多和健雄氏
追悼 多和健雄氏(1963年成蹊高校サッカー部 指導コーチ)・故人
(日本サッカー協会サッカー殿堂入り)
http://archive.footballjapan.jp/user/images/person/58.o.jpg
日本サッカー殿堂(2011年第8回掲額)
1918年10月29日、愛媛県生まれ
兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校で選手として活躍。
中央大学法学部卒業。
中学、高校の教諭を経て、1954年から東京教育大学で教鞭をとり1973年より教授。
1978年筑波大学体育専門学群副学群長
JFAでは1960年より選手強化本部普及部長、東京オリンピック後は普及指導部長、技術委員として、年齢や環境に応じたサッカーを提案し、サッカー文化の普及や指導者養成(コーチ制度の確立)に尽力した
戦後いち早く、サッカーの教育的、文化的価値を見出し、学校正課体育へのサッカーの導入を提唱し、その原案作りに関与。1958年改訂の学習指導要領改訂おいて、小学校から高校までの体育の学習内容としてサッカー(小学校では簡易型のサッカー)が採用された。(1962年から小学校から段階的に施行が始まる)。1960年文部省教材等調査研究会の委員に委嘱され、学年に応じた技術習得のための教材研究や指導法の体系化に努めた。また、教職を目指す学生や現場の教員を対象に指導者講習会を実施し、教育現場での適切な指導の実現を図った。サッカーの教育課程への位置づけにより、すべての児童がサッカーを経験できる環境が整備された。基礎的なサッカーの指導が学校体育の中で行なわれることとなったことは、日本のサッカーが急速に普及し、発展する一つの大きな契機になったといえ、その先鞭をつけた功績は大きい
また、戦後最も早く海外のサッカー理論を取り入れ、チームでの指導で実践する一方、それを若い世代へと伝授し、戦争で中断され低迷していた日本サッカー界を活性化させた。自ら監督として、東京教育大学を1953年度関東大学リーグ優勝に導いた
2007年没 (日本サッカーミュージアム提供)
「成蹊高校サッカー部指導コーチとしての功績」(御厨雅宏 記)
1963年(昭和38)、私が成蹊高校2年生になると主将になり、部の練習について種々の計画を立てる必要性に迫られました。
本屋で種々のサッカー指導書を見つけ、読み漁っていましたが、それらの著者は当時、竹腰重丸氏と多和健雄氏のお二人が際立っており、多くの指導書を出版していました。その多和健雄氏が武蔵野市の成蹊の近くにお住まいということが判明しました。
新たな指導者がほしいと思っていた私は、主務の山本君とアポ無しで、突然、自宅を訪問しました。今考えれば、大変失礼なことでしたが、快く応接間に通して頂き、いろいろなお話を聞かせて頂きました。
数日後、成蹊高校グランドに直接指導に来ていただき、サッカーについて、いろいろと教えて頂きました。
基本プレーの大切さ、コンビネーションと戦略について、基礎体力のトレーニング法など、すべてに新鮮な知識と技術を教えて頂きました。それから、月2回程度、グランドに来ていただきコーチとして指導を受けることが出来ました。
そして、偶然が更に重なりました。多和健雄氏の息子さんが、当時、慶応大学サッカー部の選手であり、息子さん(多和秀人氏)に成蹊高校サッカー部のコーチをするように!と進言をして頂き、その後、多和秀人氏の指導を約1年間受けることが出来るようになりました。その間、慶応大学サッカー部の試合応援に何度も行き、サッカーをいろいろな角度から学ぶことが出来ました。お二人ともとても優しく、親切で我々高校生にとっては夢のように素晴らしい経験でした。
そして、1963年夏の東京都国体予選大会で成蹊高校サッカー部として初めての東京都ベスト4になり、翌年の1964年には、関東高校選手権東京都予選でもベスト4になり、東京代表として関東選手権大会(群馬県館林市)に出場することができました。
この感激や多和健雄先生に指導受けることができたことが、今も、私にとって大切な思い出であり、感謝の想いで一杯です。
あの時は、未熟な高校生であり、お二人に心からのお礼を言えたのか?不安です!改めて、ここに心からのお礼と感謝を申し上げます。有難うございました!