田中圭介(1979年経済学部卒:主将)
日本のサッカーは変わった
田中 圭介(1979年卒:主将)
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母校成蹊では中学校からサッカーを始めた。以来サッカーとは長い付き合いになる。その間、多くの方々に大変お世話になった。中学では津曲先生、島本コーチ、高校では石島先生、益田コーチ、大学では朝倉先生、藤田副部長、一守監督、そして諸先輩、後輩、素晴らしい人々に恵まれ充実したサッカー人生を送ってきた。改めて皆様には心から感謝申し上げます。
中学では準レギュラーだったが、高校では主将を務めた。昭和49年全国高校サッカー東京都最終予選で国学院久我山に1-2で敗退、同校が決勝で負けた帝京が年明けの全国大会で初優勝を飾った。大学では、東都一、二部を経験。関東への挑戦もあったが夢叶わず、残念な思いもした。
数多い思い出の中ではフジタ工業、古川電工、中央大学の3試合は印象深い。フジタのカルバリオ、 セイハン比嘉、マリーニョ、古川の奥寺、中大の金田喜稔。実にうまい選手だった。特にブラジルトリオには、個人技の重要性とそれを身につけるべき時期があることを思い知らされた。
当時の日本代表はサブ組が出るとレベルがガタ落ちするほど人材不足だったが、今では50人いや100人の代表候補を選んでも遜色ないレベルに来ている。最も貢献したのは、加藤久が推進したトレーニングセンター制度(トレセン)。底辺は広がっている。そしてJリーグ発足も後押しして日本のサッカーは大きく変化した。
私は20年間柏市で少年サッカーのコーチを続けている。小学生なので基本的なトレーニングが中心だが、私が学生時代経験してきた練習とは全く違い、バルサの練習メニューなど理に叶った新しい練習を採り入れている。子供の技術レベルは非常に高い。日本サッカー界にとっては、良い環境が醸成されている。
(尤も、世界は遠ざかる一方だが・・。)手前みそだが、教え子から全国大会出場選手も数名出ている。自分が果たせなかった夢を教え子に託している。
翻って、今の大学現役を見れば、そうした環境でトレーニングを積み、高い技術レベルを維持しながら育ってきた選手が多いはずだ。
サッカーは最も可能性を追求できるスポーツだ。何故なら、広いピッチ、11人という多い人数、非常に簡単なルールで構成されているからだ。その可能性を最大限に引き出すのは、チームワークだ。現役選手一人ひとりには、是非自分の持つ高い技術力を信じ、それをチームの為に存分に生かすクリエイティブな発想の提供と肉体的な努力をしてほしいと思う。さすれば、成蹊が最も得意とする『チームワーク』であらゆる可能性を現実性に転化し、相手を圧倒することができるでしょう。
FORZA!! 成蹊。