東京大学文学部名誉教授 西本晃二(1952年高卒)
個性的でユニークなプレーを
東京大学文学部名誉教授
西本晃二(1952年成蹊高卒)
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僕の成蹊学園サッカー部での憶い出は、あの、今では工学部の校舎が建って消えてしまった、本館裏のグラウンドの周りを囲んでいた四百メートル・トラックに尽きる。
第二次大戦前生まれ、公立小学校ー>国民学校ー>個人疎開ー>終戦で帰京したらまた小学校、の曲折を経て、翌一九四六年春に旧制の七年制成蹊高等学校尋常科(今の中学)に入学した。話をスポーツに限れば、成蹊は創立者の岩崎小弥太氏が英国留学経験から、彼地のパブリック・スクール教育に感銘を受けて、ラグビーを校技とするとしたとか。ただ戦中はそんな敵性国家の競技は認められず、柔道・剣道一辺倒だったが、戦後は解禁となり、部が再建され幅を利かせていた。しかしラグビーは、スクラムやタックルを見ても知れるように接触プレーの競技である。足はけっこう速かった(サッカーのスパイクで百メートル十三秒フラットぐらい)が、体(身長百六十センチ弱、体重は当時四十キロ後半)が小さい僕には不利。よってサッカーと思ったが、これが入学当時部員は一年上にAさんとHさんの二人がいただけ。むろんチームとして成り立つわけもなかった。
そこで休み時間に、今では芝生になってしまった本館前の前庭で、ボール蹴ったり取りっこして仲間を募ったものだ。これにはピーナッツ型で不規則なバウンドをするラグビー・ボールより、真ん丸で動きが読み易いサッカー・ボールの方が向いていて、旨く行った。ただ当時は革(豚革?)のボールも縫目が緩く、直ぐに平たくなる。するとパンパンに膨れ上ったり、逆に中のチューブ(当時はチューブが入っていた!)が破れ空気が抜けたり、手入れが大変だった。旧制尋常科二年の時(一九四七)に学制改革で新制度となり、新制中学から高校に進む頃には部員も十一人そこそこ、時にはまだ中学生のM君を助っ人に入れて、都の高校リーグでマアマアの成績ぐらいにはなった。
で、前述のように体の大きさのハンディがあるから、どうすればそれが補えるか考えた。高校でのポジションは、これも今のフォーメーションではもう流行らないW形フォワードの、僕は左利きを矯正された右手使いだから左のインナー、ボールを受けてアタックに来た相手のバックを抜いたら、後はもうドリブルで敵のエンドライン近くまで持って行って、ゴール前へ折り返すなり、中へ切リ込めれば自分でシュートする。その間、敵に追いつかれないようにするにはどうするかばかり考えた。結論は簡単、速く走れるか否かにかかっている。ただこれは言うは易いが、行なうは楽でない。前後半四十五分づつ、一時間半の試合を最後まで走り続けるには体力が要る。そこでやったのが、冒頭に書いた本館裏のグラウンドを囲む四百メートルのトラックを二十五回とは一万メートル、中学三年から高校三年まで毎夏最低五十日、一人でひたすら走ること。これだけ走り込んであれば、大抵の試合で後半、他の選手達がヘバッても自分はまず大丈夫。そこがチャンスになる。
一九五二(昭和二七)年成蹊高校を出て別の大学進学、もう六年間好き放題なサッカーをやったのだから今度はテニスと思っていたのが、ヒョンなことから秋の新人戦に引っ張りだされたのが運の盡き。そのままズルズル第一回全国大学選手権で東大が優勝(ポジションは左のウイング、チームに過日亡くなった岡野俊一郎・中島・浅見・柴沼といった強力な面々がいたのが幸いした)、その後もいろいろな形でサッカーと関わることになったのも、成蹊の旧グラウンドでの走り込みが利いたということか!
以上思うに、たとえチーム・ゲームだろうと、あくまでプレーヤー個人が基本。細切れ「三・三・四年」の学校制度や部活などに囚われず、各人が自分の流儀で、得手・不得手をどう伸ばし・補って行くかにかかっている。個性的でユニークなプレーを!