成蹊大学1994年卒 主将 石川 桂
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【この年(1993年)の日本の主な出来事(成蹊学園の出来事含む)】
徳仁親王と雅子様が結婚、 レインボーブリッジ開通、 成蹊大学国際交流センターを開設
【この年の日本サッカーの主な出来事】
1993年5月15日Jリーグ開幕(初代王者 ヴェルディ川崎
【この年の世界の主な出来事】
欧州連合条約発効、EU始動
★主将: 石川 桂 主務: 池尻 康彦
写真無し 写真無し
★主将のコメント
2年シーズンが終了し東京都二部リーグへの降格が決まった。
新4年にはイギリス留学から帰国し再入部していた小川光太郎君(現ドリームスタジオ代表取締役)がいて次期主将を彼がするか私がするか話し合った。
元々一学年先輩で強烈な個性を持つ彼も「自分でやるつもりだったけど、桂がやるというなら譲る」といった。ただ「他が推すからじゃなくお前がやるというならだ」と加えた。同学年には他にも統率力のあるメンバーが揃っていたので彼のような力で引っ張り上げるリーダーより私のような調整型が合っていたのだと思う。彼は快く副将を引き受けてくれた。
東洋大との入れ替え戦で敗れ一部リーグ復帰は果たせなかったが、その無念は苦楽を共にし、この時すでに主力メンバー化していた仲里新チームがさっさと晴らしてくれることとなる。"
★この年に起こったエピソード、イベント
*4年全員丸坊主
夏合宿で部員の不祥事が起き4年全員丸坊主という沙汰が下った。
チーム運営責任者として主将だけ頭を丸めるという陳情も、松尾さん裁きは「あまい、もっと考えろ」だった。このお沙汰を4年全員に通達し一晩考えてくれとした翌日、ある一名を除き全員五厘刈りに同意してくれた。こうなればこの一名もせざるを得ない状況に追い込まれ少し遅れて刈ってきたが、丸坊主とはいえないちょっと格好良い風にアレンジされておりみんなの失笑を買った。個人名は控えるが久我山卒の小さい方だ。
*奇跡とお褒め
私(石川)のポジションはGKだった。
小・中・高・大とGK一筋だったが一学年下にあの伝説の大物GKが入部した。後に当時のJ1横浜フリューゲルスと契約を果たした杉原龍馬君だ。あれほどパワフルなゴールキーピングを目の当たりにしたのは初めてで自ずと日々の練習にも力が入った。私は1991年秋東京都一部リーグ戦の対立正戦で右手を負傷した。プレー中にはっきり骨折と分かったが交代枠を使い切っており残り20分以上左手一本で奇跡的に完封した。
そしてもう一つ奇跡的だったのが、その後3試合に先発した新人の龍馬が爆発的なプレーを見せ、その年の東京都リーグ選抜のGK三人枠に成蹊GKが二人選出された。その後の彼の偉業を見れば当然の結果かもしれないが、当時立教大学サッカー部コーチで、リーグ選抜チームも見てくれていた田嶋幸三氏(現JFA会長)から成蹊GKについてお褒めの言葉を頂いたことをよく覚えている。"
★当時の顧問・監督・コーチ及び4年生全員
・顧問鈴木 滋・部長鈴木 一守
・監督菊池 浩一・コーチ松尾 尚之、田村 真治
・OB会長朝倉 孝吉
・4年生 石川桂、小川光太郎、藤田一成、後藤譲、中里逸人、池尻康彦、榎本正人、高橋賢、
安藤昌徳、小清水勇治
・マネージャー青木(多辺田)洋子
★部員全員写真
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引退時点でやっとスポ刈り状態の1994年卒
★部員数11?人
4年生10人3年生?2年生?1年生?
女子マネージャー1人
★東京都大学リーグ2部8校 亜細亜大、大東文化大、上智大、成城大、学習院大、
日大文理学科、一橋大、成蹊大
★成蹊大学の成績 2勝1敗4分 3位
東京都大学リーグ2部 3位 入替戦 東洋大 ? - ? 成蹊大 2部残留
★リーグ戦メンバー
対東洋大学・1部入れ替え戦 スターティングメンバー
GK石川(4年)
DF仲里(3年)、野間(3年)、中沢(3年)、竹内(3年)
MF二瓶(3年)、安藤(4年)、阿久津(2年)、西室(2年)
FW齋藤(3年)、小川(4年)
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