五来 純(1979年経済学部卒)
成蹊中学コーチの思い出
五来 純(1979年経済学部卒)
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私は成蹊中学に入り本格的にサッカーを始めました。その時代は、中学体育教師の津曲静雄先生がサッカー部顧問をして下さっていました。
津曲先生は現在八十才半ばを迎えられていますが、今もお元気であちこち痛いという六十代の方々にマッサージをされています。
その元気な先生が四十年以上前は、それはお元気でした。そして練習は毎日出て来られ「シュートは上げるな、落とせ!」と毎回言われ続けました。あまりにも出来ないと、「バカタレやめてしまえ!」と怒鳴られることも度々ありました。出来ないのは決してふざけている訳ではないのですが。
先生は、毎回基本動作の基礎練習が中心でした。それと礼儀作法、先輩や目上の方への対応は大変厳しく指導されたと当時は思っていました。今となっては有難いことですが。
その甲斐あってでしょうか、先輩方も東京都ベスト32以上で我々の時はベスト8でした。ところが一つ下はなんと全国の三位まで昇りつめたのでした。
この勢いなら高校へ行ったら、更に上位を狙えると思っていた高校一年の冬に、私は運悪くスキーで複雑骨折をしてしまいました。 そして高校二年は一年間何も出来ずに過ごしました。そして高校三年になり、レギュラー復帰を考えリハビリもろくにせず無理な練習をしました。 結果はまあまあでしたが、身体的には無理がたたってしまったようで、大学でのプレーはあきらめかけていました。 その時、津曲先生より「中学生のコーチをやらないか」と声を掛けて下さり、四年間やらせて頂きました。その頃の津曲先生は多忙を極めグランドに立つことは少なくなりました。結果として私に任せて下さった訳です。
今まで教わったことをまとめ、私なりに考えて臨みました。よい成績を残そうと期待に胸をふくらませていました。しかしやったことは、教えられたことを踏襲したものです。基礎の繰り返しと礼儀作法を徹底しました。 その結果は、津曲先生の教えの通りやっていた筈でしたが、公式戦は勝ちよりも負けの方が多いもので惨憺たるものでした。自身の能力のなさと努力不足を思い知らされ、その時程コーチなど引き受けるものではなかったと思い知らされたことはありません。
ところが、教え子達が高校や大学に進みましたら、あの弱かったチームが東京都ベスト16に入ったりしたのです。更に大学では、もっと上を狙って成し遂げてくれ大変嬉しい気持ちでいっぱいになりました。その上、大学の先輩コーチより、中学でしっかり基礎をつけてくれたお陰で即戦力になると言って貰ったのです。
今思うと、運が良かっただけか悪かっただけなのかはわかりません。また、満足のいく結果も出せませんでしたが、ただ四年間、ひたすら前を向いて自分なりに努力したこと、それは私には掛け替えのないものとして心に残っています。
1993年8月6日 成蹊中学校サッカー部 夏の合宿(河口湖にて)
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