藤田一憲(1968年高卒)
成蹊サッカーの群像 昭和44年~63年
藤田 一憲(1968年成蹊高卒)
(1982年当時の写真)
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昭和44年春、私は大学2年生になる前に母校・成蹊高校春合宿に参加した。2学年下の諸君が残っていて私の同期の益田正明がコーチする期待された学年だったがチームが十分に熟さなかった。それ以来、平成になる前までの約20年間、成蹊高校―大学のコーチ、監督(昭和51-53年)として携わって多くの選手諸君と接した。彼らから多くの事を学んだが、それはプレーヤーとしてだけでは分からないサッカーの奥深い事であった様に思う。今回ここに懐かしい彼等の想い出を「成蹊サッカーの群像」として以下に記す。
GKでは惜しくも今年亡くなった大学52年卒・菅能雄介(成蹊高)が、おそらくこの間のNO1・GKだろう。180センチ超は今日当たり前だが、当時としては大型で(182㎝)リーチがあって足下も強かった。ゴール前にへばりついているのではなくペナルティエリア全域をカバーしようと云うGKだった。他のポジションをやっても高いレベルに達したと思う。病気で大学4年時にはグラウンド・マネジャーとなったのは残念だった。
他に54・55年のチームの福本(成蹊高)坂本(県・鎌倉高)、60年チームの野口(成蹊高)はバネのあるGK、62年初めて関東リーグ入りを決めた時の主将・GK渋谷(浦和西)が記憶に残る。
BKでは成蹊高で菅能の1級上にセンターバック松田成樹がいた。彼ら2人のおかげで成蹊高は堅守のチームで、我々のチーム(昭和42年)に続いて45年春の関東選手権・東京予選決勝に進出し帝京には敗れたが、その後2シーズンほど都のベスト8の常連となった。松田は屈強なストッパーで、この間のNO1だろう。‘壁`としてばかりではなく危機察知能力の高い選手だった。50年大学主将を務めた。
51年大学主将を務めた柴田(盛岡高)は浪人して工学部に入ったので身体を絞ってフィットするのに時間を要した。雪国出身だけに足腰が強く抜群のバネを持ったセンターバックだった。フィジカルが強く日本リーグ勢とやっても当たり負けしなかった。またテクニックもあるのでMFとしても活躍した。彼はストッパーと云うよりはスウィーパータイプ。61年の大学チームにいた四十物(あいもの)靖彦(駒場高)も大型のセンターバックで、柴田とは甲乙つけがたい。テクニックがありリベロが務まる様な選手で一時CFに起用した事もあった。
他に秋田選抜でバックながら得点力のあった53年卒渋谷一郎(秋田高)フィジカルを活かした同年のストッパー酒井、岐阜選抜で大きくはなかったが強力なマンマーカ―だった55年卒勝野(岐阜高)らがいた。大学53年卒・右サイドバック山上(希望が丘)は神奈川選抜のライトウィングで、大学3年から右サイドバックに転向した。スピードがあって相手ウィングに走り負ける事がなくマークも強かった。相手によっては左サイドもこなせた攻撃型バック。日立一高から入った55年主将・清水智はMFから3年時に右サイドバックに転向して活躍した。気の強いファイターでスピード系の山上とは異なる攻撃型として印象に残る。小林達夫(成城学園高)は父が日本代表選手で兄が慶大主将のサッカー一家の出。浪人したので暫く時間が掛かったがMFから3年時に右サイドバックになって活躍した。59年秋入れ替え戦(対帝京大)で0-0の試合の後半攻め上がって均衡を破った決勝点は殊勲甲として残る。左サイドバック高瀬はGK菅野の同期で成蹊高から一橋大に進学して中心選手として活躍した。小柄なインナーだったがファイトのある強気なプレーヤーで、かつ先の見えるクレバーな選手だった。
MFで54年の大学チームには現監督を務める松尾尚之(大泉高)と土橋(広島・舟入高)がいた。東京選抜と広島選抜だった2人は小柄なレフティだったが抜群のポジショニングで1年時から起用され、4年時に関東リーグとの入れ替え戦にあと一歩に迫ったチームで、後陣で2人がポジションを取り仕切って堅陣を張った。松尾は冷静沈着でフィールド全体を見る目があり、左足でのサイドチェンジとチャンスにはオーバーラップしてチャンスメイクした。彼もこの間のベストイレブンだろう。土橋は広島出身らしくテクニックに優れてMFも出来たが松尾と重なったので最終ラインに下がって守備の中心を務めた。センターもサイドも抜群のポジションセンスで高いレベルでプレーした守備のオールラウンダーだった。
丸田譲二、金真一、籾山肇は45-47年成蹊高が都ベスト8の常連時のMF陣。大学でプレーしたのは丸田だけだったが、彼等が揃ったら大学でかなりの中盤ができたと今でも残念に思う。丸田は活動量のある粘り強いプレーが特長のオールラウンダー、金は膝の柔らかい独特のボールタッチでFWとしても可能性の高い選手だった。1級下の籾山は成蹊中学時バレーボール部でジャンプ力があったのでCFに起用され、高校生でありながら大学との練習試合では大学のGKの上を飛んでいた。後にMFとなって屈強で抜群のスタミナを誇ったのでいろいろな可能性のある選手だったが、プレーしたのは大学1年までで未完成のままで惜しい選手だった。
成蹊のMF陣はテクニシャンと云うより頑張りのきく選手が多かったと思う。大学47年卒の久貝(厚木高)は小柄ながら抜群の走力の守備的MFだった。数的不利になっても彼なら何とかする…と云う信頼される選手だった。56-58年、60年主将を務めた小山(成蹊高)小高(私城北)大久保(都大泉)、菊地篤(成蹊高)らは夫々特長が異なるが共通して攻守の切り替えの速い‘成蹊らしい` MFで頑張り屋達だった。61年主将の高野(成蹊高)は小柄ながら足下の確りした機動力のある選手で、高校時代はウィングだったがスピード系ではなかったのでテクニックを活かしてMFで活躍した。62年に学習院との入れ替え戦を制して関東リーグに上がったチームには飯島(藤沢西)と小峰(横浜南)がいた。飯島は細かいタッチのドリブルを特長とする小柄なレフティーでチャンスメーカーとしてハーフトップまたは2トップのセカンドストライカーを務めた。小峰は引き目のハーフセンターで広い範囲で攻守の隙間を埋めるMFでマイボールを作り出して攻撃に繋げる安定した選手だった。
FWでは兄弟選手で那須兄弟(いずれも成蹊高)がいる。細かいボールタッチのテクニックのあるFWだったが特長は異なった。46年卒・那須兄は左ウィングからMFとなったオーソドックスなプレーヤ‐だった。一方50年卒の那須弟は小柄なCFで「前線でのリンクマン」として後方からのボールの目標になりポストプレーに特長があった。こぼれ球に必ず喰いついていくファイター型の選手だった。大学46-47年主将を務めた志村誠一郎と浅沼(盛岡高)はいずれも突破力あるFWだった。志村は我々の高校時代のエースで、短期間コーチとして来てくれた大野毅氏(のち東洋工業 日本代表選手)が「成蹊に面白いウィングがいる 」と時の早稲田・二村昭雄主将の面接に及んだが、早稲田にはいかずに成蹊大でプレーした。森・釜本が卒業した後だから2年時くらいからは早稲田でも出場できたのではないか?と思う。ウィング / インナーでスピード・ドリブルとダブルタッチの使い手でファイターでもあった。
CF浅沼は前述の柴田同様に足腰のしっかりした脚力を活かした重心の低いドリブルの持ち主で突破力抜群だった。彼の代は惜しむらくは彼を活かす相方となる選手がいなかったのが残念だった…2人ともこの間のベストイレブンに入るだろう。大学54年卒で成蹊中学で東京チャンピオンになり、全国大会3位になった小出文光、木下千里はスピード・スターだった。CF小出は170㎝程度だったが、あと5㎝背が大きかったら…と思うがテクニック抜群で相手の逆を突いて一気にトップスピードに乗ってゴールをおとしいれた。ヘディングでも結構点を取った。帝京高の全国初制覇メンバーでスピードのある帝京大ストッパーとの対決は火花が散る名勝負で昨日の事の様に覚えている。木下は小出とスピードで甲乙つけがたかったが、瞬発系で小出、少し長くなれば木下か?蹴って走れば誰も追いつかない=フェイントは要らない, とさえされた右ウィングだったが、彼は高校のマラソン大会で2連覇の抜群のスタミナを誇ったので一時ハーフトップに起用し小出とのタテの2トップを組ませた事もあった。CFではなく‘長尺の槍` の様なウィンガーで得点力も高かった…成蹊高は彼ら2人で攻撃できたが、逆に相手からは彼らさえ潰せば…だったのではないか?と思う。松尾・土橋らとともに4年時に入れ替え戦一歩手前で学芸大に優勢なゲームを追いつかれてPK負けしたのは今でも残念に思っている…2人ともこの間のベストイレブンの選手だろう。
大学ではプレーしなかったが、武田裕、渡辺潤一郎と崔雅道も特長のある選手だった。CFを務めた武田裕はバスケットボール上がりで抜群のスピードの大型選手。1試合6点を荒稼ぎする様な選手だった。45年春の選手権決勝で彼は欠場したが、出ていたら帝京とどうだっただろうか?と今でも思う。武田と同期の渡辺はインナーだったが得意のスラロームの様なドリブルを活かして後にチャンスメーカーとして左右のウィング起用が多かった。振りの速い右足の強シューターで得点力もありFKは彼が直接ゴールを狙った。崔はラグビーから高校1年でサッカー部にやってきたが、ほどなくボールリフティング100回をつくボディバランスの良い選手だった。高校卒業後読売クラブにいたが米国に渡り、カレッジで陸上とサッカーで活躍した。運動靴で100メートル11秒そこそこで走ったと云うのだから1年上の小出・木下に並ぶスピード・スターだったが、金真一同様にヒザが柔らかく独特のボールタッチとボディバランスの持ち主だった。米国の後ヨーロッパに渡ってプレーしたと聞いている。
彼等と型が違うがCFとして抜群のフィジカルと広範囲のシュートレンジをもつ鶴川雄一郎は、62年秋に初めて入れ替え戦に勝って関東リーグに上がった時の決勝点を上げた選手。成蹊中学時よりCFとして頭角を現して高校・大学を通じてCF専門だった。どの様な相手でも1点が期待できる勝負強い異能な選手だった。52年卒には東京選抜だった高橋(都錦城高)がいた。彼は小柄だが抜群のバネを持ったCFで、型にはまったら何点でも取る様な選手だった。左ウィングとして特長のあったのは広島・皆実高から来た小柄なレフティ久保田欣彦。細かいボールタッチのドリブルと得点への独特な臭覚のあるファイトのある選手だった。彼も松尾主将のチームで入れ替え戦一歩手前で苦汁を呑んだチームの一員。大学59年組に静岡東からやってきた山田英寿も静岡らしい細かいボールタッチのスピードドリブルの出来るチャンスメーカーだった。
成蹊には名マネジャーが出た。大学50年卒・高橋徹はプレーヤー経験はなかったが成蹊高校時代から折衝力を発揮し‘栴檀は双葉より芳し` で、後年ビジネス界でも大を成した。54年卒内田もプレーヤー経験はなかったが当時から冷静な事務長タイプだった。就職した建設会社でもきっと活躍しただろう。
以下は故人になる。大学48年卒・七戸一夫は成蹊中・高校と運動能力の高い意外性のあるインナーだった。浪人して成蹊に入り直した後には脚部に故障が多くなって大成しなかったのは残念だった。会社務めの晩年から大学の応援団長を買って出て活躍した。時に三枚目を買って出て現役や他チームにまで溶け込んでいく姿は、中高時代に一緒にプレーした者には繊細な性格を知るだけに理解するのに時間を要した。葬儀には各代OBはじめ他校のOBの参列を多く見たのは彼の遺徳の所以である。
もう一人書いておかなければならないのは鈴木一守の事だ。多くは彼の事を語りたがらないだろう。敢えて書くとしたら監督・コーチとして高校・大学で一緒に働いた自分だろうと思い次の様に記す。彼の最期はやってはならない事をやってしまい多くのOBや外部にも迷惑が及んだ。それは全ての友情を破壊してしまった。だが…先輩として彼の本質の一部を知る者として、今日成蹊サッカーが100年を迎える間の‘短くない一時期` に彼は常にグラウンドに立ち選手としてコーチ・監督として膨大な時間を成蹊サッカーと共に過ごし、成蹊サッカーを愛し、強くなって欲しいと思い続けた事を私は知っている。62年秋入れ替え戦で勝ち初の関東リーグ入りを決めた夜、彼とともに祝杯を上げた事を想い出している…