斉藤剛史(1996年経済学部卒)
「いったい何だったんだ?あのエビは」
斉藤 剛史(1996年経済学部卒)
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成蹊学園サッカー部創立100周年、心よりお喜び申し上げます。
私が成蹊大学サッカー部に在籍したのは1991年から、三年生を終えた年にJリーグで過ごした一年間の休学を挟んでの四年間になります。
高校選手権でベスト8という中途半端な好成績を残して暁星高校を卒業し、厳しい練習から逃れる一心で成蹊大学に入学、当時サッカーに対する生半可な情熱は燃え尽きつつあった私は、人生の新たな門出にあたり、幼稚園以来の男女共学となる成蹊大学の某テニスサークルにその想いを託しました。
サークル入部からひと月ほど経ち、憧れていたバラ色のサークル生活なんてこんなもんかと虚しさを感じ始めた頃、ちょうど私と同じ様に、大学進学を機に永年続けてきたスポーツをやめた友人の何気ない「俺、このままでは腐っていくよなぁ」の一言で昼寝から目が覚めました。思い立ったら吉日と、その日、さっそくサッカー部に挨拶に行き入部を認めてもらいました。幼少から虚弱体質で、最低限の体力をつけろと親からの強制で始め、その後サッカー以外の選択肢の無い生活を続けてきた私にとって、この時、生まれて初めて自分の意思でサッカーという競技を選びました。振り返ってみますと、この友人の何気ない一言から私のサッカー人生第二章が始まり、連日の飲み会に皆勤し、結局テニスの練習には一回も出席しなかった私のサークル人生はあえなく閉幕したのです。
影響を受けた一言といえば、私が一年生の時に四年生だった大柄なのに小太郎というお名前の先輩からの一言も深く胸に残っています。
同期の誰かの不始末から連帯責任で走らされた時、指導係だった小太郎先輩に対し生意気にも、「走ったら勝てるのですか?」と聞いたところ、「タケシ、走ってから文句を言え」と素っ気なく一蹴され、納得がいかないまま罰則メニューをがむしゃらに走り切ると、さっきまでのモヤモヤした気持ちは何故かスッキリした充実感に変わっていました。シャワーを浴びて帰ろうとした時、「タケシ、飯行こう、お前の文句を聞いてやる」と待っていてくれた小太郎先輩。この優しさが妙に心に沁みて、その時、成蹊サッカー部に入って良かったなとつくづく感じました。ある意味、自然界の掟のエッセンスが詰まったこの「やってから文句を言え」という言葉の本質である、「全力でやり遂げてこそ見えてくるものがある」を今では拡大解釈して、有楽町のニューふるさと料理「日の基」で後輩に管を巻いて飲んでいる時などには、「おい、やってから文句を言え」と、ジョッキを空けろと強要していたりします。
ジョッキといえばこんな話もありました。入学したら学年で一番かわいい女性と付き合い結婚するのだと、過剰な自意識と根拠の無い思い込みが奏功したのか、なんとかその女性(現愚妻)と付き合ってもらえる事になった翌日の社会人チームとの試合前、当時、一年生はチーム集合時間の一時間前に集合というルールがあったのですが、近くの喫茶店に入り、同期達が「タケシ、良かったね!」とビールジョッキで乾杯してくれた時は嬉しかったです。その後の試合では全くボールが足につかず惨敗、先輩から「お前らどうなってんだ!」と厳しく叱咤されました。規律に厳しかったサッカー部でしたから、試合前にジョッキで乾杯なんて、バレたらおそらく全員丸刈りだったのかなと振り返っています。
ラジカセを大音量で筋トレするアメフト部との因縁、今でも飲むと揉めるラグビー部との因縁、素振りでシャワー室への行く手を阻む野球部との因縁、応援に来てくれないチアーリーダーとの因縁に囲まれて、我が道を行くサッカー部だったからこそのチームワークは勿論のこと、個々のスキルも秀逸でした。最も衝撃を受けたのは、我らがクラブハウス「いせや」での打ち上げの後、酔った勢いで井の頭公園の池に学ランのまま飛び込んで小指ほどのエビを捕獲、そのままライターで焼いて食った榎本先輩を越える強烈な個人スキルには未だ巡り合えておりません。
練習は相当しました。清水エスパルスに入団する前の時期は私のサッカー人生で最も練習をしました。ボール、フィジカル含め一日十時間くらいは練習したと記憶していますが、そのお陰で入団早々疲労がピークに達し、椎間板ヘルニアで入院、実力不足も然ることながら、サテライトでも必要な出場試合数を満たす事ができずにあえなく解雇、その年の暮れの静岡新聞には、同じく清水に所属していて解雇された兄と共に「斉藤兄弟には寒い冬」との切ない記事が載ったのを覚えています。
それでも、中学からトップレベルのクラブチームでサッカーをしてきたプロでは大先輩であった兄と、もう一度同じフィールドでプレーをするという小さな夢を叶えた私は、他球団へのトライアウトを受けず大学に戻る事を決めました。
サッカー部に戻った私は、少年サッカーを教えつつ半ばコーチの様な立場で練習参加させてもらっていましたが、立正大学との負ければ二部降格という東都リーグ最終戦の後半から出場させてもらったものの、期待に応えられず痛恨の敗退。前年に一部復帰を果たした同期達、私を信頼して出場させてくれた監督、コーチ、後輩達を裏切ってしまいました。少しでもその償いになればと、今でも毎年、同期の忘年会では幹事をやらせてもらっています。
成蹊大学サッカー部では、サッカーという競技の奥行の広さに改めて気づかされる日々でしたが、同時に多くの経験、出会いを通して、私の人生の奥行も広げてくれのだと思い返しています。私の唯一の強みである「ハート」を磨いてくれたのも、間違いなく成蹊大学サッカー部でした。
末筆ながら、いまだに進化し続けるサッカーと共に、成蹊学園サッカー部の更なる進化をお祈り申し上げます。