛争は合理的であるという価値観を持つでしょう。
我々の価値観すらおかれた状況に応じて変化する以上、一つの基準に基づいて、さまざまな価値基準において当時では合理的、あるいは道徳的に行われたかもしれない事象を断罪することがいかに無意味なことかお判りいただけると思います。
また、或る決定を下す主体は往々にして個人ではなく団体(法人)であり、その意思決定のプロセスには多くの人間の思惑が含まれているということを捨象してはいけません。例えば、ナチス・ドイツにおけるホロコーストの責任は往々にしてアドルフ・ヒトラー個人に帰属させられがちですが、あの惨劇に至るプロセスにおいて、ヨーロッパ全体に蔓延する非キリスト教徒への嫌悪感や、大不況でも揺るがない金融産業へのやっかみ、あるいは与えられた仕事に対し、忠実に職務をこなした無数の党員の存在を切り捨てることはできません。ある大きな方向性は多様な小さいベクトルの総合である、ということを常に覚えておく必要があるでしょう。
つらつらと私見を述べましたが、折木の言明についての話に戻るとすれば、この言明は真と思われます。確かに全ての(記録された)事柄はそのクレジットを喪い、歴史的な解釈の対象となって古典化されてしまうでしょう。
しかしながら、この不可避な古典化の作業のもつ大きな弊害に目をつむらず、批判的思考と絶え間ない脱自の試みの中で異なった方法によって歴史を把握する試みこそ、進歩史観を当面持っている人類は行うべきなのではないでしょうか。
歴史上の事物を究極の客観によって捉え、他の事物との連関をとらえていく。網を編むような歴史の編纂と受容の試みこそ、今行われるべきだと、私はそう考えます。