高山英華氏
[
追悼 高山英華氏(1931年成蹊旧制高等学校卒・故人)
始めての成蹊学園出身サッカー日本代表選手
https://gyazo.com/d8f03c2321c0f1c1269891454aa02787  https://gyazo.com/932c816196153b8bb079c3bcc7f15920 
日本の都市計画家、建築家。東京大学工学部名誉教授。
近代都市計画学の創始者。
建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通し、まちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。
「学生時代はサッカー選手(日本代表)」
縦と横とも体格が良く、競り合いに強く、闘争心は人一倍強く、得点に対する意欲も強いポイントゲッターフォワードであった
と伝え聞いています。成蹊旧制高校当時は、学園内のサッカー大会ではいつも得点王でした。
(以下はフリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋)
成蹊時代はサッカーとバスケットボールの選手で活躍。中学時代と大学在学中サッカーの選手として活躍し、旧制中学サッカー部時代全国優勝を経験。帝大在学中の1930年第9回極東選手権大会で日本代表フォワードに選出されている。その他戦前に開催を計画されていた1940年東京オリンピックのパンフレット用ポスターの絵を手掛ける。また、ベルリンオリンピック代表の候補にも選ばれ、ベルリンオリンピックは出発直前に盲腸を発症し辞退。
1934年に大学を卒業。卒業制作でこの年の辰野金吾賞を受賞。
戦後は内田祥文や丹下健三、浅田孝らと国土会を結成し、戦災復興都市計画に従事するべく、建築系の人材を人手が足りない戦災復興院嘱託に送り込むほか、自らも長岡市など、全国各地の都市計画事業に従事する。
「略歴」
1910年(明治43年)4月 出生、東京育ち。(杉並区阿佐ヶ谷)
1928年(昭和3年) 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
1931年(昭和6年) 成蹊旧制高等学校卒業
1934年(昭和9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業
1949年(昭和24年) 工学博士(「都市における密度に関する研究」)
1949年(昭和24年) 東京大学第2工学部建築学科教授
1951年(昭和26年) 日本都市計画学会理事
1952年(昭和27年) 結 婚
1953年(昭和28年) 東京大学工学部建築学科教授
1962年(昭和37年) 東京大学工学部都市工学科教授
同時期に、武蔵野市から研究室への吉祥寺駅周辺都市計画案の作成委託をうけ「高山案」を立案。
1964年(昭和39年) 「オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画設計ならびに監理」で日本建築学会賞特別賞受賞
1969年(昭和44年) 「高蔵寺ニュータウン計画」で日本都市計画学会石川賞受賞
1971年(昭和46年) 東京大学定年退官、東京大学名誉教授
1972年(昭和47年) 沖縄国際海岸博覧会・会場計画委員会委員長
1974年(昭和49年) 都市計画中央審議会会長
1975年(昭和50年) 「沖縄国際梅洋博覧会、アクアポリス計画」でイタリア海洋スポーツ・海洋交通協会から特別大賞受賞
1976年(昭和51年) 日本建築学会名誉会員
1978年(昭和53年) 「都市・農村計画の体系化と発展および建築・都市行政の推進に寄与した功績」で日本建築学会大賞受賞
1978年(昭和53年) 日本地域開発センター理事長
1979年(昭和54年) 郡市防災研究所会長
1980年(昭和55年) 日本都市計画学会名誉会員
1981年(昭和56年) 学校法人工学院大学理事長
1985年(昭和60年) 再開発コーディネーター協会会長
1993年(平成5年) 森記念財団会長
1999年(平成11年) 逝去