塩屋園文一(1973年経済学部卒)
成蹊大学体育会蹴球部に在籍して
塩屋園 文一(1973年卒)
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1973年卒業の塩屋園文一です。成蹊学園サッカー部創部100周年おめでとうございます。この伝統ある成蹊大学体育会蹴球部に在籍していた事を本当に誇りに思います。
さて、自分のサッカー歴は、世田谷区立千歳中学校2年時に友達に誘われてサッカーを始めた事から始まりました。都立千歳高校に進学しサッカー部に入部しましたが、夏合宿前の健康診断で心臓に異常がある(不完全右脚ブロック)との診断が下り部活動の禁止が学校側から通達されました。ショックではありましたが、受け入れざるをえずサッカー部ではマネージャー的な仕事を任されました。
この年1964年は東京オリンピックが10月から開催され、サッカー競技を数試合駒沢競技場に見に行きますますサッカーの面白さにとりつかれました。その試合の中には、ユーゴスラビアの試合もあり、オシムさん(ジェフユナイテッド市原・千葉→日本代表監督)が選手として出場していた事を後になって知りました。なんかご縁を感じました。
翌年、3年生が引退し自分達の時代になり、強度の運動がだめならばGKなら大丈夫と勝手に判断しプレーを再開しました。またこの年に、日本サッカーの父であるデットマール・クラマーさんの提言により日本サッカーリーグが始まりました。日本では、通年のリーグ戦を採用したのはサッカーが最初です。日本サッカーリーグが始まると、古河電工サッカー部のファンとなってしまい、駒沢競技場や三ッ沢球技場に足を運び、日本代表であった宮本征勝さんと知り合いとなり、受験勉強で図書館に行くと言いつつ毎週の様に古河の試合を応援に行ったり、日本代表の練習を見に東京大学検見川グラウンドに通いました。
結果、二浪した後に成蹊大学に入学できました。みなさんもご存じと通り、成蹊大学は入学時に心電図の提出が義務付けられていました。なんと、不完全右脚ブロックでも体育会蹴球部の入部が許可されました。この数年間を取り戻すべくますますサッカーにのめり込みました。自分にとって成蹊大学体育会蹴球部に入部できた事は、非常にラッキーでした。と言うのは、関東では強すぎて出場の機会は皆無であり、自分の実力で頑張れるサッカークラブが、成蹊大学体育会蹴球部であったからです。
何とか試合に出場できる様になると、吉祥寺の日産厚生園で練習している日立や、宮本さんの計らいで古河電工とも練習試合の機会に恵まれ、古河電工の試合では、永井良和(赤き血のイレブン)さんや奥寺康彦(初代ブンデスリーガー)さん等と試合が出来た事は、良い思い出となっています。これらの縁で、古河電工㈱への就職試験の機会を戴き、1972年3月に自分達の学年では最後に古河電池㈱に入社内定を戴ました。それと同時に、4年生になると古河の練習やキャンプに参加の機会を戴き、卒業と同時に古河電工サッカー部に一員になる事が出来ました。
古河電工サッカー部では8シーズン在籍させて戴きましたが、残念ながら日本サッカーリーグに出場の機会はありませんでした。引退が近づいて来て、サッカー界に残る手段を考えている時に、日本サッカーリーグの出身者から審判を作る話が上がり、日立所属の菊池光悦氏、日本鋼管所属の山田等(元日本代表)氏と3人で審判を目指す事となりました。お互いに切磋琢磨して1984年に同時に日本サッカー協会1級審判となる事が出来ました。
その後、日本サッカーリーグの主審を担当し、3人で国際審判になる事も出来ました。日本サッカーリーグの思い出としては、1級審判になった直後に、日本23歳以下の代表チームの帯同審判としてタイで開催されたU-23インターナショナル招待大会行って3位決定戦を含めて10日間で7試合位担当しました。その時、キャップテンをしていた選手と友達になり、JSLでも同じピッチに立ちました。ある意味、サッカー仲間としての友情が生まれました。
JSLのある試合で、彼の相手チームにPKを与えた時、彼はその判定を納得出来ずレフリーである自分の胸を突いてしまいました。その時、審判と選手の立場を忘れてしまい、強く対応せずレッドカードを示しませんでした。その後、マッチコミッショナーからの報告で大問題となり彼に6ヶ月の出場停止処分が下されました。もしその試合で、審判として競技規則の通りレッドカードを出していれば、彼は数試合の出場停止で済んでいたでしょう。本当に、悔やまれます。
1993年5月15日Jリーグが華々しく開幕し線審を担当出来たのはタイミングとは言いながらサッカーが変わってきた実感が湧きました。この年には、国際審判として1994年アメリカワールドカップアジア予選でイラン・テヘランに行き、8万人の男ばかりの大観衆の中で担当したり、FIFA U-17ワールドカップ(日本代表には中田英寿選手がいました)が日本各地で開催され名古屋・岐阜グループを担当、日本人は1人と言う中でやり切った思い出あります。特に、テヘランでは、サッカー文化の違いを痛切に感じました。
Jリーグを担当した1996以降は、アセッサーと言う試合毎に審判を評価する任務に付き、現役審判よりアセッサーとしての任務が長くなって今日に至っています。今日までサッカーの現場に係っていれるのは、冒頭に述べたように、成蹊大学体育会蹴球部に入部出来たからだと思っています。感謝の一言に尽きます。
成蹊大学体育会蹴球部の今後の活躍を祈念致します。ありがとうございました。